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第一幕
火曜日 ~rat in a trap~②
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……結局、何だったんだろう?
小骨が喉に突き刺さったような気分のまま、俺は地下街を進み続けた。
別れ際、金城が俺に言い放った言葉がどうにも頭から離れない。
――向こう側に取り込まれないように、せいぜい気をつけてね
向こう側?
取り込まれる?
何の話だか、さっぱり分からない。だが、どうにも嫌な感じだった。少なくとも、退院してきたその日に占い師から聞かされたい言葉じゃない。
段々、俺は腹が立ってきた。良く考えてみれば、こういうのって、オカルトを商売にしている連中の常套手段じゃないか。相手の不安を煽り、そこに付け込んで金を毟り取るという……。
ムカムカしているうちに、俺は広場のような場所にたどり着いた。
大きな噴水を取り囲むようにして並べられたベンチには、待ち合わせをしていると思しき、大勢の人間の姿があった。
そして――
「……何だ、あれ?」
ふと、それに気がつき、俺は目を細めた。
広場を見下ろすようにして、壁には特大の街頭テレビが設置されていた。
特に気にかかる映像が流れているわけではない。たいして面白くもなさそうな、大作映画の予告編が流されているだけだ。
問題は、そのスクリーンの上……。デカデカとそこに描かれていたのは、細長いオレンジ色の卵の絵。
その真ん中に、長い睫毛を生やし、パッチリと見開かれた人間の瞳が描かれている。一瞬、街中でよく見かけるストリート・アート紛いの落書きかと思った。
しかし、何かが違う。本来なら歯牙にもかけないようなもののはずなのに、こうやって見上げているだけなのに胸がざわざわしてくる。
「…………」
暫くの間、俺はその卵の落書きをただ見上げていた。
勿論、そんなことをしていても埒はあかない。と言って、これを誰かに知らせに行くのも、正直、面倒臭かった。
「まあ、いいか……」
ため息とともに俺は結論を出していた。放っておくことにしよう。
誰がどんなつもりであんな場所に描いたのか、全く気にならないと言えば嘘になるが。そのうち警備員なり清掃係が気づいて、適切な処理を取るだろう。ややこしそうなことに自分から頭を突っ込む必要はない。
肩を竦め、携帯電話を取り出す。そして、電波の通りそうなところ――広場から少し離れたところにある、如何にも不味そうな臭いを漂わせたラーメン屋の前へと移動する。
二、三回、コール音が響き、
「……もしもし、六道自転車修理店でございます」
「あっ、爺ちゃん? 俺だよ、オレオレ」
早口に俺は言った。通りすがりのおっさんが胡散臭そうな目つきを俺に残していった。今、流行の振込み詐欺とでも勘違いされたのだろうか? 外見でそう判断されたのだとしたら、少し、いや、かなりムカつく。
「何だ、歩か」
そんな俺の内心を知ってか知らずか、久々に聞く爺ちゃんの声は優しかった。
「今、どこにいる?」
「地下鉄をあがったところ」
そう言ってから、俺は頭の中で時間を計算した。
「……七時ぐらいにはそっちに着くな」
「身体がしんどいなら、迎えに行ってやろうか?」
爺ちゃんの声が少し、心配そうなものに変わった。
「お前、死ぬかも知れないような大怪我したんだから。歩き回って大丈夫かね?」
「大丈夫だから退院したんじゃんか」
思わず、俺は苦笑してしまう。昔から、爺ちゃんは過保護だった。今年で俺は十六になるが、爺ちゃんの頭の中ではまだ小学校の低学年らしい。
それだけ、頼りないってことか。
何だか気恥ずかしくなり、俺は会話を切り上げようとした。
「じゃあ、今から帰るから」
「ああ。気をつけて――」
帰っておいで、と言いかけた爺ちゃんの声がザザッと雑音に途切れた。
んっ、と俺が眉をひそめた次の瞬間だった。
ぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいんっ……
何人もの人間が一斉に悲鳴をあげているような、それでいて金属的な異音が携帯電話の聞き取り口から発せられた。耳朶が激しく揺さぶられ、言表しようもない不快感が俺の脳をかき混ぜる。
「あっ……?」
異音に続き、激しい眩暈が俺を襲う。
いや、眩暈と言うより――、実際に周囲がグラグラ激しく揺れているのを全身で感じた。
地震か……!?
ドクドク、ドクドクと高鳴ってゆく心臓の鼓動。胃の辺りから喉元にかけて、勢いよく嘔吐感が駆け上がった。そして、得体の知れない悪寒が全身を駆け巡る。
バランス良く立っていられなくなり、片膝を床に着いてしまう。そして、目も開けていられなくなる。
その感覚に俺は身に覚えがあった。
トラックに跳ねられた時も、確かこんな感じだったけ……。
どれくらいの間――、俺はその場にしゃがみこんでいたのだろう?
十分? それとも一時間? あるいは僅か数秒のことだったのかも知れない。
泥沼の底に沈んだかのように、混濁としていた意識が急に鮮明になる。
同時に全身を蝕んでいた、得体の知れない悪寒は嘘のように消えていた。乱れた息を整えながら、俺はゆっくり立ち上がった。
「……あ、あれ?」
思わず、俺は間の抜けた声を発した。
しゃがみこんでいる間に何が起きたのか、夢ノ宮プラザはその様相を一変させていた。
つい先程まで喧しい、だが、幸せな喧噪に満ちた地下街からは、人っ子一人いなくなっていた。通路の左右両側に立ち並ぶ店舗は、どれもシャッターが降ろされ、不機嫌な貝のように沈黙を保っている。
霞が掛かったかのように、弱くなった照明の明かりに照らし出された地下街からは、話し声も、足音も――人間の気配と言う気配が一切、消え失せている。
俺はただ一人、その薄暗く寒々しい空間に取り残されていた。
「な、何だよ、これは……?」
目の前の、まるで集団で神隠しにあったような光景が信じられず、俺は呻き声をあげる。
何かが起きたのかもしれない。それも、きっと、ろくでもないことだ。
事故か? それともテロでも発生したのか? 皆、大慌てで、店も閉めて、どこかに逃げ出したとでもいうのだろうか?
