月並みニジゲン

urada shuro

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第四章

こんなはずでは(2)

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 蝶番の軋む音に、胸が高鳴る。ルチカにとって、はじめての異性の部屋である。

 開いたドアから部屋を一目のぞいて、息をのむ。

 目に飛び込んできたのは、一面の色だ。
 ドアからさし込む薄明りのなか、ぼんやりと浮かびあがった壁が、鮮やかに色づいている。
 下から上に向かい、暗いトーンの色から、明るいトーンの色へ。色相の配置に規則性はなく、さまざまな色が散りばめられているものの、トーンの統一感が全体を美しく整えている。視線を巡らせるたびに、ちらちらと輝きを感じ、ステンドグラスのようにも見えた。

 賑やかさと上品さ、そして温もりを感じるその色彩に、すっかり心が奪われる。
 ルチカは子供の頃に読んだ絵本の色彩を思い出した。おとぎの国で、レモンがニット帽をさがす、というメルヘンチックなストーリーの絵本だ。淡く、優しく、心地のよい色彩の溢れる世界。その絵本のなかに入り込んだ感覚に見舞われる。

「ぼっとしてないで、さっさと入れ」

 ウラハに押されるようにして、ルチカは部屋に足を踏み入れる。
 足もとに、なにかがあたった。ウラハが、電気をつける。視線を落とすと、そこには現実が広がっていた。
 薄明りではわからなかったが、床には本や通学バッグ、ドライヤーや体重計といった日用品が乱雑に散らばっている。
 ドアの設置されている壁には棚があり、そこにはスケッチブックや絵の具、筆など、さまざまな画材がきっちりと整頓されて収納してあった。いくつものスプレー缶や、重ねられた紙製の箱なども、綺麗に並べられている。その棚にもたれかかるように、十数枚のカンヴァスが裏向きできれいに整列して立てかけられていた。その横にある机の上に置かれた画材らしきものも、きちんとプラスチック製のケースに収められている。
 机の前には、イスとイーゼルが二個、並べて置かれていた。
 部屋の奥の隅にはベッドもあり、生活感を醸し出している。ものが多いせいで圧迫感があるが、部屋の大きさ自体は、ルチカの六畳間の自室より、ずいぶん広いように思えた。

 夢と現実、整頓された部分とそうでない部分が混在した、つかみどころのない部屋である。

 改めて壁を見て、ルチカは「あれ?」と首をひねった。
 ステンドグラスかと思っていた壁には、ガラスケースが並んでいたのだ。ケースのなかに、なにやら色とりどりの物体が無数に入っている。

「ちょっと。あんた、なにひとの部屋じろじろ見てんのよ」
「あの……あれってなんですか? ケースのなかにたくさん入ってる……遺作の材料ですか?」

 ルチカは正面の壁を指さした。

「え……あれ? ああ、パステルのこと?」

 ガラスケースに入れられていたのは、ウラハの言うとおりパステルだった。何色ものハードパステルが、壁一面のガラスケースのなかに大量に収納されている。同じ色のものも多数あり、それを色ごとに重ね、ランダムに配置してある。

「パステル……?」

 疑問をあらわすように、ルチカは首をかしげた。

 パステル、と言えば……パステルカラー。

 それしか、連想できない。パステルとは一体、なんなのか。

「パステルって、いろんな色があるでしょ。あたしはいろんな色を眺めるのが好きだから、いっぱい持ってるの」

 ウラハは床に散らかったものを蹴散らしながら、部屋の奥へ歩いていく。ガラスケースのなかから黄緑色のパステルをひとつ持って戻ってくると、「折るなよ」と言いながらそれをルチカに手渡した。
 ルチカは渡されたパステルを手のひらに置き、眺めてみる。全長六センチほどのそれは、四角いクレヨン、もしくはチョークのようだと感じた。

「これが、パステル……これって、なにに使うものなんですか?」
「なにに……って、あたしは絵を描いてるけど」
「絵を? これで描くと、どんな絵になるんですか?」
「……愚かな質問ね。そんなの、ひとそれぞれでしょ」
「見たいです。ウラハさんの描いた絵」
「え……」

 ウラハは、黙って目をそらした。
 口に手をあて、考え込んでいる素振りを見せる。
 その間に、ルチカは棚に立てかけてあったカンヴァスを勝手に手に取っていた。

「わあ……!」

 カンヴァスの表を見て、声を漏らす。

「ちょ……ちょっと!! なに勝手にっ……」

 ウラハは慌てて、ルチカの持つカンヴァスに手をかけた。取り返そうと力を込めて引っ張るが、ルチカは手を離さない。

「これ、ウラハさんが描いたんですか? すごいですね! 美術館に飾ってある絵みたいです」

 目にした瞬間、安らぎに包まれた。

 ソーダ味のアイスを思わせる水色をベースに、青、青緑、紺などの寒色が、淡く、繊細に、溶け合うように広がっている。ルチカにとって、水色は安堵の色だ。水色の涙は、安堵を表す。
 爽やかな風のような、宇宙のような、晴れた日の空のような、幻想的な色の海原。
 そこに浮かぶのは、鳥なのか、コウモリなのか、はたまたマントをつけた人間なのか。白い煙にまかれ、半月をえぐって尻尾をつけたような生物だ。
 これが生物なのかどうか、作者に確かめたわけではない。だが、ルチカにはどうしても体温を持つものに見えてならなかった。まとった煙、またはそよぐ羽毛に、確かな息吹を感じたのだ。

