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第二章「彼女はアイドル」
【光】07 私の獲物
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転校二日目にして、光に話しかけてくるクラスメイトはシュウだけになっていた。
あんなことがあった以上、女子全員から無視されているのは当然として、シュウ以外の男子も腫れ物扱いで光に近寄ろうとしなかった。
午後の岩田屋高校二年一組の教室である。学期末の特別時間割で、昨日と同じく六時間目はロングホームルームだった。
窓際の列の最後尾に座っている光は、教壇に立って話すビーグル犬のような髪型の担任の声に耳を傾けている―—ように見える。
「――ということでだ、二学期の文化祭に向けてクラスの出し物を―—」
随分先の話をしているんだなぁと他人事のように光は思った。ビーグル犬の話は右の耳から入って、左の耳から抜けていっている。目の粗いザルで濾したように、断片的な情報だけが脳みそに残っていく。
視線を教壇からもっと手前に寄せると、目の前にシュウの後頭部がある。頬杖をついてビーグル犬の話を聞いているシュウの頭は傾いていた。もしかしたら寝ているのかもしれない。
隣の席に視線を移すと『町内最強のセイブツ』にして二年一組の学級委員長である浅倉撫子の横顔がそこにある。
撫子は前を向いて真面目にビーグル犬の話を聞いていた。
黒く染めたシルクのような長い髪。意志の強さを隠せない瞳。真っ直ぐ通った鼻筋と、その下にある柔らかそうな唇。顎から首にかけてのラインは、透明感のある白い肌と相まって繊細な飴細工のようだった。
光は素直に美人だなと思った。
その美人が光の視線に気づいたらしく、ちらりとこちらを見た。
これぞまさに一瞥――という感じで一瞬だけ光の顔を見た撫子は、すっと目を細めるとふんと鼻を鳴らしてまたビーグル犬のほうに向き直った。
「ではここからは委員長に任せる。私は職員室にいるから、話し合いが終わったら呼びに来るように」
と言い残してビーグル犬は教室から去っていった。その瞬間、わっと教室中の至るところでおしゃべりが始まった。
文化祭に向けての話し合いをするということらしい。
えーどうしよー?なにするー?クラスTシャツはー?と女子たちが目を輝かせている。
撫子はすっと席を立つと黒板の前まで移動した。
「みんな聞いて」
よく通る声でクラス全体に呼びかける。
てっきり文化祭に関する話し合いが始まるものかと思ったが。
「昨日のことなんだけど」
その瞬間、教室中のおしゃべりが一斉に止んで、水を打ったような静けさが訪れた。
昨日のこととはもちろん、例の光の『暴言』の件だろう。
男子も女子も、クラス全員が撫子に注目する。
当事者である撫子が、一体何を語るというのか。表面上、クラス内では昨日のことは「なかったこと」になっていた。誰も―—少なくとも撫子の前では―—話題にしなかったし、光が転校してきたという事実ごと、全員の記憶から消滅したかのような扱いだった。
なぜわざわざそれを、言われた当人が蒸し返すのか。
光も突然のことであっけにとられている。
もちろん、撫子からは何も聞かされていない。
改めてここで『処刑』されるということなのだろうか。
「まず、昨日浜岡君が言ったことは全部デタラメだから」
まあ、それはそう言うしかないだろう。光が言ったことは事実だとも、偽りだともこの場では言えまい。そもそも言う必要がない。
「で、浜岡君なんだけど」
ここで撫子が光を見た。
それにつられてクラス全員の視線も光に集中した。
光は好奇と侮蔑が入り混じった、形容しがたい視線の雨を浴びた。
「昨日彼自身が言っていた通り、彼は『言ってはいけないこと』をなぜか言ってしまう、癖みたいなものがあるらしいの」
光は昨日の自分がしどろもどろになって紡いだ言葉を思い出していた。正確には癖ではない。だが、もう一人の『僕』云々よりも、癖の一言で片付けたほうがクラスの人間には分かりやすいだろう。
