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第三部 影喰み-shadow bite-篇
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三、
そこは天も地もない闇だった。
どこからか規則正しい雨漏りの音が聞こえているが、カーンはその水に侵された匂いさえ感じることができる余裕を、今は持ち合わせていなかった。
たった一人の侍に肩ごと斬り落とされたそこは熱を発してカーンを苛む。さながら生殺しだ。
「……『インフィニ』のボスの正体を一葉でも掴めれば、と思ったけれど……力の無駄遣いに終わったか」
はあっ、と身の内に籠もる熱を僅かにでも発散できればと思い、カーンは熱い吐息をする。痛み止めが切れたのか、包帯の下の傷口にじくじくと痛みが戻ってくる。
「笠木刹那……この代償は大きい。君には地獄の深淵よりももっと深みを見て死んでもらわければ」
彼の独り言を聞く者などここには居ない。だが、カーンは「どんな趣向が良いかなあ」と全身を揺らして笑い続ける。
――闇の中に彼の笑い声だけが木霊していた。
◇
秋雨はしとしとと色づいた葉を濡らし、重量に耐えきれなくなった葉がはらりと落ちた。
「遣らずの雨か」
刹那の独り言に「どういう意味?」とソファでうつ伏せに寝転びながら退屈を持て余していたアンリが尋ねる。刹那は窓の外を眺めながらにこりと笑ってその意味を説明してくれた。
「訪れた人の帰りを引き止めるかのように降り出した雨、ということだ。今日はルィアン殿が去って行かれるゆえ、その言葉を思い出したのだ」
「ふうん、風流だね。僕、そういうの嫌いじゃないよ。遠回しな表現とか、場の状況を読めとか、抽象的なのは苦手だけど……自然賛美っていうのかなあ。左文字を逆さまに振っても出てこないだろう比喩は綺麗だと思う」
アンリの言葉に、もう一方のソファで読書をしていた左文字がじとりと睨んできたが、刹那が苦笑して「この程度で怒るな」と意味を込めて苦笑を返す。
「然り。枯れ行く花の後には葉が彩る。雨が降れば上がった後に残った水滴が陽光を受けて輝く。自然賛美とは如何に細やかな事象であろうと発見できるかだ」
「おはよう、ルィアン殿。よく眠れたか?」
置時計はコチコチと鳴りながら、朝の八時を指していた。今、支度を終えて顔を出したルィアンに刹那が挨拶を言った。
「うむ。実に気持ちよく起き上がれた。頭がすっきりしている。そこへ遣らずの雨とは、こちらとしても心地よく去れる」
「それは重畳」
刹那とルィアンの遣り取りを聞きながら、アンリが「ご飯、もうすぐできるよ」とルィアンに声を掛ける。
「今日はリチャードとルイーズがデュークの手伝いをしてるんだあ」
「ほう、それは珍しいことなのか?」
ルィアンが部屋を見渡せば、メンバーが少ない。アーヤの姿はどこにも無かった。ミステリー小説を読んでいる左文字くらいだ。
「アーヤはご飯の直前まで起きないよ。あのね、今までデュークのお手伝いは僕かルイーズくらいだったんだけどね。『男がキッチンになど』とか言っていたところにルイーズの『コックもパティシエも大体男性じゃない』って一言で論破されて、手伝いに行ったの。時代錯誤……だっけ?」
「そうだ。前時代的とも言えるが、考えを素直に改められるのは美徳だ。食卓に並ぶものを楽しみにしよう」
ルィアンの顔色を窺うことなく友達にでも話しかけるように話すアンリに、ルィアンも悪い気はしないのか、相槌を打ちながら耳を傾ける。刹那はその光景を微笑ましく見守っていた。
キッチンからルイーズがひょっこりと顔を出すと、アンリはアーヤを起こしに駆けて行った。
「精神病質だと耳にしていたが、なんのことはない、その辺を転ぶように走り回る子供だ。しかし、あの無邪気さを侮れば首と胴が離れている。成長が楽しみなことだな」
ルィアンの鉄面皮の下を刹那は垣間見た気がした。
