迷界のアマリリス

wadaken1

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おまけ 或いは蛇足

カットシーン①

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※作者メモ

以下は刊行当時、ページ数の問題で割愛され、単行本未収録のエピソードです。全話お読みいただいた後、サッと目を通していただければ幸いです。

 ■1■

 昼下がり。
 オフィス街の一角にある、四階建ての雑居ビル。
 まだ真新しいその建物には、一階に整骨院と喫茶店、二階は古本屋とアンティークショップ、そして三階には不動産事務所が店子として入っている。そして現在、俺が籍を置いているフリースクール、目白アカデミーはその四階にあった。
 その教室の最後尾にて……
 ノートを開いた机の上で頬杖をつき、教壇に立つ講師の抑揚のない声に俺はグッタリ耳を傾けていた。
 えー、プランクトンとは、浮遊生物のことであり、水中を漂って生活する生物を指す言葉であります。一般に光合成を行うものを植物プランクトン、摂食を行うものを動物プランクトンといいまして前者の代表がランソウ、後者がミジンコですな。ミジンコは、ほれ、メダカの餌になりまして、昔はこの辺りの川も綺麗で子供がメダカ取りに興じていたものです。いやあ、あの頃は良かったですなぁ。今みたいに便利ではなかったけれど空気や水が綺麗で、これ、そこ、よそ見をするのはやめなさい……
 頭の中が、霧でもかかっているかのようにモヤモヤしている。
 首筋が見えない手に鷲掴みされているかのように痛い。
 当然のように、久しぶりに出席した講義には集中できず、俺は蚊の鳴くような小さな溜息をついて、窓の向こう――しとしと降る雨に濡れる、通りに視線を向けていた。
 明るい教室の中とは対照的に、雨の街は昼間だというのにどんよりと暗い。
 行き交う車にはヘッドライトが灯され、通行人はまばらだ。
 ……眠い。眠たすぎる。
 ゴシゴシと目をこすりながら俺は溜息をつく。
 昨夜は、いつもより早めに寝床に着いたのだが、ほとんど眠れなかった。
 それは地下街――夢ノ宮プラザで俺を襲った奇怪な出来事だけが原因じゃない。
 小学生の頃から使っている、俺の勉強机。鍵を失くし、長年、空けることもなかった、その引き出しの中から出てきたのは一枚の似顔絵だった。
 我ながら薄情なやつだと思うのだが、それをいつ、誰に描いてもらったのか、俺は全く記憶していない。まあ、小学生の俺が描かれているのだから、仲良くしていた同級生か何かなのだろうが、昨夜まで俺は似顔絵の存在自体を忘れていた。
 そして、それが目にした途端、俺は言いようもない胸騒ぎに襲われたのだった。
 それは大切な物を、どこだか分からない場所に置き忘れてしまったかのような焦燥と後ろめたさを混ぜこぜにした様な、複雑な感情だった。
「一体、何だって言うんだよ、畜生……」
 コツン、と小さな音を立てて俺は糸の切れた操り人形のように机に突っ伏していた。
 三軒隣の家から聞こえてくる、読経のような講義はまだ続いている。
 しかし、もはや、俺の耳にはその内容が入ってこない。
通りを走る車のクラクションや講師に質問する生徒の声がぼわぁん、ぼわぁんと響いて、自分がまるで水の底にいるような非現実的な感覚が俺を捕らえている。
 非現実と言えば、昨日の出来事も、その時は死にたくないと必死だったが、今となってはまるで現実感がない。
 誰かが見ていた悪夢の中に登場人物として強制参加させられたような気分だ。
 しかし、あれは夢でも幻でもなく、間違いなく現実の出来事なのだ。
 何故なら俺は西出口付近に置いてあった自動販売機の中から長年失くしていたと思い込んでいた机の鍵を見つけて、そして――
 難解な迷路に行き詰まった時のように、同じことをグルグル繰り返し考えている自分に俺は気がついた。
 やめたやめた、もう、やめた……。
 見ず知らずの女の子からの電話など、気がかりなことは山ほどあるが、あんな人外境な出来事、俺にどうこうできるわけがない。
 これ以上、深追いしてもいいことがあるとはとても思えない。
 嫌なことは早く忘れてしまうに限る。
 そう結論付け、俺は重い瞼を微かに開き、白い壁に掛けられた時計を見た。
 ……講義が終るまで、まだ三十分以上もある。
 頭が痛くなるのを感じながら、俺はギュッと両目を堅く閉ざした。


