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第三部 影喰み-shadow bite-篇
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十二、
息を切らして戻ってきた四人を発見次第、ルィアンは外套も脱がずに「失礼ながらこのまま話す」といつもの彼女らしい余裕が見られなかった。
左文字におぶられたままのアンリも、ルィアンの話を聞きながら手が届く範囲にあったダイニングテーブルの椅子に急いで腰を下した。
「いったい『夢幻泡影』に何があったんだ?」
問うたのはリチャードだった。
ルィアンは険しい顔で「カーンが乗っ取ったのだ」と返した。
それだけではさっぱり解らない。全員の表情を読みながら、ルィアンは続けた。
「私はカーンの存在が異質だと申しただろう。四年前までただのノルウェー北部の片田舎に住まっていただけの青年が、なぜ二百年以上の歴史を持つ『夢幻泡影』で幹部にまで躍り出たのか。異能を持たなかった彼がなぜ、と」
ルィアンはここで一度、言葉を切った。誰もが息をのんで彼女が語る次の真実を待った。
「――盗んだのだ、異能力を。以前、プロフェッサー・マハが『究極の異能』を求めていると言ったな。おそらくはその前後だ。盗んだ方法や相手はもう故人で確かめようがない。だが、奴が今回のクーデターで、バサラから複製の異能を盗んだのは明白。長老衆が動かなかったんじゃない。動けなかったのも」
「頭領の異能を盗まれ、盾にされていたから」
「そういうことだ……。そして、今朝カーンの命令で長老衆は全員殺された。これで実質的に『夢幻泡影』のトップはカーンとなった」
アーヤは悩ましく結論を発し、額に手を当てる。ルィアンは肯定し、その続きを継いだ。
「ルィアン殿、貴殿は不明確な情報は持っては来ないだろう。と、なれば、もうカーン――オリビエ・イーサンに『盗む』異能を誰から得たのか……答えは出ているのだろう。もしも我らの推論が当たっているとしたら、それは一人しかいない」
刹那は苦渋から、絞り出すように惨たらしい現実を吐き出した。
正直なところ、口に出すのもおぞましい。
「……オリビエが殺したマハの子供、か」
「もう確証を得る術がないが、私も同意する」
ルィアンの視線が下がると同時に、壁を殴ったのは左文字だ。ルィアンの向こうにカーンが立っているかのように狂暴な視線でルィアンを睨みつける。
「おい……それは本気で言ってんのか……?」
「確証は得られないと申した。ゆえに君の怒りも最もだ。我らのこじつけかもしれぬ。しかし、合点がいくのはこれしかない」
ルィアンの言葉に左文字は、「くそっ!!」と行き場のない怒りに身を震わせる。
そんな相方の肩に刹那が手を添え「いずれにせよ、カーンを斬ることに変わりはない」と結んだ。
『では、最高のショータイムにご招待しよう』
突如として部屋に響いたカーンの楽しそうな声――刹那の周囲に生じた煮え滾るように気泡が生まれては消えて行く影に抗う術も間に合わず、刹那は瞬きの間に飲みこまれて消えた。
「刹那!!」
「ボス……!!」
ルィアンは舌打ちを漏らすと、刹那が消えた絨毯に手を当てる。
「異空間に飛ばされたな。確か最初の指名はタラークであったか。ならば、この戦いが決してから、私が引き上げるとしよう」
今のルィアンが纏う空気は誰にも「否」とは言わせない迫力を備えていた。
抗議は受け付けないと無表情の仮面の下から、全員ののどを圧迫する程の気を集中させて、赤い絨毯に手を置いていた。
◇
刹那は、神殿のような石造りの建物に立っていた。
そこは霊殿前の開けた場所で、苔に浸蝕された灰色は石灰岩と思われる。
しかし、刹那は今自身が立つ場所よりも目の前に殺意を隠しもしない白拍子を凝視していた。
「……そなたが、タラーク……瀬能みどり、か?」
女は端的に「そうだ」と答えた。
左頬の五芒星以外を覗けば、みどりは紅緒の生き写しだった。記憶の中の紅緒よりは年を重ねて大人びている。
不意に刹那の右手が動いた。
みどりは素早く身構えるが、見えない鞘に行くと思った手は予想外に彼の前髪をくしゃりと握った。
石畳には数滴の雫が灰色に染みを作った。
姉の仇だと再三言われてきた男の様子を見て、みどりはぎょっとした。
「……は、ははっ……さすが姉妹だ。こんなにも似ているとは思いもしなかった……紅緒がたまりかねて妹を庇いに姿を見せてくれたのかと錯覚してしまうな」
仇の男は哀しくも嬉しそうに涙を流していた。
涙を拭いもせずに、男は「本当によく似ている」と、さも愛おしそうにみどりを見つめた。
