その後の愛すべき不思議な家族

桐条京介

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和葉の嫉妬

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「兄さんは黙ってて」

「いや、しかしだな……」

「聞こえなかったの? 兄さんは黙ってて」

 妹にキツく睨みつけられ、泰宏はそのまま口を閉じてしまう。
 せっかく援軍が現れたと期待したのに、たいした戦果も挙げられずにすごすごと撤退してしまった。やはり春道自身がなんとかするしかない。

「お節介なのは当然だろ。俺たちは夫婦なんだ。放っておけるはずがない」

 勇気を振り絞っての発言だったのに、相手から返ってきたのは冷ややかな視線だった。

「先日のような発言をしておいて、よくそのような台詞が恥ずかしげもなく言えますね。正直人格を疑います」

 やはり和葉の怒りは収まらない。
 しかも相手の台詞から察するに、どうやら祐子との一件よりも、春道が放った言葉に対しておかんむりみたいだった。

 先日の春道の発言とは、当初結婚する前に和葉から言われた台詞だった。

 結婚していても気になる異性がいたらパートナーを気遣わなくてもよい。

 あまりに和葉が絡んでくるため、苛々してつい口にしてしまったのだが、当時と現在では状況が違いすぎる。
 出会った当初なら、きっと相手も怒っていなかっただろう。

 そこまで考えて春道はとある事実に気づく。
 祐子の嘘に怒り狂い、春道の失言にショックを受けて実家に帰る。
 これまでは慌てるばかりで深く考えてこなかったが、これは紛れもなくあれである。

「……嫉妬か。厄介だな……」

 ひょっとしたら口が軽すぎるのかもしれない。自分でも気づかないうちに、春道は心の中の呟きを、うっかり声にしてしまっていた。

「な――っ!? な……な……!」

 予想どおりというべきか、顔を真っ赤にした和葉は、春道に向けた人差し指をプルプルと震えさせている。不穏な空気を感じ取ったのか、泰宏は葉月を連れてそそくさと居間から退場していく。

「ふ、ふふふざけないでください!
 一体どこの!
 誰が!
 し、しし嫉妬などしてると言うのですか!?」

「じゃあ、何でそんなに怒ってるんだよ。どういう理由かは知らないけど、あの女教師が嘘をついてたのはもう知ってるんだろ」

「――っ!!」

 言ってはみたものの、確証はなかった。
 しかし、現在の和葉のリアクションこそが何よりの証拠だった。

 普段の和葉であれば、カマをかけられてもここまで露骨な反応を示したりしない。今回は事前に動揺していたせいで、いともあっさり春道の策略にハマってしまったのである。

「どうやら図星みたいだな。嘘だってわかったなら、その件はもういいだろ。それに、俺の発言についてもきちんと謝罪する。売り言葉に買い言葉で、つい言ってしまったんだ。反省してるよ」

「ぜ、全然よくありません! 大体、春道さんに隙がありすぎるから、あんな女につけこまれるのです。反省だけでは足りません!」

 相変わらず激しく怒ってはいるが、微妙に状況が変化してきているせいか、先ほどまでみたいな威圧感は一切なくなっていた。

「反省だけで足りないなら、あとは何をすればいい? さっぱりわからないんだ……」

「そんな態度だから許すことができないのです! 少しは自分で考えてみてください。きちんとわかってくださるまでは、家に戻りたくありません」

 叫ぶように発言すると、和葉そのままぷいと顔を横へ向けてしまった。まるでいじけた子供である。

 それにしても、一体どうすればいいのか。
 春道は内心で頭を抱えた。和葉の怒りの原因は特定できたものの、それを解消する方法が一向にわからない。

 反省の他に何をすればいいのか直接尋ねてみたが、答えは「自分で考えてください」だった。
 わからないから聞いたのに、突き放されてしまっては対処のしようがない。

 とはいえ、では諦めますとは決して言えない。仮に冗談だったとしても、今の和葉には一切通用しないのは明らかだった。

 言われたとおりに頭をフル活用するも、やはり春道には明確な答えがわからない。その間にも刻一刻と愛妻の機嫌は悪くなっていく。どうにもできない現状に、半ばパニックになり始める。