 なぁ、今日、これからどうする? 
 カラオケにでも行くか。
 いや、俺はバイトがあるから。
 バイトって何のバイトだよ。清掃業だよ、うん。道端にさ、蛙の卵みたいな変なのが時々落ちているだろ、あれを掃除するんだよ。ふーん、それで時給はいいのかよ。いいさ、バイトはバイトでもちょっと特殊なバイトだからな、あれは。
 遠ざかってゆく他愛のない会話。
「………………」
 いつの間にか、俺は本格的に居眠りしてしまっていた。
 講義は既に終ったらしく、教室に講師の姿はなく、まばらに居残った生徒達がダラダラと駄弁っている。
 ああ、そう言えば、水曜日は生物で全講義終了だったな……。
 口をモグモグさせながら、ボンヤリとそう思った時だった。
「――六道歩君」
 フルネームで俺を呼ぶ声があった。
「へ?」
 寝ぼけた頭のまま、俺は顔をあげた。
 自分でも情けなくなるくらいアホ面をしているんだろうなと思いながら。
 しかし、次の瞬間、すっかり眠気が醒めていた。
 俺の前に立っていたのは、今から葬式にでも行くのかと思わせるような、黒一色の衣服にほっそりとした身を包んだ若い女だった。
 若いと言っても、俺より少し年上で、二十歳そこそこ。
 綺麗なクレオパトラカットの下にある小さな顔は、まるで女優かモデルのように整っている。じっと俺を見つめる大きな栗色の瞳は、息を呑むほど美しく澄んではいたが、どんな思考が巡らされているのか読み取ることはできなかった。
 彼女の名は金原多恵。挨拶以外、ほとんど口を聞いたこともないのだが、俺と同じ、ここ目白アカデミーの生徒の一人である。
 小耳に挟んだ話によると、彼女は繁華街にある占いハウスに所属するプロの占い師だそうだ。的中率が高いらしく、街の若者達――特に若い女性達からの支持が篤く、占ってもらうには予約が必要らしい。
 ちなみにフリースクールとは、俺のように何らかの事情があって普通の学校に通えなくなった、あるいは通えない人間のための民間の教育施設だ。ここ、目白アカデミーの生徒は大半が俺と同じ十代後半だが、金原のように定職を持ち、その合間に通学する人も僅かながらいた。
 しばらくの間、俺と黒尽くめの女――金原は見つめあっていた。
「……あ、あのさ、金原さん」
 何とも言えない、居心地の悪さに耐え切れず先に口を切ったのは俺のほうだった。
「何か、俺に――」
「私に何か用事があるんでしょう」
 淡々とした口調で、言おうとしていたことを先に言われ、俺は言葉を失くす。
いや、俺は「何か用事?」と尋ねようとしていたことに対し、金原は断定の物言いだ。
 思った通り、変な女だな……。
 金原の華奢な身体から放たれる、不可解な圧力に俺はたじろいでいた。男だろうと女だろうと、こういう、何を考えているのか容易には分からないタイプは、俺は苦手だ。
 しかし、金原は所謂、不思議ちゃんタイプとは違う気もする。
 さて、ここはどう対応したものか……
 困惑し、上目遣いになった俺をジッと見返しながら、
「悪いけど」
 やはり金原は淡々とした口調で続けた。
「今日は占いの予約客が八件も入っていて忙しいの。今は大雑把なアドバイスだけにしておくわね」
「へ? アドバイス……」