侍が、あの『壬生狼』と呼ばれた剣の鬼が静かに涙を流し続ける。
男がこの邂逅を喜んでいることに、混乱を極めたのはみどりの方だった。
こんな優男が姉を殺したのか、と俄かには信じられなくなった。
みどりの向こうに紅緒の姿を追って、ただただ嬉しそうに儚く笑う男に、みどりから先制攻撃を仕掛けた。
「お、お前が冬月瞬太郎なのだろう!? 紅緒姉さんを殺した……お前が殺したんだろう!!」
みどりの異能は白拍子の衣装に相応しく、両手の舞扇から発せられる風圧よりも強靭な念の刃だった。涙を流しながらも、刹那は居合で正面に来た刃を斬った。
「そうだ。そなたの言に間違いはない。私が、紅緒を殺した」
「汚らわしい……!! 壬生狼が姉さんの名を口にするな!!」
更に激しさを増すみどりの攻撃を、刹那は縦横無尽に駆けて回避に専念する。
こうも動き回られては仕留めきれないと舌打ちを漏らしたみどりは、刹那の影を操り、その足を絡めとろうとした。
しかし、刹那がみどりの背後に回り込む方が速かった。
「君の恨みはもっともだ。私はそれを甘んじて受けるつもりだが、ひとつだけ、君にしかできぬ願いを託したい」
背を取られたみどりは、袈裟掛けの一閃を受け、焼けるような痛みに呼吸を忘れながらも、今度こそ刹那の影を捕えた。
「願い、だと!? 姉を玩具の如くもてあそんだ挙句に殺した男が何を願う……!! そんな偽りの涙にも私は騙されない!! あんなに優しかったのに……あんなに優しい人をなぜ殺した!?」
静かに泣きながら、涙を拭おうともしない刹那にみどりは背中の痛みから汗の珠を浮かばせながら、刹那に詰問した。
「もてあそんだ、か。なるほど。カーンは君にそう言って憎しみを煽ったか。だが、否定はできぬな。私は恩師を失って壊れていた。紅緒となら京に戻り、家庭を築いて彼女と彼女が産んでくれる初めての『家族』とやらに囲まれてみることを考えた。できるとも信じていた」
刹那は足止めをしている影を斬って、目を覆っていた前髪を掴んでざっくりとそれを切り落とした。
やや右肩上がりの切り口になったが、その下から現れた濡れる双眸と涙の筋をそのままに、みどりに、一歩、また一歩と近づいてくる。
「だが、心の壊れた人間がどんな行動に出るのかは、君がここで嫌と言う程に学んだだろう。自身の行いを擁護する為ではない――私は紅緒を焼き殺した。その行動に相違ない。厚かましいとせせら笑ってくれても良い。殺した紅緒が、いつ夢枕に立ってくれるのかと恨み言を聞かせてくれる為でも姿を見せてくれるのならばと毎夜彼女を待つくらいには、紅緒を愛している――」
「冥土に行った彼女に、地獄行きの私は隠り世では到底逢えぬゆえなあ」と刹那は、また柔く笑って、みどりの前に立った。
もうみどりには何が真実なのかが解らなかった。
姉の仇を討つ、それは笠木刹那と名を変えた冬月瞬太郎だった男を殺す為だけに異能を与えられ、先に逝った両親や姉に顔を向けられぬ血塗れの手になった。自失していればカーンの命令通りに身体も差し出した。
なのに、何年も耐え忍んできたのはこの男を殺す為だったのに、仇の男は偽りにしては重すぎるくらいの姉への愛を謳う。
「よ、るな……!!」
振り上げた舞扇の刃が右切り上げに刹那の脇腹から右肩までを大きく斬り裂いた。
多少よろけたが、刹那はふっと笑って、刀を持っていない左手で右袖を探った。
出てきた左手には、桜色のハンカチに包まれた何かが握られている。
戸惑うみどりに、一瞬だけ、刹那の目が鋭くなる。
みどりが身構える前に、不可視の刀が胸に深々と刺さっていた。傷ついた肺から上ってきた血を吐いたみどりに、刹那は彼女の身体に刺さった刀からも手を離した。
そして、みどりの右手の舞扇を捨てて、代わりに両手でしっかりと桜色の包みを握らせる。
「身請けの時に買った物でな。いつか墓前に供えようと思っていた。私から渡せぬのが口惜しいが……君から紅緒に渡してくれ。今でもしつこく待っていると、一言添えてくれれば嬉しいのだが」
そう言って、刹那は再び刀を握って引き抜いた。
「ぐっ……!!」
「さらばだ、みどり。私の義妹……」
刹那はまた涙を流すと、再度みどりに刀を突き刺した。
ゆっくりと倒れ行くみどりが右手の中を見ると、そこには新品同様の柘植の櫛があった。
「……あんた、馬鹿、じゃ、ないの……?」
「ああ、大馬鹿者だとも」
――男が櫛を贈るとは求婚を意味する。
死してもまだこれほど深く熱く愛されている姉を羨ましく思ってしまう。殺しても、なお姉だけを一途に夢で逢える日を待ち続けている男に、みどりも眼の前が霞んだ。
「……ね……さ、ん……」
(姉さんは、優しい目をした人に愛されていたのね。姉さんもそれにこたえていたのでしょう……?)