「これは完全に、本人の意思とは無関係に口にしてしまうものらしいわ。そのことに浜岡君自身も困っているみたいなの。――そうでしょ?」
「――」
突然話を振られて光は反応できなかった。だが、三秒後になんとか首をガクガク縦に振って撫子の言葉を肯定した。
「だからね、もしみんなが浜岡君に何か嫌なことを言われたとしたら、それを私に教えてほしいの。私がクラスを代表して浜岡君と話すから」
教室にざわめきが広がった。
「浜岡君を仲間外れにしたり、おもしろおかしく扱ったりするのもなしにしましょう。私は昨日のことは何も気にしてないから。むしろ浜岡君が大変だってことが分かってよかったぐらいよ」
矛先が向いたのが私でよかった、という言い方だった。
光の喉の奥から、何か熱いものが込み上げてきた。
撫子のふるまいは、学級委員長として―—というより“強者”として―—正しい。弱いもの全員の過ちを、自分が背負うという態度だった。
だがそんな正しさが、正しいのか。
「浜岡君も東京から引っ越してきていきなりこんなことになってつらいわよ。クラスのみんなで支え合っていきましょう。これは私の委員長としてのお願いよ。どう、みんな?」
どうもこうもなく、クラス全員がまた撫子の方に視線を向けて、呆けたように固まっている。反論する人間などいようはずもなかった。
光は立ち上がった。
椅子が思ったより大きな音を立ててしまったので、全員の注目が再び光に集まった。
立ち上がったはいいが、光は何を言えばいいのかわからなかった。言葉未満の気持ちが、喉の下のあたりでぐるぐると渦巻いているだけだった。
感謝の言葉を口にすべきなのか。まず何よりも謝罪か。撫子に何か伝えるべきなのか。クラス全体に言うべきか。
集中する視線の中で光が口にしたのは、
「演説ありがとよ委員長。お言葉に甘えて今後は好きなこと言わせてもらうわ」
という、もう一人の自分が吐き捨てた一言だった。違うんだと訂正しようとした光よりも先に、まったく顔色を変えずにそれを聞いていた撫子が言った。
「―—と、いうことよ。これは私の取り扱い案件ってことで、いいわよね?」
クラス全員の沈黙が、撫子の言葉を肯定していた。
以上のような顛末をシュウが忍に説明したのは、部室棟―—校舎裏にある旧校舎がそう呼ばれている―—にある、アイドル研究部の部室でだった。
教室をパーティションで四つに割って作られた狭い空間だった。真ん中に長机が二つくっつけて置いてあって、その机を囲むように四つのパイプ椅子が並んでいた。忍が部室の奥の右側の椅子に座っており、入り口側の二つに光とシュウが向かい合うように座っていた。
「なるほどでござる」
昨日と変わらぬ赤バンダナスタイルの忍が頷いた。
「いやあ、すげえよな浅倉も。ようは私刑はするな、こいつは私の獲物だって宣言だぜ。自分が直々に処理するから、手出し無用って」
ブルブルと震えるような真似をしてシュウが言った。
「私以外の人間は光殿に触るなよということでござるな」
「昨日、忍は浅倉のことアイドルとか言ってたけど、俺にはアイドルというよりは女王に見えるぜ。ありゃ猛獣の群れのリーダーだよ」
いやいや浅倉殿はアイドルでござるよと言う忍の背後の棚には、ずらりとアイドルのライブDVDが並んでいた。足元には芸能雑誌も積みあがっている。
結局昨日、撫子は光を殴ることなく帰っていった。忍が語る理屈を全く信じないまま、一言「馬鹿馬鹿しい」とだけ言い残して。
ただ、去り際に光の目をじっと見ていたので何か言いたいことはあったのだろう。
そう思っていたら、先ほどのアレである。
光は少しどころでなく混乱していた。
「委員長としての義務感からなんだろうけど、あんなこと言ったら、ますます浅倉さんが孤立しないかな」
「浅倉が孤立ゥ?」
光の言葉を聞いたシュウが素っ頓狂な声を上げた。
