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菜月の小学校編
ママ友
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「そういえば昨夜の話だけど、どうなったのかしら」
仕事を一段落させ、昼食を取りにリビングへ降りてきた春道に、用意をしてくれた和葉が思い出したように言った。
「昨夜っていうと、和葉が二人きりになるとよく拗ねて――」
「――そっちじゃなくて!」
額に汗を浮かべそうなくらいに顔中を火照らせた愛妻の怒声に、少しからかいすぎたかと春道はこっそり反省する。
「わかってるって。菜月が担任から登校拒否の生徒の面倒を任された件だろ」
まだ何か言い足りないみたいだったが本題に戻った方が得策と判断したのか、とりあえずは呑み込んでくれたらしく、赤らみを減少させつつある顔を上下に動かした。
「ええ、昨日も先方のお宅にお邪魔したそうなの。しっかり者の菜月だから心配はいらないでしょうけど、それでも不登校の男子の家に一人で行くというのはどうなのかしら」
ふむ、と春道は食卓につきながら腕を組む。小学三年生になったばかりでそこまでは考える必要もないと思うが、自身が小学生だった頃とは事情も大きく違う。情報はそこかしこに溢れ、幼いうちから大人の真似事をしたがる子供が現れる可能性は決してゼロとは言えない。
なおかつ妻の和葉は子供たちに対して心配をしすぎるきらいがある。考えすぎだと笑い飛ばすのは簡単だが、愛する我が子の問題ともなれば万が一であっても不安を覚えるのは親ならば当たり前だった。
「心配はもっともだが、親がその家に着いていくわけにもいかないだろう。学校に乗り込めば余計にその子は登校し辛くなるだろうしな。それに不安になりだすときりがないぞ」
「それはわかっているんだけど……。
ふう。性格的なものだから、どうしようもないわ」
世間一般の親と同様に防犯ブザーを持たせてはいる。大の男に力ずくで挑みかかってこられた場合は慰め程度の効果しかないかもしれないが、それでも対抗策を何も持っていないよりはマシだろう。
それに都会とは違って田舎の利点というべきか、意外と老齢の方々が道行く子供たちに声をかける機会が多い。逆に挨拶をする子供も然りだ。
メリットばかりではないのかもしれないが、そうした文化みたいな習慣を春道は意外と気に入っていた。
「そこまで気になるのなら、先方に世話になったお礼がてら電話をすればいい」
菜月の話では紅茶とクッキーをご馳走になったらしい。面識がない保護者であるからこそ、電話なりして親交を温めるのも有効ではないかと思っての提案である。
「それだわ!」
椅子を鳴らすほどに、勢いよく和葉が立ち上がる。
「さすが春道さん!」
我が子の事になれば思い立ったら即行動である。もっともその前にきちんと春道のご飯をよそってくれていたので、文句も何もなく電話機へと走る背中を見送る。
手作りのオムレツに箸を入れ、適度な大きさにして口に運んでいると、受話口を持ったまま固まった愛妻が油の切れた機械みたいな動きでこちらを向いた。
「……そのお宅の電話番号……春道さんは知ってるかしら……?」
「菜月が帰ってきたら聞いた方がいいな」
見出した希望が闇に包まれた気分にでもなったのか、三十代後半になっても色褪せない美貌を誇る和葉は電話機の前でガックリと肩を落とした。
*
今日も仕事を一段落させてリビングに出てきた春道は、夕食の準備に取り掛かっている愛妻の背中に声をかける。
「菜月は今日も鈴木君のところか?」
首からエプロンをかけている和葉が、包丁を持つ右手を停止させて振り返る。
「ええ。真君というらしいけど、彼の部屋に面白そうな小説がたくさんあると楽しそうだったもの」
その辺の話は苦笑を顔に張りつける和葉のみならず、春道も当人から聞いていた。
「そうは言っても頼まれた以上、放っておけないというのあるんだろう。本人はクールぶっているが、ああ見えてかなりの人情家だしな」
「おまけに照れ屋なんだから、菜月の前では言わないでよ」
「わかってるよ。俺たちの娘なんだからさ。
そういえば、もう一人の娘は元気かね」
「この間、メールが来てたわよ。文面ではホームシックだと騒いでいたけど、好美ちゃんがいるから大丈夫でしょう」
メールの内容を思い出したのか、教えてくれた和葉が曲げた人差し指を添えた口元を、おかしそうに歪めた。幼い頃は買い物に出かけるというだけで不安になり、尾行までする過保護ぶりだったのを思えば、だいぶ成長したものである。
