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第三幕
木曜日 ~noisy goblins of schoolhouse~ ②
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■2■
暗黒――。
文字通り、鼻を摘まれても分からぬような闇の俺は閉じ込められた。
「畜生、どこまでも人をコケにしやがって……!」
恐怖を紛らわせるかのように悪態をつきながら、俺は背中のリュックサックを手繰り寄せ、その中を必死で弄っていた。
何時までも丸腰じゃ凌ぎきれまいと考え、いろいろと準備してきたのだ。
金城が貸してくれた手鏡は勿論、爺ちゃんの仕事場から失敬して来たレンチ、自転車のチェーン、スプレー缶の殺虫剤、数年前、通販で買った特殊警棒、それに手製の懐中電灯。
使えそうな物は、みんな、手当たり次第に詰め込んできた。これだけあれば、俺の生存率も少しは高くなるはずだ。根拠はないが、そう信じたかった。
小刻みに震える手で俺は懐中電灯のスイッチを入れる。
青みを帯びた光が真っ直ぐに伸び、視界を塗りつぶしていた闇を円形に切り抜く。
「うあぁ……」
思わず、俺は呻いてしまう。
グロテスクなものに対する、ある程度の覚悟はしているつもりだった。
が、照らし出されたその陰惨な光景は、それを軽く陵駕していた。
つい先程、河合先生と一緒に歩いたはずのそこは、もはや学校の廊下などではない。
ジクジクと血膿が滴り、赤紫色に腐った肉に覆われた異形のトンネルと化していた。
腐肉の合間に埋もれた窓と言う窓には、触れれば破傷風になりそうな、腐食しささくれ立った金網が被せられ、乾いた血糊がこびり付いている。
チョロチョロと音を立てて、足元を流れる水は――水だったとして――、優に百年は掃除していない公衆トイレのような猛烈な悪臭を放っていた。
呼吸をするだけで肺から全身が腐っていくような、そんな妄想に駆られる。
とにかく不潔で不快な空間だった。
そこに立っているだけで、ますます気分が重く憂鬱になってゆくのを感じ、俺は小さくかぶりを振った。それから、ふと、薄汚れた窓の向こうに目を向ける。まるで大火事の後のように、黒い煙が漂う校庭が見えた。
そこに置かれていたのは何百、否、何千台もの机。
校舎から運び出すだけでも大変だったろうに、ご丁寧にもピラミッドのように積み重ねられている。
「あれは――」
俺は目を細めた。机でできたピラミッドの頂上――、そこに描かれていたのは、人間の瞳を持つ、不気味な卵の落書き。確か、デュカリ・デュケスの印形とか言う……。地下街ではアレを壊すことで現実の世界に帰ることができた。
「よし……!」
決意に唇を噛み締め、俺は歩き始めた。
今から、俺のなすべきことは二つ。一つは、この迷いの世界を脱出するため、落書きのある校庭への抜け道の確保。そして、もう一つは、井原千夏の痕跡をできうる限り見つけ出すこと。
ここは現実の蛹山第二小学校ではない。迷いの世界の主――井原千夏の記憶や印象、そして強迫観念に基づいて創造された蛹山第二小学校なのだ。
だとすれば、俺が助かるヒントは、この世界にこそあるのかも知れない。
何故、俺をこんな目に合わせるのか、井原千夏の真意も。
懐中電灯の明かりを頼りに注意深く進み続けること数分――、プクプ九と泡立つ血溜まりの中に何かが投げ出されていた。
ランドセルだった。留め金が壊され、蓋が開けっ放しになった赤いランドセル。
「…………」
恐る恐る俺はそれを拾い上げた。
ベットリと染み込んだ血膿がぼたぼたと零れ落ち、俺の手と膝を濡らす。
気持ち悪くて頭がどうかしてしまいそうだったが、そんなことは言っていられない。俺にはどうしても確認したいことがあった。
服の裾をハンカチ代わりに、名札にこびり付いた汚れを拭う。
思った通りだ。
そこに書かれた名前は、井原千夏だった。
無言のまま、俺はランドセルの中身をまさぐる。
出てきたのは――、
ドロドロになって、何と書いているのか判らない数冊の教科書とノート。真ん中でボッキリとへし折られたソプラノ・リコーダー。踏みつけられたらしく、形が歪んでいる缶ペンケース……。
どうしようもない不快感が込み上げ、俺は口元を歪めていた。
まるで殺人現場の遺留品を漁っているような気分だった。
最後に出てきたのは、丁寧に折り畳まれた一枚の画用紙だった。慎重な手つきで俺はそれを開く。画用紙には、見覚えのある筆跡でこう殴り書きされていた。
――もうすぐ掃除の時間だから
「どういう意味だ?」
その短い文章を繰り返し目で追いながら、俺は呟く。
金城の言葉を信じるならば、これは間違いなく迷いの世界の主が俺に向けたメッセージなのだろう。
無意識なのか意識的にそうしているのかは分からない。俺にそれを知る術もない。ただ、今回のメッセージは、以前の物と比べて随分と回りくどい感じがした。
何かを警告しているような印象ではあるが……。
「ああ、もう! こんなもの無視だ、無視無視!」
苛立ちを覚え、俺はその画用紙をクシャクシャに丸めた。
そして、それを腐肉のトンネルの暗闇に向かって投げ捨てた時だった。
「……?」
ハッ、として俺は耳を済ませた。
微かにではあるが、人の話し声が聞こえて来たのだ。
それも、子供か女のような、黄色い声だ。ヒソヒソと囁き合うような声だったので、会話の内容までは分からない。
「げ、幻聴じゃないよな……?」
低く呻きながら、俺はその声が聞こえてくる方向に向かって再び歩き始める。
そして、ある可能性に思い至る。
アマリリスがそうであったように俺以外の人間がこの世界に取り込まれている可能性だってある。例えば、職員室を尋ねる前、廊下ですれ違った子供達。
まさか、あいつらが……!?
だとすれば、放って置くわけにはいかない。
「全く、冗談じゃねえ」
舌打ちしながら俺はリュックサックの中から警棒を取り出す。
バチッ……!
