嘘つき王と影の騎士

篠雨

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第2章:献身と解凍

第31話:再会の味、あるいは毒

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「……肉の匂いが、する……」

 セシルが小さく呟くと、背後から抱きしめるアルヴィスの腕に、微かな力がこもった。
 差し出されたスープは、驚くほど具沢山だった。堅苦しい王宮の礼法など無視し、ただ「セシルの身体に血を通わせること」だけを目的とした、野性味あふれる手料理。

 アルヴィスは、大きな具材を自分のナイフで丁寧に、一口で飲み込めるほど細かく刻んでいく。戦場で数多の敵を切り伏せてきたその手が、今はセシルの喉を傷つけぬよう、震えるほど繊細に動かされていた。

「熱いですよ。……ふー、ふー……」

 匙を冷ます、アルヴィスの吐息がセシルの頬にかかる。 
 これほど近くに彼がいる。これほどまでに、自分一人のために彼が心を砕いている。
  かつて、アルヴィスが騎士団から戻るたびに「何か美味しいものを食べましたか?」と聞いたとき、彼はいつも「戦場の飯など、生きるための泥と同じです」と笑っていた。その彼が今、不器用な手つきで、自分のために食事を整えている。

「さあ、口を開けてください」

 唇に、温かい匙が押し当てられる。
 セシルは一瞬躊躇したが、背後から自分を包み込むアルヴィスの視線——「食べなければ無理にでも流し込む」と言わんばかりの強い意志に押され、ゆっくりと口を開いた。

 その瞬間、心臓が跳ねた。
 口内に広がる、肉の力強い旨味、塩気、そしてハーブの鮮烈な香り。
 ——あの日。アルヴィスが遠征に発ち、セシルの側から姿を消したあの日から、世界は色を失った。何を口にしても紙を噛むようで、温かさ以外に何も感じられなかったはずの味覚が、数ヶ月の空白を飛び越え、暴力的なまでの鮮やかさで蘇っていく。ただ命を繋ぐための「作業」でしかなかったはずの感覚が、今、猛烈な勢いで蘇っていく。

 それは、王宮で出されていた「毒味の済んだ冷めた贅沢」とは正反対の、命の熱そのものだった。

「……飲み込めますか?」

 アルヴィスはセシルの喉が動くのを、まるで神へ祈りを捧げるかのような敬虔な目つきで見守っていた。 
 一匙、また一匙。  アルヴィスが運ぶ「生」が、凍りついたセシルの内臓を、そして死に体だった味覚を、ゆっくりと、けれど確実に溶かしていく。

「……美味しいか?」

 半分ほどスープが減ったところで、アルヴィスがふと、掠れた声で問いかけてきた。
 その問いに、セシルは言葉を詰まらせた。

 美味しい。そんな単純な言葉では足りなかった。
 十二年間。セシルにとって食事とは、奇跡を維持するための「燃料補給」だった。何を食べるかではなく、どれだけの栄養を取り込めるか。義務と責任に塗り固められた食事に、味など感じたことはなかった。  失われていた色彩が、彼の体温を通じて戻ってくる。

「……あ……っ」

 不意に、視界が滲んだ。
 熱い雫が、スープの入った匙の上にポタリと落ちる。一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。

「セシル!? どこか痛むのか? それとも、味が……」

「違う……違うんだ、アルヴィス……。……味が、するんだ。……生きて、食べている感じが……初めて、するんだ……」

 セシルは、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
 国を捨て、王座を奪われ、どん底に落ちて初めて、自分は一人の人間として「美味しい」と感じることを許されたのだ。

 アルヴィスは、泣き続けるセシルをさらに強く抱きしめ、その耳元で何度も何度も、呪文のように囁いた。

「そうです。貴方は、ただの人間だ。……もう誰のために食べる必要も、誰かのために奇跡を起こす必要もない。私のために、私の愛に応えるためだけに、食べてください」

 アルヴィスは涙で濡れたセシルの頬を、愛おしそうに、まるでその痕跡さえ独占しようとするかのように指で拭った。

 そのスープには、セシルを人間へと引き戻す「救済」と、二度とアルヴィスの腕から逃げ出せなくさせる「毒」が、同じ分量だけ含まれていた。
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