「あの子は身分の垣根を知らない。身分や力の差が持つ価値を読み取ることができぬゆえ。だからアンリは昨夜の貴殿の絶対的な力を見せつけられても、ご機嫌取りに走ったりはしないのだ」
きっとアンリは大人になっても、強者に媚びへつらうことはしないだろう。読み取れない云々だけでなく、強者に迎合して甘い汁を吸うよりも強者と肩を並べて第一線に立つことを望むからだ。
「一宿一飯の縁だが、私は君達と手を組めることを光栄に思う」
「我々は心強い友を得た。ZEROは浮かない顔をしていたが、貴殿が選ばれた二名の方々も歓待致そう」
ルィアンと刹那がそんな言葉を交わしていると「ご飯できたよ」と朝に相応しい優しいミルク煮と焼き立てのパンの香りが部屋に広がった。
◇
ルィアンを見送った後、アンリが「ねえ、雨だからさあ、久しぶりにアレやろうよ」と騒ぎだした。
「言われてみれば、最近してなかったか。しなくても何かしらと戦ってたもんな」
左文字も耳を掻きながら中空を見つめて、アンリの提案に賛同し、ダイニングテーブルや椅子を部屋の端に寄せ始めた。
「ああ、久しぶりにやるの? あんたたちも好きね」
アーヤは食事を終えて、また眠くなってきたのか、欠伸を噛み殺した涙目で男衆を見ていた。
「いったい何を始めるんだ?」
リチャードとルイーズがきょとんとして、二人の行動を眺めていた。そこへ刹那が、腰から籠釣瓶を外して壁に立て掛け、全身のストレッチをしながら答えた。
「おや、お主らは初めてだったか。組み手をするのだ。一対一でなく、一対多数のな」
「組み手?」
「元々は雨の日恒例の暇つぶしだったのだが、リチャードも参加するか? 一戦目は見ていると良い。二戦目からの参加だ」
「あ、ああ」
よく解らないが、リチャードは刹那に促されるまま頷いた。
刹那と左文字は「どっちが先にやる?」と話し、二戦目からリチャードが入るということで、左文字が先となった。
「ひゃあ、腕が鳴るなあ」
アンリはぴょんぴょんと飛びあがって、開始の合図を待った。
「では、デューク。頼む」
一戦目は左文字対アンリ、刹那である。不参加のデュークは審判のようだ。
構えた刹那から頼まれるとデュークは首肯して「開始!!」と叫んだ。
生き生きとした左文字に、アンリがまずは顔面狙いで開始の合図と共に地を蹴って左文字の顔に蹴りを入れる。
「お、また速くなったな。アンリ」
「へへー」
アンリの攻撃を左腕で受け止めていると、スピードはアンリに劣るものの、刹那からも重い掌底の乱打が繰り出される。左文字は当たり前のように受け流しているが、まだアンリからの攻撃も続いている。
「ちっ、刀だけじゃなくて柔術や空手までそれなりなんだもんな、お前。腹が立つぜ……!!」
「昔取った杵柄よ。お主やアンリに異能の制御を教えたのはマハだが、実戦で教えたのは誰か忘れたか?」
アンリの拳を掴んで捻り、アンリは絨毯の上に叩きつけられるが、うまく受け身をとったアンリは身体のバネだけで起き上がった。
袴を穿いているから蹴りは無い、と思っていた刹那も予想外に脚を振り上げて、左文字の顔を狙う。
アンリの拳打、刹那の蹴りを返して左文字が歯を見せて笑うと、袴で影になっていた死角から刹那が左文字の腕を左手で掴んだ。
「げ」
左文字の左腕を掴んだまま、それに沿ってくるりと身を返した刹那は、平手を左文字の胸に当てて彼を投げ飛ばした。受け身を取っているので、痛みはほとんどないが左文字は顔を歪める。
「それまで」
「くっそ……!! いつも警戒してんのに、喰らっちまう!!」
「あー、また刹那に取られちゃった……」
「ははは、久しぶりの白星は頂いた。アンリはすばしっこいが攻撃が軽いゆえに威力と決定打に欠ける。左文字は真逆で威力はとてつもないが、それを利用された技殺しにはめっぽう弱い――こんな感じだ。リチャード、入るか?」
まだ呼吸の乱れが無い刹那達を見て、リチャードは数瞬ためらったが、腕まくりをする。
「お、いいねえ。その心意気」
「一対三でも、なんとか刹那から一本欲しいよね!!」
俄然、やる気で漲っている左文字とアンリに並んだリチャードはへらへらと笑う刹那に向き合った。