軽く振った警棒の先に青白い火花が散った。
長さ50センチほどの警棒の先端には電極が埋め込まれており、グリップにあるスイッチを抑えることで約8万ボルトの電流を流すことができる。
要は警棒の形をしたスタンガンだ。
インター・ネットでのセール商品を面白半分に買ったものだ。勿論、今までこれを使って誰かを傷つけたことはない。まさか、こんな風に身を守るために使わねばならない日がくるとは夢にも思っていなかった。
やがて――
子供のものと思しき囁き声に導かれるようにして、俺は腐肉のトンネルの端にまで辿り着いていた。そして、目の前に一枚のドアが現れた。
「……あれ?」
腐肉がこびり付いたプレートを見上げ、俺は眉をひそめる。
そこは6年2組だった。この迷いの世界に取り込まれる寸前、河合先生と話をしていた教室だ。
おかしい。元の場所に戻ってきたのか?
戸惑いを覚え、俺はたった今、歩いて来た通路を振り返ってみる。
ただひたすら、真っ直ぐ歩いてきたはずなのに、何故、こんな……?
そこで俺は考えるのをやめた。
この世界では理不尽なことしか起きないのだ。目の前で起こることをいちいち気にしていたら、頭がおかしくなっちまう。……いや、もう、手遅れなのかも知れないが。
息を殺し――、ドアの前で俺は聞き耳を立てていた。中に踏み込む前に少しでも様子を知りたい。
……なあ、昨日のアレ、見た?
聞こえてきたのは、楽しげな子供の声だった。
……うん、見た見た。アレだろ、アレ最高だよな、アレ。
答えるのもやはり子供の声だった。
アレってアレの造りだから最高なんだよね、アレな感じで、と続ける。
アレってなかなか手に入らないじゃんアレなだけにさ。
うん、アレだもんな。そりゃあ、見つけるだけでも難しいんだからなかなか手には入らないよな、アレ。
だから、ほら、盗んできちゃったよアレ。
うわ、お前そんなことやっていいと思ってんの犯罪だよ犯罪、犯罪者だよ。
だからさ、あいつが来た時に備えてもっと準備が必要だと思うんだ、と第三者の声がいきなり、会話を押しのける。
ドア越しに聞き耳を立てているせいか、声に区別がつきにくい。何だか、一人の人間が延々、喋り続けているようにも思える。
あいつには随分、やられちゃったからね。何か対策を立てる必要があるんだ。対策って言ってもね、いろいろ、やり方はあると思うんだ。なにせ、相手が相手だからね。下手をうって全滅なんて洒落にならないもん。
ねぇ、ちょっと、みんな、自分の席につきなさいよ。いつまでも、ワーワー言っていたんじゃ始められないじゃないの……
不意に教室の中が静まり返った。
何だ、今のは?
不自然なまでに明るく、そして噛みあわない会話に俺は胸騒ぎを覚えた。
酷くアンバランスで危険な物がすぐ側にあるような……。
しかし、そんな不吉な重いとは裏腹に俺の手はドアのノブに掛かっていた。
そして、ガラッと音を立ててドアを横に滑らせ、中に足を踏み入れる。
「あっ――」
思わず、俺は声を上げてしまう。
教室はベニヤ板のようなもので窓を塞がれ、真っ暗だった。
そこで俺の目を奪ったのは、黒板の前に降ろされた、ボンヤリと光を放つスクリーン。
その前に、プロジェクターらしき物は、見当たらない。にもかかわらず、スクリーンには沈んだセピア色の映像が幻のようにゆらゆらと揺らめいている。
「これは……」
固唾を呑んで見守る俺の目の前で、映像は次第にピントが合ってゆき――、やがて、それは鮮明なものへと変わってゆく。
映し出されたのは、学校の一室だった。
広さや机の配置から察するに、恐らく職員室だろう。
その片隅で、椅子に腰を降ろした若い女性と小柄な女の子が向き合っている。
困り果てたような表情を浮かべている女性は河合先生だった。今より、外見が少し若い気もするが、見間違いようもない。
そして、先生の前に座る女の子……。艶やかで長い黒髪。目鼻形はパッチリとしていて、肌は透き通るように白い。しかし、その可愛らしい顔に浮かぶ表情は、幼い子供のものとしてはいささか頑なだった。
小さな唇はキュッと噛み締められ、河合先生と視線を合わすことを拒むかのように深く俯いている。あれではジーンズの膝に置いた自分の手しか見えないだろう。
「あ、あのね……」
スクリーンの中で、遠慮がちに河合先生が口火を切る。
「クラスの皆は仲良くしてくれる?」
思い切った質問、と言う感じだった。
しかし、
「…………」
女の子は無言のままだった。
まるで石像にでもなったかのように、同じ姿勢を崩そうとはしない。
「先生ね、隣のクラスの子に教えてもらったのよ。あなたがクラスの子達に、その、酷い意地悪みたいなことをされていたって」
意地悪――。
河合先生の言葉に反応したのか、女の子のか細い肩がピクッと震えた。サーッ、と彼女の顔から血の気が引く音を俺は聞いたような気がした。
「お願いだから、何かお話してくれないかなぁ?」
そんな女の子の変化に気がつかないのか、河合先生が懇願した。
「先生ね、あなたの悪いようには絶対に……」
「なんでもない、です」
河合先生の言葉を遮るようにポツリと女の子が言った。
それは弱々しい、吹けば消し飛んでしまいそうな小さな声だった。
「…………」
「…………」
暫くの間、河合先生と女の子は互いに口を閉ざしたままだった。
やがて、
「……本当なの?」
念を押すように河合先生が女の子に尋ねる。
その口調には、どこか諦めたような響きがあった。
「井原さん。本当に、何も困ったことはない?」
「はい……」
と、やはり消え入るような小さな声で女の子、つまり、――小学生の井原千夏が頷く。
と、場面が切り替わった。夕暮れの赤い光に染まった校庭だ。
そこを一人、項垂れながらトボトボ歩く井原の姿。その表情は、何かを思いつめたかのように険しく、そして蒼白に見えた。
と、彼女が校門の前まで来た時だった。
「おい、待てよ!」
尊大ぶった呼び声が井原の背中を撃ちぬく。
ビクッと身を強張らせた彼女を取り囲むようにして、バタバタ足音を立てて現れたのは七、八人の子供だった。
男の子も女の子も、皆、弱った獲物を目の前にした肉食獣のように爛々と目を輝かせている。嫌らしく前歯をむき出しにして、ニヤニヤ笑っている。見ているだけで気分が悪くなってくるような、不気味なガキどもだった。
そいつらの顔、一つ一つに俺は見覚えがあった。
六年生の時のクラスメイト達だ。
「な、何……?」
怯えたように井原が一歩、後退りした時だった。
取り囲んでいた連中の一人が素早く彼女に駆け寄った。そして、全く手加減を感じさせない勢いで、自分より一回りも小柄な女の子の顔を平手で打ちすえる。
俺は唖然としていた。
何のつもりだ、こいつら?