「そうだ、携帯!」
ふと思い出し、俺は床に落としていた携帯電話を拾い上げた。
しかし、駄目だった。物音一つせず、いくら電源を入れてもディスプレイには何も表示されない。落とした衝撃で壊れてしまったのか?
小さく舌打ちし、俺は携帯を胸ポケットにしまいこんだ。
それから暫くの間、その場に立ったまま俺は周囲の様子を伺う。例えば、駅員か誰かが「避難してください! 事故です!」などと叫びながら、駆けつけて来るのではないかと思いながら。
しかし――、どれだけ待っても、誰も現れる様子はなかった。
「……仕方ねぇな」
少しでも緊張をほぐそうと、俺は独り言を呟いていた。
「ともかく、地上に上がるか」
このまま、ここに居続けてもどうしようもない。
大きく溜息をつき、俺は歩き始めた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ……!」
思わず、俺は声を荒らげていた。
ここは市役所の裏手へと出る東出口。後、数メートルで地上と言うところだ。
そこを、ツルンとした青白いコンクリートの壁が塞いでいた。虫一匹、出入りできないようピッチリと。
「おかしいだろ、こんなの」
あまりの理不尽さに、俺は冷静さを失っていた。正に狐につままれた気分。こんな物、俺が知る限りではなかったはずだ。
と、その壁に一枚の張り紙がしてあることに気がつく。それはA4サイズの白い画用紙だった。クレヨンで描かれたと思しき、短い言葉が踊っている。
ここから出して――
「ここから、出して……?」
思わず、俺はそれを声に出して読んでいた。
その途端、カッと頭に血が昇った。そいつを剥ぎ取り、クシャクシャに丸めて投げ捨てると俺は顔をゆがめながら振り返った。
「おい、コラッ! 誰だか知らねぇけどふざけんじゃねえ!」
火を吐くような勢いで、怒鳴り声を張り上げた。
俺の罵声は壁にぶち当たり、キンキンと長い階段に響き渡る。
それに答える者はない。
だが、俺の疑問は氷解していた。つまり、これは大掛かりな悪戯なのだ。
低俗なテレビ番組が仕掛けたドッキリかなにかだ。大勢のエキストラを雇って、音もなく通行人達を撤収させ、こんな、妖怪ヌリカベみたいな大道具を使って俺をからかい、影で大笑いしていやがるのだ。
ちょっと、飛躍しすぎている気もしないではないが――他に考えられない。
「ンだよッ! 人をコケにしやがって!」
更に怒りが込み上げ、俺はコンクリの壁を殴りつけていた。勿論、そんなことをしてもどうにかなるわけじゃない。俺の手が痛いだけだった。
痺れた手をプラプラさせながら、俺はふと思い出した。
先程、金城に投げかけられた意味ありげな言葉。
あいつが言っていたのは、このことだったのか? だとすれば――
小さく舌打ちし、俺は首を振った。あれこれ考えるのは、後回しだ。
とにかくここを出よう。長居すればするほど、ろくでもないことになると言う予感は確信に近かった。
ここ以外に地上に上がるルートは二つ。
百貨店の地階からエレベーターかエスカレーターに乗るか、地下道を抜けてこことは反対側にある西出口を目指すかだ。
しかし、ここに来る途中、他の店舗と同じように、百貨店の入り口もシャッターが降ろされていた。つまり、たった今、歩いてきた道を引き返して、西出口に向かうしかない。
「遠いな、畜生……」
口の端をゆがめながら俺は再び階段を下り始めた。
棒形の照明が照らし出す、狭い、だが、嫌になるほど長い地下道の通路である。
普段から人気がなく、あまり気持ちの良い場所ではないが、この状況では壁に貼られた、防災ポスターのアイドルの笑顔まで薄気味悪いものに思えてくる。
締め切られ、澱んだ空気の中を歩き続けたせいか、喉がザラザラと痛い。
自分の息遣いと足音以外、物音一つしないせいか、体内時計が狂っている。この地下街を行ったり来たりし始めて、どのくらい経つのか、よく分からなかった。
「……なんで、俺がこんな目にあわなきゃいけないんだよ?」
額に滲んだ汗を拭い、俺はぼやいていた。
今日は、待ちに待った退院日だと言うのに。
変な女に絡まれるわ、ワケの分からない目にあって歩き回らされるわ……。
とにかく最悪だ。それ以外に言葉が見つからない。
しかし、そんな気分も、地下道の端にたどり着くまでだった。
それを見た瞬間――、過去、夜道で見知らぬ相手に金槌で襲い掛かられた時のように、元々乏しい俺の思考力は綺麗に吹き飛ばされた。
西出口もまた、先程と同じようにツルンとした青白いコンクリの壁に塞がれていた。が、俺が目を奪われたのはそんなものではない。
ロープに天井から吊るされ、高価そうな革靴のつま先を微かに揺らしているもの……。
口の端からベロンと出た灰色の舌先。ドロッと白濁した半開きの瞳。信じられないくらい青ざめた肌に点々と浮かぶ、紫色の斑点。そして、宙に浮かんだ足の下に溜まった小さな水溜り。
それは見知らぬ男の首つり死体だった。
目も覚めるような鮮やかなペイズリー柄のネクタイを締めた、勤め人風の。
「な、何でこんなものがここに……?」
呆然とそれを見上げながら、俺はしゃがれた声でそう呻いていた。
自殺か、他殺か。いずれにせよ、これはもう、悪戯なんて可愛いレベルじゃない。誰だか知らないが、この俺に強い悪意を抱く者の仕業だ。
しかし、俺に人に恨まれる覚えなど……、ある。それも山ほど。
喧嘩早い性格が災いしてか、心当たりがあるのは一人や二人じゃない。だが、ここまで手の込んだ、それも人を殺してまで嫌がらせをするようなヤツは、さすがに思いつかない。
そこで、ふと俺は恐ろしい想像に囚われる。
まさか……、このまま外に出られなくなるんじゃないだろうな。
助けも来ず、ここで一人、死ぬまで過ごさなければならなくなったら?