 首を傾げた俺の顔に金原の白い繊手がすっと伸びた。
 両耳を塞ぐようにしてそっと俺の顔を挟む。
「ちょっ、何だよ……!」
「動かないで」
 いきなり額を寄せられ、思わず赤くなった俺に瞑目した金原が端的に命じる。
 そして、柔らかな手で俺の頭をゆらゆらと揺らしながら、形の良い唇の中で何事かをブツブツ呟き始める。
 こいつは不思議ちゃんと言うよりは、電波かも知れない。
 突然、始まった奇行に俺は思わず表情が強張るのを感じた。
 傍から見れば、それは随分と奇妙な光景に映っただろう。
 しかし、それでも金原の手を払いのけなかったのは、綺麗なお姉さんに顔を間近に寄せられて満更でもない、俺のスケベ心がなかったとは言いがたい。なははは……。
 まあ、それはともかくとして――
「……よく生命が無事だったわね」
 口の中でブツブツ呟くのをやめ、ほとんど聞き取れないような小さな声で金原が言った。
 脳天に突き刺さるようなナイフのような衝撃が走った。ギョッとして目を見開く俺には構わず、相変わらず、淡々とした口調で続ける。
「だけど、この次は上手く帰れるかどうか。……君に纏わりついている厭な力、ちょっとやそっとじゃ消えそうにないもの」
「な、何で……」
 あんた、アレを知ってるんだよ?
 思わず漏れ出そうになった言葉を俺は慌てて飲み込んでいた。
 思わせぶりなことを言って相手の不安を煽る。そんなの霊感商法では常套手段じゃねえか……。
「ねぇ、六道歩君――」
 金原の睫毛が長い瞼がゆっくりと開く。
 大きな栗色の瞳には、強張った俺の顔が映っていた。
「このままだとキミ、飲み込まれて消えちゃうよ」
 哀れむでもなく、皮肉を言うでもない、何気ない金原の口調。
 しかし、俺はその物言いに死刑宣告を受けたような戦慄を覚えた。
「い、いい加減にしてくれ!」
 激しく首を振って、俺は金原の手から逃れていた。
「あんた、一体、何のつもりなんだ!? 言っとくけどな、俺は占いだのオカルトだのは大嫌いなんだよ! 信者を増やしたいのなら、他を当たってくれ!」
 身を引きながら、俺は沿う一気にまくし立てる。
 情けないことに声がすっかり裏返っていた。
「……そう」
 やれやれとでも言うように小さく溜息をつき、金原が立ち上がった。
「余計なお世話だったのなら、ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったの」
「べっ……別に怖がってなんかねぇよ!」
 痛いくらい胸中を言い当てられ、頭の悪いガキみたいに俺は唇を尖らせていた。
「ああ、それと――」
 憤慨する俺など歯牙にもかけない様子で金原が言った。
「これから、あなたが見たり聞いたりする物は、どんなに変なモノでも何か意味があるはずなの。それを忘れないで」
 そう言いながら、つっ、と机の上に金原が差し出したのはカラフルな名刺だった。
 それには『占いハウス夢見館 メイデン金原』とあった。
 どうやら、それが金原多恵の占い師としての名前らしい。
「…………」
「何かあったら、そこを訪ねて。……無理にとは言わないけど」
 名刺を手に取り、押し黙った俺に金原は言った。
 白い手をハンカチのようにひらひらと振りながら教室を出て行った。