「あのな、光は知らないかもしれないけど、浅倉は超人気者だぞ。クラスでも、というか学校全体でも。いつも女子に囲まれてるし、先生受けも最高だし。密かにファンクラブまであるぐらいだからな。嫌ってるのは昨日のあいつらみたいなヤンキーぐらいで」
「うーん」
そう聞くと、撫子は人気者のように思える。だが、光が言いたいのはそういうことではなかった。周りに人がいることと、当人が孤独であることには、何の関係もないのだ。
「光殿には、浅倉殿がそう見えているということでござるよ」
忍がシュウに言った。
「なるほどねぇ。光の母ちゃんは伝説のアイドルだもんな。もしかしたら俺たち余人には見えない何かが見えてるってことなのか」
「アイドルの子供だから他の人とは違う何かが見えるってことはないと思うけど……それに、僕の母さん、僕を産んですぐに亡くなってるんだ」
光の言葉を聞いて、シュウは絶句した。目を見開いて固まっている。
光はもう少し言うタイミングと言い方を考えるべきだったかもしれないと胸中で後悔した。そこまで衝撃的な情報だと自分では思っていなかったが、聞かされた側の感じ方をもっと想像すべきだった。
ただ、事実は一つなのだ。
浜岡光の母親である浜岡ミハネは、光を産んですぐにこの世を去っている。光は生きた母親の記憶など何も持っていないのだった。
シュウは何を言うべきか迷ったのだろうが、それでも声を絞りだして、
「ごめん光。そんなことだと知らずに……」
とだけ言った。
「いや、僕も物心つく前のことだから全然実感ないんだよ。気づいたらいなかったし。僕も写真と動画でしか母さんのこと知らないんだ」
突然跳ね飛ぶように。
「光殿ッッッッッッ」
忍が床に這いつくばった。
土下座だった。
「何も知らなかったとはいえ、拙者はなんと無神経なことを言ってしまったのでござろうか……本当に申し訳ないでござる!」
涙声で顔を地面にこすりつけている。
「い、いいよ忍君。そんなことしないで顔を上げてよ」
光が促すと土下座の姿勢のまま、忍は顔を上げた。
「何かの秘密を暴いたかのように得意気になって、光殿の気持ちやプライバシーのことなど何も考えていなかったでござる。まさか光殿の母君が亡くなっておられるとは……光殿、本当に申し訳ないっ……!」
忍はまた顔を地面にこすりつけた。
「知らなかったのも無理ないよ忍君。母さんが亡くなったことは芸能関係者でも知ってる人はいないと思うから…… それよりも、忍君が母さんのことを知ってるってことに驚いたよ。本当にアイドルが好きなんだね」
座ってよ、と光が言うと、忍はまたパイプ椅子に座り直した。
何も言わずに俯いている忍からは、深く反省している様子がありありと伝わってきた。
「気にしないで、忍君」
「優しいでござるな、光殿は。さすが誰よりもファンを大事にした浜岡ミハネさんのご子息でござる。でも、もう一回言わせてほしいでござる。光殿、本当に申し訳ない―—」
『誰よりもファン思いの浜岡ミハネ』――母について調べると、至る所で出会う文句だった。本当にそうだったのかは、光は知らない。光は椅子から立ち上がり、うなだれる忍の肩をぽんぽんと叩いた。
「―—まあ、実際光は優しいと思うぜ」
忍の言葉に遅れて相槌を打ったのはシュウだった。
「なんてったって、この俺のことかっこいいって言ってくれたからな! ハハハハハ!」
自分の顔を親指で示しながら、シュウはおどけた。
「いや、シュウはかっこいいって」
実際光はそう思っているのだが、ただただフォローするような言い方にになってしまった。光は昨日、部室棟前に助けに来てくれたときのシュウのことを思い出していた。
「拙者はそうは思わんでござる」
忍はあっけらかんと言い放つ。
「おい忍! そこは流れ的にかっこいいって言えよ!」
シュウが抗議するが。
「光殿の優しさはあたかも太陽の如きでござるな」
忍はシュウの抗議を無視してうんうんと深く頷くだけだった。
光は場の空気がゆっくりと和んでいくのを感じた。沈んだままの空気にならなくてよかったと安堵する。
