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第二章
表裏
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瞼を下ろすと降ってくるのはハルの笑顔だ。
自信に満ちた威厳溢れる笑みも、波飛沫を浴びて白い歯をこぼすのも、慈しむような微笑みも、その全てが自分の中にある。
これまで辿ったどの道とも違う道を辿ってきた、生きながらえたとでもいうのだろうか。
もし繰り返す条件があるのなら、今生はそれにあてはまっているのか。
またやり直せるのか、もしやり直せたら次はどうすればいいのだろうか。
「リディ、何を考えてる?」
「なにも・・・」
こめかみから血を流しながらも、リディアルは視線を逸らさなかった。
禍々しく歪んだ顔、前生からの殿下は本当に色んな顔を見せてくれる。
本来ならいつも輝かんばかりの笑顔で誰に対しても優しく、こんな歪んだ顔をする人ではなかった。
途方もない時間見つめ続けていた人だけれど、自分が知るのはほんの一面だけだったのかもしれない。
殿下が好きで大好きで相応しい自分になれるように努力を重ねてきた。
けれどそれは殿下を見ていたことになるのだろうか。
いつの間にかフレデリックという個人ではなくその立場を見ていたのではないだろうか。
愛する人の為に研鑽するというのは、一見すればとても美しいことだ。
仲良くしようね、と言ってくれたその笑顔の向こう側を見ようとしただろうか。
本質も見ずにただひたすら殿下の為にとしてきたことは、すべて自分の為にしてきたことだった。
その立場に相応しくある自分の為にだけ、それでは過去の殿下がミシェルに惹かれてしまっても仕方ない。
ミシェルはいつだって殿下ではなく、フレデリック個人を見つめていた。
婚約者として引き合わされ恋に落ちた、その気持ちはもう遥か彼方へ置き去りにしてきた。
無理はしてない?と聞かれれば首を横に振った、本当は辛い時もあったのに。
いつだって労りの声をかけてくれていたのに、それを拒絶していた。
見限られたくなかった、失望されたくなかった、それはただの独りよがりだった。
王族の伴侶として相応しい自分、そればかりを追い求め恋する瞳は濁っていった。
数え切れないやり直しの中で間違ったことなんてなにも無かった。
やり直すずっとずっと前から間違えていた。
殿下が手を離したんじゃない、自分から殿下の手を離していた。
殿下はいつだって手を差し伸べてくれていたのに。
その手をとって庭園の散策なんかをすれば良かった、そうしたら同じ景色が見れたかもしれないのに。
隣に立って寄り添えば良かった。
あぁ、なんて過去の自分はなんて愚かだったのだろう。
「フレデリック殿下、私・・・いや僕が間違っていました。ミシェル様に言われました、どうして対話もせずに逃げたのか?と。その時はそれしか道がないと思っていた。なにをどうしたっていつも踏みにじられてきたから。だけどそれは、今の殿下とは切り離して考えなければいけないことでした」
「リディ?」
「もがいて足掻いてそれでも諦めずにいれば良かった。放棄せずに挑めば良かった。そしたら殿下の顔を歪ませることもなかったかもしれない。他人のせいばかりにして、自らを省みることをしなかった。楽な方へばかり身を任した僕は本当に愚かでした」
ごめんなさい、と頭を下げるリディアルの頬に微かに錆びた匂いのする指先が伸びてくる。
ねぇリディ?と指先が頬をぬるりと撫でた。
「今更だとは思わないかい?」
「・・・はい」
「顔をあげてごらん?」
顎に指をかけられぐいと持ち上げられた先の殿下の表情は冷ややかで、血のついた指先が唇を辿る。
ガタリと馬車の車輪が跳ねてぐらりと揺らいだ体を引き寄せられた。
衝撃で開いた口に指が差し込まれ口いっぱいに広がるのは流した血の味。
停止した馬車、外からは轟々と音が響き馬の嘶きも近くに聞こえる。
「リディのせいで汚れてしまった。綺麗にしてほしいな」
ぐりぐりと血の味のする指先を上顎に擦り付けられ、溢れた唾液が血と混ざっていく。
