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男と女の婚活物語(5)
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純粋と称した時もそうだったが、目の前にいる女性はこうした褒め言葉に慣れていないような感じである。
つい先ほど、泰宏が「素直だ」と言ったところ、どうしてそう思うのかと尋ねられた。
これは困った質問だと頭の中で考える。具体的な理由など存在してないからだ。
けれど相手女性は返答を欲している。そこで泰宏は、感じたままを言葉にした。
「どうしてって、見てればすぐにわかりますよ」
祐子が怪訝そうな顔をする。泰宏の説明に、納得していない証拠だった。
「見てれば……わかるんですか」
「ええ、それはもう」
ここで時間が数秒ほど停止する。
不意に見つめ合う形になっているのだが、ロマチックなムードにはどこにもなかった。下手をすれば、同時に小首を傾げそうな雰囲気さえある。
あまりにも不可思議な状況の中、泰宏は思わず吹き出した。
「ど、どうしたんですか」
ますます不審がる相手女性へ「そういうところですよ」と告げる。
「感情をもっと表に出してもいいと思いますよ。怒りや悲しみを含めてね」
言い終わったあと、少しだけムッとした様子で祐子が反論する。
「私は言われるよりも、ずっと喜怒哀楽を表現してると思います」
「そのとおりです。でも、出会った当初なら、どうだったでしょう」
泰宏が言うと、何を言ってるんですかとばかりに祐子が片眉を折り曲げた。
「初対面の相手に、感情を露にしすぎたら失礼になる場合もあります」
相手女性の発言は当たり前であり、泰宏も承知している。けれど、こちらにもきちんとした理由がある。
「わかっています。ですが、それは普通の人の場合で、小石川さんには当てはまりませんよ」
「どういう意味ですか。私が普通でないとでも?」
「いいえ。そういうことではありません。感情の豊かさこそが、小石川さんの魅力だと言いたかったのです」
発言に信憑性をもたせるために真顔で告げたのだが、納得するどころか祐子は顔を真っ赤にしている。
何か恥ずかしくなるようなことを言っただろうか。わ
ずかな時間だけ考えてみるが、特に思い当たらなかった。内心で首をひねりながらも、会話を続行する。
「私は小石川さんのそういうところに好感を抱いています」
「そ、そう……ですか……」
返事をした祐子の顔色がますます赤くなる。
まるで熟れたリンゴみたいだ。
そう考えると、不覚にも笑いそうになってしまった。
だが相手女性と違って泰宏が感情を剥きだしにしたら、場の雰囲気が悪化するのは間違いない。
慎重にいかなければと気を引き締めつつ、言葉を選ぶのだった。
*
どうして目の前にいる男性は度々、突拍子もない発言をするのだろう。
顔全体を火照らせながら、祐子はそんなことを考えていた。
素直だと言ったり、
純粋だと言ったり、
挙句にはそうした点が魅力的だとまで断言した。
まるで前方にいる相手は、祐子が知らない祐子を知っているみたいだった。
戸高泰宏があまりにも真面目な顔をしているため、冗談は止めてくださいとやり過ごす事もできない。正面から受け止めるしかないだけに、現状のごとく祐子は照れまくっている。
数々の恋愛経験を積んできたはずが、ろくに主導権を握れずにいた。なんとかペースをこちらへ戻さなければと思っても、具体的な方法が見当たらない。なす術のない祐子にできるのは、向こうの言葉を待つぐらいである。
「自分に素直でいるというのは、決して悪いことではありません。それに笑ったり、怒ったりしている小石川さんは、とても魅力的です」
歯が浮くような台詞であっても、当たり前のように真剣な顔つきでスラスラと口にしてくる。
さしもの祐子も、戸惑い気味に「どうも……」としか言えなかった。
相手男性に恥ずかしがっている様子はない。お世辞でも何でもなく、単純に抱いた感想を口にしてるだけなのだ。
だからこそ、余計にタチが悪い。
どんなに計算高い人間であったとしても、天然には敵わない。相手のペースに巻き込まれて、わけがわからなくなるのがオチである。それこそ今の祐子みたいになり、にっちもさっちもいかなくなる。
