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第1章:氷の王座と、崩れゆく嘘
第1話:その嘘は、毒にも似た愛(一)
その朝、セシルを揺り起こしたのは、陽光でも侍女の声でもなく、内臓を直接握りつぶされるような鈍い衝撃だった。
「……っ、がは……っ!」
深い眠りの底から強引に引きずり上げられ、上半身を跳ね飛ばすように起こす。視界は真っ白に明滅し、喉の奥からせり上がる熱い塊が、問答無用で彼の「生」を削り取っていく。
咄嗟に口元を押さえた指の間から、熱を帯びた粘り気のある液体が噴き出した。それは顎を伝い、鎖骨を濡らし、純白の上質な寝衣に無慈悲な赤い染みを広げていく。
一度始まった咳は止まらず、肺を裏返しにするような痛みがセシルの細い体を幾度も震わせた。
「はぁ、っ……は……はぁ……」
ようやく咳が収まった頃、セシルは血に濡れた己の手を見つめた。
二十四歳。
人生で最も瑞々しく、万物が輝いて見えるはずの季節にありながら、セシルの肉体はすでに限界を迎えていた。魔力という名の生命エネルギーを、大地という底なしの器に注ぎ込み続けて十二年。彼の血管は魔力の過剰な循環により、内側から焼けただれ、心臓は動いているのが不思議なほどに脆くなっている。
セシルは震える手でサイドテーブルの上の水差しをたぐり寄せ、口をゆすいだ。鉄の味が消えることはないが、そうせずにはいられなかった。
彼は、まるでひび割れた硝子の細工を扱うように、軋む体を慎重に動かして寝台を降りた。
裸足の裏が冷たい石床に触れる。その冷たさが、発熱した脳には唯一の救いだった。
(……まだ、だ。まだ、終わらせるわけにはいかない……)
壁を支えにしながら、部屋の奥にある隠し扉を開く。
王都の地脈に直結する秘密の祭壇。
ここは、世界で最も孤独な生贄の祭壇だった。観客のいない舞台で、彼は毎日、自分の魂を切り売りして国に捧げている。
セシルは祭壇の中央に立ち、意識を足元の冷たい石の奥、さらにその下にある「死んだ大地」へと沈めていく。
十二年前、アドレアン王国は大災厄に見舞われた。空から降り注いだ黒い雷は、この国の魔力の源である地脈を焼き切るだけでは飽き足らず、そこに『腐敗の呪い』を植え付けた。 かつて清流が流れていた川底からは、今や油のような粘つく泥が湧き出し、土は掘り返せば死臭を放つ。種を蒔けば、芽吹く前に種子がどろりと溶けてしまう。アドレアンは、国全体が巨大な『墓標』と化したのだ。 本来なら、数年を待たずして一億の民が飢えと病で絶滅するはずだった。それを、セシルという名の『生きた濾過器』が、無理やり食い止めていた。
「――っ……ぐ、あああああッ!」
詠唱すら必要ない。ただ意識を繋ぐだけで、魔力が逆流し、肉体を食い荒らす。
足元から噴き出した金色の光が、セシルの皮膚を内側から焼き、骨を軋ませる。
魔力を放出すればするほど、体温が奪われていく。指先が、足先が、感覚を失い、まるで氷の彫刻に変わっていくような錯覚に陥る。
だが、その代わりに。
セシルの意識の端で、王都を囲む麦畑が瑞々しく色づき、枯れ果てていたはずの王立庭園の花々が、嘘のように一斉に蕾を開くのが分かった。
(……これで、今日一日……みんなが、飢えずに、笑える……)
意識が混濁し、膝から崩れ落ちたセシルは、冷たい祭壇の上に突っ伏した。
その時。
重厚な石の扉が、地響きを立てて開いた。
「……また、一人でこれを……!」
低く、地を這うような怒声。
セシルは、薄れゆく視界の中で、その影を認めた。
漆黒の騎士服。腰に帯びた長剣。そして、誰よりも厳格で、誰よりも自分を嫌っているはずの男――近衛騎士団長、アルヴィス・ラインハルト。
アルヴィスは、倒れているセシルに歩み寄ると、その華奢な肩を掴み、乱暴に引き起こした。
「陛下! 目を開けてください!陛下!…起きろ、セシル!」
名前を呼ばれた。
セシルは、アルヴィスの胸元に顔を押し付けられる形になり、彼の革手袋から漂うオイルと鉄の匂い、そして強烈な「生の体温」を感じた。
それは、魔力を絞り出した後の氷のようなセシルの体には、あまりに眩しく、痛いほどの熱量だった。
「……アルヴィ、ス……。来るなと、言った……のに……」
「黙ってください! その『優しい嘘』を吐き出すたびに、あなたの命がどれほど削り取られているか、分かっているのですか!」
アルヴィスの腕に力がこもる。
抱き上げられたセシルの体は、二十代の男とは思えないほど軽く、脆い。
