嘘つき王と影の騎士

篠雨

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第3章:氷解のゆりかご

第52話:無意味な鋼に魂を灯した日

 セシルが額を預けてきたことに、アルヴィスの肩が微かに震えた。 
 拒絶ではなく、弱々しくも確かな寄り添い。その小さな変化が、アルヴィスの心に溜まっていた濁流を、決壊させた。

「……セシル。貴方は、自分が私の人生を食いつぶしていると言いましたね」

 アルヴィスの声が、暗闇の中で重く沈み込む。 
 アルヴィスはセシルの髪に指を差し込み、愛おしそうに、あるいは確認するようにその頭を深く、自身の胸へと抱き寄せた。

「貴方は自分のことを『お荷物』だと言った。私が義務感で、貴方を憐れんでここにいるのだと。……だが、それは違う。逆なのだ、セシル」

 アルヴィスが顔を上げると、そこにはセシルが今まで見たこともないような、ひどく脆く、今にも泣き出しそうな顔をした一人の男がいた。

「貴方がいなければ、私は二十年前、とうに自分自身を殺していた」

 その言葉の重みに、セシルは思わず息を呑んだ。公爵家の世継ぎ、期待の若手騎士。そんな光り輝く称号の裏で、アルヴィスもまた、役割を演じ続けるだけの空虚な日々に、静かに絶望していたのだ。

「公爵家の道具として生き、命じるままに人を斬り、名誉を積み上げるだけの人生になるんだと思っていた。……幼い頃から、私は『アストレアの剣』であること以外を望むことを許されなかった。私という人間が何を思い、何に傷つくかなど、誰も、父上でさえも興味はなかった。私は、ただ正しく、強くあるための装置だった」

 アルヴィスの声には、長年押し殺してきた乾いた痛みが混じっていた。

「そんな人生に何の意味があるのか分からなかった。……だが、そんな私に、誰よりもボロボロになりながら『国を、未来を守れ』と、震える手で命じてくれたのは貴方だった。……覚えていますか、セシル。貴方が即位して間もない頃、初めて呪術の反動で倒れたあの夜のことを」

 セシルの脳裏に、古い記憶が鮮明に蘇る。まだ十代だったセシルは、慣れない「奇跡」の行使で内臓を焼かれるような激痛に襲われ、神殿の奥で一人、血を吐いて蹲っていた。そこに駆けつけたのが、若き近衛騎士であったアルヴィスだった。

「あの時、私は貴方を助けようとした。だが、貴方は私の腕を振り払い、青ざめた顔で私を睨みつけた。『私に構うな、お前にはやるべきことがあるはずだ。……私を救う暇があるなら、この先にあるはずの、誰も泣かなくていい未来を救え』と」

 アルヴィスは、セシルの細い指を壊れ物を扱うように包み直した。

「……衝撃だった。自分の命が削れる音をさせながら、貴方は自分の救済ではなく、私の『正義』の行方を案じていた。私をただの護衛や道具としてではなく、未来を託すべき一人の志ある男として、その瞳に映してくれた。……あの日、私は初めて自分という人間に『意味』があるのだと、貴方の言葉によって思い知らされたんだ」

 セシルは、自分の手のひらに伝わるアルヴィスの熱い吐息と、震えを感じながら、愕然としていた。 
 自分が生きるための「嘘」として演じていた聖王としての強がり。それが、この鋼のように強靭な男の「生きる理由」そのものになっていたなんて。

「貴方がいたから、私は自分が『ただの剣』ではないと信じられた。……だから、お願いだ、セシル。私の人生を『重荷』だなんて言葉で奪わないでくれ。貴方がいなければ、私はまた、あの血に塗れただけの無意味な鋼に戻ってしまう……」

 アルヴィスがセシルの両手を、自分の大きな掌で包み込む。
 その手は、かつて王都で石を投げられ、泥にまみれた手だ。だが、アルヴィスにとっては、どんな宝石よりも尊く、気高い輝きを放っていた。

「あの日、雪山で貴方を失いかけた時……私が本当に恐ろしかったのは、国が『聖王』を失うことではない。私の世界から、唯一の光である貴方が消えてしまうことだった。……私がこうして狂ったように貴方に固執しているのは、貴方を救うためではない」

 アルヴィスは、セシルの掌に自分の額を擦り付けた。
 騎士が、かつての主に、そして一人の男に、自分の弱さをすべて差し出すような、あまりに卑屈で、あまりに切実な仕草。

「私自身の魂が死なないために、貴方が必要なのだ。……貴方がいなければ、私はまた、血に塗れた無意味な鋼に戻ってしまう。だから、お願いだ、セシル。……私の人生を、貴方の存在を、私から奪わないでくれ」

 自分以上に自分のことを想い、自分を失うことを誰よりも恐れている男。
 セシルは、自分の手のひらに伝わるアルヴィスの熱い吐息と、かすかな震えを感じながら、愕然としていた。

 救われていたのは、自分だけではなかったのだ。 
 自分の存在が、この強い男の「生きる理由」そのものであったという、あまりにも重く、まばゆい真実。

「……アル、ヴィス……」

 セシルの声が、初めてアルヴィスの「本音」に呼応するように、微かに、けれど温かく震えた。
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