加えて祐子は、泰宏の言動を密かに喜んでもいた。クラスに問題が生じた際、どれだけ頑張っても、誰にも理解してもらえなかった。児童の両親には責められ、仲間であるはずの同僚教師には、面倒事を起こしやがってと疎まれる。
味方が誰もいないような錯覚に陥り、上司にすら相談できなくなる。
小石川先生が担当しているクラスなのだから、ご自身でなんとかしてください。
これは祐子が実際に言われた台詞だった。
一昨年まで祐子は別の小学校におり、昨年の四月に今の小学校へ赴任してきた。自ら望んだのではなく、追い出されるような形での転勤だった。
以前の勤務先でもやはりいじめ問題が発生し、無事に解決させようと努力した。しかし頑張りとは裏腹に、事態は悪化する一方。最後には学級崩壊を招いた。
仲の良かった同僚も口をきいてくれなくなり、祐子は各家庭で下げたくもない頭を下げ続けた。責任をすべて背負わされたのである。
当時を思い出すと、悔しくて今でも涙が溢れてくる。
*
その時、泰宏は平静を装いつつも、こう思っていた。
しまった。またやらかした。
目の前にいる女性の涙は、それだけ衝撃的だった。
感情を露にしろといったのは、他ならぬ泰宏である。
しかし、いきなり泣かれるとは予想もしていなかった。
好意を寄せ始めている女性の家にいる感動も吹き飛び、動揺だけが拡大する。
混乱している泰宏だったが、なんとか女性の涙からハンカチを渡すという行動を連想できた。
ジャケットの胸ポケットから取り出したハンカチを手渡す。
祐子はすぐに受け取らず、どうしてハンカチを差し出されてるのかわからないといった感じの顔をしている。
「涙を……」
そこまで泰宏が言ったところで、ようやく相手女性は自分の身に起きている異変に気づいたみたいだった。
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、泰宏のハンカチを祐子が手に取る。
その瞬間、かすかに互いの指先が触れる。ピクンと反応したあとで、中学生かと泰宏は自分自身にツッコみを入れた。
それによくよく考えてみれば、ここは相手女性の家なのだ。わざわざハンカチを貸さなくても、探せばいくらでも見つけられる。
余計な真似だったかなとも思ったが、ありがたそうにハンカチを使ってくれている小石川祐子を見れば、心から貸してよかったと実感できた。
「ハンカチ……洗って返さないといけませんね」
多少は気分を落ち着けられたのか、泣き止んだ祐子がかすかに微笑んだ。
気にしないでくださいと言っても、この場面ではあまり効果を発揮してくれそうもない。
どのような言葉をかけてあげるべきか悩んでいると、先に祐子が口を開いた。
「私は……素直でも、純粋でもありません。いじめられている子供を、ひとりとして助けられない最低な女です」
懺悔のような発言を、泰宏は黙って聞いていた。ここは何か助言をしたりするよりも、ひたすら耳を傾けてあげるべきだと判断した。
誰かに愚痴を言ったりするだけでも、ずいぶんと心が軽くなったりする。祐子もそうなってくれればいいと心から思っていた。
「今の学校へ赴任する前も、私は似たような問題へ直面しました」
いつになく真剣な顔つきで、昔語りをしてくる。社交的な笑顔の裏に、かすかにかくれていた陰をようやく見つけたような気がした。
不必要に口を挟まず、好きなように喋らせる。それが問題解決の近道になる。確証はないものの、泰宏の直感が教えてくれていた。
「私は私なりに何とかしようと、力の限りに頑張ってみました」
そこまで口にしたところで、祐子の表情が曇った。
*
気づけば、祐子は今でも後悔している出来事について、泰宏に説明していた。仲の良い友人にも話していないのに、とても不思議だった。
愚痴を聞いてもらったら、少しはすっきりするのかと思った。けれど現実は違い、逆に重苦しい気持ちになる。
相手男性にも嫌な思いをさせてしまったかもしれない。そう考えると、申し訳なさすら覚える。
少しだけ顔を俯かせ、機嫌を窺うようにチラリと相手の顔を見る。ハンカチを貸してくれた男性は目を閉じて、何事かを考えている。
きっとこちらの不甲斐なさに呆れてるのだ。
話さなければよかったと思い始めた時、泰宏がゆっくりと眼を開いた。
「話はわかりました。
その上で聞きますけど、どうして小石川さんは責任を感じているのですか?」
別にふざけているわけでないのは、相手の顔を見ればわかる。
本気で泰宏は、台詞どおりの疑問を抱いているのだ。
「ど、どうしてって……」