「ところで『ワザゴロシ』とはなんだ?」
「簡単に言うと相手の攻撃の威力を利用して、こちらの反撃の力に変換する技だな――まあ、体感すれば解る。リチャード、私に加減なしで殴りかかって来い」
「え、そ、それは……!!」
たじろぐリチャードを「いいから、いいから」と左文字とアンリが、さも楽しそうに背を押す。されるがままに刹那と対峙したリチャードは言われた通りに、軽い助走だけで刹那に殴りかかった。
刹那はのその手を片手で掴むと、ふわりと羽根でも持ち上げるかのように手を捻られただけで、リチャードは宙に舞った。
「え?」
受け身は以前の猛特訓で教えられていたので、なんとか取れたがあまりに呆気ないやられ方にしばし呆然とする。
「なんとなく理解できたか? ちなみに私はほとんど力を使ってはいない。お主の勢いに乗っかっただけだ」
数秒後に我に返ったリチャードは「これはセツナが考えたのか!?」と跳ね起きて問う。
「まあ、そうだな。あんな怪力と手合わせなんぞしていたら身が持たぬゆえ自然とな。ちなみに名付け親は左文字だ」
「センス無いよねー」
「他になんて呼べばいいんだよ!!」
アンリのからかいに本気で怒る左文字を尻目に、リチャードは目を輝かせた。
「セツナ、これ、ちゃんと教えてくれ!!」
「おう、ひとまずもう一勝負を終えてからな」
相手の勢いを利用するとぶつぶつ唱えるリチャードを見て、左文字達は「お、とうとうあいつも熱血に目覚めたか」と呟いた。
第二戦は刹那対アンリ、リチャード、左文字だ。
第一戦目の汚名返上に燃える左文字とアンリの気迫に押されつつも、リチャードも身構える。
「始め!!」
デュークの合図に、今度のアンリは飛び出さず、ひたすら刹那の隙を窺う。先に手数の勝負に出たのは左文字だった。刹那は当たり前のように避けているが、一発でも喰らえば即・筋を傷めるだろう。
アンリとリチャードは、左文字の攻撃を流し終えた刹那の隙を狙った。正面からリチャードと左文字、背後にはアンリと刹那はどう返すのかと思いきや、刹那は身を沈めてリチャードと左文字に脚払いをかける。身を沈めたせいでアンリの攻撃は空かしを喰らう。
リチャードは見事にバランスを崩したが、左文字は足に根が生えたように動かない。
双方、ニヤリと笑って、刹那はアンリの空かしのまま、収められていなかった腕を掴んで背負い投げた。
先ほどは反撃に転じられたが、今度は確実に入ってしまった。
「うえー」
刹那はそのまま打ち込んでくる左文字の攻撃を平手で弾きながら、リチャードの胸倉に手をかけた。投げられると思ったのか、咄嗟に身体を捻ったリチャードは突っ込んできていた左文字とお見合いになった。
「あ」
「やべ」
しゃがんでいた刹那の頭の上で、左文字の拳がリチャードの右肩に入る。痛みに悶えるリチャードと、拳を収めるのを忘れていた左文字の両人の腕を取った刹那は、交差するように互いの腕を引き、よろけた二人を一人ずつ投げた。
手の埃を払うように手を叩く刹那は地に倒れた二人とアンリがじたばたと倒れたまま唸るのを聞いていた。
「そこまで。……ふむ、刹那の体術は乱打向きであるな。一対一の方が不得手ではないか?」
審判に徹していたデュークが冷静な分析を口にする。
「まあ、そうだな。一対一は基本だが、敵一人よりも複数の斬り合いを経験してきたせいか、同士討ちを狙ったり、如何に自身の体力を温存して大将に挑むかを考えたりしてしまうせいであろう」
じんわりとかいている汗が着物に籠もるのが不快で、上半身をおもむろに脱いだら「きゃあ!!」と黄色い声が上がった。
「あ……すまぬ。ルイーズ。つい、いつもの男部屋の癖で……」
「う、ううん!! ちょっとびっくりしただけ!! ……って、それよりも刹那、身体の傷がすごいね……」
上半身裸になった刹那の肌には引きつれた痕が大量にあった。刀傷よりも銃痕らしき痕の方が多い。改めて言われると自身でも「よく生きていたものだ」と思う。
「背中にはやっぱり傷が少ないよなあ」
