リセット

桐条京介

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第53話 目標と嫉妬

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 初対面と言ってもいい女性に声をかけられ、哲朗の心音はかすかに通常よりも大きくなっている。

 長身で眼鏡をかけている頭脳明晰な女性は、顔立ちも整っている。恋人の水町玲子ほどではないが、美人と称しても批評はでないはずだ。

 そんな女性に話しかけられて悪い気はしないものの、同時にどうして自分にという疑問もある。理由を判明させるためにも、つい先ほど相手へ用件を尋ねたばかりだった。

「特別に用というわけではないのですけれど……単純に梶谷さんを凄いと思いまして……とても尊敬しているのです」

 かすかに頬を赤らめつつ、教えてくれた理由では、何を言いたいのかがさっぱりわからない。高校生活なら何度も送ってきたが、このような展開は初めてだった。

 どの人生でも哲郎の高校生活はメインが勉学であり、女生徒から話しかけられるような展開はなかった。記憶にない状況に戸惑い、どのような言葉を返すべきかすぐには見当たらない。

「あ、申し訳ありません。突然こんなことを言われても困りますよね。大変、失礼いたしました」

 お辞儀の仕方も丁寧そのもので、もしかしていいところのお嬢様なのではないかといった不必要な勘繰りをしてしまう。相手の身の上を勝手にあれこれ考えるのも失礼だと思い、一旦そのへんを頭の中から除外する。

「同級生に尊敬されるほどの人間ではないですよ」

 哲朗がそう言うと、目の前に立っている同級生の女性は勢いよく首を左右に振った。

「梶谷さんは凄いです。大学レベルの問題でも簡単に解いてしまいました。私、自分が心の底から尊敬できる殿方と出会ったのは初めてなのです」

 口調が熱を帯びてくる。どうやら相手の発言は適当な嘘ではなく、本当みたいだった。

 ならば以前の人生でも哲朗に声をかけてくれてもよさそうなものだが、そうしたロマンスは一切なかった。

「子供の頃から勉強ひと筋だったのに、水町さんと楽しそうにお話している梶谷さんに、どうあっても勝てませんでした。机に向かうだけが、学問のすべてではない。そう教わったような気がします」

