虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第2章

第48話:忍び寄る不信

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 辺境伯の館。その重厚な石壁の裏側、調理場の立ち込める湯気の中や、使用人たちが束の間の休息を取る暗い休憩室では、最近ある「奇妙で、不気味な変化」が共通の、そして最も忌むべき話題として定着していた。

「……また、領主様はあちらへ行かれたのかい?」

 一人の年配の使用人が、窓の隙間から、遠く雪原の果てに孤高にそびえるあの忌まわしい塔の方向を指して、声を潜めて囁いた。その声には、深い疑念と、拭い去れない不安が混じっている。

 かつて、この北の地を統べる若き獅子、ヨハン・ストルムベルクが館を空ける正当な理由といえば、領地の隅々まで目を配る巡回か、あるいは命を賭した苛烈な魔物討伐のどちらかのみであった。しかし、ここ数ヶ月の主の行動は、そのどれにも当てはまらない。彼は週に一度、いや、今となっては二日に一度という異常な頻度で、自ら市場に出向いては最上質の食材や、贅を尽くした家具を自らの手で抱え、誰を伴うこともなくあの「魔王の塔」へと通い詰めているのだ。

「ああ、間違いない。今日も朝早くから、料理長が特別に用意させた一番質のいい赤身肉と、王都から届いたばかりの新鮮な果物を籠いっぱいに詰めて、誰にも触らせずに持って行かれたよ。……あんな、国を売った極悪非道な人殺しの元にな」

 その吐き捨てるような言葉に、周りにいた若い下男や洗濯女たちが、一様に嫌悪感と戦慄に顔を歪めた。 この地の民にとって、レリルという男は単なる囚人ではない。かつてこの北の大地を蹂躙し、人々の日常を脅かした、憎んでも余りある呪われた大罪人だ。そんな稀代の悪党に、誇り高き自分たちの領主が、まるで恋い慕う者に尽くすかのように甲斐甲斐しく仕えている――。その耐え難い事実は、使用人たちにとって誇りを汚されるような屈辱であり、同時に底知れぬ恐怖でもあった。

「最近では、夜になっても戻らず、あの塔で外泊までされているというじゃないか。……あんな蛇のような男に、何か恐ろしい精神を操る呪いでもかけられているんじゃないだろうね」 「あり得る話だ。あの魔法使いのことだ、首輪すら物ともせず、優しい領主様を言葉巧みに欺いて、何か良からぬ……この領地そのものを覆すような陰謀を企んでいるに違いない……」

 閉ざされた館の中で、噂は毒を含んだ蔦のように、次から次へと尾ひれをつけて広がっていく。

「領主様はすでに毒を盛られ、判断力を失っている」
「あの魔法使いは、夜な夜な領主様の生気を吸い取り、館を乗っ取ろうとしている」――。

 実情を何一つ知らぬ彼らの不透明な不安は、いつしか、塔の奥底で静かに暮らすレリルへの研ぎ澄まされた刃のような殺意へと変貌し、自分たちの愛する主を邪悪な魔手から救い出さねばならないという、狂信的で歪んだ正義感へと急速に膨れ上がっていた。

 ヨハンが塔の暖炉の前で、レリルと穏やかにスープを分かち合い、慈しむような視線を交わしているその時間の裏側で。 彼を支える土台であるはずの館の空気は、主のいない間に氷点下へと、鋭く冷え切っていった。この静かな嵐の前触れに気づいている者は、まだ誰もいない。
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