「セツナって僕ぐらいの時から戦争に参加していたんでしょ? どうやったらそんなに筋肉が付くの?」
左文字、アンリ、リチャードが見慣れているのにも拘わらず、しげしげと検めるので、刹那は上半身を収めるに収められない。
刹那の身体は無駄な脂肪が一切無く、そぎ落とされて理想的な中肉中背のまま筋肉が付いている。撫で肩のせいか、着物に身を包んでいると細身に見えるが、横から見れば身体にはそれなりに厚みがあった。
アンリは細いままの腕を何度も動かして筋肉の拳を作ろうと試みる。リチャードは贅肉になりかけている腹を無言で撫でさすった。
「アンリはまだ成長途中だ。これから身長もぐんと伸びる。自然と筋肉も付くから心配は要らない。リチャードは日頃の小さな体力作りで問題はなかろう。最も心配の要らぬお主がなぜ一番頭を抱えているのだ、左文字」
なぜか刹那の次に筋肉質な左文字が、膝を抱えて拗ねていた。
「うるへー!! てめえやデュークみてえに身長に恵まれた奴にちびの気持ちは解らねえよ!!」
左文字のコンプレックスは身長である。普段は剛毅な性格のせいで気にならないが、ぎりぎり一七0センチに届いていないのだ。「もう一寸あれば……」が左文字の口癖だ。
「……それより今、ものすごい一言があったよね」
アンリが拾ってはいけない一言を拾ってしまった。
「なんだ、アンリも知らなかったのか?」
刹那はやっと着物に袖を通しながら口を開いた。
リチャード、アンリ、ルイーズの視線が嫌でもデュークに向けられる。
「今更であろう」
家の中でもきっちりとスーツを着こなしているデュークが、シャツを脱ぎ捨てると三人は口を開いたまま固まってしまった。
「どこで鍛えたのやら……うちで最もたくましいのはデュークであろうなあ」
刹那の声は三人には届いていない。デュークの輝きさえ放つ筋肉は傷ひとつなく、それはそれは見事であった。
あまりの衝撃に声を失っている三人を置いてけぼりにして、デュークはふっ、と息を漏らすとまたきちりとシャツを着こんだ。
後日、アンリとリチャードは競うように筋トレを始めたという。
★続...
そこは天も地もない闇だった。
どこからか規則正しい雨漏りの音が聞こえているが、カーンはその水に侵された匂いさえ感じることができる余裕を、今は持ち合わせていなかった。
たった一人の侍に肩ごと斬り落とされたそこは熱を発してカーンを苛む。さながら生殺しだ。
「……『インフィニ』のボスの正体を一葉でも掴めれば、と思ったけれど……力の無駄遣いに終わったか」
はあっ、と身の内に籠もる熱を僅かにでも発散できればと思い、カーンは熱い吐息をする。痛み止めが切れたのか、包帯の下の傷口にじくじくと痛みが戻ってくる。
「笠木刹那……この代償は大きい。君には地獄の深淵よりももっと深みを見て死んでもらわければ」
彼の独り言を聞く者などここには居ない。だが、カーンは「どんな趣向が良いかなあ」と全身を揺らして笑い続ける。
――闇の中に彼の笑い声だけが木霊していた。
◇
秋雨はしとしとと色づいた葉を濡らし、重量に耐えきれなくなった葉がはらりと落ちた。
「遣らずの雨か」
刹那の独り言に「どういう意味?」とソファでうつ伏せに寝転びながら退屈を持て余していたアンリが尋ねる。刹那は窓の外を眺めながらにこりと笑ってその意味を説明してくれた。
「訪れた人の帰りを引き止めるかのように降り出した雨、ということだ。今日はルィアン殿が去って行かれるゆえ、その言葉を思い出したのだ」
「ふうん、風流だね。僕、そういうの嫌いじゃないよ。遠回しな表現とか、場の状況を読めとか、抽象的なのは苦手だけど……自然賛美っていうのかなあ。左文字を逆さまに振っても出てこないだろう比喩は綺麗だと思う」
アンリの言葉に、もう一方のソファで読書をしていた左文字がじとりと睨んできたが、刹那が苦笑して「この程度で怒るな」と意味を込めて苦笑を返す。
「然り。枯れ行く花の後には葉が彩る。雨が降れば上がった後に残った水滴が陽光を受けて輝く。自然賛美とは如何に細やかな事象であろうと発見できるかだ」
