虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第2章

第36話:変わりゆく塔の風景

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 週に一度、決まった曜日の午後に塔の重厚な扉が開く。その重苦しかったはずの金属音は、今や僕とレイブンにとって、一週間の中で最も待ち遠しく、心を弾ませる合図へと変わっていた。

「おい、レリル。今日は活きのいい上質な川魚が手に入ったぞ。それから、この旬の野菜も残さず全部食べろ。貴殿は放っておくと白米やパンばかり食べて、栄養が著しく偏りすぎだ。これでは良質な魔石など望むべくもないからな」

 ヨハンは塔に足を踏み入れるなり、腕に抱えた大きな籠から、みずみずしい食材の数々を次々と机の上に並べ立てた。その淀みのない手つきと澱みのない口調は、もはや北の地を統べる威厳ある辺境伯というより、一人暮らしの息子を案じて遠方から駆けつけた「世話焼きすぎる母親」のそれに近かった。

「あ、ありがとうございます……。でも、辺境伯様、そんなにたくさんは一度に食べきれませんよ」

「食べきれんというのなら、日持ちするように作り置きをしろ。腐らせるなど言語道断だ。効率的な保存のやり方はこの前教えただろう? それから、この前持ってきた厚手の毛布はどうした。もし少しでも汚れているなら、屋敷の者に洗わせるから今すぐここへ出せ」

 もはや、過保護という概念を遥か彼方へ置き去りにしたような干渉ぶりだった。 彼は鋭い眼光を光らせて塔の中を隅々までぐるりと見渡し、少しでも床に埃が溜まっていれば不機嫌そうに眉を寄せ、水回りが冷えていれば「今すぐ湯を沸かして身体を温めろ」と、耳にタコができるほど口を酸っぱくして命じる。 かつて「魔王」とまで渾名され、世界を恐怖に陥れた大魔法使いレリルの成れの果てに対し、ここまで甲斐甲斐しく、根気強く「まっとうな人間の生活」を叩き込もうとする男が、この世界のどこに他にいるというのだろうか。

 最初は、あまりに強引で執拗な干渉に、ただただ戸惑い、怯えることしかできなかった僕だった。 けれど、彼がこの塔を訪れるたびに、かつては死の静寂に包まれていた殺風景な石造りの部屋に、少しずつ、けれど鮮やかな「生活の色」が増えていくのが手に取るようにわかった。 焦げ付きにくい新しい鍋、長時間座っていても腰を痛めない座り心地の良い椅子、そして夜更けの読書を支える、煤の出にくい最高級の蝋燭。

 ヨハンと、ときおり他愛もない――それでいて僕にとってはひどく新鮮な――会話を交わしながら、彼が運んできたばかりの食材を使って、二人分の簡単な食事を作る。 

「ふん、相変わらず味が薄いな。貴殿はもう少し塩気を覚えた方がいい」

  そう不器用な文句を垂れ流しながらも、ヨハンは僕が作った料理を最後の一口まで残さず、実においしそうに平らげてくれるのだ。そんな温かな食卓の時間が、かつて氷のように冷たく凍りついていた僕の心を、内側から少しずつ、確実に溶かしていった。

「……辺境伯様、これほど頻繁に来られては、お仕事が忙しいのではないですか?」 

「忙しい。殺人的にな。……だが、俺には貴殿の管理責任がある。万が一にも貴殿がこんな不衛生な場所で野垂れ死んで、貴重な魔石の供給が止まるような事態になれば、真っ先に困るのはこの俺なのだ。勘違いするなよ」

 相変わらずの、透けて見えるような不器用な建前。

 けれど、彼が今やレイブンの存在を(内心では文句を言いながらも)認め、僕の細った体調を心底から気遣うその瞳に、一片の嘘も偽りもないことは、今の僕にははっきりと感じられた。

 レイブンがいたずらっぽく、ヨハンの耳元を掠めるように羽ばたくと、彼は「っ、こら、この不吉な魔物め! 馴れ馴れしくするな!」と怒鳴り散らしはするものの、かつてのように魔法の刃を構えることは二度となかった。

 僕は、この奇妙で、理不尽で、けれどどうしようもなく温かなルーティンの中に、いつの間にか自分だけの「本当の居場所」を見出していた。 

 この穏やかで優しい時間が、どうかこのまま、終わることなく続いてほしい。 そう切に願ってしまうほどに、かつての独りきりの寂しさや絶望は、今や遠い異国の記憶になりつつあった。
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