「あー、胸糞ワリィ……」
 ジャブジャブと冷たい水で顔を洗い、不機嫌な犬のように俺は唸っていた。
 ここは目白アカデミーの教室の真向かいにある男子トイレ。もっと正確に言えば、その洗面台の前だ。
 鏡に映った自分の顔をチラッと見る。血走った目の下に黒い隈が微かに浮かんでいる。頬が少しこけ、顔色が悪いため、我が顔ながらまるで幽霊のようだ。
 畜生、あの女のせいだ。
 忌々しく思いながら俺は首を振った。
 あの女とは、勿論、金原多恵のことである。
 昨日ことを早く忘れようとしていたのに、あいつが余計なことを俺に話しかけてこなければ、今頃はもっとマシな気分でいれた筈だ。
 そもそも、あいつは何のつもりで、俺にあんな――
 いや、待てよ。
 ふと浮かんだ自分の考えに俺はサッと血の気を引かせていた。
 昨日のあの出来事……。
 まさか、あの女の仕業じゃないだろうな?
「……そんなわけねーだろ」
 ハンカチで顔を拭いながら、小さく俺は自嘲していた。
 あれだけの仕掛けを――仕掛け、だとして――金原多恵一人で整えられるはずがない。
 また、仲間がいるとしてもウジャウジャ出てきた怪物はどうなる。
 どこかの極秘研究所で作ったものを夢ノ宮プラザに放したとでも言うのか?
 蛇口の栓を閉めて水を止め、俺はタイルの壁に立て掛けておいた松葉杖に視線を向けた。
 怪物を殴り殺した、俺の松葉杖。当然、本来はそんなことに使うための物ではないが、ズッシリと重いそれを手に取ると不思議な安堵感があった。
 これさえあれば、何とかなるような……。
 そんな俺を嘲笑うかのように、窓の外から太鼓のような轟音が響いた。
 雷だ。それに風もかなり強くなっている感じだ。
 早く帰らないと、バスが運行停止になってしまうかもしれない。こんなことなら、爺ちゃんの言う通り、もう一日休んで、家でゆっくりしていればよかった……。
 舌打ちしながら俺はトイレのドアへと向かった。
 ドアを片手で押し開き、廊下に一歩足を踏み出した途端だった。
「…………?」
 微かな違和感に襲われ、俺は立ち止まっていた。
 同時にモゾモゾ蠢く虫の巣を見つけた時のような。
 何だ? 何かがおかしい?
 得体の知れない焦燥に囚われ、キョロキョロと俺は視線を周囲に巡らせていた。
 ホラー映画や怪談などの登場人物がわざわざ怪しい影を確かめに行くシーンや描写を見たり読んだりする度に、馬鹿馬鹿しいと俺は鼻で笑っていた。
 怖いならさっさっと逃げりゃいいじゃねえか、と。
 しかし、それは間違いだった。
 不安を不安のまま、放置しておくということは、どんな人間とっても多大なストレスなのだ。だからこそ、ホラー映画の登場人物たちは、自分を不安に陥れている者の正体を知り、確認し、安心を得ようとする。
 それは俺も同じだった。
 半ば血眼になって、俺が感じた違和感の原因を探す。
 そして、それを俺は天井に見つけた。
 天井を這うようにして、カーテン・レールのように敷かれていたのは、赤錆の浮き出た金属製の溝。
 俺が覚えている限り、先程まで、そんな物はなかったはずだ。
 それはボンヤリとした蛍光灯の明かりに照らされた、薄暗い廊下の端に向かって延々と伸びている。
 何だ、これ……?
 どんな用途にそれが使われるのか、まるで見当もつかない。
 ただザワザワと言う胸騒ぎだけが次第に大きくなるのを俺は感じていた。
 そして――
「…………」
 無言のまま、俺は廊下を歩き始める。
 出来るだけ、頭上を走る得体の知れないレールを意識しまいと努めながら。
 こんなわけの分からないものに関わっている場合じゃない、早く家に帰ろう。
 これが何であれ、俺には全く関係のない物のはずだ。たぶん。
 それに昨日に比べれば全然、マシだ。出入り口を埋めるコンクリの壁や目があっただけで人間を殺そうとする怪物の群れに比べれば。
 やがて、俺は目白アカデミーの受付カウンターの前に差し掛かった。
 奥には教務室、そして講師控え室もある、その一室からは明かりが漏れ、まだ人が残っているようだったが不思議なくらい静かだった。
 静謐な緊張感に、俺は乾いた唇を舐める。
 そして、そのままエレベーターに向かおうとして――
「あっ……」
 思わず、俺は小さな声を漏らしていた。
 廊下の端にある、小さなエレベーターホール。
 その前に、いつの間にか人が立っていた。
 逆光のせいでその人物の顔はよく見えないが、非常に背の高い男らしい。
 暗がりの中であるにもかかわらず、きちっと絞められたネクタイのペイズリー柄がはっきりと見えた。
「…………?」
 その佇まいにどこか不自然な物を感じながら、俺はそちらへと進んだ。
 そして、その人の傍らを通り過ぎようと、「どうも」と軽く会釈しかけ――
 悲鳴にならない悲鳴をあげ、バランスを崩した俺はその場にひっくり返っていた。尻餅をつき、強く腰を打ったが痛がっている場合ではない。
 暗いエレベーターホールに佇んでいた、俺が人だと思っていたもの。
 それはナイロン製ロープで首をきつく括られ、蓑虫のように天井から吊り下げられた背広姿の中年男だった。
 口の端からベロンと出た灰色の舌先。ドロッと白濁した半開きの瞳。信じられないくらい青ざめた肌に点々と浮かぶ、紫色の斑点。そして、宙に浮かんだ足の下に溜まった小さな水溜り。
 男が死んでいることは確かめるまでもない。
 それは見知らぬ男の首つり死体だった。
「な、何でこんなものがここに……?」
 尻餅をついたまま、俺はしゃがれた声でそう呻いた。
 自殺? それとも殺人?
 いずれにせよ、この状況を拵えたヤツは非常識極まる。
 こんなところに死体を放置するなんて……!
 混乱する頭で、そんな愚にもつかないことを考えた時だった。
 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……
 歯軋りするような厭な音を立てて、首を吊った男の身体が円を描いて揺れた。
 硬直した爪先から、高そうな革靴がするりと抜ける。トスン、と言うどこか間の抜けた音とともに靴が床に落ちた時、俺の中で何かが弾けた。