「はは、有り得ねーよ。そんなの」
馬鹿馬鹿しい妄想を俺は否定しようとした。が、できなかった。実際、こうして出口を塞がれてしまい、にっちもさっちもいかないのだ。不安を覚えないほうがどうかしている。
と、その時だった。
ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……
歯軋りするような厭な音を立てて、首吊り死体が円を描いて揺れた。硬直したつま先から、革靴がするりと抜ける。
トスン、と言うどこか間の抜けた音とともに靴が床に落ちた時、俺の喉元に強烈な吐き気が込み上げてきた。
「……っ!」
慌てて口を押さえ、俺は死体から顔を背ける。
落ち着け、落ち着けよ、俺……!
パニックに陥り、喚き声をあげたくなる自分を俺は必死で宥めていた。
そして、視線の先にボンヤリと白い光を放つ、筐体の存在に気がつく。その前を歩いているはずなのだが、出口のことで頭が一杯で目に入っていなかったらしい。
それはジュースの自動販売機だった。
飲み物……!
そう思った途端、まるでパブロフの犬のように口の中に唾が溜まった。
そうだ。こんな時だからこそ、落ち着かなければ。冷たく清涼なジュースを飲んで喉を潤せば、何か良い打開策が浮かんでくるかも知れない。
飛びつくようにして、自動販売機に駆け寄り――、
「……?」
俺は首を傾げた。
展示スペースに並んでいたのは、見たこともない商品だった。
赤と黄色の毒キノコのような、けばけばしいカラーリングの缶ジュースだ。それには商品名も、メーカーの名前も記されていない。
「まあ、飲めるなら何でもいいか……」
震える声で呟き、俺はポケットの小銭を引っ掴み、投入口に入れた。ボタンを押すと乾いた音を立てて、ジュース缶が取り出し口に落ちる。それを拾い上げると予想外に軽い。奇妙に思い、俺はそれを耳元で振ってみた。
カラカラ、とジュース缶の内側で何か固い物が転がるような音が聞こえた。
液体が詰まっている感触はない。
「おい、これってジュースじゃねぇのかよ?」
こんなの詐欺じゃねえか、と頭に来たが缶の中身も気になる。
ブツブツ文句を言いながらも、俺はプルタブを外し、缶を逆様にして振ってみた。
チャリン、と澄んだ音を立てて銀色に光る小さな物が床に落ちる。
それは一本の古びた鍵だった。
「あ、これ……」
驚愕に目を丸くしながら、俺はその鍵を拾い上げた。
それは俺が小学生の時から使っている、学習机の抽斗の鍵だった。
ずっと以前に失くしたので、数年間、閉め切ったままの。
「……だけど、何でこんな所から出てくるんだよ?」
掌の中の鍵を凝視したまま、俺は低く呻いた。
それにしても、今日は酷い、本当に酷い日だ。次から次へと、変な事ばかりが起こる。
そろそろ打ち止めにして欲しいな、と俺が思った時だった。
ごげぇ……
喉に大量の痰を絡ませた、汚らしい唸り声が聞こえた。
ビクッとして俺は自動販売機を振り返り、そこにあった異様な光景に目をみはらせる。
たった今、ジュース缶を取り出した受け取り口から、ニョロリと伸び出ていたのは、触手めいた、大蛇のように鎌首をもたげた長い腕だった。
ごげぇ……
自動販売機の中から、吐き気をもよおすような唸り声がまた聞こえた。
そいつは自動販売機をゴトゴト揺らし、外に出ようとしているらしかった。
これは、ヤバイ――!
俺の頭の中で警報が打ち鳴り始める。
早く逃げたほうがいい。どう考えてもこいつは人間の友達って感じじゃない。どちらかと言えば、人をバリバリ頭から齧るタイプだ。
しかし、俺は動かなかった。いや、動けなかった。
目の前のあまりに非現実的な出来事に、思考が身体から切り離されてしまったようだ。
言葉を失い、ただ立ち尽くすしかない俺の目の前で――、そいつはゆっくりと自販機の中から姿を現していた。
「……!」
露わになった、そいつの全貌に改めて俺は息を飲む。
そいつは青ざめた肌を持つ、ヤモリのような四つん這いの生き物だった。
しかし、ヤモリじゃない。俺が知る限り、ヤモリはナイフのような鋭い鈎爪など持っていない。
大型犬ほどもある、その身体には体毛もなければ鱗もなく、ベトベトとした粘液にまみれている。蛇か鰐のような形をした頭部には口や鼻らしき器官は存在せず、その中心にはガラス球のような、大きな目玉が一つ、ギョロギョロと蠢いていた。
ウアア、と俺は呻き声をあげる。
火に焙られたかのように、頭の芯が熱い。
全身の水分が冷や汗になって噴出し、再び強烈な吐き気が込み上げてくる。
目の前の生き物に対する、激しい嫌悪感のせいだ。グロテスクなその姿に目を反らしてしまいたいのにできない。
こんな嫌な生き物を目にするのは、生まれて初めてだった。
怪物。陳腐とも思える、二つの文字が俺の頭の中で点滅する。しかし、それ以上にこの生き物を的確に表現した言葉は思いつかない。
長い爪でガリガリと床を掻き毟り、そいつ、ヤモリのような姿をした怪物が、ペタペタ足音を鳴らし、俺に頭を向けた。
「ひッ……」
思わす、俺は小さく声を漏らす。ビクッ、と身体が強張る。
と――、ぐるん、とガラスボールのような怪物の目玉が半回転した。
そこに青ざめ、引き攣った俺の顔が映し出される。
次の瞬間だった。怪物の後ろ足が床を蹴った。汚らしい粘液を撒き散らしながら、ラグビー選手がタックルするように怪物は俺の腰にしがみついて来た。
声をあげる暇すらない。勢いよく怪物に押し倒され、組み伏せられる。怪物の爪がジャラジャラ音を立てて擦れ合い、俺の胸元に伸びた。
咄嗟に俺は腰を捻ってそれをかわす。
ガリッ、と嫌な音を立てて、怪物の爪が固い床を削る。
クソ、冗談じゃねぇぞ……!