「でもよ、そんな優しい光の口からとんでもない『暴言』が飛び出すからみんなびっくりするんだよな、きっと」
シュウが腕組みをして光を見た。もう一人の自分が放つ『暴言』は、普段の自分とはまるで違うキャラクターだから周囲を驚かせる。それは光も自覚していた。
「例の浅倉がパ〇パンだっていうデタラメも、絶対普段の光が言わなそうなことだもんな」
「確かにそうでござるな」
「あー……」
どうやら二人とも、例の件に関しては光が適当なことを言っただけだと思っているらしい。
「おい、光。なんだよその微妙な間は。お前、まさか―—」
「まさか、光殿―—」
曖昧な表情の光に向かって、二人が身を乗り出す。
「見たのかよ」
シュウがごくりと唾を飲み込む。なんとなく言い逃れできない気がしたので光は正直に話すことにした。この二人なら、他の人間に漏らすことはあるまい。そう信じて二人だけに聞こえるほどの小声で言った。
「実は登校するときに偶然スカートがめくれあがるところを見ちゃったんだ」
シュウと忍は、その場で銅像にでもなったかのように動きを止めた。この情報をどう取り扱うか、脳が慎重に判断しているのだろう。もし取り扱いを間違えれば―—
「フッ―—光、その光景は墓場まで持っていけよ」
遠くを見るような瞳でシュウが微笑みながら言った。「俺も見たかったぜ」という軽口すら叩けなかったようだ。
「でも、忍はこういうの知りたくなかったんじゃないか? 浅倉のことアイドル視してるんだったらよ」
シュウが忍を見る。確かにそうだ。アイドルを神聖視し、性的な話題を嫌うファンも多い。
「心配ご無用でござる! 拙者、AVデビューしたアイドルのエロ動画でもガンガン抜けるタイプ! それが拙者のアイドル博愛主義でござる!」
とんでもねえことを言う忍であった。
そこに、
「―—こんなところにいたのね」
「「「うわあああああああああああああああああああああああ」」」
部室のドアをノックもなしに開けた撫子の顔を見た瞬間、三人はテロリストの襲撃を受けた兵士のように地面に身体を投げ出していた。
「何やってるのよ」
呆れたように呟く撫子の顔を、三人はしばらく見られなかった。
あんなことがあった以上、女子全員から無視されているのは当然として、シュウ以外の男子も腫れ物扱いで光に近寄ろうとしなかった。
午後の岩田屋高校二年一組の教室である。学期末の特別時間割で、昨日と同じく六時間目はロングホームルームだった。
窓際の列の最後尾に座っている光は、教壇に立って話すビーグル犬のような髪型の担任の声に耳を傾けている―—ように見える。
「――ということでだ、二学期の文化祭に向けてクラスの出し物を―—」
随分先の話をしているんだなぁと他人事のように光は思った。ビーグル犬の話は右の耳から入って、左の耳から抜けていっている。目の粗いザルで濾したように、断片的な情報だけが脳みそに残っていく。
視線を教壇からもっと手前に寄せると、目の前にシュウの後頭部がある。頬杖をついてビーグル犬の話を聞いているシュウの頭は傾いていた。もしかしたら寝ているのかもしれない。
隣の席に視線を移すと『町内最強のセイブツ』にして二年一組の学級委員長である浅倉撫子の横顔がそこにある。
撫子は前を向いて真面目にビーグル犬の話を聞いていた。
黒く染めたシルクのような長い髪。意志の強さを隠せない瞳。真っ直ぐ通った鼻筋と、その下にある柔らかそうな唇。顎から首にかけてのラインは、透明感のある白い肌と相まって繊細な飴細工のようだった。
光は素直に美人だなと思った。
その美人が光の視線に気づいたらしく、ちらりとこちらを見た。
これぞまさに一瞥――という感じで一瞬だけ光の顔を見た撫子は、すっと目を細めるとふんと鼻を鳴らしてまたビーグル犬のほうに向き直った。
「ではここからは委員長に任せる。私は職員室にいるから、話し合いが終わったら呼びに来るように」
と言い残してビーグル犬は教室から去っていった。その瞬間、わっと教室中の至るところでおしゃべりが始まった。