「――警察! 警察呼んでくれ!」
 敬語も丁寧語をすっかり忘れていたが、そんなことを気にしている場合じゃない。
 ギブスの巻かれた右足を引き摺り、飛び込むようにして駆け込んだ教務室で俺は喉から血を吐くような勢いで叫んでいた。
「ろ、廊下で人が死んでいるんだ! 早く、警察を――」
 しかし、俺は言葉を最後まで続けることはできなかった。
 普段ならば七、八人の教務スタッフがいるはずだった。だけど、今、広い教務室はガランとした無人状態――夜逃げの後のようにもぬけの殻だ。
「お、おい! 冗談じゃねえぞ!」
 電気スタンドが点きっぱなし、テキストやら資料用紙やらが積み重ねられたデスクを見回し、俺は悲愴な声をあげた。
「こんな時に限って全員、外出なんてタイミング悪すぎじゃねえか……!」
 そこまで言って、俺はピタッと動きを止めていた。
 まさか――
 まさか、とは思うのだが。
 これって、昨日と同じことが起きてるんじゃないのか……?

 ――君に纏わりついている厭な力、ちょっとやそっとじゃ消えそうにないもの

 先刻、聞かされた金原多恵の言葉が脳裏に蘇ってくる。
「糞ッ! ふざけんなよ!」
 まるでチンピラのような罵り声を発しながら、俺はデスクの上の電話を手に取る。
 受話器を耳に押し当ててみるが不通だった。
 隣のデスクの電話も試してみた……不通。
 その隣の電話も一応試しておく……不通。
 微かな期待を込めその次を試す……不通。
 半ば諦めながらその隣に向かう……不通。
 ……教務室の電話は全てが不通になっていた。
 落ち着け落ち着け、落ち着けよ、俺。
 バクバク言い始めた心臓の上に手を当て、俺は自分自身に言い聞かせる。
 まだそうと決まったわけじゃない。
 あんなことが一生に二度もあるわけがない。
 そうとでも思わなければ気が狂いそうだった。
 と、その時だった。
「……ッ!?」
 背中に突き刺さるような視線を感じ、俺は振り返った。
 そこにいたのは見覚えのある、五人の男女だった。
 サスペンダーをつけた教務主任の山川さんにメガネを掛けた受付の畑中嬢。それにクラス担任の男性二人、鳩山さんに森口さん……。
 目白アカデミーのスタッフ達だ。
 先程、睡魔を召喚する儀式のような生物の授業の講師もその中に混じっていた。
 ひっ。
 俺の喉から奇妙に甲高い音が漏れた。
 自然と泣き笑いのような表情に顔が引き攣っていくのが分かる。
 それにあわせるかのように、床から1メートル近く離れた彼らの爪先がぶらぶらと揺れ
た。
 白い蛍光灯が煌々と灯る教務室の中、五体の首つり死体と俺は向かい合っていた。
 ぼうっと頭の芯が生温かくなって、意識が遠ざかりかけて――
「んっ……?」
 ふと違和感を覚え、倒れそうになった身体を俺は立て直した。
 恐る恐る、慎重な足取りで一番近くの死体――山川教務主任に近づき、舌からその顔を覗きこんでみた。
 そして、青ざめたその顔がプラスチックのような素材で作られた紛い物だと悟る。
 慌てて、俺は教務主任の太鼓腹を片手で軽く叩いてみる。
 ポン、ポンと空気を押す小気味の良い音。
 どうやら中味はがらんどうらしい。
 ……人形だ!
 愕然としながら俺は悟った。
 こいつら、首つり死体に見せかけた、マネキン人形なんだ!
「じゃあ、さっきの男も、ひょっとしたら……」
 呆然と呟く俺の目の前で、教務主任の首つり死体――いや、マネキン人形がくるくると回転し、こちらに背中を向けた。
 そこには一枚の張り紙が貼り付けられていた。
 そして、踊るような下手糞な字でこう書かれていた。

