虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第2章

第38話:孤独な夢

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「……ここ、どこ……? 父さん……母さん……。暗いよ、寒いよ……」

 気がつくと、僕はひどく頼りない揺れの中にいた。 背中に触れるのは、ささくれだった硬い木製の床。鼻を突くのは、混じり合った家畜の糞尿と饐えた泥の匂いだ。 自分の喉から漏れたのは、今の僕の記憶にあるものよりも、ずっと高く、ひどく幼い少年の掠れた声だった。僕は、錆びた鉄格子が嵌められた狭い馬車の檻の中に、膝を抱えて一人きりで座り込んでいた。

 ガタガタと、油の切れた車輪が道端の石を跳ねる音が響くたび、小さな体が無様に弾み、檻の隅に肩をぶつける。 「レリル」と呼ばれたこの幼い子供の視界は、いつからか止まらない絶望の涙に濡れそぼっていた。泥の中に突き飛ばされ、頼りにしていた親に「金」という記号と引き換えに売られたあの日から、どれだけの時間が経ったのだろう。

 不意に、乱暴な衝撃と共に馬車が止まった。 重い閂が外される耳障りな金属音が響き、扉が外からの光を孕んで乱暴に開け放たれる。 逆光で眩しい光の中に立っていたのは、見たこともないほど豪奢で、けれど血の匂いのする軍服を纏った、冷徹な瞳の大人の男だった。

「立て。付いてこい。……ぐずぐずするな」

 男は、僕が幼い声で返事をする間も与えず、ましてや僕の怯えを顧みることもなく、振り返りもせずに石畳を歩き出した。 見知らぬ土地の、刺すような冷気。感情の読み取れない見知らぬ大人。ここで一人きりで置いていかれる恐怖に突き動かされ、僕はガタガタと縺れる細い足を必死に動かして、男の背中を、その死神のような大きな背中を必死に追いかけた。

 辿り着いたのは、天を突くほどにそびえ立つ、冷たい灰色をした石の門の前だった。 そこは、国が運営する魔導師の育成機関。表向きはそう呼ばれていても、その実は、感情を削ぎ落とした「生体兵器」を効率よく製造するための、巨大な工場。

「今日からここがお前の住む場所であり、お前が死ぬ場所だ。わかったな。返事はどうした」

 男が、感情の欠片もない声で冷酷に言い放つ。 あまりの威圧感に足が竦み、言葉を失った僕は、返事もできずにただ地面を這う蟻を見つめて俯いていた。ただ、怖くて。心細くて。どうしようもなく、もういない親の元へ帰りたくて。

 ――ドスッ、という、鈍く重い衝撃が僕の幼い視界を横切った。

「ぐっ……あ……っ!!」

 顔に走る、焼き付くような熱い痛み。 あまりに返事が遅いことに苛立った男が、俯いていた僕の顔面を、革製の軍靴で力任せに蹴り飛ばしたのだ。 小さな体は羽毛のように無様に宙を舞い、地面を転がり、視界が火花を散らしたように激しく明滅した。鼻の奥がツンと熱くなり、鉄の味が口の中に広がる。

「おい! 返事しろと言っているのが聞こえないのか! チッ、これだから平民上がりの餓鬼は……。めんどくせえな、最初から叩き直す必要があるか」

「……は、い……、わかり……ました……」

 土と砂の混じった、鉄臭い唾液を必死に飲み込み、僕は掠れた声でようやく答えた。 蹴り飛ばされた頬が、心臓の鼓動に合わせてズキズキと脈打つ。けれど、その肉体的な痛み以上に、僕の心の中の何かが、これまで微かに信じていた「大人」という存在への期待が、音を立てて粉々に崩れ去っていくのを感じていた。

 この場所には、救いなどない。 ここにあるのは、僕を血の通った「一人の人間」としてではなく、魔力が枯れ果てるまで使い潰すための「便利な道具」として扱う、冷徹なまでの国家の意志だけだ。

(……痛いよ。誰か、お願いだから……助けて……っ……)

 心の中の、声を失った絶望の叫びは誰にも届くことはなく、僕は引きずられるようにして門の奥、光の届かない回廊へと連れて行かれた。

 その遠い日の心の裂傷と、拭い去れない身体の痛みが、今の僕の魂にまで毒のように深く刻み込まれていく。 最悪の記憶という深淵の底で、僕の意識は突如として急加速し、再び現代の、あの塔の光の中へと弾き出された。
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