優しい嘘

Sweet World

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運命の日

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ついに母の番が回ってきた。1人ずつ音楽関係者の前で歌唱をすることになっていたので、母も数人の審査員の前に立たされた。母はその視線に、打ちのめされそうになりながらもなんとか簡単な自己紹介を終え、課題曲のイントロが流れ始めた。そして、歌唱が始まろうとしていた。その時突然、母は心臓の鼓動が異様に早くなるのを感じた。喉の奥が苦しくなり、声を発することができなくなった。出そうとしても出てこない声の代わりに、止まらない息の音が母の耳の奥で鳴り響いた。曲のサビになっても歌唱が始まらないので、現場も動揺し始めていた。「これはなしかな。」、「もう次いこうか」そんな声が出始めていた。
『やっぱり、無理かもしれない。』
諦めかけたその時、途端に現場が真っ暗になった。「停電?」現場にいた一同がその状況を理解できずにざわつき始めた。
しばらくして、明かりがつくと、
「すみません、ちょっとよろけちゃって、照明のスイッチ切っちゃいました。」と1人の男が言った。
「お前なぁ、今審査中だったんだぞ。わかってるのか。」彼の上司にあたる人物が、顔を真っ赤にして彼を責め立てた。
「まあまあまあ、仕方ないですよ。」審査員の1人がなだめた。
「でも困りましたね、どうしますこれ?」現場に困惑の空気が漂った。
男が口火を切った。
「あの、今のは僕のミスなので、もう一回審査してあげられないでしょうか?」男の問いに、上司は強い口調で「お前もう黙ってろ。」と返したが、男は怯むことなく、「どんな思いかは分からないけど、ここに来てるってことは歌に対する強い思いがあるからだと思います。それを自分のミスで台無しにしたくはないです。すみません、責任はきっちり僕が取ります。だから、審査してあげてください。僕も聞きたいです。彼女の歌を。」と言って、頭を下げた。それを聞いた審査員の1人は、母をじっと見て、「君はやりたい?」と尋ねた。
母の思い。願い。それは自分の歌をみんなに届けること。自分の歌でみんなを笑顔にすること。そのために、ここにいるんだ。
「やりたいです。」強く答えた。
そして2度目のイントロが流れ始めた。母は目を瞑って想像した。伝えたいという思いの先にいる人達。それは歌を聞きたいと言ってくれた父、そして会ったことのないたくさんの人。みんなに自分の歌を届けよう、その強い思いで歌い始めた。
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