きっと冥土では惚気話をたくさん聞かされるに違いない。みどりはそんなことを考えながら、石畳に倒れて事切れていた。
――右手には櫛を握りしめて。
刹那はしゃがんで左頬を隠すように倒れたみどりの瞼を閉じさせる。
櫛をもったまま死んだ彼女の両手を胸の前で組ませた。
「やっと託せたな」
見届けると同時に、左手で顔を覆った。
「……潜んでおる者は全員出てくるが良い。ここからは修羅の真の姿を、その目に焼きつけてくれようぞ……!!」
左手の合間から、研いだばかりの刀の切っ先よりも鋭く、狂気の焔に妖しく揺れる人ならざる者の双眸は、その場を地獄へと一変させた。
天上では櫛を手にし泣いて喜ぶ紅緒とはにかむみどりの姿を夢に見ながら、夜叉は現世を血と悲鳴の地獄へと変貌させていた。
血の雨に全身を濡らし、屍の山に立って刹那は天を見上げる。みどりに裂かれた胸の傷を握りしめながら、人に還った刹那は呼びかけた。
――紅緒、泡と消える夢や幻でも……俺は君だけを待ち続けているのだ、と。
★続...
息を切らして戻ってきた四人を発見次第、ルィアンは外套も脱がずに「失礼ながらこのまま話す」といつもの彼女らしい余裕が見られなかった。
左文字におぶられたままのアンリも、ルィアンの話を聞きながら手が届く範囲にあったダイニングテーブルの椅子に急いで腰を下した。
「いったい『夢幻泡影』に何があったんだ?」
問うたのはリチャードだった。
ルィアンは険しい顔で「カーンが乗っ取ったのだ」と返した。
それだけではさっぱり解らない。全員の表情を読みながら、ルィアンは続けた。
「私はカーンの存在が異質だと申しただろう。四年前までただのノルウェー北部の片田舎に住まっていただけの青年が、なぜ二百年以上の歴史を持つ『夢幻泡影』で幹部にまで躍り出たのか。異能を持たなかった彼がなぜ、と」
ルィアンはここで一度、言葉を切った。誰もが息をのんで彼女が語る次の真実を待った。
「――盗んだのだ、異能力を。以前、プロフェッサー・マハが『究極の異能』を求めていると言ったな。おそらくはその前後だ。盗んだ方法や相手はもう故人で確かめようがない。だが、奴が今回のクーデターで、バサラから複製の異能を盗んだのは明白。長老衆が動かなかったんじゃない。動けなかったのも」
「頭領の異能を盗まれ、盾にされていたから」
「そういうことだ……。そして、今朝カーンの命令で長老衆は全員殺された。これで実質的に『夢幻泡影』のトップはカーンとなった」
アーヤは悩ましく結論を発し、額に手を当てる。ルィアンは肯定し、その続きを継いだ。
「ルィアン殿、貴殿は不明確な情報は持っては来ないだろう。と、なれば、もうカーン――オリビエ・イーサンに『盗む』異能を誰から得たのか……答えは出ているのだろう。もしも我らの推論が当たっているとしたら、それは一人しかいない」
刹那は苦渋から、絞り出すように惨たらしい現実を吐き出した。
正直なところ、口に出すのもおぞましい。
「……オリビエが殺したマハの子供、か」
「もう確証を得る術がないが、私も同意する」
ルィアンの視線が下がると同時に、壁を殴ったのは左文字だ。ルィアンの向こうにカーンが立っているかのように狂暴な視線でルィアンを睨みつける。
「おい……それは本気で言ってんのか……?」
「確証は得られないと申した。ゆえに君の怒りも最もだ。我らのこじつけかもしれぬ。しかし、合点がいくのはこれしかない」
ルィアンの言葉に左文字は、「くそっ!!」と行き場のない怒りに身を震わせる。
そんな相方の肩に刹那が手を添え「いずれにせよ、カーンを斬ることに変わりはない」と結んだ。
『では、最高のショータイムにご招待しよう』