説明しようとしたところで、次の言葉が思い浮かばずに口ごもる。
「全力で一生懸命やったのなら、結果がどうであれ、胸を張ってもいいと思いますよ。よく頑張りましたね」
泰宏の発言を聞き終えた途端、再び祐子の両の瞳から、透明な液体が大量に溢れ出した。そして不意に理解する。自分がずっと聞きたかったのは、この台詞だったのだと。
生徒の保護者はもちろん、上司や親しい同僚でさえも、祐子の部屋にいる男性のような言葉はかけてくれなかった。
次から次に流れてくる涙を止められず、人前だというのにボロボロとテーブルの上に雫をこぼし続ける。
「す、すみ……ませ……ん」
途切れ途切れに言葉を発しながら、借りているハンカチで両目を押さえる。
こうして派手に泣くのは、一体どれぐらいぶりだろうか。
心の奥底にたまっていた何かが、涙と一緒に祐子の中から流れていってるみたいだった。
しゃくり上げながらも、祐子は懸命に口を開く。
まだ泰宏に伝えるべき言葉があった。
「で、でも……ひくっ…うっ、私は……葉月ちゃんに……」
――申し訳ないことをした。
そう言いたいのに、口から漏れ出てくるのは嗚咽ばかりだった。
けれど泰宏は、こちらの気持ちをすべて理解してくれている。何の証拠もないけれど、確たる自信が祐子にはあった。
案の定というべきか、すぐ側にいる男性はわかってますとばかりに頷いてくれた。
「悪いことをしたと思うのなら、謝ればいいんですよ」
*
発したばかりの泰宏の台詞に、号泣している祐子が何度も何度も首を上下に振った。涙にまみれた声で、許してもらえるか不安だとも口にする。
泣いているせいでまともに発音できていなかったが、かろうじて台詞の内容を理解できた。その上で泰宏は考える。
確かに世の中には、謝っても許してくれない人間もいる。しかしそういう者は少数派で、大多数の人間は違うと信じていた。
「大丈夫ですよ」
静かに、優しく相手女性へ言葉をかける。
何度か対面しているが、妹の娘は底意地の悪いタイプには見えなかった。接した感じも良く、好印象ばかりが泰宏の中に残っている。
その一方で、だからこそいじめられるのかもしれないと思った。
人が良く、明るい少女なだけに、普通にしていても目立つ。ゆえにいじめっ子たちに目をつけられたのだ。
考え事をしている間に、祐子もある程度は泣き止んでいた。
まだ鼻をグズっているが、会話もできないほどではなくなっている。
「それに、本当に小石川さんは何もしなかったのですか」
葉月に対して申し訳なく思っているがために、相手女性はなかなか泰宏と目を合わせられないでいる。
「最初は……きちんと注意しようと思ったんです。実際にいじめていたと考えられる子を、職員室に呼び出しました」
そこまで言うと、教師の顔になった相手女性は悲しげな様子で目を伏せた。
あとに続く言葉を、なかなか言い出せないでいる。そこで泰宏が代わりに口を開いた。
「注意できなかったんですね」
「……厳しく叱責するつもりでいました。
ですが、いざその時になると、前の学校での出来事が思い出されて、無難な注意しかできませんでした」
まさしく懺悔だった。
己の罪と認識していながらも、これまで誰にも告白できずにいたのだろう。
ひと言、口からこぼれると、あとはとめどなく溢れてくる。今の学校に赴任してくる前の一件は、確実に祐子のトラウマになっている。
「何度も厳しく指導しようと考えては、躊躇ってばかり。そのうちにストレスが溜まっていきました」
ここでも泰宏は、黙って相手女性の言葉を聞いていた。向こうが話したがっているのだから、そうするのがよりベターだと考えた。
「自分自身に対するもどかしさが怒りへ変わり、やがて矛先さえも変えてしまいました」
当時の心情を思い出すかのように、ひとつひとつをじっくりと言葉にする。
「どうして私がこんなに苦しまなければならないのか。悩むうちに歪んだ心は、葉月ちゃんのせいだと叫ぶようになっていました」
葉月のいじめの際にどうして祐子が消極的だったのか、その理由がこの瞬間に判明した。
*
閉じ込めていた思いが、次から次に言葉となって溢れてくる。
祐子本人にも、この流れを止められなくなっていた。
途中で悩んだりもしたが、今では全部言ってしまえという方針に変わっている。
「そんな中で、葉月ちゃんのお母さんに叱責されて、ますます私の心はひねくれました」