アルヴィスは、その重みのなさに絶望するように奥歯を噛み締め、セシルを寝室へと運び始めた。
「……っ、がは……っ!」
深い眠りの底から強引に引きずり上げられ、上半身を跳ね飛ばすように起こす。視界は真っ白に明滅し、喉の奥からせり上がる熱い塊が、問答無用で彼の「生」を削り取っていく。
咄嗟に口元を押さえた指の間から、熱を帯びた粘り気のある液体が噴き出した。それは顎を伝い、鎖骨を濡らし、純白の上質な寝衣に無慈悲な赤い染みを広げていく。
一度始まった咳は止まらず、肺を裏返しにするような痛みがセシルの細い体を幾度も震わせた。
「はぁ、っ……は……はぁ……」
ようやく咳が収まった頃、セシルは血に濡れた己の手を見つめた。
二十四歳。
人生で最も瑞々しく、万物が輝いて見えるはずの季節にありながら、セシルの肉体はすでに限界を迎えていた。魔力という名の生命エネルギーを、大地という底なしの器に注ぎ込み続けて十二年。彼の血管は魔力の過剰な循環により、内側から焼けただれ、心臓は動いているのが不思議なほどに脆くなっている。
セシルは震える手でサイドテーブルの上の水差しをたぐり寄せ、口をゆすいだ。鉄の味が消えることはないが、そうせずにはいられなかった。
彼は、まるでひび割れた硝子の細工を扱うように、軋む体を慎重に動かして寝台を降りた。
裸足の裏が冷たい石床に触れる。その冷たさが、発熱した脳には唯一の救いだった。
(……まだ、だ。まだ、終わらせるわけにはいかない……)
壁を支えにしながら、部屋の奥にある隠し扉を開く。
王都の地脈に直結する秘密の祭壇。
ここは、世界で最も孤独な生贄の祭壇だった。観客のいない舞台で、彼は毎日、自分の魂を切り売りして国に捧げている。
セシルは祭壇の中央に立ち、意識を足元の冷たい石の奥、さらにその下にある「死んだ大地」へと沈めていく。
十二年前、アドレアン王国は大災厄に見舞われた。空から降り注いだ黒い雷は、この国の魔力の源である地脈を焼き切るだけでは飽き足らず、そこに『腐敗の呪い』を植え付けた。 かつて清流が流れていた川底からは、今や油のような粘つく泥が湧き出し、土は掘り返せば死臭を放つ。種を蒔けば、芽吹く前に種子がどろりと溶けてしまう。アドレアンは、国全体が巨大な『墓標』と化したのだ。 本来なら、数年を待たずして一億の民が飢えと病で絶滅するはずだった。それを、セシルという名の『生きた濾過器』が、無理やり食い止めていた。
「――っ……ぐ、あああああッ!」
詠唱すら必要ない。ただ意識を繋ぐだけで、魔力が逆流し、肉体を食い荒らす。
足元から噴き出した金色の光が、セシルの皮膚を内側から焼き、骨を軋ませる。
魔力を放出すればするほど、体温が奪われていく。指先が、足先が、感覚を失い、まるで氷の彫刻に変わっていくような錯覚に陥る。
だが、その代わりに。
セシルの意識の端で、王都を囲む麦畑が瑞々しく色づき、枯れ果てていたはずの王立庭園の花々が、嘘のように一斉に蕾を開くのが分かった。
(……これで、今日一日……みんなが、飢えずに、笑える……)
意識が混濁し、膝から崩れ落ちたセシルは、冷たい祭壇の上に突っ伏した。
その時。
重厚な石の扉が、地響きを立てて開いた。
「……また、一人でこれを……!」
低く、地を這うような怒声。
セシルは、薄れゆく視界の中で、その影を認めた。
漆黒の騎士服。腰に帯びた長剣。そして、誰よりも厳格で、誰よりも自分を嫌っているはずの男――近衛騎士団長、アルヴィス・ラインハルト。
アルヴィスは、倒れているセシルに歩み寄ると、その華奢な肩を掴み、乱暴に引き起こした。
「陛下! 目を開けてください!陛下!…起きろ、セシル!」
名前を呼ばれた。
セシルは、アルヴィスの胸元に顔を押し付けられる形になり、彼の革手袋から漂うオイルと鉄の匂い、そして強烈な「生の体温」を感じた。
それは、魔力を絞り出した後の氷のようなセシルの体には、あまりに眩しく、痛いほどの熱量だった。
「……アルヴィ、ス……。来るなと、言った……のに……」
「黙ってください! その『優しい嘘』を吐き出すたびに、あなたの命がどれほど削り取られているか、分かっているのですか!」
アルヴィスの腕に力がこもる。
抱き上げられたセシルの体は、二十代の男とは思えないほど軽く、脆い。
アルヴィスは、その重みのなさに絶望するように奥歯を噛み締め、セシルを寝室へと運び始めた。
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