突如として部屋に響いたカーンの楽しそうな声――刹那の周囲に生じた煮え滾るように気泡が生まれては消えて行く影に抗う術も間に合わず、刹那は瞬きの間に飲みこまれて消えた。
「刹那!!」
「ボス……!!」
ルィアンは舌打ちを漏らすと、刹那が消えた絨毯に手を当てる。
「異空間に飛ばされたな。確か最初の指名はタラークであったか。ならば、この戦いが決してから、私が引き上げるとしよう」
今のルィアンが纏う空気は誰にも「否」とは言わせない迫力を備えていた。
抗議は受け付けないと無表情の仮面の下から、全員ののどを圧迫する程の気を集中させて、赤い絨毯に手を置いていた。
◇
刹那は、神殿のような石造りの建物に立っていた。
そこは霊殿前の開けた場所で、苔に浸蝕された灰色は石灰岩と思われる。
しかし、刹那は今自身が立つ場所よりも目の前に殺意を隠しもしない白拍子を凝視していた。
「……そなたが、タラーク……瀬能みどり、か?」
女は端的に「そうだ」と答えた。
左頬の五芒星以外を覗けば、みどりは紅緒の生き写しだった。記憶の中の紅緒よりは年を重ねて大人びている。
不意に刹那の右手が動いた。
みどりは素早く身構えるが、見えない鞘に行くと思った手は予想外に彼の前髪をくしゃりと握った。
石畳には数滴の雫が灰色に染みを作った。
姉の仇だと再三言われてきた男の様子を見て、みどりはぎょっとした。
「……は、ははっ……さすが姉妹だ。こんなにも似ているとは思いもしなかった……紅緒がたまりかねて妹を庇いに姿を見せてくれたのかと錯覚してしまうな」
仇の男は哀しくも嬉しそうに涙を流していた。
涙を拭いもせずに、男は「本当によく似ている」と、さも愛おしそうにみどりを見つめた。
侍が、あの『壬生狼』と呼ばれた剣の鬼が静かに涙を流し続ける。
男がこの邂逅を喜んでいることに、混乱を極めたのはみどりの方だった。
こんな優男が姉を殺したのか、と俄かには信じられなくなった。
みどりの向こうに紅緒の姿を追って、ただただ嬉しそうに儚く笑う男に、みどりから先制攻撃を仕掛けた。
「お、お前が冬月瞬太郎なのだろう!? 紅緒姉さんを殺した……お前が殺したんだろう!!」
みどりの異能は白拍子の衣装に相応しく、両手の舞扇から発せられる風圧よりも強靭な念の刃だった。涙を流しながらも、刹那は居合で正面に来た刃を斬った。
「そうだ。そなたの言に間違いはない。私が、紅緒を殺した」
「汚らわしい……!! 壬生狼が姉さんの名を口にするな!!」
更に激しさを増すみどりの攻撃を、刹那は縦横無尽に駆けて回避に専念する。
こうも動き回られては仕留めきれないと舌打ちを漏らしたみどりは、刹那の影を操り、その足を絡めとろうとした。
しかし、刹那がみどりの背後に回り込む方が速かった。
「君の恨みはもっともだ。私はそれを甘んじて受けるつもりだが、ひとつだけ、君にしかできぬ願いを託したい」
背を取られたみどりは、袈裟掛けの一閃を受け、焼けるような痛みに呼吸を忘れながらも、今度こそ刹那の影を捕えた。
「願い、だと!? 姉を玩具の如くもてあそんだ挙句に殺した男が何を願う……!! そんな偽りの涙にも私は騙されない!! あんなに優しかったのに……あんなに優しい人をなぜ殺した!?」
静かに泣きながら、涙を拭おうともしない刹那にみどりは背中の痛みから汗の珠を浮かばせながら、刹那に詰問した。
「もてあそんだ、か。なるほど。カーンは君にそう言って憎しみを煽ったか。だが、否定はできぬな。私は恩師を失って壊れていた。紅緒となら京に戻り、家庭を築いて彼女と彼女が産んでくれる初めての『家族』とやらに囲まれてみることを考えた。できるとも信じていた」
刹那は足止めをしている影を斬って、目を覆っていた前髪を掴んでざっくりとそれを切り落とした。
やや右肩上がりの切り口になったが、その下から現れた濡れる双眸と涙の筋をそのままに、みどりに、一歩、また一歩と近づいてくる。