「あ、そうそう。鈴木さん――お母さんの方だけど、菜月から電話番号や住所を聞いて連絡をしてみたわ。逆に息子がお世話になってと恐縮しきりだったわね。電話で話した印象でしかないけど、悪い人ではなさそうだったわ」
「まあ、テレビのニュースあたりじゃ悪い人間ばかり取り上げるからこの世は地獄みたいな印象もあるが、身の回りで頻繁に起こってるかといえばそうでもない。
それに周りをひたすら疑って、不安になっての人生なんて疲れるだけだろ。笑顔すら忘れてしまいそうだ」
「そうね」和葉が同意する。「それでこそ春道さんだわ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
フフッと和葉は目を細め、そっと春道の背中に自らの頬を寄せた。
「もちろんよ。春道さんは世界で一番素敵な旦那様だわ」
「そりゃ、そうだろ。世界で一番素敵な奥様と一緒に暮らせているんだからな」
お互いの気持ちを着飾らずに素直になる。意外とそれが夫婦関係を良好に保つコツなのかもしれないな。そんな風に思いながら振り返った春道は、愛妻の肩に手を回した。
*
涙に濡れた「ありがとうございます」が何度も繰り返される。
田舎にとって大型となるスーパーの三階のファミレス。窓から老人が楽しげに遊戯するゲームコーナーを和葉は横目で眺めつつ、こちらが申し訳ないくらいに頭を下げる女性に大丈夫ですからと応対する。
正面に座る女性は鈴木香織。高木家次女の菜月が最近様子を見に家まで通っているクラスメート、鈴木真の母親だった。
和葉から迷惑をかけてないでしょうかと連絡を取ったのをきっかけによく電話で話すようになり、今朝、興奮で泣きながら息子が本当に学校へ行ってくれましたと報告してきた女性でもある。
やや茶色の髪の毛を一本に結い、肩から流している。今回初めて会ったのだが、外見は清楚なお嬢様みたいな印象を受ける。
年齢は和葉より年下の三十三歳らしいが、それよりも若く見える。下手すれば女学生と間違われかねないくらいの童顔である。ひらひらした白のロングスカートに水色のカーディガン。さらには白のブラウスと、どこか乙女チックな服装も実に良く似合っていた。
最近化粧のりが悪くなってきた和葉としてはこの上なく羨ましいのだが、嫉妬している場合でもない。歳を重ねるにつれてスカートを履くのが余計に恥ずかしくなったのもあり、好んで着用する白のパンツに包まれた脚を組み換えながら、改めて鈴木真の母親に頭を上げてほしいとお願いする。
直接会ってお礼をしたいと言われたまでは良かったが、会うなりずっとこの調子なのだ。かれこれ十五分程度は続いており、注文を届けに来たウエイトレスにも怪訝そうに見られる始末。悪いことなど一切していないのに、和葉の中で奇妙な罪悪感が大きくなっているのもそのせいだろう。
「そ、そうですよね。とにかく私、嬉しくて。高木さんにお礼を言いたくて……本当にありがとうございます」
目元をハンカチで拭きながら、ようやく上がったかに思われた頭を再びテーブルすれすれまで下降させる。待ち合わせが午前十時だったので昼前には帰宅できるかと思っていたが、この分では遅くなってしまうかもしれない。
もっともそうなった場合でも、夫の春道であれば怒ったりするどころか、これ幸いとばかりに自身の好きな昼食を調達しようとするだろう。健康のために、和葉が日々せっせとしているカロリー計算を嘲笑うようなメニューを。
それだけは阻止しなければと和葉が思っているなど露知らず、ようやくお礼を言うのに満足したらしい香織が少しずつ落ち着きを取り戻し始めてくれた。
「す、すみません。取り乱してしまって」
「いいえ。不登校に陥っていた息子がまた登校するようになってくれたのです。母親であれば誰だって喜びます」
「ありがとうございます。母子ともども高木さんにはお世話になりっぱなしで……」
香織が恐縮する。電話で話を聞いていたくらいなので、和葉からすればお世話という大層な行為をした覚えはない。それでは菜月が頑張ったのだろうかと、その辺を尋ねてみる。
「菜月は本当にご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか」
「迷惑なんてとんでもないです! それは……最初に部屋に引き篭もってるあの子に、開けなければドアを蹴破ると言い出した時は驚きましたけど……」
初めて明かされた衝撃の事実に和葉は頭を抱えたくなる。帰ったら注意すべきかしらと考えていると、香織は決して怒ってはいないと強調する。
