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第3章:氷解のゆりかご
第51話:追憶
「……セシル」
その名を繰り返すアルヴィスの声が、暗い部屋の中に深く染み渡っていく。
自分の名を呼ぶ響きが、これほどまでに優しく、そして切実なものだっただろうか。セシルはその熱に浮かされるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
深い闇の底へ沈んでいく意識の中で、不意に、忘れていたはずの景色が色鮮やかに蘇る。
それは、五歳の頃の、ある春の日の記憶だった。
自分が「聖王」として幽閉される直前。父である先代の王が、眩しそうに自国のアドレアンを見渡していた。
『いいかい、セシル。この国は美しい。ここに生きる民たちが笑い、手を取り合う姿。それこそが、王である私の誇りなのだよ』
父の言葉通り、当時のアドレアンは活気に満ちていた。国を愛する王と、それを敬い支える民。そこには、互いを想い合う、目に見えないけれど確かな絆の熱があった。
父の大きな手に頭を撫でられ、幼いセシルは憧れたのだ。
自分もいつか、父のようにこの国を愛し、そして民から愛される存在になりたい、と。
(……ああ。私は、あの時に決めたんだ)
初めて呪術の儀式に臨んだ日のことも覚えている。
未熟な身体で「奇跡」を引きずり出した後の疲労は凄まじかったが、神殿の外に集まった民たちの歓声は、それ以上に熱かった。
『ありがとうございます、セシル様』『貴方は私たちの希望です』
涙を流して感謝する民たちの笑顔は、何よりも温かく、自分の痛みが、誰かの幸せに変わる瞬間を確かに見た。
あの日、自分がこの身を捧げようと誓ったのは、誰かに強制されたからではない。
ただ、あの日見た温かい景色を、自分でも作りたかったからだ。民に必要とされ、愛される王になりたかった——そのあまりにも純粋な、承認と愛情への渇望が、セシルの「聖王」としての原点だった。
けれど、いつしか「愛」は「搾取」へと変わり、「希望」は「当然の義務」へと摩り替わった。
民の期待に応えようと、もっと愛されたいと願い、自分を削り続けた十二年。その果てに待っていたのは、石を投げ、背を向ける民たちの冷たい拒絶だった。
(私は……ただ、あの日見た温もりの中に、いたかっただけなのに)
記憶の中で、感謝の言葉を投げかけていた民たちの幻影が、ゆっくりと消えていく。
代わりにそこに残ったのは、今の現実で、魂を削るようにして自分の名を呼ぶ一人の男だった。
「……セシル」
民から向けられた「聖王への喝采」ではない。
役割も、奇跡も、何も持たなくなった自分という一個の命を、ただその名で肯定しようとする、不器用で重苦しい熱。
冷たく固めていた心が、内側からじわりと熱を帯び始める。
あの日、父の隣で感じた「この世界に居場所がある」という安らぎが、アルヴィスの腕という現実の体温を通じて、凍えきった魂を浸食していく。
——生きたい。
喉の奥で、その言葉が初めて、嘘偽りのない形を成した。
役立たずの化け物として死ぬのではなく、この名を呼んでくれる者の前で、もう一度光の下へ出たい。
セシルは、自分を包むアルヴィスの胸板に、力なく、けれど確かに自分の額を押し当てた。
頬を伝うのは、もう卑屈な絶望の涙ではない。
十二年ぶりに取り戻した、幼い日の自分からの贈り物——「愛されたい」と願う、あまりにも人間らしい、剥き出しの渇望だった。
その名を繰り返すアルヴィスの声が、暗い部屋の中に深く染み渡っていく。
自分の名を呼ぶ響きが、これほどまでに優しく、そして切実なものだっただろうか。セシルはその熱に浮かされるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
深い闇の底へ沈んでいく意識の中で、不意に、忘れていたはずの景色が色鮮やかに蘇る。
それは、五歳の頃の、ある春の日の記憶だった。
自分が「聖王」として幽閉される直前。父である先代の王が、眩しそうに自国のアドレアンを見渡していた。
『いいかい、セシル。この国は美しい。ここに生きる民たちが笑い、手を取り合う姿。それこそが、王である私の誇りなのだよ』
父の言葉通り、当時のアドレアンは活気に満ちていた。国を愛する王と、それを敬い支える民。そこには、互いを想い合う、目に見えないけれど確かな絆の熱があった。
父の大きな手に頭を撫でられ、幼いセシルは憧れたのだ。
自分もいつか、父のようにこの国を愛し、そして民から愛される存在になりたい、と。
(……ああ。私は、あの時に決めたんだ)
初めて呪術の儀式に臨んだ日のことも覚えている。
未熟な身体で「奇跡」を引きずり出した後の疲労は凄まじかったが、神殿の外に集まった民たちの歓声は、それ以上に熱かった。
『ありがとうございます、セシル様』『貴方は私たちの希望です』
涙を流して感謝する民たちの笑顔は、何よりも温かく、自分の痛みが、誰かの幸せに変わる瞬間を確かに見た。
あの日、自分がこの身を捧げようと誓ったのは、誰かに強制されたからではない。
ただ、あの日見た温かい景色を、自分でも作りたかったからだ。民に必要とされ、愛される王になりたかった——そのあまりにも純粋な、承認と愛情への渇望が、セシルの「聖王」としての原点だった。
けれど、いつしか「愛」は「搾取」へと変わり、「希望」は「当然の義務」へと摩り替わった。
民の期待に応えようと、もっと愛されたいと願い、自分を削り続けた十二年。その果てに待っていたのは、石を投げ、背を向ける民たちの冷たい拒絶だった。
(私は……ただ、あの日見た温もりの中に、いたかっただけなのに)
記憶の中で、感謝の言葉を投げかけていた民たちの幻影が、ゆっくりと消えていく。
代わりにそこに残ったのは、今の現実で、魂を削るようにして自分の名を呼ぶ一人の男だった。
「……セシル」
民から向けられた「聖王への喝采」ではない。
役割も、奇跡も、何も持たなくなった自分という一個の命を、ただその名で肯定しようとする、不器用で重苦しい熱。
冷たく固めていた心が、内側からじわりと熱を帯び始める。
あの日、父の隣で感じた「この世界に居場所がある」という安らぎが、アルヴィスの腕という現実の体温を通じて、凍えきった魂を浸食していく。
——生きたい。
喉の奥で、その言葉が初めて、嘘偽りのない形を成した。
役立たずの化け物として死ぬのではなく、この名を呼んでくれる者の前で、もう一度光の下へ出たい。
セシルは、自分を包むアルヴィスの胸板に、力なく、けれど確かに自分の額を押し当てた。
頬を伝うのは、もう卑屈な絶望の涙ではない。
十二年ぶりに取り戻した、幼い日の自分からの贈り物——「愛されたい」と願う、あまりにも人間らしい、剥き出しの渇望だった。
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