聖職者である祐子が、そのような心構えではいけない。十分すぎるほどわかっていても、どうにもできなくなっていた。
邪心に負けた祐子はその日以来、高木葉月のいじめに関する思考を停止させた。ろくに注意もしなくなり、運命の日がやってくる。父兄参観だ。
遅れて教室に現れた葉月の父親――高木春道があっという間にいじめ問題を解決した。深夜にいきなり太陽が昇ったみたいに、祐子の中に巣食っていた闇を一掃してくれた。
強烈な憧れが祐子の全身を包み込み、尊敬は即座に好意へ変わった。
唯一の問題点は既婚者という点だったが、構わずに祐子はモーションをかけた。
久しぶりに本気で恋をした。
けれど春道はどんなに誘惑をしても、こちらになびいてくれなかった。
幾度ものやりとりをしていくうちに、恋心は諦めになりつつあった。
ため息まじりに新しい恋を探さないとなと思っていた矢先に、出会ったのが目の前にいる男性こと戸高泰宏である。
気づいたときには、そうした感情の揺れ動きも相手男性に説明していた。
「そうですか……小石川さんは、春道君が好きだったんですね」
泰宏の言うとおりだ。けれど最近では、あまりそのような意識はなくなっている。いつの間にか、祐子の心は新しい恋にシフトチェンジしていた。
相手はもちろん、すぐ前に座っている泰宏である。もっとも本人は、こちらの想いには気づいてないみたいだった。
心の中で苦笑しながら、祐子は転換期となった日の出来事を思い出す。問題が解決したあと、祐子は一度だけ葉月に謝ろうとした。
けれど見せてくれた屈託のない笑顔に、何も言えなくなった。心優しい少女は謝罪するより先に、祐子を許してくれていたのだ。
直感的に理解した祐子は「ありがとう」とひと言だけお礼を告げた。
どうしてお礼を言われるのか理解できてなかった少女は一瞬だけキョトンとしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
葉月の元気な声が、今でも耳に残っている。少女の優しさにも触れ、本気で母親になりたいと思った。けれどそれは、決して叶わぬ願いだった。
すでに高木和葉という女性が、春道や葉月の側にいた。半ば無理とわかっていても、諦めきれていなかった。
しかし、それも今日で終わり。
祐子は自身の想いに区切りをつけた。
決心できた一番の要因は、やはり戸高泰宏の存在だった。
つい先ほど、泰宏が「素直だ」と言ったところ、どうしてそう思うのかと尋ねられた。
これは困った質問だと頭の中で考える。具体的な理由など存在してないからだ。
けれど相手女性は返答を欲している。そこで泰宏は、感じたままを言葉にした。
「どうしてって、見てればすぐにわかりますよ」
祐子が怪訝そうな顔をする。泰宏の説明に、納得していない証拠だった。
「見てれば……わかるんですか」
「ええ、それはもう」
ここで時間が数秒ほど停止する。
不意に見つめ合う形になっているのだが、ロマチックなムードにはどこにもなかった。下手をすれば、同時に小首を傾げそうな雰囲気さえある。
あまりにも不可思議な状況の中、泰宏は思わず吹き出した。
「ど、どうしたんですか」
ますます不審がる相手女性へ「そういうところですよ」と告げる。
「感情をもっと表に出してもいいと思いますよ。怒りや悲しみを含めてね」
言い終わったあと、少しだけムッとした様子で祐子が反論する。
「私は言われるよりも、ずっと喜怒哀楽を表現してると思います」
「そのとおりです。でも、出会った当初なら、どうだったでしょう」
泰宏が言うと、何を言ってるんですかとばかりに祐子が片眉を折り曲げた。
「初対面の相手に、感情を露にしすぎたら失礼になる場合もあります」
相手女性の発言は当たり前であり、泰宏も承知している。けれど、こちらにもきちんとした理由がある。
「わかっています。ですが、それは普通の人の場合で、小石川さんには当てはまりませんよ」
「どういう意味ですか。私が普通でないとでも?」
「いいえ。そういうことではありません。感情の豊かさこそが、小石川さんの魅力だと言いたかったのです」
発言に信憑性をもたせるために真顔で告げたのだが、納得するどころか祐子は顔を真っ赤にしている。
何か恥ずかしくなるようなことを言っただろうか。わ
ずかな時間だけ考えてみるが、特に思い当たらなかった。内心で首をひねりながらも、会話を続行する。
「私は小石川さんのそういうところに好感を抱いています」