「あれくらい強引でなければ駄目だったんです。傷つかないようにと気を遣っても、あの子のためにはなっていませんでした。それを菜月ちゃんは教えてくれたんです。
あの年齢でずいぶんしっかりしているなと思っていたのですけど、高木さんを見て納得です。こんなにお綺麗で優しいですし、同じ女性として、母親として憧れます」
今度は褒め殺しである。その通りですと胸を張れない性格をしているだけに、そんなことはありませんとひたすら居心地の悪さに耐えるしかない。頼んでいた珈琲を飲んで気分を落ち着かせていると、対面の香織がやや俯き加減になった。
「真ちゃんは昔から内気な性格で、幼稚園でも友人ができなかったんです。それで夫が田舎でのびのび育ててみたらどうかと言ってくれて……」
「ではこちらへは最近、引っ越してこられたのですか?」
「最近というか、真ちゃんが小学校へ入学する少し前ですね。時間があまりなかったのですが、色々な地方を下見して、真ちゃんが景色を気に入ったこの土地に生活の基盤を移しました」
なるほどと頷き、どうしようか悩んだ末に和葉は生じていた疑問を口に出す。
「込み入ったことを聞くようですけど、旦那さんは……」
夫婦であれば互いに協力してと思うのだが、そのへんは各家庭に事情がある。目の前でどこか申し訳なさそうにする鈴木家も例外ではなかった。
「夫は仕事柄家を空けることが多くて……真ちゃんのために田舎へ移住はしたんですが、今は単身赴任みたいになっています。
それでも休みになればほぼ必ず、こちらへ来てくれるのですが、疲れている主人に相談するのは申し訳ないような気がして……」
夫も息子も愛しているからこその葛藤なのだろう。気持ちは痛いほどわかるが、それでは何も好転しない。
「相談すべきです。私も一人で抱え込みたがる癖があるのですけど、そのたびに主人に言われます。夫婦なのだから困難も一緒に背負うべきだと」
「高木さん……」
香織が瞳を潤ませる。
「そうですよね。夫婦なのに遠慮するなんて、おかしいですものね。はっきり言ってもらえて、なんだかすっきりしました」
「出過ぎた真似でしたら申し訳ありません」
「そんなことないです。菜月ちゃんにも高木さんにも助けてもらってばかりで……」
珈琲を一口啜り、和葉は気にしないでくださいと告げる。
「困った時はお互い様ですから。それよりも、娘が真君の部屋を図書館代わりに使っていないかと心配で……」
切り出した和葉に届けられたのは、それこそ気にしないでくださいと言わんばかりの微笑みだった。
「真ちゃんは読書よりもスケッチが好きみたいで、本好きな夫は少しだけ残念そうでしたから、愛書を菜月ちゃんが代わりに読んでくれていると知れば、きっと喜ぶと思います」
「それでしたらよいのですが……余計な気を遣わせてしまっているようでしたら……」
「全然大丈夫です。ウフフ。最初となんだか逆になってしまいましたね」
気がつけば和葉が申し訳なさそうにしていた。そうですねと応じつつ、首を僅かに傾けて笑みを浮かべる。
話題は母親同士で共感するような他愛のないものへと移っていき、正午になってファミレスを出る頃には、香織とは良い友人になれそうだと思うようになっていた。
仕事を一段落させ、昼食を取りにリビングへ降りてきた春道に、用意をしてくれた和葉が思い出したように言った。
「昨夜っていうと、和葉が二人きりになるとよく拗ねて――」
「――そっちじゃなくて!」
額に汗を浮かべそうなくらいに顔中を火照らせた愛妻の怒声に、少しからかいすぎたかと春道はこっそり反省する。
「わかってるって。菜月が担任から登校拒否の生徒の面倒を任された件だろ」
まだ何か言い足りないみたいだったが本題に戻った方が得策と判断したのか、とりあえずは呑み込んでくれたらしく、赤らみを減少させつつある顔を上下に動かした。
「ええ、昨日も先方のお宅にお邪魔したそうなの。しっかり者の菜月だから心配はいらないでしょうけど、それでも不登校の男子の家に一人で行くというのはどうなのかしら」
ふむ、と春道は食卓につきながら腕を組む。小学三年生になったばかりでそこまでは考える必要もないと思うが、自身が小学生だった頃とは事情も大きく違う。情報はそこかしこに溢れ、幼いうちから大人の真似事をしたがる子供が現れる可能性は決してゼロとは言えない。
なおかつ妻の和葉は子供たちに対して心配をしすぎるきらいがある。考えすぎだと笑い飛ばすのは簡単だが、愛する我が子の問題ともなれば万が一であっても不安を覚えるのは親ならば当たり前だった。