「おはよう、ルィアン殿。よく眠れたか?」
置時計はコチコチと鳴りながら、朝の八時を指していた。今、支度を終えて顔を出したルィアンに刹那が挨拶を言った。
「うむ。実に気持ちよく起き上がれた。頭がすっきりしている。そこへ遣らずの雨とは、こちらとしても心地よく去れる」
「それは重畳」
刹那とルィアンの遣り取りを聞きながら、アンリが「ご飯、もうすぐできるよ」とルィアンに声を掛ける。
「今日はリチャードとルイーズがデュークの手伝いをしてるんだあ」
「ほう、それは珍しいことなのか?」
ルィアンが部屋を見渡せば、メンバーが少ない。アーヤの姿はどこにも無かった。ミステリー小説を読んでいる左文字くらいだ。
「アーヤはご飯の直前まで起きないよ。あのね、今までデュークのお手伝いは僕かルイーズくらいだったんだけどね。『男がキッチンになど』とか言っていたところにルイーズの『コックもパティシエも大体男性じゃない』って一言で論破されて、手伝いに行ったの。時代錯誤……だっけ?」
「そうだ。前時代的とも言えるが、考えを素直に改められるのは美徳だ。食卓に並ぶものを楽しみにしよう」
ルィアンの顔色を窺うことなく友達にでも話しかけるように話すアンリに、ルィアンも悪い気はしないのか、相槌を打ちながら耳を傾ける。刹那はその光景を微笑ましく見守っていた。
キッチンからルイーズがひょっこりと顔を出すと、アンリはアーヤを起こしに駆けて行った。
「精神病質だと耳にしていたが、なんのことはない、その辺を転ぶように走り回る子供だ。しかし、あの無邪気さを侮れば首と胴が離れている。成長が楽しみなことだな」
ルィアンの鉄面皮の下を刹那は垣間見た気がした。
「あの子は身分の垣根を知らない。身分や力の差が持つ価値を読み取ることができぬゆえ。だからアンリは昨夜の貴殿の絶対的な力を見せつけられても、ご機嫌取りに走ったりはしないのだ」
きっとアンリは大人になっても、強者に媚びへつらうことはしないだろう。読み取れない云々だけでなく、強者に迎合して甘い汁を吸うよりも強者と肩を並べて第一線に立つことを望むからだ。
「一宿一飯の縁だが、私は君達と手を組めることを光栄に思う」
「我々は心強い友を得た。ZEROは浮かない顔をしていたが、貴殿が選ばれた二名の方々も歓待致そう」
ルィアンと刹那がそんな言葉を交わしていると「ご飯できたよ」と朝に相応しい優しいミルク煮と焼き立てのパンの香りが部屋に広がった。
◇
ルィアンを見送った後、アンリが「ねえ、雨だからさあ、久しぶりにアレやろうよ」と騒ぎだした。
「言われてみれば、最近してなかったか。しなくても何かしらと戦ってたもんな」
左文字も耳を掻きながら中空を見つめて、アンリの提案に賛同し、ダイニングテーブルや椅子を部屋の端に寄せ始めた。
「ああ、久しぶりにやるの? あんたたちも好きね」
アーヤは食事を終えて、また眠くなってきたのか、欠伸を噛み殺した涙目で男衆を見ていた。
「いったい何を始めるんだ?」
リチャードとルイーズがきょとんとして、二人の行動を眺めていた。そこへ刹那が、腰から籠釣瓶を外して壁に立て掛け、全身のストレッチをしながら答えた。
「おや、お主らは初めてだったか。組み手をするのだ。一対一でなく、一対多数のな」
「組み手?」
「元々は雨の日恒例の暇つぶしだったのだが、リチャードも参加するか? 一戦目は見ていると良い。二戦目からの参加だ」
「あ、ああ」
よく解らないが、リチャードは刹那に促されるまま頷いた。
刹那と左文字は「どっちが先にやる?」と話し、二戦目からリチャードが入るということで、左文字が先となった。
「ひゃあ、腕が鳴るなあ」
アンリはぴょんぴょんと飛びあがって、開始の合図を待った。
「では、デューク。頼む」
一戦目は左文字対アンリ、刹那である。不参加のデュークは審判のようだ。
構えた刹那から頼まれるとデュークは首肯して「開始!!」と叫んだ。
生き生きとした左文字に、アンリがまずは顔面狙いで開始の合図と共に地を蹴って左文字の顔に蹴りを入れる。
