僕はあの子に蹴られて《結城編》

たぬき85

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最終章「あいとゆうき」

【結城】 24 時空の広場

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 結城は里菜の側頭部に拳銃を突きつけている。里菜は拳銃を構えて迫水の眉間を狙っている。迫水はアイの首に装着された起爆装置のスイッチを握っている。アイはガラスの向こうの鉄柵にもたれかかって、こちらに背を向けて立っている。

 誰も動かないまま、一分程が経過した。

 結城はキリンジと撫子が自分を取り押さえないことを意外に思っていた。二人は里菜からの指示を待っているのかも知れない。あるいは均衡が崩れる瞬間を待っているのか。

 極度の緊張から、結城の呼吸は浅く、速くなっていた。立って銃を構えているだけだというのに、全力疾走した人間のように息を荒くしていた。
 銃口の位置が下がりそうになるが、腕に力を入れて耐えた。
 だが、このままでは銃をホールドできなくなるかもしれない。

 里菜はそれを待っているのだと結城は気付いた。拳銃の重さは1キロもないぐらいだが、極限状態で素人が構え続けるのは無理があるのだ。

 結城が拳銃を下ろした瞬間、里菜はどうするだろうか。
 迫水の頭を吹き飛ばすのだろうか。
 だが、それと同時にアイの首の爆薬が――

 結城の焦りを打ち消すように、突然音楽が流れ始めた。
 建物の外から聞こえてきたのは「遠き山に日は落ちて」だった。午後六時を告げる町内放送だ。山と山の間に設置された幾つものスピーカーから、微妙にズレた状態で音楽が流れ続ける。ワンコーラスが随分と長く感じられた。ブツッという音が重なり合って、音楽は終わった。再び沈黙が戻って来る。

「タイムアップだな」

 ぽつりと迫水が呟く。そして、ふうと息を吐いた。

「タイムアップって何や」

 里菜は迫水に拳銃を向けたまま、冷たい声で問うた。

「質問に答えろ」

 横から結城に銃を突きつけられても、里菜は全く動揺していない。強固な殺しの意志が里菜の腕を支え続けている。それを正面から受け止めて、迫水は平然としていた。
 迫水は里菜の言葉を無視して、撫子に語り掛けた。

「浅倉撫子――先程は見事だったよ。適性に優れた『巫女』と『ボラード』との強固なリンクがあれば、UMAからのフィードバックさえ得られるということだな。UMAハイブリッドの改造人間は、君のような存在を理想に作られたのだろう。比べるのも哀れなほど、彼らはお粗末だが」

 何を言い出したのかと思ったら、それは称賛の言葉だった。
 迫水の言う通り、撫子の戦いぶりは見事だったが。だが、なぜ今そんな話をと思ったのは結城だけではなかっただろう。
 五人分のいぶかしげな視線を受けて、迫水は落胆したような声で続けた。

「本当は君を使いたかったよ。最初に描いていた計画通りにね。だが、時間切れらしい。君と岩田屋の神の結びつきも、想像以上に強いようだしな」

 その言葉を耳にした瞬間、結城は――いや、その場にいる全員が――悟った。

 
 
 いつの間にかガラスの壁を叩き続けていた暴風雨がぴたりと止んでいた。

 結城たちがいる研究所兼工場から見下ろす位置にあるダム湖の茶色い湖面も、まるで制止画のように静まり返っている。空白の時間。おそらく里菜やキリンジ、撫子は、迫水の次の行動を読んで動き出そうとしたはずだ。そんな刹那の空隙くうげきに、迫水のぬるりとした言葉が差し込まれる。

「来るぞ――神獣の卵だ」

 山々から、無数のカラスが一斉に飛び立ち――
 ダム湖の水面が、爆破されたように弾けた。結城たちがいる建物の最上階よりも、さらに高い水柱が上がる。一秒遅れの衝撃波が、展望室のガラスの壁を襲った。建物ごと揺さぶられる。

「アイ!」

 全身が総毛立つ思いで、結城は絶叫した。アイはなんとか柵に捕まって耐えていた。だが、今にも滑り落ちそうだった。自分たちがいるこの展望室だか会議室だかが、地上何階なのかは知らないが、落ちれば確実に命はない。

 里菜に銃を突きつけている場合ではない。だが、起爆装置はまだ迫水の手の中だ。結城は歯噛みした。アイに目をやって、もう少しだけ待っていてくれと祈る。
 アイは人形のように鉄柵に手を絡めてその場に立っていた。

 そのアイの向こう側の空間に、異様なものが浮かんでいた。

 50メートルはあろうかという巨大な黒い球体が、空中でゆっくりと回転していた。現実離れした――というのも、もはや馬鹿馬鹿しいが――光景だった。結城は迫水の言葉を思い出す。神獣の卵?
 