「だが、心の壊れた人間がどんな行動に出るのかは、君がここで嫌と言う程に学んだだろう。自身の行いを擁護する為ではない――私は紅緒を焼き殺した。その行動に相違ない。厚かましいとせせら笑ってくれても良い。殺した紅緒が、いつ夢枕に立ってくれるのかと恨み言を聞かせてくれる為でも姿を見せてくれるのならばと毎夜彼女を待つくらいには、紅緒を愛している――」
「冥土に行った彼女に、地獄行きの私は隠り世では到底逢えぬゆえなあ」と刹那は、また柔く笑って、みどりの前に立った。
もうみどりには何が真実なのかが解らなかった。
姉の仇を討つ、それは笠木刹那と名を変えた冬月瞬太郎だった男を殺す為だけに異能を与えられ、先に逝った両親や姉に顔を向けられぬ血塗れの手になった。自失していればカーンの命令通りに身体も差し出した。
なのに、何年も耐え忍んできたのはこの男を殺す為だったのに、仇の男は偽りにしては重すぎるくらいの姉への愛を謳う。
「よ、るな……!!」
振り上げた舞扇の刃が右切り上げに刹那の脇腹から右肩までを大きく斬り裂いた。
多少よろけたが、刹那はふっと笑って、刀を持っていない左手で右袖を探った。
出てきた左手には、桜色のハンカチに包まれた何かが握られている。
戸惑うみどりに、一瞬だけ、刹那の目が鋭くなる。
みどりが身構える前に、不可視の刀が胸に深々と刺さっていた。傷ついた肺から上ってきた血を吐いたみどりに、刹那は彼女の身体に刺さった刀からも手を離した。
そして、みどりの右手の舞扇を捨てて、代わりに両手でしっかりと桜色の包みを握らせる。
「身請けの時に買った物でな。いつか墓前に供えようと思っていた。私から渡せぬのが口惜しいが……君から紅緒に渡してくれ。今でもしつこく待っていると、一言添えてくれれば嬉しいのだが」
そう言って、刹那は再び刀を握って引き抜いた。
「ぐっ……!!」
「さらばだ、みどり。私の義妹……」
刹那はまた涙を流すと、再度みどりに刀を突き刺した。
ゆっくりと倒れ行くみどりが右手の中を見ると、そこには新品同様の柘植の櫛があった。
「……あんた、馬鹿、じゃ、ないの……?」
「ああ、大馬鹿者だとも」
――男が櫛を贈るとは求婚を意味する。
死してもまだこれほど深く熱く愛されている姉を羨ましく思ってしまう。殺しても、なお姉だけを一途に夢で逢える日を待ち続けている男に、みどりも眼の前が霞んだ。
「……ね……さ、ん……」
(姉さんは、優しい目をした人に愛されていたのね。姉さんもそれにこたえていたのでしょう……?)
きっと冥土では惚気話をたくさん聞かされるに違いない。みどりはそんなことを考えながら、石畳に倒れて事切れていた。
――右手には櫛を握りしめて。
刹那はしゃがんで左頬を隠すように倒れたみどりの瞼を閉じさせる。
櫛をもったまま死んだ彼女の両手を胸の前で組ませた。
「やっと託せたな」
見届けると同時に、左手で顔を覆った。
「……潜んでおる者は全員出てくるが良い。ここからは修羅の真の姿を、その目に焼きつけてくれようぞ……!!」
左手の合間から、研いだばかりの刀の切っ先よりも鋭く、狂気の焔に妖しく揺れる人ならざる者の双眸は、その場を地獄へと一変させた。
天上では櫛を手にし泣いて喜ぶ紅緒とはにかむみどりの姿を夢に見ながら、夜叉は現世を血と悲鳴の地獄へと変貌させていた。
血の雨に全身を濡らし、屍の山に立って刹那は天を見上げる。みどりに裂かれた胸の傷を握りしめながら、人に還った刹那は呼びかけた。
――紅緒、泡と消える夢や幻でも……俺は君だけを待ち続けているのだ、と。
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