飛び散るコンクリの欠片に俺は顔を引き攣らせていた。
想像したくもないが、こいつに引っ掻かれたら痛いどころの騒ぎじゃない。下手をすれば、はらわたを引きずり出されてしまう。
と――、目玉だけの怪物の顔がグイ、と俺の顔を覗き込んだ。
「うっ……!」
俺は蛇に見込まれた蛙だった。
新たに冷や汗が流れ出し、俺は身動きが取れなくなる。
ブチッという肉が裂ける嫌な音がして、怪物の一つしかない目玉の真下が縦に割れ、ギザギザした牙の生えた口らしきものが露わになる。
切り開かれた開かれた怪物の口の奥から、粘るような、あの厭らしい唸り声が聞こえた。
ドッとペンキ缶を倒したかのように、緑色のネバネバした吐瀉物が、怪物の口から勢いよく吐き出される。
それは飛沫を撒き散らし、俺の顔、そして喉元をビショビショに濡らした。
吐き気を催させるほど生臭いそれは、怪物の痰だった。
「うげっ……!」
たまらず目を瞬かせた俺を見て、怪物は馬鹿笑いしやがった。
ひゃひゃ、と歪な頭を揺らして。俺の慌てぶりが面白くてたまらないと言うように。
それを見た途端、恐怖や戸惑いよりも怒りが上回った。
そして、次の瞬間、俺は片手を怪物の顔目掛けて突き出していた。
ぐちょっ。
ヌルッとした感触が俺の掌に伝わる。
それが何か、あえて考えず、渾身の力を込めて俺は握りつぶした。文字通り、血も凍るような絶叫が地下道に響く。
その叫び声の主は、俺ではなく、馬乗りになった怪物だ。
ヤツの大きな一つ目は無残に握り潰され、血だか汁だかよく分からないものが後から後へとその大きな眼窩の縁から溢れ出ていた。
激痛に身悶えする怪物。この隙を逃さず、俺は両足を揃えて、ヤツの胸を蹴り飛ばしてやる。ギャッ、と悲痛な声をあげて怪物は床に転がった。
傷を負わせたのはいいが、このままにしておくわけにはいかない。俺は壁に背中を擦りつけ、必死に身体を立ち上がらせた。自分が鬼のような形相なのは想像にかたくない。
ふと通路の端に目を留める。
そこに落ちていたのは、一本の鉄パイプ。置き忘れられた工事の資材か何かだろう。
考えるより先に俺はそれを拾い上げていた。
そして――、
「死ねッ!」
怒声とともに怪物の脳天目掛けて鉄パイプを振り下ろす。
一撃。もう、一撃。さらにもう一撃と。
一片の慈悲も見せることなく、俺は怪物の頭が原型を止めぬほどグシャグシャになるまで攻撃を加え続けた。しかし、それでも怪物の身体はビクビクと痙攣し、命の炎はなかなか消えそうにない。
業を煮やした俺は、ヌメヌメした背中を思いっきり踏み砕いてやった。
耳障りな断末魔の声を上げて、やっと怪物が動かなくなる。
ゼェゼェと荒い息をつき、
「い、いきなり襲ってきやがって!」
怪物に向かって人差し指を突きつけ、俺はまくし立てていた。
「一体、何なんだ! まさか、宇宙生物とか言うんじゃないだろうな!」
……答えはない。有難いことに死んでくれたらしい。
頭の悪いやつらと頭の悪い小突き合をすることはたまにあっても、こんな風に全身全霊の暴力で生き物を殺すのは生まれて初めてだった。しかし、予想に反して、思ったほどの罪悪感や嫌悪感はない。無論、気分爽快というわけでもないが。
「畜生、ベタベタに汚しやがって……!」
低く呻きながら俺は顔や身体に付いた返り血を片手で拭った。
と――
筆先から零れ落ちた墨のように、黒々としたゼリーのような幾つもの物体が、死んだ怪物を取り囲むようにして、ジュクジュク音を立てて床の隙間から滲み出てきた。
そいつらはブヨブヨと震えながら、倒れ付した怪物の死骸の上に這いあがってゆく。
ジュッ、という肉が焼ける短い音が聞こえた。同時に、鼻腔を突き刺すような凄まじい腐敗臭が漂ってくる。
立ち竦む俺の目の前で、黒ゼリーに覆われた怪物の死骸が腐りグズグズと崩れてゆく。
やがて、それは緑色のネバネバしたよく分からないものに変わり、黒ゼリーたちが、口には見えない口でそれをちゅるちゅる啜り始める。
「げっ……!」
動物のような唸り声をあげて、込み上げる嘔吐感を無理矢理に押さえ、俺はその場から転がるようにして逃げ出していた。黒いゼリーのような怪物達が、俺が殺したヤモリを咀嚼しつくす音を聞きながら。
逃げろ、逃げろ、とにかく逃げろ――!
同じ言葉が呪文のように頭の中で回り始める。安全な場所を探すとか、助けになる人を探すといった合理的なアイデアは浮かんでこなかった。
背後から確かな温度を持って迫る、恐怖と狂気から逃げることしか頭に無かった。
走り、飛び跳ね、転び、這いずって。本能が命じるままに、とにかく逃げて逃げて逃げ回った。
ごげぇ……
走り続ける俺の耳朶にあの厭らしい、痰を絡ませたような唸り声が聞こえた。反射的に俺は声が落ちてきた頭上を見上げる。そして、すぐに後悔した。
ごげぇ……ごげぇ……
アーチ状の天井。ビッシリとそこを埋め尽くすように張り付いていたのは先程のヤモリの怪物の群れ。少なく見ても、五十匹以上はいる。
走り続けながら俺は声もなく笑った。自分が笑っていることに笑った。
人っ子一人いない、廃墟のような地下街を俺は汗まみれ泥まみれで駆けずり回っている。
そう思うと、馬鹿馬鹿しくも滑稽でたまらなかった。
小骨が喉に突き刺さったような気分のまま、俺は地下街を進み続けた。
別れ際、金城が俺に言い放った言葉がどうにも頭から離れない。
――向こう側に取り込まれないように、せいぜい気をつけてね
向こう側?