「彼女を『巫女』として、儀式を始める」

 迫水はまるで儀式を取り仕切る神官のように、厳粛な声で宣言した。
 彼女とはアイのことだろう。結城は今すぐに拳銃の狙いを迫水に変えて、その頭を吹き飛ばしたい衝動に駆られた。

「神獣の域に達したUMAを野に放って何の意味があんねん!」

 里菜が舌打ちする。彼女の拳銃こそ、今にも火を吹きそうだった。
 そんな里菜の怒声を、迫水はどうということもなく受け流す。

「野に放つ? 馬鹿を言え。私がどうやってエメラ・ントゥカを従えていたと思っている」

 迫水の哄笑がホールに響き渡った。
 狂気を孕んだその目の奥に、不気味な輝きを放つ何かがあった。
 迫水の右の瞳に、金色に光る物体が埋まっている。

「ソロモンの指輪か!」

 気付いた里菜が目を見開く。

「その通り。君達のボスである沖田総一郎も血眼ちまなこになって探していた逸品だ」

 迫水の目が、妖しく黄金色に輝く。眼球の中に指輪がそのまま埋まっているらしかった。

「この指輪の力を用いれば、どんな動物とでも言葉をかわすことができ、どんな強大な魔神であっても使役することができる――まさに伝説の通りだよ。もともとは地下大陸から流出したモノの一つだろうがな」

 指輪の説明は何一つ分からないが、奥歯を噛み締めている里菜の横顔を見れば分かることが一つある。形勢は一気に逆転したのだ。
 迫水はただ時間が過ぎるのを――UMAの卵の準備が整うのを――待っていただけなのだろう。優れた『巫女』である撫子が手に入らなければ、のらりくらりと時間を稼いで、アイを『巫女』として儀式を始めるつもりだったのだ。

 漆黒の卵は悠々と回転を続けている。

 ぐらりと建物が揺らいだ。不可視の力の奔流が、卵を中心に暴れ狂っているのだ。ダム湖の水面は波立ち、山の木々もざわついている。
 卵の状態でこれなら、孵化した時にはどんな恐ろしいことになるのだろう。
 そしてその恐ろしい獣は、『巫女』であるアイに何をするのだろう。

 結城はアイを凝視した。
 アイはこちらに背中を向けて、黒い卵を見上げている。
 一体彼女は今何を思っているのか。そもそも、正気なのかも分からない。

 絶望的な空気が結城達五人の間に流れ始める。里菜は今すぐにでも迫水を撃ち殺したいだろうが、起爆装置が迫水の手の中に握られている以上、結城も銃を下ろすわけにはいかなかった。

「父さん」

 声を上げたのは光だった。父親を止める最後のチャンスだと思ったのかも知れない。その震える声には、様々な意味が込められているように思われた。だが――

「私とミハネの新世界に、お前の居場所はない」

 迫水は息子の言葉を踏みにじると、声を上げて笑い始めた。
 野望に取り憑かれたこの男にとっては、息子などもはや路傍の石に過ぎないのだろう。光は沈黙した。結城の位置からは見えないが、悲しみを押し殺しているのだろう。

 親子の情でも止められないのなら、一体どうすれば迫水を止められるのか。
 そして、この狂った男にアイの生殺与奪が握られているという現実が結城を追い詰める。アイを『巫女』として使うのなら殺しはすまい――というのは希望的観測に過ぎない。撫子が目の前にいる以上、どんな風にアイを扱うかはむしろ読めなかった。

 結城は自分の身体が苦しさの塊になっていくような錯覚を覚えた。拳銃を支える腕は、もはや限界を迎えようとしている。里菜の横顔に突きつけた銃口は小刻みに揺れていた。

 どうする? どうすればいい?