「お、また速くなったな。アンリ」
「へへー」
アンリの攻撃を左腕で受け止めていると、スピードはアンリに劣るものの、刹那からも重い掌底の乱打が繰り出される。左文字は当たり前のように受け流しているが、まだアンリからの攻撃も続いている。
「ちっ、刀だけじゃなくて柔術や空手までそれなりなんだもんな、お前。腹が立つぜ……!!」
「昔取った杵柄よ。お主やアンリに異能の制御を教えたのはマハだが、実戦で教えたのは誰か忘れたか?」
アンリの拳を掴んで捻り、アンリは絨毯の上に叩きつけられるが、うまく受け身をとったアンリは身体のバネだけで起き上がった。
袴を穿いているから蹴りは無い、と思っていた刹那も予想外に脚を振り上げて、左文字の顔を狙う。
アンリの拳打、刹那の蹴りを返して左文字が歯を見せて笑うと、袴で影になっていた死角から刹那が左文字の腕を左手で掴んだ。
「げ」
左文字の左腕を掴んだまま、それに沿ってくるりと身を返した刹那は、平手を左文字の胸に当てて彼を投げ飛ばした。受け身を取っているので、痛みはほとんどないが左文字は顔を歪める。
「それまで」
「くっそ……!! いつも警戒してんのに、喰らっちまう!!」
「あー、また刹那に取られちゃった……」
「ははは、久しぶりの白星は頂いた。アンリはすばしっこいが攻撃が軽いゆえに威力と決定打に欠ける。左文字は真逆で威力はとてつもないが、それを利用された技殺しにはめっぽう弱い――こんな感じだ。リチャード、入るか?」
まだ呼吸の乱れが無い刹那達を見て、リチャードは数瞬ためらったが、腕まくりをする。
「お、いいねえ。その心意気」
「一対三でも、なんとか刹那から一本欲しいよね!!」
俄然、やる気で漲っている左文字とアンリに並んだリチャードはへらへらと笑う刹那に向き合った。
「ところで『ワザゴロシ』とはなんだ?」
「簡単に言うと相手の攻撃の威力を利用して、こちらの反撃の力に変換する技だな――まあ、体感すれば解る。リチャード、私に加減なしで殴りかかって来い」
「え、そ、それは……!!」
たじろぐリチャードを「いいから、いいから」と左文字とアンリが、さも楽しそうに背を押す。されるがままに刹那と対峙したリチャードは言われた通りに、軽い助走だけで刹那に殴りかかった。
刹那はのその手を片手で掴むと、ふわりと羽根でも持ち上げるかのように手を捻られただけで、リチャードは宙に舞った。
「え?」
受け身は以前の猛特訓で教えられていたので、なんとか取れたがあまりに呆気ないやられ方にしばし呆然とする。
「なんとなく理解できたか? ちなみに私はほとんど力を使ってはいない。お主の勢いに乗っかっただけだ」
数秒後に我に返ったリチャードは「これはセツナが考えたのか!?」と跳ね起きて問う。
「まあ、そうだな。あんな怪力と手合わせなんぞしていたら身が持たぬゆえ自然とな。ちなみに名付け親は左文字だ」
「センス無いよねー」
「他になんて呼べばいいんだよ!!」
アンリのからかいに本気で怒る左文字を尻目に、リチャードは目を輝かせた。
「セツナ、これ、ちゃんと教えてくれ!!」
「おう、ひとまずもう一勝負を終えてからな」
相手の勢いを利用するとぶつぶつ唱えるリチャードを見て、左文字達は「お、とうとうあいつも熱血に目覚めたか」と呟いた。
第二戦は刹那対アンリ、リチャード、左文字だ。
第一戦目の汚名返上に燃える左文字とアンリの気迫に押されつつも、リチャードも身構える。
「始め!!」
デュークの合図に、今度のアンリは飛び出さず、ひたすら刹那の隙を窺う。先に手数の勝負に出たのは左文字だった。刹那は当たり前のように避けているが、一発でも喰らえば即・筋を傷めるだろう。
アンリとリチャードは、左文字の攻撃を流し終えた刹那の隙を狙った。正面からリチャードと左文字、背後にはアンリと刹那はどう返すのかと思いきや、刹那は身を沈めてリチャードと左文字に脚払いをかける。身を沈めたせいでアンリの攻撃は空かしを喰らう。