 明らかすぎるほどに、相手女性は哲朗を買い被っている。最初の人生で進学校へ入り、トップクラスの成績を収め続けている斗賀野真子の方がよほど優秀と呼べる。

 哲朗が好成績をとれる理由を説明しても、とてもじゃないが信じてもらえない。誤解だとは言えるはずもなく、曖昧な感じで「いや、それは……」と言葉を濁して終わる。

「そうやって、謙遜するところも尊敬に値します。今日は、これからも私の良い目標でいてくださいとお願いにきたのです」

「目標にするなら、もっと優秀な人を選ぶべきだと思うよ」

「ですから、私の中で一番優秀だと思っている方のところへやってきています」

 相手の目は真剣そのもので、とても引いてくれそうになかった。仕方なしに哲朗は、斗賀野真子の申し出を了承する。

 別に交際を申し込まれたわけではない。事情を恋人の少女に説明しても、なんとか理解してもらえるはずだ。

 喜んでいる目の前の女生徒に、哲朗は「君も変わっているね」と声をかけた。

「わざわざ俺なんかを目標にしなくとも、斗賀野さんなら学力を向上させられると思うけどね」

「それは……そうかもしれません。けれど、私は梶谷さんを目標にしたかったのです。そ、それでは、私はこれで」

 理由を尋ねようとしたところで、何故か赤面した斗賀野真子はそそくさと哲朗の前から立ち去った。

 何がなんだかわからないまま斗賀野真子の後姿を見送っていると、今度は別の女性に声をかけられた。

「哲朗君。何をしていたの?」

   *

 気づかないうちに哲朗の席のすぐ近くへ来ていたのは、小学生時代から交際している恋人の水町玲子だった。

 幼い頃より培われた可憐さは、年齢を重ねるにつれて類稀な美しさへ進化を遂げている。

 中学生の頃から、やたら他の男に奪われそうになる理由がよくわかる。だからといって、哲朗に愛する少女を手放すつもりは毛頭なかった。

 街を歩いていても、通行の邪魔程度にしか思われていなかった哲郎の存在が、水町玲子の隣にいるだけで激変する。

 羨望の眼差しが背中へ注がれ、最初の人生では決して味わえなかった優越感を堪能させてくれる。これこそが、哲朗の求めていた人生に変わりない。

 難題を突破し、手に入れた大好きな女性からの愛情は、交際経験の少ない哲朗を有頂天にするには十分すぎた。

 他者が側にいれば、節目がちに目を逸らす。そんなタイプだったはずなのに、いつしか初対面の人間にも話しかけられるまで心が成長していた。

 あれだけ奇想天外な人生を歩んでくれば、哲朗でなくとも成長する。人間的に大きくなったがゆえに生まれた余裕。それこそが、他者を惹きつけるのかもしれない。

 仮説が正しかったとして、若い異性からの人気が高まっても、哲朗は自分が心変わりしないのを知っていた。そもそも他の女性に対して、あまり興味がないからだ。

 先ほどの斗賀野真子も確かに美人だ。しかし哲朗の目に異性として映るのは、あくまで水町玲子ただひとりだった。

 そうでなければ、これまで哲朗が幸せを得るために、足蹴にしてきたも同然の者たちの人生に申し訳が立たなかった。

 必ず自分は水町玲子と最後まで添い遂げる。心の中で定めた人生の目標及びゴールには微塵の狂いもなく、成就させるためならどのような茨の道でも歩く覚悟があった。

「ねえ、哲朗君ってば。授業中もボーっとしていたみたいだし、何か変だよ」

 交際期間が長くなっているのもあり、水町玲子の哲朗へ対する言葉遣いはずいぶんと砕けた感じになっていた。

 それだけ恋人と認められている証拠なので、敬語を使ってもらえなくなったと悲しんだりはしない。むしろ喜ばしい出来事だと認識している。

「そんなことはないよ。それより日直の仕事、お疲れ様」

「うん、ありがとう。でも哲朗君、私が日直の仕事で先生に呼ばれてたって、よく知ってたね。教える暇もなく、職員室へ行ったんだけどな」

 長く付き合っているからこそわかる。口調こそいつもと変わりないが、恋人の少女の言葉には無数の棘があった。

 何かを不審がっているのは明白。こういうケースでは下手に嘘をつくと、取り返しのつかない事態へ発展する可能性も出てくる。

 人間、素直が一番だと哲朗は先ほどの斗賀野真子とのやりとりを、すべて包み隠さず水町玲子に説明する。

「その時に、斗賀野さんが教えてくれたんだ。だから、知っていたんだよ」

「そうなんだ。でも、斗賀野さん。わざわざ私がいない時に、哲朗君へ話しかけにきたんだね」

 にっこりとしているはずの水町玲子の背後に、なにやら例えようのない恐ろしげな雰囲気を感じる。

 正体を暴くのは危険だと哲朗の本能が警告しているため、あえて気づかないふりをする。

「言われてみれば、そうだね。どうしてかはわからないけど、目標にしたいらしいから好きにしてもらうよ」

 動揺を露にすれば、余計にやましいことがあったのではないかと勘ぐられる。実際に哲朗は斗賀野真子と何もなかったのだから、慌てる必要は皆無なのだ。

 哲朗が平然としてるのを見て、ようやく水町玲子も内心の落ち着きを取り戻したみたいだった。

 それでも斗賀野真子への不信感は拭いきれないらしく、自分の席に座って教科書を見ている相手女性へ時折視線を向けたりする。

 一体何がここまで恋人の少女を焦らせているのか。考えてみた結果、哲朗はなんとも嬉しい解答へ辿りついた。

「もしかして、玲子……やきもち焼いてくれてるのか」

   *

 休み時間の教室内。哲朗による突然の指摘を受け、水町玲子は驚きのあまり大きく目を見開いていた。

 教育指導の教員が、ある程度は味方してくれるようになってくれたとはいえ、教室内でおおっぴらにイチャついてると思われるのもマズい。なので会話はいつも、抑え気味の声で行っていた。

