Wild Flower

円藤ヲコル

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#1

第1変奏(幼児虐殺)

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 本日もゴルトベルク変奏曲を弾いた。
 聴衆は菫子ひとり、安定している。ぼくの気分のこと。変わらないことは善だから、おそらく。
 第1変奏。楽譜データに添えられたI .Sの解説によれば"4分の3拍子。上行音階形の主題と分散和音系が右手と左手で交換される2声部の変奏云々…"とつづくのだが、説明の半ばで董子にさえぎられた。
「退屈な話はいいから、曲の続きを聴かせて」
「まだ勉強中なんだ。ちゃんと運指できるようになったら聴かせる」
「そうなの?」
「あなたは楽器の天才で、楽譜さえあれば初見ですらすら弾きこなせると思った」
 ぼくはちょっと肩をすくめてみせた。

 この…ぼくの心象に少なくない波をもたらした董子のセリフは、次の質問への跳躍力リープをくれた。

「ぼくたちをこの施設に退避させたのは、独裁者がトリガーを引いた世界戦争による環境汚染の深刻かつ広範囲の拡大と動植物絶滅による飢餓なわけだが、少子化の決定的要因は?」
「による、が重なっている」
 ぼくに顔をしかめさせておいて彼女はほほえむ、聖母の晴朗さで。それから答えた。
「ヘロデ王の幼児虐殺」
 ヘロデはたった一人の赤子イエスに王の地位を脅かされるとおののき、ベツレヘムという狭い地域に生まれた2歳以下の幼児を殺させただけだ。正確に何人という記述はないが、全人類の未来のたねを絶やせとは命じなかったはずだ。ぼくが彼だったらそんな"ぬるい虐殺"を命じたりない。
 およそ二千三百年前に書かれた、マタイの福音書に叙述されている事件を遠因とするなら、人類が歩みをはじめたその瞬間から現在の事態は織り込まれていたのではないか?と考え込んでしまう回答でもある。
 結果、ぼくのやんわりしたジャッジはこれだった。
「当たらずも遠からずかな?」
 しょせん董子から、数学的に完成された音楽をしのぐ、心良い声音をひきだすための試行錯誤ソルフェージュに過ぎない。ぼくもほほえんで答える。少なくとも最初のおんなイヴをそそのかした下級悪魔くらいには作為的な笑いをよそおって。董子に近い存在だということを、存在だけじゃない、魂も近くしているというデモ行動。無駄と知りながら。自己満足…マスターベーション。

「あたしからも質問、あなたにとってマスターは何?」
「…わからない。データに入ってない。はじめから存在していた。疑問は浮かんでこない」
 董子は少しだけ首をかしげた。カンバスに思い通りの発色が得られなかった時のしぐさ。
「じゃ、マスターにとってあなたは何?」
「ぼく?ぼくは"天使"のようなものだと言われている」
「ベツレヘムからマリアと"子ども"を脱出させたような天使?」
「ひどい話だよな。たったひとりの救世主かもしれない子どもは助けても、あとは全員殺させてしまう…」
「昔話のパターンだわ。あなたは優しいからそう思うのよ。そういうところが…」
 彼女は言いよどむ。
 たっぷり3セカンズおいてからこう言った。
「あなたらしい」
 ぼくは少しもうれしくない。
 うれしいなんて感情に何の救済もないとわかっているくせに、もしかしたら自分なんかにも"神がほほえむ"かもしれないと期待して、毎回裏切られる。マイナスの感情を積みます。 
 なのに菫子のそばにいたいとねがう。誰よりも近く寄り添って、会話をつづけたい。そうして彼女から"音楽"をひきだし、その音色に耽溺したい…
 ぼくは矛盾しているのだろうか?菫子はそのことに気づいているのだろうか?


 ——矛盾。

 おそらく菫子は気づいても、ぼくの矛盾を指摘しないだろう。
 彼女にとって矛盾を数え上げることは、理性の判断にゆだねるくらい美的でない行為だからだ。ぼくは知っている、彼女の芸術性を。それを誰よりも理解し、何より尊び、愛しているのだから……。
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