頬を押さえ、ヨロヨロと足元をふらつかせ、苦しげに喘ぐ井原。ギュッと固く閉ざされた目尻には涙が浮かんでいた。
「おい、死神――」
腕組みをし、偉そうに言ったのは取り囲んだ連中の中でも一際、大柄な男のガキだった。
「お前、先生に呼び出し喰らってたんだってな? 何、話してたんだよ? まさか、俺らのこと、余計なことを話してないだろうな?」
「う、ううん」
今にも泣き出しそうな表情で、小さく首を振る井原。
「何にも、話してないよ……?」
その言葉に、取り囲んだ連中はほっと一安心の表情を浮かばせる。
そんな仲間達をチラッと振り返ってから、
「へぇ、今日はやけに物分りがいいな。少しは学習能力があったのか」
井原を平手打ちしたヤツがニヤニヤしながら言った。
「よーし。それじゃあ、今日は特別に仲良く一緒に遊んでやる。男女対抗でサッカーの試合だ。死神、お前も参加させてやるよ。……いつも通り、ボール役でな」
その言葉に井原の顔が蒼白になってゆく。
ボール役? 何のことだ?
次の瞬間、俺の疑問は氷解した。
「よし、じゃあ、試合開始!」
元気のいい掛け声とともに――、井原の背後に忍び寄っていた二人がその背中に飛び蹴りを加えた。
きゃあっ、と甲高い悲鳴をあげて、勢いよく突き飛ばされる井原。
転倒し、可愛らしい顔が土に汚れた。
そこからは、まるで甘い砂糖に蟻が群がるかのようだった。井原を取り囲んでいた連中が、一斉に彼女に襲い掛かったのだ。倒れ伏した井原の背中や腰を、足の爪先で執拗に蹴りつける。
キモいんだよ、この死神。いっつも暗い顔しやがって。お前を見てるとイライラするんだ。早く、どこかに行っちゃってよ。死んじゃえば。もう、学校に出てくるなよ。ついでに家からも出てくるな……!
容赦なく、井原に浴びせ掛けられる罵声が加速してゆく。
抵抗もできずただ横たわるばかりの女の子に攻撃を加えながら、ガキどもは怒り狂っていた。
同時に一方的な暴力を振るい続けることに恍惚とした喜びの表情を浮かべていた。
つまり、一人残らず完全に発狂していた。
「いい加減にしろ! お前ら!」
耐え切れず、俺は怒鳴り声をあげる。
スクリーンの中の出来事であるというのに、それはまるで目の前で行われているような生々しさを放っていた。
その途端、フィルムが焼き切れたかのように映像が消えた。
そして、頭上でジジッと物が焦げる様な音がして――、刺々しいまでに眩い光が降り注いだ、急に明るくなったせいか、目に極細の針を突き立てられたような痛みが走る。思わず、手で顔を覆いながら、ウァアア、と呻き声をあげてしまう。
それが天井の照明だと気がつくのに数秒かかった。
「畜生……」
唸りながらも、しばらく痛みに耐えていると徐々に視力が戻ってきた。
明かりに照らし出された6年2組の教室は、思った通り、酷い有様だった。
まるで台風でも吹き荒れたかのように横倒しになった、机や椅子。 壁や床、それに天井はグッショリ湿って腐っているらしく、あちこち穴が開いている。
カーテンは何十匹もの猫にじゃれ付かれたかのようにズタボロ。窓は悉く割られ、氷のように冷たい外気が流れ込んでくる。
窓が割れている……!?