取り込まれる?
何の話だか、さっぱり分からない。だが、どうにも嫌な感じだった。少なくとも、退院してきたその日に占い師から聞かされたい言葉じゃない。
段々、俺は腹が立ってきた。良く考えてみれば、こういうのって、オカルトを商売にしている連中の常套手段じゃないか。相手の不安を煽り、そこに付け込んで金を毟り取るという……。
ムカムカしているうちに、俺は広場のような場所にたどり着いた。
大きな噴水を取り囲むようにして並べられたベンチには、待ち合わせをしていると思しき、大勢の人間の姿があった。
そして――
「……何だ、あれ?」
ふと、それに気がつき、俺は目を細めた。
広場を見下ろすようにして、壁には特大の街頭テレビが設置されていた。
特に気にかかる映像が流れているわけではない。たいして面白くもなさそうな、大作映画の予告編が流されているだけだ。
問題は、そのスクリーンの上……。デカデカとそこに描かれていたのは、細長いオレンジ色の卵の絵。
その真ん中に、長い睫毛を生やし、パッチリと見開かれた人間の瞳が描かれている。一瞬、街中でよく見かけるストリート・アート紛いの落書きかと思った。
しかし、何かが違う。本来なら歯牙にもかけないようなもののはずなのに、こうやって見上げているだけなのに胸がざわざわしてくる。
「…………」
暫くの間、俺はその卵の落書きをただ見上げていた。
勿論、そんなことをしていても埒はあかない。と言って、これを誰かに知らせに行くのも、正直、面倒臭かった。
「まあ、いいか……」
ため息とともに俺は結論を出していた。放っておくことにしよう。
誰がどんなつもりであんな場所に描いたのか、全く気にならないと言えば嘘になるが。そのうち警備員なり清掃係が気づいて、適切な処理を取るだろう。ややこしそうなことに自分から頭を突っ込む必要はない。
肩を竦め、携帯電話を取り出す。そして、電波の通りそうなところ――広場から少し離れたところにある、如何にも不味そうな臭いを漂わせたラーメン屋の前へと移動する。
二、三回、コール音が響き、
「……もしもし、六道自転車修理店でございます」
「あっ、爺ちゃん? 俺だよ、オレオレ」
早口に俺は言った。通りすがりのおっさんが胡散臭そうな目つきを俺に残していった。今、流行の振込み詐欺とでも勘違いされたのだろうか? 外見でそう判断されたのだとしたら、少し、いや、かなりムカつく。
「何だ、歩か」
そんな俺の内心を知ってか知らずか、久々に聞く爺ちゃんの声は優しかった。
「今、どこにいる?」
「地下鉄をあがったところ」
そう言ってから、俺は頭の中で時間を計算した。
「……七時ぐらいにはそっちに着くな」
「身体がしんどいなら、迎えに行ってやろうか?」
爺ちゃんの声が少し、心配そうなものに変わった。
「お前、死ぬかも知れないような大怪我したんだから。歩き回って大丈夫かね?」
「大丈夫だから退院したんじゃんか」
思わず、俺は苦笑してしまう。昔から、爺ちゃんは過保護だった。今年で俺は十六になるが、爺ちゃんの頭の中ではまだ小学校の低学年らしい。
それだけ、頼りないってことか。
何だか気恥ずかしくなり、俺は会話を切り上げようとした。
「じゃあ、今から帰るから」
「ああ。気をつけて――」
帰っておいで、と言いかけた爺ちゃんの声がザザッと雑音に途切れた。
んっ、と俺が眉をひそめた次の瞬間だった。
ぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいんっ……
何人もの人間が一斉に悲鳴をあげているような、それでいて金属的な異音が携帯電話の聞き取り口から発せられた。耳朶が激しく揺さぶられ、言表しようもない不快感が俺の脳をかき混ぜる。
「あっ……?」
異音に続き、激しい眩暈が俺を襲う。
いや、眩暈と言うより――、実際に周囲がグラグラ激しく揺れているのを全身で感じた。
地震か……!?
ドクドク、ドクドクと高鳴ってゆく心臓の鼓動。胃の辺りから喉元にかけて、勢いよく嘔吐感が駆け上がった。そして、得体の知れない悪寒が全身を駆け巡る。
バランス良く立っていられなくなり、片膝を床に着いてしまう。そして、目も開けていられなくなる。
その感覚に俺は身に覚えがあった。
トラックに跳ねられた時も、確かこんな感じだったけ……。
どれくらいの間――、俺はその場にしゃがみこんでいたのだろう?
十分? それとも一時間? あるいは僅か数秒のことだったのかも知れない。
泥沼の底に沈んだかのように、混濁としていた意識が急に鮮明になる。
同時に全身を蝕んでいた、得体の知れない悪寒は嘘のように消えていた。乱れた息を整えながら、俺はゆっくり立ち上がった。
「……あ、あれ?」
思わず、俺は間の抜けた声を発した。
しゃがみこんでいる間に何が起きたのか、夢ノ宮プラザはその様相を一変させていた。
つい先程まで喧しい、だが、幸せな喧噪に満ちた地下街からは、人っ子一人いなくなっていた。通路の左右両側に立ち並ぶ店舗は、どれもシャッターが降ろされ、不機嫌な貝のように沈黙を保っている。
霞が掛かったかのように、弱くなった照明の明かりに照らし出された地下街からは、話し声も、足音も――人間の気配と言う気配が一切、消え失せている。
俺はただ一人、その薄暗く寒々しい空間に取り残されていた。
「な、何だよ、これは……?」
目の前の、まるで集団で神隠しにあったような光景が信じられず、俺は呻き声をあげる。
何かが起きたのかもしれない。それも、きっと、ろくでもないことだ。
事故か? それともテロでも発生したのか? 皆、大慌てで、店も閉めて、どこかに逃げ出したとでもいうのだろうか?
