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第3章:氷解のゆりかご
第50話:役割の終焉、名前の産声
どれほどの時間が過ぎただろうか。
過呼吸の熱が引き、セシルの呼吸がようやく落ち着きを取り戻した頃。暖炉の炎は小さくなり、二人の影を壁に長く、寂しげに落としていた。
セシルはアルヴィスの腕の中で、虚脱したように身を預けていた。叫び、暴れ、拒絶し尽くした後の心は、空っぽの抜け殻のようだ。
だが、彼を抱きしめるアルヴィスの腕は、先ほどよりもさらに強く、揺るぎない確信を持ってそこにあった。
「……もう、終わりにしましょう」
アルヴィスの静かな声が、セシルの耳元で響く。その声に、セシルは心臓が止まるかと思った。
(やはり、彼は私を捨てるのだ。終わりにすると、そう言ったのだ)
望んでいたはずの結末。それなのに、胸の奥が焼けるように痛い。
だが、アルヴィスの言葉は、セシルの予想とは全く違う方向へと紡がれた。
「貴方が『陛下』であろうとすることを、国を守るという大義名分を背負い続けることを……ここで終わりにしてください。私が今まで貴方の側にいたのは、騎士としての忠誠心などという、便利な言葉で片付けられるものではなかった」
「……何、を……」
セシルが掠れた声で問い返そうとすると、アルヴィスは彼をゆっくりと引き剥がし、その両頬を大きな手で包み込んだ。 強制的に視線を合わされる。そこにあるのは、騎士団長としての峻厳な瞳ではなく、剥き出しの執着と、痛々しいまでの情愛を湛えた一人の男の目だった。
「二十年前、貴方が即位したあの日。私が跪いたのは、アストレア公爵家の嫡男としての義務だという気持ちもあったかもしれない。だが、日々、私が守りたいと願ったのは『アドレアンの王』ではなかった」
アルヴィスの指先が、セシルの頬に伝う涙の痕をなぞる。
「奇跡を搾り取られ、肉体を呪術に蝕まれながら……それでも、ただ民の安寧だけを願い、孤独に耐えてまっすぐ前を見つめていた。そのあまりにも不器用で、ひたむきな……貴方という一人の人間だ」
セシルは息を呑んだ。
自分の二十年間は、王としての役割を完璧に演じるための嘘で塗り固められていた。誰も、その内側にある「セシル」という個人など見てはいなかった。バルトロも、民も、自分自身でさえも。
アルヴィスは、その欺瞞のすべてを知った上で、「王」ではなく「セシル」を守りたかったのだと言っている。
「貴方が魔力を失ったという『嘘』を暴かれ、民に石を投げられた時。私の心にあったのは、国への失望ではない。……なぜ、貴方がこんな目に合わなければならないのか。なぜ、二十年もすべてを捧げてきた彼が、これほどまでに独りで、惨めに泣かなければならないのか。……その理不尽への、殺意だけだった」
アルヴィスの告白は、セシルの「鉄の心」に小さな、けれど決定的な亀裂を入れた。
「貴方が魔力を持たない『ペテン師』であろうと、歩くことさえままならない『無力な塊』であろうと、そんなことは最初からどうでもよかった。私が欲しかったのは、国を守るための象徴ではない。……今、私の腕の中で震えている、セシル、貴方の魂だけだ」
「……あ……、あぁ……っ」
セシルの唇が震える。
アルヴィスが求めているのは、完璧な王の姿ではない。無様で、無力で、何一つ返せない、剥き出しの自分だ。 騎士として守るのではない。ひとりの男として、地獄の底までこの男と共に堕ちる。
アルヴィスの瞳に宿るその凄絶なまでの覚悟に、セシルは二十年間、誰にも触れさせなかった心の最奥が、音を立てて崩れていくのを感じていた。
「もう一度言います。私は、貴方を憐れんでここにいるのではない。……私が、私自身の意志で、貴方を離したくないからここにいる。……セシル」
その名を呼ばれるたび、王としての重荷が一つずつ剥がれ落ちていく。
王でもなく、神でもなく。ただの男として見つめられる。