「そ、そう……ですか……」
返事をした祐子の顔色がますます赤くなる。
まるで熟れたリンゴみたいだ。
そう考えると、不覚にも笑いそうになってしまった。
だが相手女性と違って泰宏が感情を剥きだしにしたら、場の雰囲気が悪化するのは間違いない。
慎重にいかなければと気を引き締めつつ、言葉を選ぶのだった。
*
どうして目の前にいる男性は度々、突拍子もない発言をするのだろう。
顔全体を火照らせながら、祐子はそんなことを考えていた。
素直だと言ったり、
純粋だと言ったり、
挙句にはそうした点が魅力的だとまで断言した。
まるで前方にいる相手は、祐子が知らない祐子を知っているみたいだった。
戸高泰宏があまりにも真面目な顔をしているため、冗談は止めてくださいとやり過ごす事もできない。正面から受け止めるしかないだけに、現状のごとく祐子は照れまくっている。
数々の恋愛経験を積んできたはずが、ろくに主導権を握れずにいた。なんとかペースをこちらへ戻さなければと思っても、具体的な方法が見当たらない。なす術のない祐子にできるのは、向こうの言葉を待つぐらいである。
「自分に素直でいるというのは、決して悪いことではありません。それに笑ったり、怒ったりしている小石川さんは、とても魅力的です」
歯が浮くような台詞であっても、当たり前のように真剣な顔つきでスラスラと口にしてくる。
さしもの祐子も、戸惑い気味に「どうも……」としか言えなかった。
相手男性に恥ずかしがっている様子はない。お世辞でも何でもなく、単純に抱いた感想を口にしてるだけなのだ。
だからこそ、余計にタチが悪い。
どんなに計算高い人間であったとしても、天然には敵わない。相手のペースに巻き込まれて、わけがわからなくなるのがオチである。それこそ今の祐子みたいになり、にっちもさっちもいかなくなる。
加えて祐子は、泰宏の言動を密かに喜んでもいた。クラスに問題が生じた際、どれだけ頑張っても、誰にも理解してもらえなかった。児童の両親には責められ、仲間であるはずの同僚教師には、面倒事を起こしやがってと疎まれる。
味方が誰もいないような錯覚に陥り、上司にすら相談できなくなる。
小石川先生が担当しているクラスなのだから、ご自身でなんとかしてください。
これは祐子が実際に言われた台詞だった。
一昨年まで祐子は別の小学校におり、昨年の四月に今の小学校へ赴任してきた。自ら望んだのではなく、追い出されるような形での転勤だった。
以前の勤務先でもやはりいじめ問題が発生し、無事に解決させようと努力した。しかし頑張りとは裏腹に、事態は悪化する一方。最後には学級崩壊を招いた。
仲の良かった同僚も口をきいてくれなくなり、祐子は各家庭で下げたくもない頭を下げ続けた。責任をすべて背負わされたのである。
当時を思い出すと、悔しくて今でも涙が溢れてくる。
*
その時、泰宏は平静を装いつつも、こう思っていた。
しまった。またやらかした。
目の前にいる女性の涙は、それだけ衝撃的だった。
感情を露にしろといったのは、他ならぬ泰宏である。
しかし、いきなり泣かれるとは予想もしていなかった。
好意を寄せ始めている女性の家にいる感動も吹き飛び、動揺だけが拡大する。
混乱している泰宏だったが、なんとか女性の涙からハンカチを渡すという行動を連想できた。
ジャケットの胸ポケットから取り出したハンカチを手渡す。
祐子はすぐに受け取らず、どうしてハンカチを差し出されてるのかわからないといった感じの顔をしている。
「涙を……」
そこまで泰宏が言ったところで、ようやく相手女性は自分の身に起きている異変に気づいたみたいだった。
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、泰宏のハンカチを祐子が手に取る。
その瞬間、かすかに互いの指先が触れる。ピクンと反応したあとで、中学生かと泰宏は自分自身にツッコみを入れた。
それによくよく考えてみれば、ここは相手女性の家なのだ。わざわざハンカチを貸さなくても、探せばいくらでも見つけられる。
余計な真似だったかなとも思ったが、ありがたそうにハンカチを使ってくれている小石川祐子を見れば、心から貸してよかったと実感できた。
「ハンカチ……洗って返さないといけませんね」
多少は気分を落ち着けられたのか、泣き止んだ祐子がかすかに微笑んだ。