「そうだ、携帯!」
ふと思い出し、俺は床に落としていた携帯電話を拾い上げた。
しかし、駄目だった。物音一つせず、いくら電源を入れてもディスプレイには何も表示されない。落とした衝撃で壊れてしまったのか?
小さく舌打ちし、俺は携帯を胸ポケットにしまいこんだ。
それから暫くの間、その場に立ったまま俺は周囲の様子を伺う。例えば、駅員か誰かが「避難してください! 事故です!」などと叫びながら、駆けつけて来るのではないかと思いながら。
しかし――、どれだけ待っても、誰も現れる様子はなかった。
「……仕方ねぇな」
少しでも緊張をほぐそうと、俺は独り言を呟いていた。
「ともかく、地上に上がるか」
このまま、ここに居続けてもどうしようもない。
大きく溜息をつき、俺は歩き始めた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ……!」
思わず、俺は声を荒らげていた。
ここは市役所の裏手へと出る東出口。後、数メートルで地上と言うところだ。
そこを、ツルンとした青白いコンクリートの壁が塞いでいた。虫一匹、出入りできないようピッチリと。
「おかしいだろ、こんなの」
あまりの理不尽さに、俺は冷静さを失っていた。正に狐につままれた気分。こんな物、俺が知る限りではなかったはずだ。
と、その壁に一枚の張り紙がしてあることに気がつく。それはA4サイズの白い画用紙だった。クレヨンで描かれたと思しき、短い言葉が踊っている。
ここから出して――
「ここから、出して……?」
思わず、俺はそれを声に出して読んでいた。
その途端、カッと頭に血が昇った。そいつを剥ぎ取り、クシャクシャに丸めて投げ捨てると俺は顔をゆがめながら振り返った。
「おい、コラッ! 誰だか知らねぇけどふざけんじゃねえ!」
火を吐くような勢いで、怒鳴り声を張り上げた。
俺の罵声は壁にぶち当たり、キンキンと長い階段に響き渡る。
それに答える者はない。
だが、俺の疑問は氷解していた。つまり、これは大掛かりな悪戯なのだ。
低俗なテレビ番組が仕掛けたドッキリかなにかだ。大勢のエキストラを雇って、音もなく通行人達を撤収させ、こんな、妖怪ヌリカベみたいな大道具を使って俺をからかい、影で大笑いしていやがるのだ。
ちょっと、飛躍しすぎている気もしないではないが――他に考えられない。
「ンだよッ! 人をコケにしやがって!」
更に怒りが込み上げ、俺はコンクリの壁を殴りつけていた。勿論、そんなことをしてもどうにかなるわけじゃない。俺の手が痛いだけだった。
痺れた手をプラプラさせながら、俺はふと思い出した。
先程、金城に投げかけられた意味ありげな言葉。
あいつが言っていたのは、このことだったのか? だとすれば――
小さく舌打ちし、俺は首を振った。あれこれ考えるのは、後回しだ。
とにかくここを出よう。長居すればするほど、ろくでもないことになると言う予感は確信に近かった。
ここ以外に地上に上がるルートは二つ。
百貨店の地階からエレベーターかエスカレーターに乗るか、地下道を抜けてこことは反対側にある西出口を目指すかだ。
しかし、ここに来る途中、他の店舗と同じように、百貨店の入り口もシャッターが降ろされていた。つまり、たった今、歩いてきた道を引き返して、西出口に向かうしかない。
「遠いな、畜生……」
口の端をゆがめながら俺は再び階段を下り始めた。
棒形の照明が照らし出す、狭い、だが、嫌になるほど長い地下道の通路である。
普段から人気がなく、あまり気持ちの良い場所ではないが、この状況では壁に貼られた、防災ポスターのアイドルの笑顔まで薄気味悪いものに思えてくる。
締め切られ、澱んだ空気の中を歩き続けたせいか、喉がザラザラと痛い。
自分の息遣いと足音以外、物音一つしないせいか、体内時計が狂っている。この地下街を行ったり来たりし始めて、どのくらい経つのか、よく分からなかった。
「……なんで、俺がこんな目にあわなきゃいけないんだよ?」
額に滲んだ汗を拭い、俺はぼやいていた。
今日は、待ちに待った退院日だと言うのに。
変な女に絡まれるわ、ワケの分からない目にあって歩き回らされるわ……。
とにかく最悪だ。それ以外に言葉が見つからない。
しかし、そんな気分も、地下道の端にたどり着くまでだった。
それを見た瞬間――、過去、夜道で見知らぬ相手に金槌で襲い掛かられた時のように、元々乏しい俺の思考力は綺麗に吹き飛ばされた。
西出口もまた、先程と同じようにツルンとした青白いコンクリの壁に塞がれていた。が、俺が目を奪われたのはそんなものではない。
ロープに天井から吊るされ、高価そうな革靴のつま先を微かに揺らしているもの……。
口の端からベロンと出た灰色の舌先。ドロッと白濁した半開きの瞳。信じられないくらい青ざめた肌に点々と浮かぶ、紫色の斑点。そして、宙に浮かんだ足の下に溜まった小さな水溜り。
それは見知らぬ男の首つり死体だった。
目も覚めるような鮮やかなペイズリー柄のネクタイを締めた、勤め人風の。
「な、何でこんなものがここに……?」
呆然とそれを見上げながら、俺はしゃがれた声でそう呻いていた。
自殺か、他殺か。いずれにせよ、これはもう、悪戯なんて可愛いレベルじゃない。誰だか知らないが、この俺に強い悪意を抱く者の仕業だ。
しかし、俺に人に恨まれる覚えなど……、ある。それも山ほど。
喧嘩早い性格が災いしてか、心当たりがあるのは一人や二人じゃない。だが、ここまで手の込んだ、それも人を殺してまで嫌がらせをするようなヤツは、さすがに思いつかない。
そこで、ふと俺は恐ろしい想像に囚われる。
まさか……、このまま外に出られなくなるんじゃないだろうな。
助けも来ず、ここで一人、死ぬまで過ごさなければならなくなったら?