慌てて、俺は窓辺に歩み寄ろうとした。
もしかしたら、そこから校庭に脱出できるかも知れない。
だが――
ハッ、として俺は立ち止まる。視界の隅で何か小さい物が動いた。それが見間違い出なかったことを裏付けるかのように、パタパタ小さな足音が俺から遠ざかってゆく。
倒れた机や椅子が邪魔で、その足音の主の姿は見えない。
俺は小さく喉を鳴らし、
「……誰だ?」
押し殺した声でそう呼びかける。
心臓がバクバクと高鳴り、緊張のせいか、全身の筋肉が固く強張っている。
しかし、俺は出来る限りの平静を装っていた。
「そこにいるんだろ? 出て来いよ」
クスッ――
返ってきたのは、俺の臆病さを見透かしたかのような小さな笑い声。こんな時、こんな場所でさえなければ、可愛らしいとすら思えたかもしれない子供の忍び笑いだった。
それは次第に数を増やし、大きく膨れ上がってゆく。
クスクスクスクスクスクスクス……
気がつくと、教室中に子供の笑い声が木霊していた。
呆然と立ち尽くしたまま、俺は奇妙な概視感に襲われる。
これと同じシチュエーション、以前にも遭遇したことがあるような。それも迷いの世界の中の話ではない。現実の世界で、だ。
と――
「痛ッ!」
突然、それは襲ってきた。俺の右肩の後ろに、焼きつくような痛み。肉を突き刺す異物感に顔を歪めながら、反射的に振り返る。
そこ――俺の背中にしがみ付いていたのは、黒く長い体毛を持つ、驚くほど醜悪な生き物だった。
身長はおよそ三十センチ。猿と鼠を足して二で割ったような姿をしていたが、無論、そのどちらでもない。赤ん坊のような小さな手には、算数の授業で使うようなコンパスがしっかりと握り締められていた。
「カハッ……!」
左右の肩甲骨の間にコンパスの針が突き立てられ、大きく開かれた俺の口から空気の漏れ出るような掠れ声が発せられる。
続いて、ジットリと生温かい物が背中に流れ始める。それが自分の血であると気がつくのにさして時間はかからなかった。苦痛に呻く俺を嘲笑うかのようにそいつが顔を覗きこんでくる。
「……!」
半ば予想はしていたものの――、そのアンバランスな姿に俺は息を飲む。
そいつは子供の顔をしていた。ゴムマスクのような、歪な笑顔で固まった子供の顔。
しかも、俺はそいつの顔に見覚えがあった。さっき見た胸糞の悪い映画の中で、井原千夏を殴る蹴るしていたクソガキの一人だ。
「よオ、六道」
俺の背中にしがみ付いたまま、そいつは言った。
まるで、電波障害のラジオのようなひび割れた声だった。
「久しぶりじゃん。まだ生きていたのか?」
「お、お前……」
声をしゃがれさせながら俺は答えた。
思い出したくもない思い出が、脳裏に浮かび上がる。
「まさか、……阿部洋介か?」
「嬉しいねぇ」
今の今まで名前すら忘れていたクラスメイトの顔をした怪物が、ペロッと赤い舌で唇を舐める。プツッ、と嫌な音を立てて、コンパスを背中から引き抜く。
「フルネームで覚えていてくれたなんて、感激だよ。御礼にもっと痛めつけてやる」
「ふざけんな、てめぇ!」
再び、コンパスを振り上げようとした小さな怪物に俺は、恐怖よりも怒りを覚えた。
「離れろ!」
叫びながら手にした警棒を肩越しに突き出し、その先端で怪物の顔を一撃する。
バチッ……!
ゴムが焼けるような嫌な臭いと共に、俺の耳元に青い火花が散った。
ぎやっ、と叫んで、のけぞる怪物。その隙を俺は逃さない。激しく上半身を揺すって、そいつを振り落としてやる。床に叩き付けられ、怪物はグエッと汚らしい呻き声を漏らした。
「くたばれっ!」
良心の呵責など感じている余裕などない。
激情に突き動かされるまま、止めをさそうと俺は警棒を振り下ろした。
しかし、予想以上に怪物の動きは素早かった。身をよじって俺の攻撃を回避。そして、床にはいつくばった姿勢のまま、匍匐前進を始める。そのまま机や椅子の陰へと逃げ込もうとする。
「待て! こいつ……!」
慌てて俺は後を追いかけようとした。逃がしてしまえば、後できっと脅威になる。
しかし――
「まあ、そんなに怒るなよ」
馬鹿にした笑いを含んだ子供の声がまた聞こえた。
「久しぶりなんだから、もっと和気藹々と行こうぜ?」
「そうそう、せっかく、みんな揃ったんだから」
口々に勝手なことを言いながら、そいつらはゾロゾロと這い出してきた。
ひっくり返った机や椅子、教団、ゴミ箱、それに穴の開いた床下から。
「お前ら……」
呻きながら、俺はドット冷や汗が全身に溢れるのを感じた。
そいつら一人一人――いや、一匹一匹の顔に見覚えがあった。阿部洋介と同じく、俺が六年生の時のクラスメイト達だ。半人半獣のような姿をした怪物どもだ。
怪物どもはそれぞれ鋏やカッターナイフ、千枚通し、彫刻刀、それに金槌など思い思いの道具を手にしていた。
それを使って、これから共同作業を楽しく始める腹なのだろう。この世界に入り込んだ異物、すなわち俺の解体作業だ。
「や、やめてくれ!」
わらわらと飛び掛ってくる小さな怪物どもに俺は悲鳴をあげていた。
「近寄るな! あっちに行け!」
思わず目をつぶり、手にした警棒を闇雲に振り回す。
二度、三度と警棒は空を切ったが――、四度目で柔らかい粘土を殴りつけたような感触があった。
血反吐を吐きながら、怪物が一匹、俺の足元に落ちる。
随分とドン臭いヤツだ。半ばヤケッパチのような俺の一撃であばら骨を追ってしまったらしい。泡を吹いて、キーキーと苦しげにもがいている。
ざまーみろ!
忌々しい害虫を踏み潰した時のような暗い喜びが込み上げ、俺はほくそえんだ。トドメとばかりに俺はそいつの頭を踏み潰そうとする。
が、それよりも早く、他の怪物が傷ついた仲間の両足を引っ掴んで、その場から離れるほうが早かった。健気にも傷ついた仲間を助けようとしている、――わけではなかった。
俺の手の届かない場所に引き摺っていかれた瀕死の怪物の周りを他の連中が素早く取り囲む。そして、無造作に鈎爪の生えた手を伸ばし、そいつの腹の肉を鮮やかにもぎ取った。
ゴリゴリ、グチュグチュ、クチャクチャ……
聞いているだけで胸が悪くなるような咀嚼音を立てて、仲間を貪り始める怪物達。
他の連中もそのむせ返る様な血と肉の臭いをかいだ途端、俺のことなどどうでも良くなったらしい。ワッと歓声を上げ、仲間の死骸に殺到する。我先にとその死肉を引き千切り、口一杯、頬張ってモグモグやり始めた。
ああ、神様。
共食いです。
こいつら、共食いを始めました……!
そのあまりにも浅ましく、おぞましい光景に俺は強烈な吐き気を覚えた。
しかし、気絶などしている場合じゃない。
やつらが夢中で仲間の死骸をむさぼっている間にこの教室を抜け出さねば……。
そう決意し、転がるようにして俺はドアへと引き返す。
ブウッ……!
