嘘つき王と影の騎士

篠雨

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第1章:氷の王座と、崩れゆく嘘

第1話:その嘘は、毒にも似た愛(二)

寝台へ横たえられた衝撃で、止まったはずの咳が再びセシルの喉を突いた。

 アルヴィスは舌打ちを一つ。乱暴に見える手つきで、しかし驚くほど正確な力加減でセシルの背中を支え、血の混じった唾液を銀の洗面器へ吐き出させた。

「……もう、よい。下がれ、アルヴィス」

「よくはありません。その顔色のどこを見て、騎士が主君を独りにできると思うのですか。……貴方が『王』を演じるつもりなら、私も『忠臣』を演じるまでです」

 アルヴィスの言葉には、常に棘がある。

 彼はセシルの襟元を緩めると、侍女を待たずに冷えた布でセシルの首筋を拭った。熱を帯びた肌に触れる冷たい感触に、セシルは思わず吐息を漏らす。

 その瞬間、アルヴィスの指先がぴたりと止まった。

 セシルの白い首筋には、魔力行使の反動である「呪紋」の末端が、ひび割れた蔦のように這い上がってきている。

 それを見つめるアルヴィスの瞳に、暗い、濁った色が混じるのをセシルは見逃さなかった。

「……見苦しいだろう。見なくていいと言っているのに」

「見苦しいのは、貴方のその『諦め』たような顔だ。どうして全部一人で抱え込むんだ。」

 アルヴィスは絞り出すように言い、布を投げ捨てると、セシルの両手首を布団の上で押さえつけた。

 二十六歳、武を極めた騎士の掌は分厚く、二十四歳の衰弱したセシルの手首など、片手で折れてしまいそうなほどに細く感じられる。

「十二年。……十二年ですよ、セシル。貴方はあの戴冠式の日から、一度だって自分のために呼吸をしたことがあるのか?」

 その問いに、セシルは視線を逸らした。
 
 記憶の中の十二歳の自分は、まだ頬に幼い肉がついていた。
 父王が病に伏せ、この国の肥沃だった大地が一夜にしてひび割れたあの日。
 セシルは、崩御した父の冷たい手を握りながら、王宮の書庫に閉じこもった。

 泣く暇があるなら、解決策を見つけたかった。

 
 ――だが、現実は残酷だった。

 
 どれほど勉強しても、導き出される答えは「不可能」であった。
 知識では、空腹を癒せない。

 学問では、干上がった川に水を戻せない。

 
 絶望の果てにセシルが手を伸ばしたのは、書庫の最奥、埃を被った禁書に記されていた「王族の命を変換する呪術」だった。
 
『この身を捧げれば、あと一日は民が生きられる。ならば、明日も捧げよう』
 
 そうして積み上げた十二年。


 セシルが賢王として、聖王として、その身を削れば削るほど、城下の市場には瑞々しい果物が並び、民は「陛下の奇跡」を称えて乾杯する。

 その対価が、今この寝台でアルヴィスに組み伏せられている、ボロボロの肉体だった。

「……私は、後悔していない」

「嘘をつけ!」

 アルヴィスが叫んだ。その顔が、セシルのすぐ目の前まで迫る。

 彼の瞳の中に映る自分は、幽霊のように青白く、今にも消えてしまいそうだった。

「貴方は……貴方はいつだって、そうやって自分を切り売りして、満足している! 周りの愚民どもが何を食べていようが、この国がどうなろうが、そんなことは知ったことか! …俺は、俺の目の前で、貴方が少しずつ削れて消えていくのが耐えられないと言っているんだ!……頼むから、もう自分を殺さないでくれ……。世界のためじゃなく、自分のために生きてくれ……!」
 
 セシルは力なく微笑んだ。
 アルヴィスだけが、セシルの「嘘」の対価を知っている。
 彼だけが、セシルの吐いた血を拭い、冷え切った体を温めてくれる。
 だが、その手が、その温度が、今のセシルには何よりも苦しかった。
 
「アルヴィス。お前は……優しすぎるんだ」
 セシルが自由な方の手で、アルヴィスの頬に触れようと手を伸ばしかけ――、
 その手が、力なく空を斬って寝台に落ちた。
 
「……セシル?」
 アルヴィスの声が裏返る。
 セシルの視界は、急速に闇に飲み込まれていった。
 
 限界だった。
 朝の儀式で全魔力を放出した後の肉体に、アルヴィスとの激しい感情のぶつかり合いは重すぎた。
 
「っ、おい、目を開けろ! セシル!」
 
 遠ざかる意識の最後で聞こえたのは、アルヴィスが叫ぶ、悲鳴のような自分の名前だった。
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