「はは、有り得ねーよ。そんなの」
馬鹿馬鹿しい妄想を俺は否定しようとした。が、できなかった。実際、こうして出口を塞がれてしまい、にっちもさっちもいかないのだ。不安を覚えないほうがどうかしている。
と、その時だった。
ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……
歯軋りするような厭な音を立てて、首吊り死体が円を描いて揺れた。硬直したつま先から、革靴がするりと抜ける。
トスン、と言うどこか間の抜けた音とともに靴が床に落ちた時、俺の喉元に強烈な吐き気が込み上げてきた。
「……っ!」
慌てて口を押さえ、俺は死体から顔を背ける。
落ち着け、落ち着けよ、俺……!
パニックに陥り、喚き声をあげたくなる自分を俺は必死で宥めていた。
そして、視線の先にボンヤリと白い光を放つ、筐体の存在に気がつく。その前を歩いているはずなのだが、出口のことで頭が一杯で目に入っていなかったらしい。
それはジュースの自動販売機だった。
飲み物……!
そう思った途端、まるでパブロフの犬のように口の中に唾が溜まった。
そうだ。こんな時だからこそ、落ち着かなければ。冷たく清涼なジュースを飲んで喉を潤せば、何か良い打開策が浮かんでくるかも知れない。
飛びつくようにして、自動販売機に駆け寄り――、
「……?」
俺は首を傾げた。
展示スペースに並んでいたのは、見たこともない商品だった。
赤と黄色の毒キノコのような、けばけばしいカラーリングの缶ジュースだ。それには商品名も、メーカーの名前も記されていない。
「まあ、飲めるなら何でもいいか……」
震える声で呟き、俺はポケットの小銭を引っ掴み、投入口に入れた。ボタンを押すと乾いた音を立てて、ジュース缶が取り出し口に落ちる。それを拾い上げると予想外に軽い。奇妙に思い、俺はそれを耳元で振ってみた。
カラカラ、とジュース缶の内側で何か固い物が転がるような音が聞こえた。
液体が詰まっている感触はない。
「おい、これってジュースじゃねぇのかよ?」
こんなの詐欺じゃねえか、と頭に来たが缶の中身も気になる。
ブツブツ文句を言いながらも、俺はプルタブを外し、缶を逆様にして振ってみた。
チャリン、と澄んだ音を立てて銀色に光る小さな物が床に落ちる。
それは一本の古びた鍵だった。
「あ、これ……」
驚愕に目を丸くしながら、俺はその鍵を拾い上げた。
それは俺が小学生の時から使っている、学習机の抽斗の鍵だった。
ずっと以前に失くしたので、数年間、閉め切ったままの。
「……だけど、何でこんな所から出てくるんだよ?」
掌の中の鍵を凝視したまま、俺は低く呻いた。
それにしても、今日は酷い、本当に酷い日だ。次から次へと、変な事ばかりが起こる。
そろそろ打ち止めにして欲しいな、と俺が思った時だった。
ごげぇ……
喉に大量の痰を絡ませた、汚らしい唸り声が聞こえた。
ビクッとして俺は自動販売機を振り返り、そこにあった異様な光景に目をみはらせる。
たった今、ジュース缶を取り出した受け取り口から、ニョロリと伸び出ていたのは、触手めいた、大蛇のように鎌首をもたげた長い腕だった。
ごげぇ……
自動販売機の中から、吐き気をもよおすような唸り声がまた聞こえた。
そいつは自動販売機をゴトゴト揺らし、外に出ようとしているらしかった。
これは、ヤバイ――!
俺の頭の中で警報が打ち鳴り始める。
早く逃げたほうがいい。どう考えてもこいつは人間の友達って感じじゃない。どちらかと言えば、人をバリバリ頭から齧るタイプだ。
しかし、俺は動かなかった。いや、動けなかった。
目の前のあまりに非現実的な出来事に、思考が身体から切り離されてしまったようだ。
言葉を失い、ただ立ち尽くすしかない俺の目の前で――、そいつはゆっくりと自販機の中から姿を現していた。
「……!」
露わになった、そいつの全貌に改めて俺は息を飲む。
そいつは青ざめた肌を持つ、ヤモリのような四つん這いの生き物だった。
しかし、ヤモリじゃない。俺が知る限り、ヤモリはナイフのような鋭い鈎爪など持っていない。
大型犬ほどもある、その身体には体毛もなければ鱗もなく、ベトベトとした粘液にまみれている。蛇か鰐のような形をした頭部には口や鼻らしき器官は存在せず、その中心にはガラス球のような、大きな目玉が一つ、ギョロギョロと蠢いていた。
ウアア、と俺は呻き声をあげる。
火に焙られたかのように、頭の芯が熱い。
全身の水分が冷や汗になって噴出し、再び強烈な吐き気が込み上げてくる。
目の前の生き物に対する、激しい嫌悪感のせいだ。グロテスクなその姿に目を反らしてしまいたいのにできない。
こんな嫌な生き物を目にするのは、生まれて初めてだった。
怪物。陳腐とも思える、二つの文字が俺の頭の中で点滅する。しかし、それ以上にこの生き物を的確に表現した言葉は思いつかない。
長い爪でガリガリと床を掻き毟り、そいつ、ヤモリのような姿をした怪物が、ペタペタ足音を鳴らし、俺に頭を向けた。
「ひッ……」
思わす、俺は小さく声を漏らす。ビクッ、と身体が強張る。
と――、ぐるん、とガラスボールのような怪物の目玉が半回転した。
そこに青ざめ、引き攣った俺の顔が映し出される。
次の瞬間だった。怪物の後ろ足が床を蹴った。汚らしい粘液を撒き散らしながら、ラグビー選手がタックルするように怪物は俺の腰にしがみついて来た。
声をあげる暇すらない。勢いよく怪物に押し倒され、組み伏せられる。怪物の爪がジャラジャラ音を立てて擦れ合い、俺の胸元に伸びた。
咄嗟に俺は腰を捻ってそれをかわす。
ガリッ、と嫌な音を立てて、怪物の爪が固い床を削る。
クソ、冗談じゃねぇぞ……!