死骸に群がる怪物の一匹が豪快な屁をこきやがった。
「最悪だ、こいつら……」
嫌悪感に顔をくしゃくしゃにしながら、ドアの向こうへと俺は身体を滑り込ませた。
暗黒――。
文字通り、鼻を摘まれても分からぬような闇の俺は閉じ込められた。
「畜生、どこまでも人をコケにしやがって……!」
恐怖を紛らわせるかのように悪態をつきながら、俺は背中のリュックサックを手繰り寄せ、その中を必死で弄っていた。
何時までも丸腰じゃ凌ぎきれまいと考え、いろいろと準備してきたのだ。
金城が貸してくれた手鏡は勿論、爺ちゃんの仕事場から失敬して来たレンチ、自転車のチェーン、スプレー缶の殺虫剤、数年前、通販で買った特殊警棒、それに手製の懐中電灯。
使えそうな物は、みんな、手当たり次第に詰め込んできた。これだけあれば、俺の生存率も少しは高くなるはずだ。根拠はないが、そう信じたかった。
小刻みに震える手で俺は懐中電灯のスイッチを入れる。
青みを帯びた光が真っ直ぐに伸び、視界を塗りつぶしていた闇を円形に切り抜く。
「うあぁ……」
思わず、俺は呻いてしまう。
グロテスクなものに対する、ある程度の覚悟はしているつもりだった。
が、照らし出されたその陰惨な光景は、それを軽く陵駕していた。
つい先程、河合先生と一緒に歩いたはずのそこは、もはや学校の廊下などではない。
ジクジクと血膿が滴り、赤紫色に腐った肉に覆われた異形のトンネルと化していた。
腐肉の合間に埋もれた窓と言う窓には、触れれば破傷風になりそうな、腐食しささくれ立った金網が被せられ、乾いた血糊がこびり付いている。
チョロチョロと音を立てて、足元を流れる水は――水だったとして――、優に百年は掃除していない公衆トイレのような猛烈な悪臭を放っていた。
呼吸をするだけで肺から全身が腐っていくような、そんな妄想に駆られる。
とにかく不潔で不快な空間だった。
そこに立っているだけで、ますます気分が重く憂鬱になってゆくのを感じ、俺は小さくかぶりを振った。それから、ふと、薄汚れた窓の向こうに目を向ける。まるで大火事の後のように、黒い煙が漂う校庭が見えた。
そこに置かれていたのは何百、否、何千台もの机。
校舎から運び出すだけでも大変だったろうに、ご丁寧にもピラミッドのように積み重ねられている。
「あれは――」
俺は目を細めた。机でできたピラミッドの頂上――、そこに描かれていたのは、人間の瞳を持つ、不気味な卵の落書き。確か、デュカリ・デュケスの印形とか言う……。地下街ではアレを壊すことで現実の世界に帰ることができた。
「よし……!」
決意に唇を噛み締め、俺は歩き始めた。
今から、俺のなすべきことは二つ。一つは、この迷いの世界を脱出するため、落書きのある校庭への抜け道の確保。そして、もう一つは、井原千夏の痕跡をできうる限り見つけ出すこと。
ここは現実の蛹山第二小学校ではない。迷いの世界の主――井原千夏の記憶や印象、そして強迫観念に基づいて創造された蛹山第二小学校なのだ。
だとすれば、俺が助かるヒントは、この世界にこそあるのかも知れない。
何故、俺をこんな目に合わせるのか、井原千夏の真意も。
懐中電灯の明かりを頼りに注意深く進み続けること数分――、プクプ九と泡立つ血溜まりの中に何かが投げ出されていた。
ランドセルだった。留め金が壊され、蓋が開けっ放しになった赤いランドセル。
「…………」
恐る恐る俺はそれを拾い上げた。
ベットリと染み込んだ血膿がぼたぼたと零れ落ち、俺の手と膝を濡らす。
気持ち悪くて頭がどうかしてしまいそうだったが、そんなことは言っていられない。俺にはどうしても確認したいことがあった。
服の裾をハンカチ代わりに、名札にこびり付いた汚れを拭う。
思った通りだ。
そこに書かれた名前は、井原千夏だった。
無言のまま、俺はランドセルの中身をまさぐる。
出てきたのは――、
ドロドロになって、何と書いているのか判らない数冊の教科書とノート。真ん中でボッキリとへし折られたソプラノ・リコーダー。踏みつけられたらしく、形が歪んでいる缶ペンケース……。
どうしようもない不快感が込み上げ、俺は口元を歪めていた。
まるで殺人現場の遺留品を漁っているような気分だった。
最後に出てきたのは、丁寧に折り畳まれた一枚の画用紙だった。慎重な手つきで俺はそれを開く。画用紙には、見覚えのある筆跡でこう殴り書きされていた。
――もうすぐ掃除の時間だから
「どういう意味だ?」
その短い文章を繰り返し目で追いながら、俺は呟く。
金城の言葉を信じるならば、これは間違いなく迷いの世界の主が俺に向けたメッセージなのだろう。
無意識なのか意識的にそうしているのかは分からない。俺にそれを知る術もない。ただ、今回のメッセージは、以前の物と比べて随分と回りくどい感じがした。
何かを警告しているような印象ではあるが……。
「ああ、もう! こんなもの無視だ、無視無視!」
苛立ちを覚え、俺はその画用紙をクシャクシャに丸めた。
そして、それを腐肉のトンネルの暗闇に向かって投げ捨てた時だった。
「……?」
ハッ、として俺は耳を済ませた。
微かにではあるが、人の話し声が聞こえて来たのだ。
それも、子供か女のような、黄色い声だ。ヒソヒソと囁き合うような声だったので、会話の内容までは分からない。
「げ、幻聴じゃないよな……?」
低く呻きながら、俺はその声が聞こえてくる方向に向かって再び歩き始める。
そして、ある可能性に思い至る。
アマリリスがそうであったように俺以外の人間がこの世界に取り込まれている可能性だってある。例えば、職員室を尋ねる前、廊下ですれ違った子供達。
まさか、あいつらが……!?
だとすれば、放って置くわけにはいかない。
「全く、冗談じゃねえ」
舌打ちしながら俺はリュックサックの中から警棒を取り出す。
バチッ……!