文化祭に向けての話し合いをするということらしい。
えーどうしよー?なにするー?クラスTシャツはー?と女子たちが目を輝かせている。
撫子はすっと席を立つと黒板の前まで移動した。
「みんな聞いて」
よく通る声でクラス全体に呼びかける。
てっきり文化祭に関する話し合いが始まるものかと思ったが。
「昨日のことなんだけど」
その瞬間、教室中のおしゃべりが一斉に止んで、水を打ったような静けさが訪れた。
昨日のこととはもちろん、例の光の『暴言』の件だろう。
男子も女子も、クラス全員が撫子に注目する。
当事者である撫子が、一体何を語るというのか。表面上、クラス内では昨日のことは「なかったこと」になっていた。誰も―—少なくとも撫子の前では―—話題にしなかったし、光が転校してきたという事実ごと、全員の記憶から消滅したかのような扱いだった。
なぜわざわざそれを、言われた当人が蒸し返すのか。
光も突然のことであっけにとられている。
もちろん、撫子からは何も聞かされていない。
改めてここで『処刑』されるということなのだろうか。
「まず、昨日浜岡君が言ったことは全部デタラメだから」
まあ、それはそう言うしかないだろう。光が言ったことは事実だとも、偽りだともこの場では言えまい。そもそも言う必要がない。
「で、浜岡君なんだけど」
ここで撫子が光を見た。
それにつられてクラス全員の視線も光に集中した。
光は好奇と侮蔑が入り混じった、形容しがたい視線の雨を浴びた。
「昨日彼自身が言っていた通り、彼は『言ってはいけないこと』をなぜか言ってしまう、癖みたいなものがあるらしいの」
光は昨日の自分がしどろもどろになって紡いだ言葉を思い出していた。正確には癖ではない。だが、もう一人の『僕』云々よりも、癖の一言で片付けたほうがクラスの人間には分かりやすいだろう。
「これは完全に、本人の意思とは無関係に口にしてしまうものらしいわ。そのことに浜岡君自身も困っているみたいなの。――そうでしょ?」
「――」
突然話を振られて光は反応できなかった。だが、三秒後になんとか首をガクガク縦に振って撫子の言葉を肯定した。
「だからね、もしみんなが浜岡君に何か嫌なことを言われたとしたら、それを私に教えてほしいの。私がクラスを代表して浜岡君と話すから」
教室にざわめきが広がった。
「浜岡君を仲間外れにしたり、おもしろおかしく扱ったりするのもなしにしましょう。私は昨日のことは何も気にしてないから。むしろ浜岡君が大変だってことが分かってよかったぐらいよ」
矛先が向いたのが私でよかった、という言い方だった。
光の喉の奥から、何か熱いものが込み上げてきた。
撫子のふるまいは、学級委員長として―—というより“強者”として―—正しい。弱いもの全員の過ちを、自分が背負うという態度だった。
だがそんな正しさが、正しいのか。
「浜岡君も東京から引っ越してきていきなりこんなことになってつらいわよ。クラスのみんなで支え合っていきましょう。これは私の委員長としてのお願いよ。どう、みんな?」
どうもこうもなく、クラス全員がまた撫子の方に視線を向けて、呆けたように固まっている。反論する人間などいようはずもなかった。
光は立ち上がった。
椅子が思ったより大きな音を立ててしまったので、全員の注目が再び光に集まった。
立ち上がったはいいが、光は何を言えばいいのかわからなかった。言葉未満の気持ちが、喉の下のあたりでぐるぐると渦巻いているだけだった。
感謝の言葉を口にすべきなのか。まず何よりも謝罪か。撫子に何か伝えるべきなのか。クラス全体に言うべきか。
集中する視線の中で光が口にしたのは、
「演説ありがとよ委員長。お言葉に甘えて今後は好きなこと言わせてもらうわ」
という、もう一人の自分が吐き捨てた一言だった。違うんだと訂正しようとした光よりも先に、まったく顔色を変えずにそれを聞いていた撫子が言った。
「―—と、いうことよ。これは私の取り扱い案件ってことで、いいわよね?」
クラス全員の沈黙が、撫子の言葉を肯定していた。