リチャードは見事にバランスを崩したが、左文字は足に根が生えたように動かない。
双方、ニヤリと笑って、刹那はアンリの空かしのまま、収められていなかった腕を掴んで背負い投げた。
先ほどは反撃に転じられたが、今度は確実に入ってしまった。
「うえー」
刹那はそのまま打ち込んでくる左文字の攻撃を平手で弾きながら、リチャードの胸倉に手をかけた。投げられると思ったのか、咄嗟に身体を捻ったリチャードは突っ込んできていた左文字とお見合いになった。
「あ」
「やべ」
しゃがんでいた刹那の頭の上で、左文字の拳がリチャードの右肩に入る。痛みに悶えるリチャードと、拳を収めるのを忘れていた左文字の両人の腕を取った刹那は、交差するように互いの腕を引き、よろけた二人を一人ずつ投げた。
手の埃を払うように手を叩く刹那は地に倒れた二人とアンリがじたばたと倒れたまま唸るのを聞いていた。
「そこまで。……ふむ、刹那の体術は乱打向きであるな。一対一の方が不得手ではないか?」
審判に徹していたデュークが冷静な分析を口にする。
「まあ、そうだな。一対一は基本だが、敵一人よりも複数の斬り合いを経験してきたせいか、同士討ちを狙ったり、如何に自身の体力を温存して大将に挑むかを考えたりしてしまうせいであろう」
じんわりとかいている汗が着物に籠もるのが不快で、上半身をおもむろに脱いだら「きゃあ!!」と黄色い声が上がった。
「あ……すまぬ。ルイーズ。つい、いつもの男部屋の癖で……」
「う、ううん!! ちょっとびっくりしただけ!! ……って、それよりも刹那、身体の傷がすごいね……」
上半身裸になった刹那の肌には引きつれた痕が大量にあった。刀傷よりも銃痕らしき痕の方が多い。改めて言われると自身でも「よく生きていたものだ」と思う。
「背中にはやっぱり傷が少ないよなあ」
「セツナって僕ぐらいの時から戦争に参加していたんでしょ? どうやったらそんなに筋肉が付くの?」
左文字、アンリ、リチャードが見慣れているのにも拘わらず、しげしげと検めるので、刹那は上半身を収めるに収められない。
刹那の身体は無駄な脂肪が一切無く、そぎ落とされて理想的な中肉中背のまま筋肉が付いている。撫で肩のせいか、着物に身を包んでいると細身に見えるが、横から見れば身体にはそれなりに厚みがあった。
アンリは細いままの腕を何度も動かして筋肉の拳を作ろうと試みる。リチャードは贅肉になりかけている腹を無言で撫でさすった。
「アンリはまだ成長途中だ。これから身長もぐんと伸びる。自然と筋肉も付くから心配は要らない。リチャードは日頃の小さな体力作りで問題はなかろう。最も心配の要らぬお主がなぜ一番頭を抱えているのだ、左文字」
なぜか刹那の次に筋肉質な左文字が、膝を抱えて拗ねていた。
「うるへー!! てめえやデュークみてえに身長に恵まれた奴にちびの気持ちは解らねえよ!!」
左文字のコンプレックスは身長である。普段は剛毅な性格のせいで気にならないが、ぎりぎり一七0センチに届いていないのだ。「もう一寸あれば……」が左文字の口癖だ。
「……それより今、ものすごい一言があったよね」
アンリが拾ってはいけない一言を拾ってしまった。
「なんだ、アンリも知らなかったのか?」
刹那はやっと着物に袖を通しながら口を開いた。
リチャード、アンリ、ルイーズの視線が嫌でもデュークに向けられる。
「今更であろう」
家の中でもきっちりとスーツを着こなしているデュークが、シャツを脱ぎ捨てると三人は口を開いたまま固まってしまった。
「どこで鍛えたのやら……うちで最もたくましいのはデュークであろうなあ」
刹那の声は三人には届いていない。デュークの輝きさえ放つ筋肉は傷ひとつなく、それはそれは見事であった。
あまりの衝撃に声を失っている三人を置いてけぼりにして、デュークはふっ、と息を漏らすとまたきちりとシャツを着こんだ。
後日、アンリとリチャードは競うように筋トレを始めたという。
★続...
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