軽く振った警棒の先に青白い火花が散った。
長さ50センチほどの警棒の先端には電極が埋め込まれており、グリップにあるスイッチを抑えることで約8万ボルトの電流を流すことができる。
要は警棒の形をしたスタンガンだ。
インター・ネットでのセール商品を面白半分に買ったものだ。勿論、今までこれを使って誰かを傷つけたことはない。まさか、こんな風に身を守るために使わねばならない日がくるとは夢にも思っていなかった。
やがて――
子供のものと思しき囁き声に導かれるようにして、俺は腐肉のトンネルの端にまで辿り着いていた。そして、目の前に一枚のドアが現れた。
「……あれ?」
腐肉がこびり付いたプレートを見上げ、俺は眉をひそめる。
そこは6年2組だった。この迷いの世界に取り込まれる寸前、河合先生と話をしていた教室だ。
おかしい。元の場所に戻ってきたのか?
戸惑いを覚え、俺はたった今、歩いて来た通路を振り返ってみる。
ただひたすら、真っ直ぐ歩いてきたはずなのに、何故、こんな……?
そこで俺は考えるのをやめた。
この世界では理不尽なことしか起きないのだ。目の前で起こることをいちいち気にしていたら、頭がおかしくなっちまう。……いや、もう、手遅れなのかも知れないが。
息を殺し――、ドアの前で俺は聞き耳を立てていた。中に踏み込む前に少しでも様子を知りたい。
……なあ、昨日のアレ、見た?
聞こえてきたのは、楽しげな子供の声だった。
……うん、見た見た。アレだろ、アレ最高だよな、アレ。
答えるのもやはり子供の声だった。
アレってアレの造りだから最高なんだよね、アレな感じで、と続ける。
アレってなかなか手に入らないじゃんアレなだけにさ。
うん、アレだもんな。そりゃあ、見つけるだけでも難しいんだからなかなか手には入らないよな、アレ。
だから、ほら、盗んできちゃったよアレ。
うわ、お前そんなことやっていいと思ってんの犯罪だよ犯罪、犯罪者だよ。
だからさ、あいつが来た時に備えてもっと準備が必要だと思うんだ、と第三者の声がいきなり、会話を押しのける。
ドア越しに聞き耳を立てているせいか、声に区別がつきにくい。何だか、一人の人間が延々、喋り続けているようにも思える。
あいつには随分、やられちゃったからね。何か対策を立てる必要があるんだ。対策って言ってもね、いろいろ、やり方はあると思うんだ。なにせ、相手が相手だからね。下手をうって全滅なんて洒落にならないもん。
ねぇ、ちょっと、みんな、自分の席につきなさいよ。いつまでも、ワーワー言っていたんじゃ始められないじゃないの……
不意に教室の中が静まり返った。
何だ、今のは?
不自然なまでに明るく、そして噛みあわない会話に俺は胸騒ぎを覚えた。
酷くアンバランスで危険な物がすぐ側にあるような……。
しかし、そんな不吉な重いとは裏腹に俺の手はドアのノブに掛かっていた。
そして、ガラッと音を立ててドアを横に滑らせ、中に足を踏み入れる。
「あっ――」
思わず、俺は声を上げてしまう。
教室はベニヤ板のようなもので窓を塞がれ、真っ暗だった。
そこで俺の目を奪ったのは、黒板の前に降ろされた、ボンヤリと光を放つスクリーン。
その前に、プロジェクターらしき物は、見当たらない。にもかかわらず、スクリーンには沈んだセピア色の映像が幻のようにゆらゆらと揺らめいている。
「これは……」
固唾を呑んで見守る俺の目の前で、映像は次第にピントが合ってゆき――、やがて、それは鮮明なものへと変わってゆく。
映し出されたのは、学校の一室だった。
広さや机の配置から察するに、恐らく職員室だろう。
その片隅で、椅子に腰を降ろした若い女性と小柄な女の子が向き合っている。
困り果てたような表情を浮かべている女性は河合先生だった。今より、外見が少し若い気もするが、見間違いようもない。
そして、先生の前に座る女の子……。艶やかで長い黒髪。目鼻形はパッチリとしていて、肌は透き通るように白い。しかし、その可愛らしい顔に浮かぶ表情は、幼い子供のものとしてはいささか頑なだった。
小さな唇はキュッと噛み締められ、河合先生と視線を合わすことを拒むかのように深く俯いている。あれではジーンズの膝に置いた自分の手しか見えないだろう。
「あ、あのね……」
スクリーンの中で、遠慮がちに河合先生が口火を切る。
「クラスの皆は仲良くしてくれる?」
思い切った質問、と言う感じだった。
しかし、
「…………」
女の子は無言のままだった。
まるで石像にでもなったかのように、同じ姿勢を崩そうとはしない。
「先生ね、隣のクラスの子に教えてもらったのよ。あなたがクラスの子達に、その、酷い意地悪みたいなことをされていたって」
意地悪――。
河合先生の言葉に反応したのか、女の子のか細い肩がピクッと震えた。サーッ、と彼女の顔から血の気が引く音を俺は聞いたような気がした。
「お願いだから、何かお話してくれないかなぁ?」
そんな女の子の変化に気がつかないのか、河合先生が懇願した。
「先生ね、あなたの悪いようには絶対に……」
「なんでもない、です」
河合先生の言葉を遮るようにポツリと女の子が言った。
それは弱々しい、吹けば消し飛んでしまいそうな小さな声だった。
「…………」
「…………」
暫くの間、河合先生と女の子は互いに口を閉ざしたままだった。
やがて、
「……本当なの?」
念を押すように河合先生が女の子に尋ねる。
その口調には、どこか諦めたような響きがあった。
「井原さん。本当に、何も困ったことはない?」
「はい……」
と、やはり消え入るような小さな声で女の子、つまり、――小学生の井原千夏が頷く。
と、場面が切り替わった。夕暮れの赤い光に染まった校庭だ。
そこを一人、項垂れながらトボトボ歩く井原の姿。その表情は、何かを思いつめたかのように険しく、そして蒼白に見えた。
と、彼女が校門の前まで来た時だった。
「おい、待てよ!」
尊大ぶった呼び声が井原の背中を撃ちぬく。
ビクッと身を強張らせた彼女を取り囲むようにして、バタバタ足音を立てて現れたのは七、八人の子供だった。
男の子も女の子も、皆、弱った獲物を目の前にした肉食獣のように爛々と目を輝かせている。嫌らしく前歯をむき出しにして、ニヤニヤ笑っている。見ているだけで気分が悪くなってくるような、不気味なガキどもだった。
そいつらの顔、一つ一つに俺は見覚えがあった。
六年生の時のクラスメイト達だ。
「な、何……?」
怯えたように井原が一歩、後退りした時だった。
取り囲んでいた連中の一人が素早く彼女に駆け寄った。そして、全く手加減を感じさせない勢いで、自分より一回りも小柄な女の子の顔を平手で打ちすえる。
俺は唖然としていた。
何のつもりだ、こいつら?