「頭を使う仕事をなさってるにしては、ずいぶんと回転が遅いみたいですね。それでよく勤まるものだと感心してしまいます」

 苛々しているぶんだけ、相手の皮肉も強烈になってくる。妥協してくれるつもりは毛頭ないらしく、切れ長の目を和葉は若干吊り上げている。我慢も限界に近づいている証拠だった。それはわかっても、何を求められてるかはやはり不明なままだ。

「わかんねえし、知らねえよ!」

 混乱しすぎて頭がパンクした春道は、たまらず大きな声を出してしまっていた。
 どういう結果を招くかは知ってても、勝手にこみあげてくる衝動までは処理しきれない。

「逆ギレですか? なら、もういいです。春道さんが、私のことをどうでもいいと思ってるのがよくわかりました」

「ちょ、ちょっと待てって! どこをどう解釈したらそうなるんだよ」

 立ち上がろうとした和葉を、春道が慌てて制する。おかげで居間からは立ち去らなかったものの、現場にはいまだかつてないぐらいの緊張感が発生している。

「だってそうじゃない! きちんと理解してくれていたら、間違っても昨日のような台詞を言うわけがないし、さっきだってキレたりしないわ!」

 丁寧な口調が鳴りを潜め、感情剥きだしの台詞が妻の口から放たれる。
 以前にも一度経験しているが、和葉が自分をうまくコントロールできなくなっている時にこうなるのだ。つまりは本音を爆発させている状態である。

「だから!
 お前を理解しようとしてるんだろ!
 どうでもよかったら、わざわざこんな面倒な苦労を背負うかよ!」

「だから!
 それをきちんと言葉にしてほしいんじゃない!
 いい加減に気づきなさいよ、この鈍感男!!」

「言葉にしろって、一体どんな――」

 言い返してきた相手に反論しようとして、春道は口の動きをピタリと止めた。
 瞬間湯沸かし器になりつつある頭に、冷静さを取り戻させつつ、その意味をよく考える。

 春道は鈍感で、和葉が求めている言葉を口にしてくれない。だから怒っている。
 相手の台詞はそうとれる内容だった。
 それが怒りの原因なら、解消するのは簡単だ。あとはどんな台詞を望んでいるかだった。

 春道が会話を強制中断させたので、この機会に和葉は肩で息をしながらも、なんとか呼吸を整えている。相手の考えを正確に当てるのは不可能だが、もしかしたら熱くなりすぎたのを多少は反省しているのかもしれない。

「口にしてほしい言葉か……
 って、おい。まさか――」

 春道はハッとして、相手を正面から見つめる。
 先ほどまで散々睨んできていたくせに、和葉は視線を合わせようとしない。ゆでだこのごとく真っ赤になった顔を逸らしている。その仕草は、まるで照れ隠しだ。

「わ、悪いですか? わ、私だって普通の女性なのです。明確な言葉を欲しがったりもします。特に、先日みたいな出来事があったりした場合はなおさらです」

 多少どもりながらも、和葉はいつになく言葉を並べる。
 これで相手がどんな言葉を望んでいるのか確信した。
 要するに「愛してる」といった類の台詞を、春道に求めているのだ。

「い、いや……け、けど、それこそ、言わなくてもわかりそうなもんだろ」

 今度は春道が照れてしまう。どこぞのドラマじゃあるまいし、まさかこんな展開になるとは想像もしていなかった。
 簡単に言えれば楽なのだが、すんなりと目的を達せられるぐらいなら、ここまでの夫婦喧嘩にはなっていない。