 勇んで里菜に拳銃を突きつけた。それでも結果として、アイを守ることができていない。血で血を洗う修羅場で自分の意志を具現化する道具だと思っていた拳銃は、ただ結城を隘路あいろに追い詰めただけだった。

 結城は――もう何度目か分からないが――自分の弱さを呪った。

 そして、そんな結城の心臓に、光がナイフ程の大きさのガラス片を突き立てた。

「えっ?」

 間の抜けた声だと、自分でも思った。光が接近してきたことなど、毛ほども察知できなかった。なぜという思いよりも、あ、こういう時って痛くないんだなという不思議な納得感が脳裏をよぎっていた。

 こんな風に死ぬのか。

 身体から力が抜けて、ゆっくり、ゆっくりと仰向けに倒れていく。
 手からずるりと拳銃が滑り落ちる。
 耳の奥で砂浜から波が引いていくようなノイズが聞こえた。

 その音を遮るように、発砲音が響く。

 里菜が迫水を撃ったのだ。

 そうか、そういう結末か――と、遠退いていく意識の中で結城は思った。
 アイの顔を最後に一目見たかった。
 それを目に焼き付けて逝きたかった――

 背中が地面に叩きつけられる衝撃は、まったく詩的なものではなかった。衝撃は衝撃に過ぎず、ただただ痛い。ゲッと息が漏れる。そして我に返る。

 自分は死んでいない。

 床に叩きつけられた痛みで、意識はむしろはっきりした。

 。光は結城がそれをポケットに仕舞うところを見ていたのだ。

 光は結城を刺すことで膠着こうちゃくした状況を動かした。そして、里菜の射撃による決着を望んだということだろう。里菜ならば、僅かな隙で確実に迫水を仕留められる。

 はずだったのだが。

「この距離で外すとは、らしくないんじゃないか」

 挑発的な声がする方に首を向けると、迫水のニヤついた顔が目に映った。
 迫水は生きている。里菜が外したのだ。あの里菜が……!
 
「その対UMAスーツ、何時間も身につけていられるものじゃないだろう。訓練を受けた軍人でさえ連続使用の上限は、たったの一時間だ」

 里菜は半日近くあのスーツを着用し続けている。不吉な予感を胸に、結城は目の前に立っている光の身体を押しのけて里菜の方に視線を向けた。

 里菜は笑っていた――両目から血の涙を流して。

「根性が違うんや! 一般人とはなァ!」

 強がり以外の何物でもない言葉を吐いて、里菜は立て続けに発砲した。だが、迫水を捉えられない。里菜の肉体が限界なのは誰の目にも明らかだった。光がガラス片を迫水に投げつけるが、それも当たらない。結城も取り落とした拳銃を拾い上げ、その銃口を当てずっぽうに迫水の方に向けた。

「もう遅い」

 結城が銃の引き金を引く前に、迫水は起爆装置のスイッチを床に投げ捨てた。それを見た結城は呼吸が止まりそうになる。だが、爆発は起こらなかった。装置をオフにしたということなのだろう。先程の言葉通り、迫水はアイを『巫女』として利用するつもりなのだ。

 迫水はガラスの壁越しに巨大な卵を仰ぎ見た。

「神の獣の誕生だ!」

 次の瞬間、、と世界そのものが割れるような音がした。
 
 卵に亀裂が入り、中から虹色の光が放たれる。黒い殻が、卵の中からの衝撃で砕かれていく。巨大な破片がダム湖の湖面に落下して水柱を上げる。

 そして、卵の頂点を内側から貫いて、長く鋭い一本の角ユニコーンが現れた。

 次の瞬間、かつて結城が耳にしたあの不気味な音が辺りに轟いた。
 巨大な金属を擦り合わせるような、あるいは何かの悲鳴のような音。
 終末の音アポカリプティックサウンドを産声にして、黒い卵から神代の獣が誕生する。

 全ての殻がダム湖に沈み、姿を現したのは――あまりにも巨大な――黒いユニコーンだった。

 ユニコーンは蹄のついた長い四本の足をゆっくりと動かしながら宙に浮いている。

「デカすぎる」

 キリンジが呟くのが耳に入った。
 実際、ユニコーンの大きさは常軌を逸していた。
 空中に浮いているから正確には分からないが、エメラ・ントゥカが子ガメに思えるぐらいのサイズだ。結城たちがいる建物よりも確実に大きいだろう。

 全員が金縛りにあったように動けない中で、

「やれ!!!! 守田ァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

と里菜が叫んだ。それは合図というよりは、誰かを鼓舞するような声だった。

 反応は様々だった。結城と光は一体何のことかと疑問符を浮かべ、キリンジと撫子は目を丸くし、そして迫水は――眉根にしわを寄せて舌打ちした。

 唐突にユニコーンの角が発光した。カメラのフラッシュのような一瞬の輝きだった。その白い光が結城らの目に焼き付いている間に、爆発は起きた。
 ユニコーンの頭上で、光と音と衝撃が炸裂した。
 爆心が地上だったならば、山さえ吹き飛びそうな凄まじい爆発だった。