頬を押さえ、ヨロヨロと足元をふらつかせ、苦しげに喘ぐ井原。ギュッと固く閉ざされた目尻には涙が浮かんでいた。
「おい、死神――」
腕組みをし、偉そうに言ったのは取り囲んだ連中の中でも一際、大柄な男のガキだった。
「お前、先生に呼び出し喰らってたんだってな? 何、話してたんだよ? まさか、俺らのこと、余計なことを話してないだろうな?」
「う、ううん」
今にも泣き出しそうな表情で、小さく首を振る井原。
「何にも、話してないよ……?」
その言葉に、取り囲んだ連中はほっと一安心の表情を浮かばせる。
そんな仲間達をチラッと振り返ってから、
「へぇ、今日はやけに物分りがいいな。少しは学習能力があったのか」
井原を平手打ちしたヤツがニヤニヤしながら言った。
「よーし。それじゃあ、今日は特別に仲良く一緒に遊んでやる。男女対抗でサッカーの試合だ。死神、お前も参加させてやるよ。……いつも通り、ボール役でな」
その言葉に井原の顔が蒼白になってゆく。
ボール役? 何のことだ?
次の瞬間、俺の疑問は氷解した。
「よし、じゃあ、試合開始!」
元気のいい掛け声とともに――、井原の背後に忍び寄っていた二人がその背中に飛び蹴りを加えた。
きゃあっ、と甲高い悲鳴をあげて、勢いよく突き飛ばされる井原。
転倒し、可愛らしい顔が土に汚れた。
そこからは、まるで甘い砂糖に蟻が群がるかのようだった。井原を取り囲んでいた連中が、一斉に彼女に襲い掛かったのだ。倒れ伏した井原の背中や腰を、足の爪先で執拗に蹴りつける。
キモいんだよ、この死神。いっつも暗い顔しやがって。お前を見てるとイライラするんだ。早く、どこかに行っちゃってよ。死んじゃえば。もう、学校に出てくるなよ。ついでに家からも出てくるな……!
容赦なく、井原に浴びせ掛けられる罵声が加速してゆく。
抵抗もできずただ横たわるばかりの女の子に攻撃を加えながら、ガキどもは怒り狂っていた。
同時に一方的な暴力を振るい続けることに恍惚とした喜びの表情を浮かべていた。
つまり、一人残らず完全に発狂していた。
「いい加減にしろ! お前ら!」
耐え切れず、俺は怒鳴り声をあげる。
スクリーンの中の出来事であるというのに、それはまるで目の前で行われているような生々しさを放っていた。
その途端、フィルムが焼き切れたかのように映像が消えた。
そして、頭上でジジッと物が焦げる様な音がして――、刺々しいまでに眩い光が降り注いだ、急に明るくなったせいか、目に極細の針を突き立てられたような痛みが走る。思わず、手で顔を覆いながら、ウァアア、と呻き声をあげてしまう。
それが天井の照明だと気がつくのに数秒かかった。
「畜生……」
唸りながらも、しばらく痛みに耐えていると徐々に視力が戻ってきた。
明かりに照らし出された6年2組の教室は、思った通り、酷い有様だった。
まるで台風でも吹き荒れたかのように横倒しになった、机や椅子。 壁や床、それに天井はグッショリ湿って腐っているらしく、あちこち穴が開いている。
カーテンは何十匹もの猫にじゃれ付かれたかのようにズタボロ。窓は悉く割られ、氷のように冷たい外気が流れ込んでくる。
窓が割れている……!?