口内をかき混ぜられ喉奥に指を突き入れられてリディアルの息が止まり、咳き込むと同時に指が出ていった。
「リディ、この音が聞こえる?」
全く笑っていない目で、けれども口角だけがあがり声音は楽しそうだった。
殿下がなにを考えているのかわからない、それはそうだろう初めて殿下の心の内側を覗こうとしたのだから。
「少し風にあたろうか」
エスコートされて降りたそこにはずらりと騎士団とその馬が並び、そこにはミシェルも兄のマルセルもいなかった。
轟々と大きな音はどこか足元から聞こえるようで、よく見るとここはどこかの谷のようだ。
遠くに山が見える、あの向こうが我が国だよと殿下がすいと腕をあげて指さした。
いつかの山越えをした山だろうか、とリディアルは詮無いことをふと思う。
「リディ、愛というものはこの硬貨のようだと思わないか?」
陽に反射してキラリと光る金貨、表は王城が裏には国花である桔梗。
「裏と表があるんだ。表が愛として裏はなんだろうね?」
ぴんと親指で弾かれた金貨はくるくると回りながら空へと伸びていく。
青い空でキラキラと輝きを放つそれ、辺りを支配するのは轟々と雄大な音と静かな殿下の声だけだ。
「気持ちというものは放り投げられたあれのように頼りないものだ。風に煽られ目まぐるしく回転する」
回転しながら落ちてきたそれを殿下は掴まなかった。
ほんの小さな土煙を起こして落ちたそれを踏み潰す。
表だったのか裏だったのか、リディアルは見えなかった。
「地に落ちるまでそれがどちらを上とするのかわからない。表の愛か、それとも裏か。さぁ、裏はなんだと思う?」
「・・・憎しみ、ですか?」
「そう・・・リディはそう思うんだね」
それは落胆、それは憤怒、それは悲愴、それは諦念、それは絶望、そんな表情を浮かべた殿下の指さす先にリディアルは視線を移した。
いつの間にいたのだろう、拘束されたハルがそこにいた。
崖っぷちで風に髪を揺らしながら見つめるのはリディアルただ一人。
「・・・ハル」
「行かせないよ、リディ」
抱きすくめられ動けない体に殿下が囁いた。
──リディ、表と裏のどちらを選ぶ?
自信に満ちた威厳溢れる笑みも、波飛沫を浴びて白い歯をこぼすのも、慈しむような微笑みも、その全てが自分の中にある。
これまで辿ったどの道とも違う道を辿ってきた、生きながらえたとでもいうのだろうか。
もし繰り返す条件があるのなら、今生はそれにあてはまっているのか。
またやり直せるのか、もしやり直せたら次はどうすればいいのだろうか。
「リディ、何を考えてる?」
「なにも・・・」
こめかみから血を流しながらも、リディアルは視線を逸らさなかった。
禍々しく歪んだ顔、前生からの殿下は本当に色んな顔を見せてくれる。
本来ならいつも輝かんばかりの笑顔で誰に対しても優しく、こんな歪んだ顔をする人ではなかった。
途方もない時間見つめ続けていた人だけれど、自分が知るのはほんの一面だけだったのかもしれない。
殿下が好きで大好きで相応しい自分になれるように努力を重ねてきた。
けれどそれは殿下を見ていたことになるのだろうか。
いつの間にかフレデリックという個人ではなくその立場を見ていたのではないだろうか。
愛する人の為に研鑽するというのは、一見すればとても美しいことだ。
仲良くしようね、と言ってくれたその笑顔の向こう側を見ようとしただろうか。
本質も見ずにただひたすら殿下の為にとしてきたことは、すべて自分の為にしてきたことだった。
その立場に相応しくある自分の為にだけ、それでは過去の殿下がミシェルに惹かれてしまっても仕方ない。
ミシェルはいつだって殿下ではなく、フレデリック個人を見つめていた。
婚約者として引き合わされ恋に落ちた、その気持ちはもう遥か彼方へ置き去りにしてきた。
無理はしてない?と聞かれれば首を横に振った、本当は辛い時もあったのに。
いつだって労りの声をかけてくれていたのに、それを拒絶していた。
見限られたくなかった、失望されたくなかった、それはただの独りよがりだった。
王族の伴侶として相応しい自分、そればかりを追い求め恋する瞳は濁っていった。