「少なくとも私にはわかりません。それとも、そうやって逃げるつもりですか」

 何故かここへきて、挑発的な台詞がぶつけられる。春道を煽ってまで、和葉はそうした言葉が聞きたいみたいだった。

 こうなれば覚悟を決めるしかない。

 そうはわかっていても、どうしても口が動いてくれない。

「どうして無言なのです。そんなに言うのが嫌なのですか。葉月の女性担任には、喫茶店ではっきりと思いを口にできたのに、どうして私の前だと言ってくれないのですか!!」

 心の底から申し訳ないような気分になりつつも、ふとした疑問点に気づく。
 どうして和葉は、女担任と喫茶店で会ってたことを知っているのか。
 不審に感じた春道は、単刀直入に相手へ尋ねる。

「何で、喫茶店での経緯を知ってるんだ」

「――あ!?
 ……別に他意はありません。そんな気がしただけです」

「……ほう。おもいきり驚いた顔をしたのは、俺の見間違いだったのか」

「そのとおりです。仕事のしすぎはいけませんね。いらない幻覚を目撃してしまいます」

 どうあっても、和葉は己の失言を認めないつもりのようだった。しかし、ここまでの会話の流れで、相手が喫茶店での一件を知っているのだけは間違いない。道理で説明するまでもなく、女教師との誤解については怒りを静めているわけである。

 春道と小石川祐子の会話内容をわかっているのなら、誤解だったのも重々承知していて当然だった。そうした理由で、和葉は怒りの矛先を変えたのだろう。

「あの女教師との一件を知ってるなら、いちいちここで言う必要もないだろ。何を変な意地張ってるんだよ!」

「意地を張ってるのは春道さんです。それに事実を知った、知らないの問題ではありません。少しは女心を理解する努力をしたらいかがですか。子供の心情はあれだけわかるのに、どうしてこういうことには鈍いのですか!」

「別に子供の心情を理解してるわけじゃない。たまたまハマっただけだ。それに鈍いのはしょうがねえだろ。恋愛経験が少ないんだ」

「それは私も同じです。何度となく男性に誘われたりはしましたが、葉月がいましたから興味はありませんでした。それなのに、貴方は勝手に私の心へ入り込んできた。責任はしっかりとっていただきます!」

 逃がさないと言わんばかりに人差し指を差されるも、再び一緒に暮らすのを決めた時に春道とてその覚悟はしている。なので、そこらへんを指摘されても今さらという感じだった。

