嘘つき王と影の騎士

篠雨

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第2章:献身と解凍

第34話:聖王の還俗

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 背中に注がれた湯の熱さが、凍てついていたセシルの思考を無理やりに呼び戻す。
 浴室に充満する白い湯気は、まるで外界との境界線を塗りつぶす膜のようだ。ここにはもう、セシルを「器」と呼ぶ民の声も、義務を説くバルトロの冷徹な眼差しもない。ただ、湯気の向こうで、熱烈な信者のようにセシルのすべてを凝視する、アルヴィスの気配だけが支配していた。

「……あ、……ぁっ」

 石鹸の香りを帯びたアルヴィスの掌が、セシルの肩から腕にかけて、ゆっくりと滑り降りた。
 驚くほど、大きな手だ。 
 かつて戦場で数多の敵を切り伏せてきたその掌は、驚くほど厚く、それでいてセシルという存在を粉々に壊してしまわぬよう、恐ろしいほどの繊細さを持って肌を撫でていく。

 アルヴィスは、セシルの手首をそっと持ち上げた。
 爪の間にこびりついた荒野の泥を、アルヴィスは自分の指先を使って、丁寧に、祈りを捧げるかのような執拗さで取り除いていく。そのあまりに献身的な、けれど逃げ場を許さない手つきに、セシルは息をすることさえ忘れてしまった。

「アルヴィス……もう、いい。そこまでしなくて、も……」

 「……黙っていてください、セシル。」

 遮る声は慈愛に満ちていながらも、抗いを許さない狂信的な重みがあった。
 アルヴィスはそのまま、セシルの背後に回り込んだ。

 背筋をなぞる、アルヴィスの熱い指先。

 民のために祈る際、セシルはいつも「無」であろうとしてきた。肉体の痛みも疲労も、すべては奇跡のための代償だと自分に言い聞かせ、己をただの器として扱ってきた。
 けれど今、アルヴィスが触れる場所すべてが、電気を通したように熱を帯び、跳ねる。

 自分に、こんな過敏な「感覚」があったなんて。セシルは自分が、ただの生身の人間であったことを、アルヴィスの指先によって一つ一つ暴かれ、教え込まれていく。

「ここも……汚れていますね」

 アルヴィスの手が、セシルの脇腹、あの呪紋の跡が残る歪な皮膚をなぞった。
 かつては「聖なる犠牲」として、他人から崇拝と搾取の対象とされた場所。だが、アルヴィスの指は、そこを「役割の証」としてではなく、セシルの身に刻まれた「愛おしい傷」として、跪かんばかりの熱を持って愛撫した。

「……や、めて……っ」

 背筋がゾクりと震え、セシルはたまらず身をよじった。
 単なる清拭ではない。それは、セシルの身体の隅々まで、アルヴィスの記憶と体温を焼き付ける「清め」の儀式だった。
 アルヴィスは柔らかな布を使い、セシルの首筋から、胸元、そして……普段、誰の視線も届くはずのなかった場所へと手を伸ばしていく。

「……っ……ぁ!」

 私は反射的に脚を閉じようとしたが、アルヴィスの膝が、支えるように、けれど強引にその間に割り込んだ。  抵抗できない。力の差、体格の差、そして——アルヴィスがいなければセシルはこの椅子に座っていることさえできないという、屈辱的なまでの依存。

 セシルは顔を真っ赤に染め、再び両手で視界を塞いだ。
 指の間から漏れる吐息が、自分のものとは思えないほど熱く、乱れている。

「なぜ、そんなに震えるのです。……怖いですか? 俺が、貴方のすべてをろうとすることが」

 耳元で囁かれた声には、セシルを独占できる喜びを隠しきれない、切実な愉悦が混じっていた。
 怖い。恐ろしい。

 けれど、それ以上に——。
 二十四年間、誰にも触れられず、誰の体温も知らずに、ただの道具として枯れ果てようとしていたセシルの肉体が、アルヴィスの乱暴なまでの慈しみに、どうしようもなく「生」を感じてしまっていることが、何よりも恐ろしかった。

「……髪の一本まで、貴方のすべてを私が洗い清めましょう。もう誰かのために奇跡を演じ、自分を削る必要はありません。貴方はただここで、今日を生き、明日を待つだけの……一人の人間になればいいのです。貴方を縛り付けてきたその重荷は、今、私がすべて洗い流して差し上げます」

 アルヴィスは、私の濡れた髪をかき上げ、むき出しになったうなじに、祈りを捧げるような熱い口づけを落とした。
 湯気の中に溶けていく私の理性が、一歩ずつ、彼が用意した「ただの人間として許される場所」へと堕ちていくのを、私はただ黙って受け入れるしかなかった。
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