数え切れないやり直しの中で間違ったことなんてなにも無かった。
やり直すずっとずっと前から間違えていた。
殿下が手を離したんじゃない、自分から殿下の手を離していた。
殿下はいつだって手を差し伸べてくれていたのに。
その手をとって庭園の散策なんかをすれば良かった、そうしたら同じ景色が見れたかもしれないのに。
隣に立って寄り添えば良かった。
あぁ、なんて過去の自分はなんて愚かだったのだろう。
「フレデリック殿下、私・・・いや僕が間違っていました。ミシェル様に言われました、どうして対話もせずに逃げたのか?と。その時はそれしか道がないと思っていた。なにをどうしたっていつも踏みにじられてきたから。だけどそれは、今の殿下とは切り離して考えなければいけないことでした」
「リディ?」
「もがいて足掻いてそれでも諦めずにいれば良かった。放棄せずに挑めば良かった。そしたら殿下の顔を歪ませることもなかったかもしれない。他人のせいばかりにして、自らを省みることをしなかった。楽な方へばかり身を任した僕は本当に愚かでした」
ごめんなさい、と頭を下げるリディアルの頬に微かに錆びた匂いのする指先が伸びてくる。
ねぇリディ?と指先が頬をぬるりと撫でた。
「今更だとは思わないかい?」
「・・・はい」
「顔をあげてごらん?」
顎に指をかけられぐいと持ち上げられた先の殿下の表情は冷ややかで、血のついた指先が唇を辿る。
ガタリと馬車の車輪が跳ねてぐらりと揺らいだ体を引き寄せられた。
衝撃で開いた口に指が差し込まれ口いっぱいに広がるのは流した血の味。
停止した馬車、外からは轟々と音が響き馬の嘶きも近くに聞こえる。
「リディのせいで汚れてしまった。綺麗にしてほしいな」
ぐりぐりと血の味のする指先を上顎に擦り付けられ、溢れた唾液が血と混ざっていく。
口内をかき混ぜられ喉奥に指を突き入れられてリディアルの息が止まり、咳き込むと同時に指が出ていった。
「リディ、この音が聞こえる?」
全く笑っていない目で、けれども口角だけがあがり声音は楽しそうだった。
殿下がなにを考えているのかわからない、それはそうだろう初めて殿下の心の内側を覗こうとしたのだから。
「少し風にあたろうか」
エスコートされて降りたそこにはずらりと騎士団とその馬が並び、そこにはミシェルも兄のマルセルもいなかった。
轟々と大きな音はどこか足元から聞こえるようで、よく見るとここはどこかの谷のようだ。
遠くに山が見える、あの向こうが我が国だよと殿下がすいと腕をあげて指さした。
いつかの山越えをした山だろうか、とリディアルは詮無いことをふと思う。
「リディ、愛というものはこの硬貨のようだと思わないか?」
陽に反射してキラリと光る金貨、表は王城が裏には国花である桔梗。
「裏と表があるんだ。表が愛として裏はなんだろうね?」
ぴんと親指で弾かれた金貨はくるくると回りながら空へと伸びていく。
青い空でキラキラと輝きを放つそれ、辺りを支配するのは轟々と雄大な音と静かな殿下の声だけだ。
「気持ちというものは放り投げられたあれのように頼りないものだ。風に煽られ目まぐるしく回転する」
回転しながら落ちてきたそれを殿下は掴まなかった。
ほんの小さな土煙を起こして落ちたそれを踏み潰す。
表だったのか裏だったのか、リディアルは見えなかった。
「地に落ちるまでそれがどちらを上とするのかわからない。表の愛か、それとも裏か。さぁ、裏はなんだと思う?」
「・・・憎しみ、ですか?」
「そう・・・リディはそう思うんだね」
それは落胆、それは憤怒、それは悲愴、それは諦念、それは絶望、そんな表情を浮かべた殿下の指さす先にリディアルは視線を移した。
いつの間にいたのだろう、拘束されたハルがそこにいた。
崖っぷちで風に髪を揺らしながら見つめるのはリディアルただ一人。
「・・・ハル」
「行かせないよ、リディ」
抱きすくめられ動けない体に殿下が囁いた。
──リディ、表と裏のどちらを選ぶ?
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