 結城は本能的に息を止めて目を閉じた。
 建物が倒壊するかと思う程の揺れで結城は床に転倒した。ガラスが砕ける音と共に衝撃波がホールを通り抜けた。
 破壊の余韻が去ったのは数秒後だった。
 土埃の匂いを感じながら、結城はガラス片をふるい落として上半身を起こした。目を開いてまず確認したのはアイの安否だった。結城、光、撫子を守るように大の字になって立っている里菜の尻越しに、鉄柵に引っ掛かるように倒れているアイの姿が目に入った。ぴくりとも動かないアイの身体を見て、結城の首元を冷たいものが通り抜けた。

 ――嘘だよな。

 結城の手はわなわなと震えた。その手をアイの方に伸ばし、宙にさまよわせる。

「インフィニット・アンチ・リバース――人工的に再現したUMA。その投擲による攻撃がお前たちの切り札か。完全に顕現する前に潰すという算段だったのだろうが――まあ、残念だったな」

 迫水が得意気に笑っているが、結城の目には入らなかった。
 先程の爆発は、誰か――おそらく里菜が守田と呼んだ人間――の攻撃をユニコーンが何らかの方法で迎撃して防いだということだったらしい。

 ユニコーンは地上に降り立つと、その巨体を揺らしながら地響きを立ててこちらに向かってきた。一本角の巨大な馬の怪物は木々を薙ぎ倒し、あっという間に結城らがいる建物の目の前までやってきた。

「見たら駄目!」

 何かに気づいたように撫子が叫ぶ。

「さすが『巫女』、よくご存知で。だが見てのとおりまだ外殻さえ不安定でね、目撃者に『烙印』を刻める程の確固たる情報構造は持ち合わせていないんだよ」

 外殻が不安定――
 その言葉が意味するところを結城はすぐに理解した。

 建物の目の前に立ってこちらを覗き込んでいるユニコーンには、顔がなかった。

 ユニコーンの首から上は、うごめく肉の塊でしかなかった。確固たる形を持つのはその長い角だけで、目も鼻も口もない。本来それらがあるべき場所では、黒い泥のような不定形の肉が渦を巻きながら脈動している。

 生まれたばかりの巨大なUMAは、未だ存在しない眼球で、人間たちをじっと見つめているのだった。

 結城は唾を飲み込む。眼前に広がっているのは、高熱にうなされた時に見る夢でももう少しマシだろうという光景だった。音を立てて形状を変え続ける肉の動きを見ているだけで、結城は発狂してしまいそうだった。腐敗した肉にたかる蛆虫の群れを見せられ続けているような、そんな気分だった。生理的な嫌悪感は頂点に達し、寒気さむけとなって結城を襲った。

 身体を戦慄わななかせる結城の目の前で、ユニコーンはその鼻先にあたる部分を、倒れているアイに近づけた。それを見た瞬間、結城の心から恐怖も嫌悪も吹き飛んでいた。

「彼女が気に入ったようだな。本来は処女にしかなつかないユニコーンが、娼婦に懐くというのも面白い話だ。なあ、結城君?」

 迫水の挑発的な戯言など結城の耳には全く届かなかった。結城は跳ねるように立ち上がると、アイの方に向かって走り出した。ユニコーンの名状しがたい顔面が目の前に迫るが、恐怖を感じる脳の機能が麻痺していた。

 ユニコーンの顔が近づいたからかは分からないが、アイは身体を起こした。アイは生きている。その事実が結城の胸を熱くした。結城を止める者はいない。里菜はその場に立ち尽くし、迫水は静観している。結城はガラス片が散乱したホールを、アイの名前を叫びながら疾風のように駆け抜けた。

「アイ! こっちだ! アイ!」

 倒れ込むようにアイの目の前まで辿り着く。ガラス壁の向こう側にアイの後ろ姿があった。アイは落下防止の鉄柵に、もたれかかるように立っていた。アイの小さな背中越しには、吐き気を催すような波立つ黒い肉の壁が見える。
 
 破れたガラスの壁の穴から結城は手を伸ばした。勢いのあまりガラスの断面に触れて腕からは血が吹き出す。それでも痛みなど感じなかった。
 
「聞こえないのか! アイ!」

 何度も触れた栗色の髪が、指先からあと少しのところにある。だが、どれだけ腕を伸ばしても触れられない。この世界で一番大切な人が、目の前にいるのに。

「帰ろうアイ! 俺達の部屋に!」

 アイはすぐそこにいる。
 だと言うのに、結城の手はアイに触れることができない。結城は素手でガラスを掴んで穴を乗り越えようとした。指が切り裂かれるだけで、身体は穴を通り抜けられない。結城の目から涙があふれた。もがくように手を伸ばす。