 それが幸いして、他の級友には哲朗の声が聞こえていない。だからこそ周囲の人間は、どうして水町玲子が顔を赤くしてるのか、わかるはずがなかった。

「それは、やきもちを焼かせる真似をしたということかしら」

 頬を朱に染めながらも、目を細めて睨んでくる恋人の少女とは対照的に、哲朗の頬は常に緩みっぱなしだった。

「ど、どうして、哲朗君はそんなに嬉しそうなの」

「嬉しいさ。だって、玲子がやきもち焼いてくれるなんて、想像もしてなかったからね」

 哲朗にとっては本心だったのだが、目の前にいる恋人はむくれた様子でぷいと顔を背けてしまった。

 高校に入学してから、せっかくいい雰囲気でここまできていたのに、些細な出来事で機嫌を損ねさせるのは非常に勿体ない。慌ててフォローしようとするも、この場に相応しい言葉が哲朗の頭の中には見当たらなかった。

「当たり前じゃない。哲朗君、自分が思ってるより、女子の人気あるんだよ。私、心配で……」

 昔からよく言われる言葉に、女房心配するほど亭主もてはせず、なんてニュアンスのものがある。まさにそのとおりだと、哲朗はその意味を心の底から理解した。

「そんなことないよ。玲子が気にしすぎなだけだろ。俺が女子に人気があるなんて話、どこからも聞いたことがないよ」

 何度人生を繰り返しても、女性に囲まれるようなハーレム状態になった経験はなかった。むしろ、真逆のパターンが大半だった。

 実際に「勉強ばかりで薄気味悪い」なんて陰口を叩かれた覚えもある。水町玲子は勘違いをしているだけだ。

 そう教えたかったのだが、恋人の少女は何故か不機嫌さをグレードアップさせていた。

「自覚がないから心配なの。もっと周囲にも気を配ってほしいのよ。それとも……私とじゃなく、他の女の子と付き合いたいの」

 よもやの発言に、今度こそ哲朗は理性の制止が追いつかないぐらいに大慌てする。

 急いで否定したあとで、どうしたらそのような結論になるのかと質問する。

「だって、あまりにも無防備だよ。斗賀野さんが勉強を教えてほしいから、図書館に付き合ってと言ってきたらどうするの」

 そんなの、いちいち考えるまでもなく答えは決まっていた。哲朗は即答で「断るよ」と水町玲子へ告げる。

 すると哲朗の答えが意外だったのか、恋人の少女はきょとんとしていた。

「俺が好きなのは玲子だけだ。他の女の子なんて興味ないよ」

「本当に?」

「ああ、もちろんだ。もっと俺を信用してくれよ」

「うん……わかった。哲郎君を信じるね」

 ここでやっと、いつもの恋人の少女に戻ったような気がした。それにしてもとこれまでのいきさつを思い返せば、不覚にもまた笑みを漏らしてしまう。

 哲朗の様子を見て、すぐ側にいる水町玲子が「どうしたの」と心配そうに問いかけてくる。

「いや。事あるごとに、俺ばかりやきもちを焼いていたからね。それが今回は逆だったから、嬉しくてさ。だって、本気で好きでないと、そんな気持ちにはならないだろ」

 言われて納得とばかりに、水町玲子が笑顔で頷いた。

「当たり前じゃない。でも、知らなかった。哲朗君も、私にやきもち焼いてくれていたんだ。少しだけ、驚いたかな」

「それこそ当たり前だろ。玲子が他の男に笑顔をなんて見せた日には、自分を抑えるので大変だよ」

 今回の台詞はよほどのベストチョイスだったのか、今日一番の笑顔を水町玲子は哲朗だけに向けて披露してくれた。
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