飛び散るコンクリの欠片に俺は顔を引き攣らせていた。
想像したくもないが、こいつに引っ掻かれたら痛いどころの騒ぎじゃない。下手をすれば、はらわたを引きずり出されてしまう。
と――、目玉だけの怪物の顔がグイ、と俺の顔を覗き込んだ。
「うっ……!」
俺は蛇に見込まれた蛙だった。
新たに冷や汗が流れ出し、俺は身動きが取れなくなる。
ブチッという肉が裂ける嫌な音がして、怪物の一つしかない目玉の真下が縦に割れ、ギザギザした牙の生えた口らしきものが露わになる。
切り開かれた開かれた怪物の口の奥から、粘るような、あの厭らしい唸り声が聞こえた。
ドッとペンキ缶を倒したかのように、緑色のネバネバした吐瀉物が、怪物の口から勢いよく吐き出される。
それは飛沫を撒き散らし、俺の顔、そして喉元をビショビショに濡らした。
吐き気を催させるほど生臭いそれは、怪物の痰だった。
「うげっ……!」
たまらず目を瞬かせた俺を見て、怪物は馬鹿笑いしやがった。
ひゃひゃ、と歪な頭を揺らして。俺の慌てぶりが面白くてたまらないと言うように。
それを見た途端、恐怖や戸惑いよりも怒りが上回った。
そして、次の瞬間、俺は片手を怪物の顔目掛けて突き出していた。
ぐちょっ。
ヌルッとした感触が俺の掌に伝わる。
それが何か、あえて考えず、渾身の力を込めて俺は握りつぶした。文字通り、血も凍るような絶叫が地下道に響く。
その叫び声の主は、俺ではなく、馬乗りになった怪物だ。
ヤツの大きな一つ目は無残に握り潰され、血だか汁だかよく分からないものが後から後へとその大きな眼窩の縁から溢れ出ていた。
激痛に身悶えする怪物。この隙を逃さず、俺は両足を揃えて、ヤツの胸を蹴り飛ばしてやる。ギャッ、と悲痛な声をあげて怪物は床に転がった。
傷を負わせたのはいいが、このままにしておくわけにはいかない。俺は壁に背中を擦りつけ、必死に身体を立ち上がらせた。自分が鬼のような形相なのは想像にかたくない。
ふと通路の端に目を留める。
そこに落ちていたのは、一本の鉄パイプ。置き忘れられた工事の資材か何かだろう。
考えるより先に俺はそれを拾い上げていた。
そして――、
「死ねッ!」
怒声とともに怪物の脳天目掛けて鉄パイプを振り下ろす。
一撃。もう、一撃。さらにもう一撃と。
一片の慈悲も見せることなく、俺は怪物の頭が原型を止めぬほどグシャグシャになるまで攻撃を加え続けた。しかし、それでも怪物の身体はビクビクと痙攣し、命の炎はなかなか消えそうにない。
業を煮やした俺は、ヌメヌメした背中を思いっきり踏み砕いてやった。
耳障りな断末魔の声を上げて、やっと怪物が動かなくなる。
ゼェゼェと荒い息をつき、
「い、いきなり襲ってきやがって!」
怪物に向かって人差し指を突きつけ、俺はまくし立てていた。
「一体、何なんだ! まさか、宇宙生物とか言うんじゃないだろうな!」
……答えはない。有難いことに死んでくれたらしい。
頭の悪いやつらと頭の悪い小突き合をすることはたまにあっても、こんな風に全身全霊の暴力で生き物を殺すのは生まれて初めてだった。しかし、予想に反して、思ったほどの罪悪感や嫌悪感はない。無論、気分爽快というわけでもないが。
「畜生、ベタベタに汚しやがって……!」
低く呻きながら俺は顔や身体に付いた返り血を片手で拭った。
と――
筆先から零れ落ちた墨のように、黒々としたゼリーのような幾つもの物体が、死んだ怪物を取り囲むようにして、ジュクジュク音を立てて床の隙間から滲み出てきた。
そいつらはブヨブヨと震えながら、倒れ付した怪物の死骸の上に這いあがってゆく。
ジュッ、という肉が焼ける短い音が聞こえた。同時に、鼻腔を突き刺すような凄まじい腐敗臭が漂ってくる。
立ち竦む俺の目の前で、黒ゼリーに覆われた怪物の死骸が腐りグズグズと崩れてゆく。
やがて、それは緑色のネバネバしたよく分からないものに変わり、黒ゼリーたちが、口には見えない口でそれをちゅるちゅる啜り始める。
「げっ……!」
動物のような唸り声をあげて、込み上げる嘔吐感を無理矢理に押さえ、俺はその場から転がるようにして逃げ出していた。黒いゼリーのような怪物達が、俺が殺したヤモリを咀嚼しつくす音を聞きながら。
逃げろ、逃げろ、とにかく逃げろ――!
同じ言葉が呪文のように頭の中で回り始める。安全な場所を探すとか、助けになる人を探すといった合理的なアイデアは浮かんでこなかった。
背後から確かな温度を持って迫る、恐怖と狂気から逃げることしか頭に無かった。
走り、飛び跳ね、転び、這いずって。本能が命じるままに、とにかく逃げて逃げて逃げ回った。
ごげぇ……
走り続ける俺の耳朶にあの厭らしい、痰を絡ませたような唸り声が聞こえた。反射的に俺は声が落ちてきた頭上を見上げる。そして、すぐに後悔した。
ごげぇ……ごげぇ……
アーチ状の天井。ビッシリとそこを埋め尽くすように張り付いていたのは先程のヤモリの怪物の群れ。少なく見ても、五十匹以上はいる。
走り続けながら俺は声もなく笑った。自分が笑っていることに笑った。
人っ子一人いない、廃墟のような地下街を俺は汗まみれ泥まみれで駆けずり回っている。
そう思うと、馬鹿馬鹿しくも滑稽でたまらなかった。
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