「心配しなくても、責任とって一生一緒にいるさ!
 俺が惚れてるのは、世界でお前ひとりだけなんだからな!」

「――っ!
 だ、だったら、最初からそう言ってくれればいいのです!
 そうしてくれてたら……最初から……ぐすっ……」

「お、おいっ!?」

 強い口調で言葉をぶつけあっていたはずが、いきなり和葉は泣き出してしまった。
 もちろん春道が、こうした現場に遭遇するのは初めてであり、対処法なんてわからない。

「わ、私だって、こんな真似したくありません……でも、昨日の電話でどうしようもなく不安になって……ぐすっ……結婚した経緯が経緯でしたから……」

「わ、わかった。お、俺が悪かった。こ、これからはきちんとするから」

 何をきちんとするかは春道自身にも不明だが、とにかくそう言っておいた方がいいと判断した。
 ひとしきり泣きじゃくったあとで、ようやく和葉も落ち着きを取り戻す。

「……私にこんな醜い心があったなんて初めて知りました。やきもち焼きと言われても、何ひとつ反論できませんね……」

「い。いや……そうでもないんじゃないか。逆の立場だったら、俺もそんな感じだったかもしれないしな」

 この発言に一瞬だけきょとんとしたあとで、和葉が微笑んだ。涙の跡もだいぶ乾き、実に自然な笑顔だった。
 久しぶりに見たような気がする。春道はそんな感想を抱いた。

 ふいに和葉の視線がぶつかり、なんとも言えない雰囲気が生まれる。普段とは様子の違う沈黙に戸惑い、どうしたらいいかわからない春道の前で和葉がスッと目を閉じた。

 さすがにここまでされれば、鈍感な春道でも相手の意図を理解できる。
 ゆっくりと和葉に近づいていき、かすかに震えている両肩に優しく両手を乗せる。

 そして――。

「――よかった。パパとママ、ちゃんと仲直りできたんだねー」

 いつか見たのと同じ光景が、ここ戸髙家でも繰り返された。
 ドアを勢いよく開いて、居間に葉月が乱入してきたのである。

 にこにこしてる少女とは対照的に、室内の雰囲気を悟った泰宏がしまったというふうに片手で顔面を覆った。
 そのあとで、やってしまったのは仕方ないと判断したのだろう。何事もなかったかのように話しかけてくる。

「本当に良かったよ。葉月ちゃんも、客室でずいぶん心配してたんだ。夫婦喧嘩くらいするだろうけど、なるべくなら仲良くしないと駄目だぞ」

 泰宏の台詞は妹だけではなく、春道にも向けられてるに違いない。
 横目で和葉を見ると、頷いてはいるがどこか納得のいかない顔をしている。高木家に泊まって以来の雰囲気を、見事にぶち壊されたのが不満なのだ。

 それは春道も同様だったが、だからといってこの場で堂々とラブシーンを展開するわけにもいかない。これから時間はたっぷりあるのだからと、心の中で自分自身を納得させる。

「大丈夫ですよ」

 言葉を発しようとしない妻に代わって、春道が泰宏との会話に応じる。和葉の肩からはすでに手を離しており、立ったままで義理の兄である男性と向かい合う。

「喧嘩したって、必ず最後には仲直りできます。家族ってのは、そういうものでしょう」

 ポンと娘の頭に手を乗せて「なっ?」と問いかけると、すぐに大きなな声で「うんっ」と元気な返事がやってきた。見れば、妻の和葉もようやく笑顔を見せている。

「そう……ね。私たちは家族だものね」

 微笑む和葉はスッと春道の横に立ち、穏やかな声で「家に帰りましょう」と話しかけてきた。もとより連れ戻すつもりだったので、願ってもない展開だった。
 葉月も笑顔で同意してくれるが、泰宏だけは苦笑する。

「今度は夫婦喧嘩じゃなく、ちゃんと休みを取って皆で遊びに来てくれよ」

 この台詞に対して、満面の笑みを作ることができたのは娘の葉月ひとりだけだった。

   *

 ――こうして。

 初めての夫婦喧嘩ともいえる騒動は解決した。
 事の発端は信じられないようなものだったが、こういったケースもあるのだと春道も注意しておかなければならない。
 もっとも今回は特殊だったので、そうそう同じ理由での喧嘩はないはずだ。

 ひと仕事終えたあとで、春道は時計を見る。時刻はすでに正午近い。
 今日は祭日なので、葉月は友達と遊びに行っている。複数の友人たちとサイクリングに行くらしく、和葉お手製の弁当を持って出かけていた。

 その和葉も珍しく休みらしいので、昼食は一緒にとることになる。
そろそろ そろそろ呼ばれる頃だと判断し、春道は仕事を中断して一階のリビングへと向かう。

 途中で階段を上ろうとしていた和葉とかち合い、二人並んで玄関前を通り過ぎて目的の場所へと歩いていく。

 ――ピンポーン。

 唐突に呼び鈴が鳴る。
 近所の人が回覧板でも持ってきたのかもしれない。

 和葉がドアを開けるのを、春道も黙って見守る。
 すると、そこにいたのはまったく予期していなかった人物だった。

「こんにちわー。家庭訪問に来ました」

「……あら、そうですか」

 狙っていたかのごとく、お昼時間に乱入してきたのは小石川祐子だった。
 どういう理由か挑戦的な笑顔の女教師と、無表情の愛妻が視線を真正面からぶつけ合う。
 ちなみに、娘の葉月からは家庭訪問の話など聞いていない。

「……マジかよ」

 呟いた春道は、とりあえず平和な昼食時間に別れを告げるのだった。
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