 気がつくと、カンヴァスを持つ手がじんわりと温かい。先日、ウラハと繋いだ手。その温かさによく似ている。実際にいま、彼女と手を繋いでいるわけではないが、そう感じさせる不思議ななにかが、このカンヴァスのなかにはあった。

「……勝手に見るなよ! 途中でやめたやつなんだから!」
「そうなんですか。もう、完成した絵かと思いました」

 ウラハはカンヴァスを持つ手を緩めた。そして再び力を入れると、奪い取りにかかる。しかし、ルチカはびくともしない。

「てゆか、あんた助手ルール忘れたわけ?! なに勝手なことしてんのよ!」

 忘れたわけではない。ルールには、「勝手にウラハのものを触らない」などという項目はなかった。ルチカは悪気もなく、疑問を投げ返す。

「あの、この絵、ウラハさんの遺作じゃないんですか?」
「はあ?! そんなわけないでしょ。この絵で、誰が驚くっていうのよ!」

 ウラハ流「遺作」の定義。それは「みんなが驚く、すごいもの」である。
 助手のくせに、それをおまえは忘れたのか? とでも言いたげに、ウラハは大きなため息を吐く。 ルチカは真顔でウラハを見た。

「僕、驚いてますよ」
「……なんでよ」
「すごく、きれいだから」

 ウラハのからだが、ちいさく跳ねた。目を見開いて静止する。

「こんなにきれいな絵、見たらみんな驚きますよ」

 微笑むルチカとは対照的に、ウラハは視線を落として顔をしかめた。

「……そんなわけない。おまえが凡人だから、そう思うだけだ」
「そうですか?」
「そうよ。こんなの、別にたいしたことないし……余ってたカンヴァスに描いてみただけだし、そんなに気に入ってるってわけでもないし、途中だし」

 眉をひそめ、ぶつぶつとつぶやくウラハを気にも留めず、ルチカはカンヴァスに見入った。
 芸術に関する趣味は一切持っていないが、学校の授業で水彩画を描いた経験はある。ルチカにとっての作画とは、「筆に含ませた水分で波打った画用紙に、にじんだ色を氾濫させる」というものでしかなかった。だが、目の前の絵画には水分など感じられない。むしろ、表面にはざらつき、粉っぽさを感じる。以前、祖父の家で見た油絵のような光沢も、この絵にはない。

 手に持った黄緑のパステルと、ウラハの絵を交互に見やる。
 この粉の塊のようなものを、どうしてウラハさんは絵に変えようと思ったのだろう。
 それも、こんなきれいな絵に変えるなんて、魔法みたいだ。

 こんなにすごいことを、世間のみんなに知らせないなんて、もったいない気がする。
 ルチカは、異様に興奮してきた。

「……ウラハさん、やっぱりこの絵、遺作になるんじゃないですか? パステルなんて変わったもので絵を描くなんて、みんな驚きますよ!」

 弾んだ声で話すルチカを、ウラハは冷めた目で見つめた。力の緩められたルチカの手から、ようやくカンヴァスを奪い取る。

「……ませんよ。パステルなんて、みんな使ってるから。誰でも知ってるわよ。あんたがトクベツに無知なだけでしょ」
「え……」

 ルチカは目を丸くした。大発見をした気になっていただけに、がっかりだ。からだの力が抜けていくのを感じる。

「そ、そうなんですか。パステルって、そんなに有名なものなんですね……。僕、全然知りませんでした」
「凡人通り越して、バカだもんね、あんたは」

 ウラハの持つカンヴァスの裏面を見つめながら、ルチカは改めて、その表に描かれていたパステル画を頭に思い浮かべてみる。

「……でも、やっぱり、ウラハさんの絵は素敵だと思います。たとえ同じパステルを使っても、僕にはそんなふうに絶対描けないし……」
「……誰だって描けるわ、こんなの。描きたいなら、描いてみれば」

 ウラハはカンヴァスを裏向きにして壁に立てかけた。そして棚からスケッチブックを持ってくると、白紙のページを開いてルチカに渡す。

「……え? ぼ、僕が? いいんですか?」

 ルチカはスケッチブックを受け取り、右手にパステルを握る。

 とりあえず、クレヨンで絵を描く要領で始めてみた。ペンとは違い、自分の狙ったように線が描けない。描きごこちは、やはりチョークに似ている。はじめて使ったということもあり、ずいぶんと描きにくい。曲線は特に難航した。

 ルチカはどうにかひとつの絵を描き終えると、それをウラハに見せた。
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