気にしないでくださいと言っても、この場面ではあまり効果を発揮してくれそうもない。
どのような言葉をかけてあげるべきか悩んでいると、先に祐子が口を開いた。
「私は……素直でも、純粋でもありません。いじめられている子供を、ひとりとして助けられない最低な女です」
懺悔のような発言を、泰宏は黙って聞いていた。ここは何か助言をしたりするよりも、ひたすら耳を傾けてあげるべきだと判断した。
誰かに愚痴を言ったりするだけでも、ずいぶんと心が軽くなったりする。祐子もそうなってくれればいいと心から思っていた。
「今の学校へ赴任する前も、私は似たような問題へ直面しました」
いつになく真剣な顔つきで、昔語りをしてくる。社交的な笑顔の裏に、かすかにかくれていた陰をようやく見つけたような気がした。
不必要に口を挟まず、好きなように喋らせる。それが問題解決の近道になる。確証はないものの、泰宏の直感が教えてくれていた。
「私は私なりに何とかしようと、力の限りに頑張ってみました」
そこまで口にしたところで、祐子の表情が曇った。
*
気づけば、祐子は今でも後悔している出来事について、泰宏に説明していた。仲の良い友人にも話していないのに、とても不思議だった。
愚痴を聞いてもらったら、少しはすっきりするのかと思った。けれど現実は違い、逆に重苦しい気持ちになる。
相手男性にも嫌な思いをさせてしまったかもしれない。そう考えると、申し訳なさすら覚える。
少しだけ顔を俯かせ、機嫌を窺うようにチラリと相手の顔を見る。ハンカチを貸してくれた男性は目を閉じて、何事かを考えている。
きっとこちらの不甲斐なさに呆れてるのだ。
話さなければよかったと思い始めた時、泰宏がゆっくりと眼を開いた。
「話はわかりました。
その上で聞きますけど、どうして小石川さんは責任を感じているのですか?」
別にふざけているわけでないのは、相手の顔を見ればわかる。
本気で泰宏は、台詞どおりの疑問を抱いているのだ。
「ど、どうしてって……」
説明しようとしたところで、次の言葉が思い浮かばずに口ごもる。
「全力で一生懸命やったのなら、結果がどうであれ、胸を張ってもいいと思いますよ。よく頑張りましたね」
泰宏の発言を聞き終えた途端、再び祐子の両の瞳から、透明な液体が大量に溢れ出した。そして不意に理解する。自分がずっと聞きたかったのは、この台詞だったのだと。
生徒の保護者はもちろん、上司や親しい同僚でさえも、祐子の部屋にいる男性のような言葉はかけてくれなかった。
次から次に流れてくる涙を止められず、人前だというのにボロボロとテーブルの上に雫をこぼし続ける。
「す、すみ……ませ……ん」
途切れ途切れに言葉を発しながら、借りているハンカチで両目を押さえる。
こうして派手に泣くのは、一体どれぐらいぶりだろうか。
心の奥底にたまっていた何かが、涙と一緒に祐子の中から流れていってるみたいだった。
しゃくり上げながらも、祐子は懸命に口を開く。
まだ泰宏に伝えるべき言葉があった。
「で、でも……ひくっ…うっ、私は……葉月ちゃんに……」
――申し訳ないことをした。
そう言いたいのに、口から漏れ出てくるのは嗚咽ばかりだった。
けれど泰宏は、こちらの気持ちをすべて理解してくれている。何の証拠もないけれど、確たる自信が祐子にはあった。
案の定というべきか、すぐ側にいる男性はわかってますとばかりに頷いてくれた。
「悪いことをしたと思うのなら、謝ればいいんですよ」
*
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泣いているせいでまともに発音できていなかったが、かろうじて台詞の内容を理解できた。その上で泰宏は考える。
確かに世の中には、謝っても許してくれない人間もいる。しかしそういう者は少数派で、大多数の人間は違うと信じていた。
「大丈夫ですよ」
静かに、優しく相手女性へ言葉をかける。
何度か対面しているが、妹の娘は底意地の悪いタイプには見えなかった。接した感じも良く、好印象ばかりが泰宏の中に残っている。
その一方で、だからこそいじめられるのかもしれないと思った。
人が良く、明るい少女なだけに、普通にしていても目立つ。ゆえにいじめっ子たちに目をつけられたのだ。
考え事をしている間に、祐子もある程度は泣き止んでいた。
まだ鼻をグズっているが、会話もできないほどではなくなっている。
「それに、本当に小石川さんは何もしなかったのですか」