以上のような顛末をシュウが忍に説明したのは、部室棟―—校舎裏にある旧校舎がそう呼ばれている―—にある、アイドル研究部の部室でだった。
教室をパーティションで四つに割って作られた狭い空間だった。真ん中に長机が二つくっつけて置いてあって、その机を囲むように四つのパイプ椅子が並んでいた。忍が部室の奥の右側の椅子に座っており、入り口側の二つに光とシュウが向かい合うように座っていた。
「なるほどでござる」
昨日と変わらぬ赤バンダナスタイルの忍が頷いた。
「いやあ、すげえよな浅倉も。ようは私刑はするな、こいつは私の獲物だって宣言だぜ。自分が直々に処理するから、手出し無用って」
ブルブルと震えるような真似をしてシュウが言った。
「私以外の人間は光殿に触るなよということでござるな」
「昨日、忍は浅倉のことアイドルとか言ってたけど、俺にはアイドルというよりは女王に見えるぜ。ありゃ猛獣の群れのリーダーだよ」
いやいや浅倉殿はアイドルでござるよと言う忍の背後の棚には、ずらりとアイドルのライブDVDが並んでいた。足元には芸能雑誌も積みあがっている。
結局昨日、撫子は光を殴ることなく帰っていった。忍が語る理屈を全く信じないまま、一言「馬鹿馬鹿しい」とだけ言い残して。
ただ、去り際に光の目をじっと見ていたので何か言いたいことはあったのだろう。
そう思っていたら、先ほどのアレである。
光は少しどころでなく混乱していた。
「委員長としての義務感からなんだろうけど、あんなこと言ったら、ますます浅倉さんが孤立しないかな」
「浅倉が孤立ゥ?」
光の言葉を聞いたシュウが素っ頓狂な声を上げた。
「あのな、光は知らないかもしれないけど、浅倉は超人気者だぞ。クラスでも、というか学校全体でも。いつも女子に囲まれてるし、先生受けも最高だし。密かにファンクラブまであるぐらいだからな。嫌ってるのは昨日のあいつらみたいなヤンキーぐらいで」
「うーん」
そう聞くと、撫子は人気者のように思える。だが、光が言いたいのはそういうことではなかった。周りに人がいることと、当人が孤独であることには、何の関係もないのだ。
「光殿には、浅倉殿がそう見えているということでござるよ」
忍がシュウに言った。
「なるほどねぇ。光の母ちゃんは伝説のアイドルだもんな。もしかしたら俺たち余人には見えない何かが見えてるってことなのか」
「アイドルの子供だから他の人とは違う何かが見えるってことはないと思うけど……それに、僕の母さん、僕を産んですぐに亡くなってるんだ」
光の言葉を聞いて、シュウは絶句した。目を見開いて固まっている。
光はもう少し言うタイミングと言い方を考えるべきだったかもしれないと胸中で後悔した。そこまで衝撃的な情報だと自分では思っていなかったが、聞かされた側の感じ方をもっと想像すべきだった。
ただ、事実は一つなのだ。
浜岡光の母親である浜岡ミハネは、光を産んですぐにこの世を去っている。光は生きた母親の記憶など何も持っていないのだった。
シュウは何を言うべきか迷ったのだろうが、それでも声を絞りだして、
「ごめん光。そんなことだと知らずに……」
とだけ言った。
「いや、僕も物心つく前のことだから全然実感ないんだよ。気づいたらいなかったし。僕も写真と動画でしか母さんのこと知らないんだ」
突然跳ね飛ぶように。
「光殿ッッッッッッ」
忍が床に這いつくばった。
土下座だった。
「何も知らなかったとはいえ、拙者はなんと無神経なことを言ってしまったのでござろうか……本当に申し訳ないでござる!」
涙声で顔を地面にこすりつけている。
「い、いいよ忍君。そんなことしないで顔を上げてよ」
光が促すと土下座の姿勢のまま、忍は顔を上げた。
「何かの秘密を暴いたかのように得意気になって、光殿の気持ちやプライバシーのことなど何も考えていなかったでござる。まさか光殿の母君が亡くなっておられるとは……光殿、本当に申し訳ないっ……!」
忍はまた顔を地面にこすりつけた。