慌てて、俺は窓辺に歩み寄ろうとした。
もしかしたら、そこから校庭に脱出できるかも知れない。
だが――
ハッ、として俺は立ち止まる。視界の隅で何か小さい物が動いた。それが見間違い出なかったことを裏付けるかのように、パタパタ小さな足音が俺から遠ざかってゆく。
倒れた机や椅子が邪魔で、その足音の主の姿は見えない。
俺は小さく喉を鳴らし、
「……誰だ?」
押し殺した声でそう呼びかける。
心臓がバクバクと高鳴り、緊張のせいか、全身の筋肉が固く強張っている。
しかし、俺は出来る限りの平静を装っていた。
「そこにいるんだろ? 出て来いよ」
クスッ――
返ってきたのは、俺の臆病さを見透かしたかのような小さな笑い声。こんな時、こんな場所でさえなければ、可愛らしいとすら思えたかもしれない子供の忍び笑いだった。
それは次第に数を増やし、大きく膨れ上がってゆく。
クスクスクスクスクスクスクス……
気がつくと、教室中に子供の笑い声が木霊していた。
呆然と立ち尽くしたまま、俺は奇妙な概視感に襲われる。
これと同じシチュエーション、以前にも遭遇したことがあるような。それも迷いの世界の中の話ではない。現実の世界で、だ。
と――
「痛ッ!」
突然、それは襲ってきた。俺の右肩の後ろに、焼きつくような痛み。肉を突き刺す異物感に顔を歪めながら、反射的に振り返る。
そこ――俺の背中にしがみ付いていたのは、黒く長い体毛を持つ、驚くほど醜悪な生き物だった。
身長はおよそ三十センチ。猿と鼠を足して二で割ったような姿をしていたが、無論、そのどちらでもない。赤ん坊のような小さな手には、算数の授業で使うようなコンパスがしっかりと握り締められていた。
「カハッ……!」
左右の肩甲骨の間にコンパスの針が突き立てられ、大きく開かれた俺の口から空気の漏れ出るような掠れ声が発せられる。
続いて、ジットリと生温かい物が背中に流れ始める。それが自分の血であると気がつくのにさして時間はかからなかった。苦痛に呻く俺を嘲笑うかのようにそいつが顔を覗きこんでくる。
「……!」
半ば予想はしていたものの――、そのアンバランスな姿に俺は息を飲む。
そいつは子供の顔をしていた。ゴムマスクのような、歪な笑顔で固まった子供の顔。
しかも、俺はそいつの顔に見覚えがあった。さっき見た胸糞の悪い映画の中で、井原千夏を殴る蹴るしていたクソガキの一人だ。
「よオ、六道」
俺の背中にしがみ付いたまま、そいつは言った。
まるで、電波障害のラジオのようなひび割れた声だった。
「久しぶりじゃん。まだ生きていたのか?」
「お、お前……」
声をしゃがれさせながら俺は答えた。
思い出したくもない思い出が、脳裏に浮かび上がる。
「まさか、……阿部洋介か?」
「嬉しいねぇ」
今の今まで名前すら忘れていたクラスメイトの顔をした怪物が、ペロッと赤い舌で唇を舐める。プツッ、と嫌な音を立てて、コンパスを背中から引き抜く。
「フルネームで覚えていてくれたなんて、感激だよ。御礼にもっと痛めつけてやる」
「ふざけんな、てめぇ!」
再び、コンパスを振り上げようとした小さな怪物に俺は、恐怖よりも怒りを覚えた。
「離れろ!」
叫びながら手にした警棒を肩越しに突き出し、その先端で怪物の顔を一撃する。
バチッ……!
ゴムが焼けるような嫌な臭いと共に、俺の耳元に青い火花が散った。
ぎやっ、と叫んで、のけぞる怪物。その隙を俺は逃さない。激しく上半身を揺すって、そいつを振り落としてやる。床に叩き付けられ、怪物はグエッと汚らしい呻き声を漏らした。
「くたばれっ!」
良心の呵責など感じている余裕などない。
激情に突き動かされるまま、止めをさそうと俺は警棒を振り下ろした。
しかし、予想以上に怪物の動きは素早かった。身をよじって俺の攻撃を回避。そして、床にはいつくばった姿勢のまま、匍匐前進を始める。そのまま机や椅子の陰へと逃げ込もうとする。
「待て! こいつ……!」
慌てて俺は後を追いかけようとした。逃がしてしまえば、後できっと脅威になる。
しかし――
「まあ、そんなに怒るなよ」
馬鹿にした笑いを含んだ子供の声がまた聞こえた。
「久しぶりなんだから、もっと和気藹々と行こうぜ?」
「そうそう、せっかく、みんな揃ったんだから」
口々に勝手なことを言いながら、そいつらはゾロゾロと這い出してきた。
ひっくり返った机や椅子、教団、ゴミ箱、それに穴の開いた床下から。
「お前ら……」
呻きながら、俺はドット冷や汗が全身に溢れるのを感じた。
そいつら一人一人――いや、一匹一匹の顔に見覚えがあった。阿部洋介と同じく、俺が六年生の時のクラスメイト達だ。半人半獣のような姿をした怪物どもだ。
怪物どもはそれぞれ鋏やカッターナイフ、千枚通し、彫刻刀、それに金槌など思い思いの道具を手にしていた。
それを使って、これから共同作業を楽しく始める腹なのだろう。この世界に入り込んだ異物、すなわち俺の解体作業だ。
「や、やめてくれ!」
わらわらと飛び掛ってくる小さな怪物どもに俺は悲鳴をあげていた。
「近寄るな! あっちに行け!」
思わず目をつぶり、手にした警棒を闇雲に振り回す。
二度、三度と警棒は空を切ったが――、四度目で柔らかい粘土を殴りつけたような感触があった。
血反吐を吐きながら、怪物が一匹、俺の足元に落ちる。
随分とドン臭いヤツだ。半ばヤケッパチのような俺の一撃であばら骨を追ってしまったらしい。泡を吹いて、キーキーと苦しげにもがいている。
ざまーみろ!
忌々しい害虫を踏み潰した時のような暗い喜びが込み上げ、俺はほくそえんだ。トドメとばかりに俺はそいつの頭を踏み潰そうとする。
が、それよりも早く、他の怪物が傷ついた仲間の両足を引っ掴んで、その場から離れるほうが早かった。健気にも傷ついた仲間を助けようとしている、――わけではなかった。
俺の手の届かない場所に引き摺っていかれた瀕死の怪物の周りを他の連中が素早く取り囲む。そして、無造作に鈎爪の生えた手を伸ばし、そいつの腹の肉を鮮やかにもぎ取った。
ゴリゴリ、グチュグチュ、クチャクチャ……
聞いているだけで胸が悪くなるような咀嚼音を立てて、仲間を貪り始める怪物達。
他の連中もそのむせ返る様な血と肉の臭いをかいだ途端、俺のことなどどうでも良くなったらしい。ワッと歓声を上げ、仲間の死骸に殺到する。我先にとその死肉を引き千切り、口一杯、頬張ってモグモグやり始めた。
ああ、神様。
共食いです。
こいつら、共食いを始めました……!
そのあまりにも浅ましく、おぞましい光景に俺は強烈な吐き気を覚えた。
しかし、気絶などしている場合じゃない。
やつらが夢中で仲間の死骸をむさぼっている間にこの教室を抜け出さねば……。
そう決意し、転がるようにして俺はドアへと引き返す。
ブウッ……!
死骸に群がる怪物の一匹が豪快な屁をこきやがった。
「最悪だ、こいつら……」
嫌悪感に顔をくしゃくしゃにしながら、ドアの向こうへと俺は身体を滑り込ませた。
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