その響きが、凍りついていたセシルの喉の奥に、言葉にならない熱い塊を突き上げてきた。
過呼吸の熱が引き、セシルの呼吸がようやく落ち着きを取り戻した頃。暖炉の炎は小さくなり、二人の影を壁に長く、寂しげに落としていた。
セシルはアルヴィスの腕の中で、虚脱したように身を預けていた。叫び、暴れ、拒絶し尽くした後の心は、空っぽの抜け殻のようだ。
だが、彼を抱きしめるアルヴィスの腕は、先ほどよりもさらに強く、揺るぎない確信を持ってそこにあった。
「……もう、終わりにしましょう」
アルヴィスの静かな声が、セシルの耳元で響く。その声に、セシルは心臓が止まるかと思った。
(やはり、彼は私を捨てるのだ。終わりにすると、そう言ったのだ)
望んでいたはずの結末。それなのに、胸の奥が焼けるように痛い。
だが、アルヴィスの言葉は、セシルの予想とは全く違う方向へと紡がれた。
「貴方が『陛下』であろうとすることを、国を守るという大義名分を背負い続けることを……ここで終わりにしてください。私が今まで貴方の側にいたのは、騎士としての忠誠心などという、便利な言葉で片付けられるものではなかった」
「……何、を……」
セシルが掠れた声で問い返そうとすると、アルヴィスは彼をゆっくりと引き剥がし、その両頬を大きな手で包み込んだ。 強制的に視線を合わされる。そこにあるのは、騎士団長としての峻厳な瞳ではなく、剥き出しの執着と、痛々しいまでの情愛を湛えた一人の男の目だった。
「二十年前、貴方が即位したあの日。私が跪いたのは、アストレア公爵家の嫡男としての義務だという気持ちもあったかもしれない。だが、日々、私が守りたいと願ったのは『アドレアンの王』ではなかった」
アルヴィスの指先が、セシルの頬に伝う涙の痕をなぞる。
「奇跡を搾り取られ、肉体を呪術に蝕まれながら……それでも、ただ民の安寧だけを願い、孤独に耐えてまっすぐ前を見つめていた。そのあまりにも不器用で、ひたむきな……貴方という一人の人間だ」
セシルは息を呑んだ。
自分の二十年間は、王としての役割を完璧に演じるための嘘で塗り固められていた。誰も、その内側にある「セシル」という個人など見てはいなかった。バルトロも、民も、自分自身でさえも。
アルヴィスは、その欺瞞のすべてを知った上で、「王」ではなく「セシル」を守りたかったのだと言っている。
「貴方が魔力を失ったという『嘘』を暴かれ、民に石を投げられた時。私の心にあったのは、国への失望ではない。……なぜ、貴方がこんな目に合わなければならないのか。なぜ、二十年もすべてを捧げてきた彼が、これほどまでに独りで、惨めに泣かなければならないのか。……その理不尽への、殺意だけだった」
アルヴィスの告白は、セシルの「鉄の心」に小さな、けれど決定的な亀裂を入れた。
「貴方が魔力を持たない『ペテン師』であろうと、歩くことさえままならない『無力な塊』であろうと、そんなことは最初からどうでもよかった。私が欲しかったのは、国を守るための象徴ではない。……今、私の腕の中で震えている、セシル、貴方の魂だけだ」
「……あ……、あぁ……っ」
セシルの唇が震える。
アルヴィスが求めているのは、完璧な王の姿ではない。無様で、無力で、何一つ返せない、剥き出しの自分だ。 騎士として守るのではない。ひとりの男として、地獄の底までこの男と共に堕ちる。
アルヴィスの瞳に宿るその凄絶なまでの覚悟に、セシルは二十年間、誰にも触れさせなかった心の最奥が、音を立てて崩れていくのを感じていた。
「もう一度言います。私は、貴方を憐れんでここにいるのではない。……私が、私自身の意志で、貴方を離したくないからここにいる。……セシル」
その名を呼ばれるたび、王としての重荷が一つずつ剥がれ落ちていく。
王でもなく、神でもなく。ただの男として見つめられる。
その響きが、凍りついていたセシルの喉の奥に、言葉にならない熱い塊を突き上げてきた。
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