「知らなかったのも無理ないよ忍君。母さんが亡くなったことは芸能関係者でも知ってる人はいないと思うから…… それよりも、忍君が母さんのことを知ってるってことに驚いたよ。本当にアイドルが好きなんだね」
座ってよ、と光が言うと、忍はまたパイプ椅子に座り直した。
何も言わずに俯いている忍からは、深く反省している様子がありありと伝わってきた。
「気にしないで、忍君」
「優しいでござるな、光殿は。さすが誰よりもファンを大事にした浜岡ミハネさんのご子息でござる。でも、もう一回言わせてほしいでござる。光殿、本当に申し訳ない―—」
『誰よりもファン思いの浜岡ミハネ』――母について調べると、至る所で出会う文句だった。本当にそうだったのかは、光は知らない。光は椅子から立ち上がり、うなだれる忍の肩をぽんぽんと叩いた。
「―—まあ、実際光は優しいと思うぜ」
忍の言葉に遅れて相槌を打ったのはシュウだった。
「なんてったって、この俺のことかっこいいって言ってくれたからな! ハハハハハ!」
自分の顔を親指で示しながら、シュウはおどけた。
「いや、シュウはかっこいいって」
実際光はそう思っているのだが、ただただフォローするような言い方にになってしまった。光は昨日、部室棟前に助けに来てくれたときのシュウのことを思い出していた。
「拙者はそうは思わんでござる」
忍はあっけらかんと言い放つ。
「おい忍! そこは流れ的にかっこいいって言えよ!」
シュウが抗議するが。
「光殿の優しさはあたかも太陽の如きでござるな」
忍はシュウの抗議を無視してうんうんと深く頷くだけだった。
光は場の空気がゆっくりと和んでいくのを感じた。沈んだままの空気にならなくてよかったと安堵する。
「でもよ、そんな優しい光の口からとんでもない『暴言』が飛び出すからみんなびっくりするんだよな、きっと」
シュウが腕組みをして光を見た。もう一人の自分が放つ『暴言』は、普段の自分とはまるで違うキャラクターだから周囲を驚かせる。それは光も自覚していた。
「例の浅倉がパ〇パンだっていうデタラメも、絶対普段の光が言わなそうなことだもんな」
「確かにそうでござるな」
「あー……」
どうやら二人とも、例の件に関しては光が適当なことを言っただけだと思っているらしい。
「おい、光。なんだよその微妙な間は。お前、まさか―—」
「まさか、光殿―—」
曖昧な表情の光に向かって、二人が身を乗り出す。
「見たのかよ」
シュウがごくりと唾を飲み込む。なんとなく言い逃れできない気がしたので光は正直に話すことにした。この二人なら、他の人間に漏らすことはあるまい。そう信じて二人だけに聞こえるほどの小声で言った。
「実は登校するときに偶然スカートがめくれあがるところを見ちゃったんだ」
シュウと忍は、その場で銅像にでもなったかのように動きを止めた。この情報をどう取り扱うか、脳が慎重に判断しているのだろう。もし取り扱いを間違えれば―—
「フッ―—光、その光景は墓場まで持っていけよ」
遠くを見るような瞳でシュウが微笑みながら言った。「俺も見たかったぜ」という軽口すら叩けなかったようだ。
「でも、忍はこういうの知りたくなかったんじゃないか? 浅倉のことアイドル視してるんだったらよ」
シュウが忍を見る。確かにそうだ。アイドルを神聖視し、性的な話題を嫌うファンも多い。
「心配ご無用でござる! 拙者、AVデビューしたアイドルのエロ動画でもガンガン抜けるタイプ! それが拙者のアイドル博愛主義でござる!」
とんでもねえことを言う忍であった。
そこに、
「―—こんなところにいたのね」
「「「うわあああああああああああああああああああああああ」」」
部室のドアをノックもなしに開けた撫子の顔を見た瞬間、三人はテロリストの襲撃を受けた兵士のように地面に身体を投げ出していた。
「何やってるのよ」
呆れたように呟く撫子の顔を、三人はしばらく見られなかった。
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