葉月に対して申し訳なく思っているがために、相手女性はなかなか泰宏と目を合わせられないでいる。
「最初は……きちんと注意しようと思ったんです。実際にいじめていたと考えられる子を、職員室に呼び出しました」
そこまで言うと、教師の顔になった相手女性は悲しげな様子で目を伏せた。
あとに続く言葉を、なかなか言い出せないでいる。そこで泰宏が代わりに口を開いた。
「注意できなかったんですね」
「……厳しく叱責するつもりでいました。
ですが、いざその時になると、前の学校での出来事が思い出されて、無難な注意しかできませんでした」
まさしく懺悔だった。
己の罪と認識していながらも、これまで誰にも告白できずにいたのだろう。
ひと言、口からこぼれると、あとはとめどなく溢れてくる。今の学校に赴任してくる前の一件は、確実に祐子のトラウマになっている。
「何度も厳しく指導しようと考えては、躊躇ってばかり。そのうちにストレスが溜まっていきました」
ここでも泰宏は、黙って相手女性の言葉を聞いていた。向こうが話したがっているのだから、そうするのがよりベターだと考えた。
「自分自身に対するもどかしさが怒りへ変わり、やがて矛先さえも変えてしまいました」
当時の心情を思い出すかのように、ひとつひとつをじっくりと言葉にする。
「どうして私がこんなに苦しまなければならないのか。悩むうちに歪んだ心は、葉月ちゃんのせいだと叫ぶようになっていました」
葉月のいじめの際にどうして祐子が消極的だったのか、その理由がこの瞬間に判明した。
*
閉じ込めていた思いが、次から次に言葉となって溢れてくる。
祐子本人にも、この流れを止められなくなっていた。
途中で悩んだりもしたが、今では全部言ってしまえという方針に変わっている。
「そんな中で、葉月ちゃんのお母さんに叱責されて、ますます私の心はひねくれました」
聖職者である祐子が、そのような心構えではいけない。十分すぎるほどわかっていても、どうにもできなくなっていた。
邪心に負けた祐子はその日以来、高木葉月のいじめに関する思考を停止させた。ろくに注意もしなくなり、運命の日がやってくる。父兄参観だ。
遅れて教室に現れた葉月の父親――高木春道があっという間にいじめ問題を解決した。深夜にいきなり太陽が昇ったみたいに、祐子の中に巣食っていた闇を一掃してくれた。
強烈な憧れが祐子の全身を包み込み、尊敬は即座に好意へ変わった。
唯一の問題点は既婚者という点だったが、構わずに祐子はモーションをかけた。
久しぶりに本気で恋をした。
けれど春道はどんなに誘惑をしても、こちらになびいてくれなかった。
幾度ものやりとりをしていくうちに、恋心は諦めになりつつあった。
ため息まじりに新しい恋を探さないとなと思っていた矢先に、出会ったのが目の前にいる男性こと戸高泰宏である。
気づいたときには、そうした感情の揺れ動きも相手男性に説明していた。
「そうですか……小石川さんは、春道君が好きだったんですね」
泰宏の言うとおりだ。けれど最近では、あまりそのような意識はなくなっている。いつの間にか、祐子の心は新しい恋にシフトチェンジしていた。
相手はもちろん、すぐ前に座っている泰宏である。もっとも本人は、こちらの想いには気づいてないみたいだった。
心の中で苦笑しながら、祐子は転換期となった日の出来事を思い出す。問題が解決したあと、祐子は一度だけ葉月に謝ろうとした。
けれど見せてくれた屈託のない笑顔に、何も言えなくなった。心優しい少女は謝罪するより先に、祐子を許してくれていたのだ。
直感的に理解した祐子は「ありがとう」とひと言だけお礼を告げた。
どうしてお礼を言われるのか理解できてなかった少女は一瞬だけキョトンとしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
葉月の元気な声が、今でも耳に残っている。少女の優しさにも触れ、本気で母親になりたいと思った。けれどそれは、決して叶わぬ願いだった。
すでに高木和葉という女性が、春道や葉月の側にいた。半ば無理とわかっていても、諦めきれていなかった。
しかし、それも今日で終わり。
祐子は自身の想いに区切りをつけた。
決心できた一番の要因は、やはり戸高泰宏の存在だった。
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