 部屋で、待ってる

「また、これかよ!」
 それを呼んだ刹那、俺は瞬間湯沸かし器のように激昂していた。
「どこまでも人を馬鹿にしやがって! こんなもの……!」
 マネキン人形の背中からそれを剥ぎ取り、ビリビリと破いてやった。それだけでは飽き足らず、俺は自由が利く左足でその紙片を踏みにじる。
 勿論、こんなことをしても何かが分かったり、解決するわけじゃない。
 しかし、怒りを何かにぶつけることも、時には必要なのだ。
 さて、どうしてくれようか――
 息を整え、吊り下げられた五体のマネキン人形に再び視線を戻した時だった。
 ガッ、ゴォンッ……!
 どこか遠くで、重たいレバーを入れるような音が響いた。
 それとほぼ同時、理科の実験で解剖した蛙の身体に電流を流した時のように、ダランと垂れ下がっていたマネキン人形達の手足がビクビク飛び跳ねるように痙攣を始める。
「な、何だよ……!?」
 その踊るような、奇怪な動きに俺は目を奪われた。
 そして、気がつく。
 首つり死体を模したマネキン人形達を吊るしたナイロン製のロープ。
 それは先程、俺が廊下で見た奇妙な物――つまり、蜘蛛の巣が貼るように天井中に敷かれたカーテン・レールのような金属製の溝の隙間から垂らされていた。
 これ、ひょっとしたら動くんじゃないのか……?
 そう思った刹那、ありがたくないことに俺の予感は的中した。
 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎぎりぎり……
 脳を掻き毟るような不快な軋音とともに、ロープに吊るされた死体のマネキン人形達がゆっくりと俺に近づいてくる。正確に言えば、レールに沿って、ロープごと運ばれて来るのだ。
 どこの誰だか知らないが、こんな悪趣味な装置を作ったヤツは気が触れている。
 そして、俺は恐らく――いや、間違いなくそいつの手中にいるのだ。
 動く度に死体のマネキン人形達の頭がガクガクと揺れた。そして、その生命の宿らない、作り物の眼差しで俺を睨みつける。
 こいつら……!
 ジリジリと窓際に追いやられていきながら、俺は震え上がった。
 こいつら、マネキン人形の姿をしているけど、昨日のタズグルだとかブラックリバーだとかと同じだ。
 得体の知れない悪意を俺に向けてくる、何だか分からない厭な生き物――怪物。
「……ち、近寄るんじゃねぇ!」
 松葉杖の先をマネキン人形の姿をした怪物どもに向けて叫んだ。
「俺に指一本でも触れてみろ! バラバラにして叩き殺すぞ!」
 精一杯、威嚇したつもりだったが、俺の声は震えていた。
 その成果、硬貨はなく、無表情な怪物達はますます俺との距離を詰めてくる。
 うう……。
 唇の端を噛み締めた俺の背中が窓ガラスの縁に当たった。
 その途端。
 ザァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ――
 大量の水がしぶきを上げ、流れ落ちる轟音が俺の鼓膜を揺さぶられる。
「なっ……!?」
 思わず振り返り、俺は絶句してしまう。
 窓の外の向こうに見えた景色。
 そこにあったはずの、見慣れた街並みは魔法のように消失していた。
 その代わりに百年前からそこに存在していたかのように、威風堂々と出現したのは、テレビでしか見たことがないような巨大な滝。
  
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