 哀願のような結城の声だけが辺りに響いた。
 アイの耳には、結城の言葉が届いていないかのようだった。
 アイはただまっすぐに目の前に迫ったユニコーンの顔を見つめている。

「アイ!!!!」

 自らの全存在をしぼり出すような声だった。
 それを発した瞬間、結城の視界はブラックアウトした。

 
 結城が次に目を開けると、そこは梅田駅だった。
 梅田駅の五階にある広場――その南端に設置された銀色の時計台の足元に結城は立っていた。

「――えっ」

 呆然として呟く。不自然な遷移に脳が混乱していた。
 周囲を見渡す。ここは間違いなく、宝塚記念の日にアイと二人で訪れたあの広場だった。広場の下にはホームがあって、いくつもの電車が停車している。
 時刻は夜らしく、広場に設置された小規模なイルミネーションが輝いて見えた。
 エアポケットにでもまったように、広場には人気ひとけがない。
 それも、あの時のままだ。
 そう、あの時――

 自分はアイに「好きだ」という言葉を伝えられなかったのだと、結城は思い出した。

「アイ?」

 アイが立っていた。
 アイはこちらに背中を見せて、広場の北端にある金色のレトロなデザインの時計台の下に立っている。支柱にもたれるでもなく、ただその場に佇んでいる。
 結城は銀色の時計の足元から離れると、歩みを進めて広場の中程まで来た。

「アイ、帰ろう」

 その背中に呼びかける。
 しかし、アイはこちらを振り返りもしない。

「俺はアイにそばにいて欲しいんだ。そのためなら俺は――」

 結城の手にはいつの間にか拳銃が握られていた。
 そのためなら俺は――この銃で人を殺すことだってできるって?
 ぞっとして結城は拳銃を手放す。拳銃は地面に落ちる寸前に、溶けるように虚空に消えた。

「俺はアイの隣にいたいんだよ」

 そして、アイに抱かれて眠りたいのだ。
 それだけを胸に、死ぬ思いをしてここまで来た。
 だが、アイからの返答はない。

 結城は恐怖に駆られ始めた。
 それはどんな化け物と相対あいたいした時とも違う恐怖だ。

「――アイ」

 こちらに背を向けて立っているアイの栗色の髪を見つめる。
 今アイはどんな表情をしているのだろうか。
 結城の中で、それを見たいという気持ちよりも、見たくないという気持ちが大きくなりかけていた。なぜなら。

 アイはもしかすると、結城の元には戻りたくないのかもしれない。

 頭の中で形を結んだその言葉が、刃物のように結城の胸を切り裂いていった。
 結城の頭の中に、岩田屋駅でアイが泣きじゃくっていたときの記憶がよみがえった。

 ――ゆーきくん、ごめん。本当に……ごめん。私、ゆーきくんに、言わないといけないことが……たくさんある。私は、嘘つき……だから――

 ぼろぼろ涙を流すアイの姿と共に、彼女が途切れ途切れに紡いだ言葉を思い出す。
 その内容を噛み締めながら、結城は言葉を失う。
 自分はアイの、本当に深い部分には手を伸ばさずにいた。ずっと。
 アイが目の前にいてくれることにだけ目を向けて、アイが本当は何者なのかを知ろうとしていなかった。アイはなぜあの時、一度背を向けたはずの結城のもとに来てくれたのだろう。自分はアイのことを何も分かっていない。

「――だからなのか、アイ」

 金色の時計の下にいるアイは何も答えなかった。


 そして――
 結城が次に目を開けた時。

 アイは、黒い肉が蠢動しゅんどうするユニコーンの顔面に身を投げていた。

 今度こそ本当に、結城の意識は断たれた。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 無力感を味わわされ続けるのが、自分の人生なのかもしれない。

 結城は涙と共に目覚めた。
 ベッドの枕元にはキリンジが立っていた。

「よかった、結城さん――どうした? 泣いているのか?」

「いや、大丈夫だ」

 結城は涙を乱雑に拭うと上半身を起こした。
 実際には何も大丈夫ではないが、自分が泣いていた理由をキリンジに説明することはできないだろう。いろいろな意味で。
 足元の位置に、ブラックのスーツを着た黒人の男が立っていた。たしか、グロッサーヒューゲル社のセキュリティ部門の者――だったか。

「寝起きで悪いが話をさせてもらいたい」

 男は流暢な日本語で言った。

「あの黒いユニコーンを殺す方法についてだ」

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