「心配はもっともだが、親がその家に着いていくわけにもいかないだろう。学校に乗り込めば余計にその子は登校し辛くなるだろうしな。それに不安になりだすときりがないぞ」
「それはわかっているんだけど……。
ふう。性格的なものだから、どうしようもないわ」
世間一般の親と同様に防犯ブザーを持たせてはいる。大の男に力ずくで挑みかかってこられた場合は慰め程度の効果しかないかもしれないが、それでも対抗策を何も持っていないよりはマシだろう。
それに都会とは違って田舎の利点というべきか、意外と老齢の方々が道行く子供たちに声をかける機会が多い。逆に挨拶をする子供も然りだ。
メリットばかりではないのかもしれないが、そうした文化みたいな習慣を春道は意外と気に入っていた。
「そこまで気になるのなら、先方に世話になったお礼がてら電話をすればいい」
菜月の話では紅茶とクッキーをご馳走になったらしい。面識がない保護者であるからこそ、電話なりして親交を温めるのも有効ではないかと思っての提案である。
「それだわ!」
椅子を鳴らすほどに、勢いよく和葉が立ち上がる。
「さすが春道さん!」
我が子の事になれば思い立ったら即行動である。もっともその前にきちんと春道のご飯をよそってくれていたので、文句も何もなく電話機へと走る背中を見送る。
手作りのオムレツに箸を入れ、適度な大きさにして口に運んでいると、受話口を持ったまま固まった愛妻が油の切れた機械みたいな動きでこちらを向いた。
「……そのお宅の電話番号……春道さんは知ってるかしら……?」
「菜月が帰ってきたら聞いた方がいいな」
見出した希望が闇に包まれた気分にでもなったのか、三十代後半になっても色褪せない美貌を誇る和葉は電話機の前でガックリと肩を落とした。
*
今日も仕事を一段落させてリビングに出てきた春道は、夕食の準備に取り掛かっている愛妻の背中に声をかける。
「菜月は今日も鈴木君のところか?」
首からエプロンをかけている和葉が、包丁を持つ右手を停止させて振り返る。
「ええ。真君というらしいけど、彼の部屋に面白そうな小説がたくさんあると楽しそうだったもの」
その辺の話は苦笑を顔に張りつける和葉のみならず、春道も当人から聞いていた。
「そうは言っても頼まれた以上、放っておけないというのあるんだろう。本人はクールぶっているが、ああ見えてかなりの人情家だしな」
「おまけに照れ屋なんだから、菜月の前では言わないでよ」
「わかってるよ。俺たちの娘なんだからさ。
そういえば、もう一人の娘は元気かね」
「この間、メールが来てたわよ。文面ではホームシックだと騒いでいたけど、好美ちゃんがいるから大丈夫でしょう」
メールの内容を思い出したのか、教えてくれた和葉が曲げた人差し指を添えた口元を、おかしそうに歪めた。幼い頃は買い物に出かけるというだけで不安になり、尾行までする過保護ぶりだったのを思えば、だいぶ成長したものである。
「あ、そうそう。鈴木さん――お母さんの方だけど、菜月から電話番号や住所を聞いて連絡をしてみたわ。逆に息子がお世話になってと恐縮しきりだったわね。電話で話した印象でしかないけど、悪い人ではなさそうだったわ」
「まあ、テレビのニュースあたりじゃ悪い人間ばかり取り上げるからこの世は地獄みたいな印象もあるが、身の回りで頻繁に起こってるかといえばそうでもない。
それに周りをひたすら疑って、不安になっての人生なんて疲れるだけだろ。笑顔すら忘れてしまいそうだ」
「そうね」和葉が同意する。「それでこそ春道さんだわ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
フフッと和葉は目を細め、そっと春道の背中に自らの頬を寄せた。
「もちろんよ。春道さんは世界で一番素敵な旦那様だわ」
「そりゃ、そうだろ。世界で一番素敵な奥様と一緒に暮らせているんだからな」
お互いの気持ちを着飾らずに素直になる。意外とそれが夫婦関係を良好に保つコツなのかもしれないな。そんな風に思いながら振り返った春道は、愛妻の肩に手を回した。
*
涙に濡れた「ありがとうございます」が何度も繰り返される。
田舎にとって大型となるスーパーの三階のファミレス。窓から老人が楽しげに遊戯するゲームコーナーを和葉は横目で眺めつつ、こちらが申し訳ないくらいに頭を下げる女性に大丈夫ですからと応対する。
正面に座る女性は鈴木香織。高木家次女の菜月が最近様子を見に家まで通っているクラスメート、鈴木真の母親だった。
和葉から迷惑をかけてないでしょうかと連絡を取ったのをきっかけによく電話で話すようになり、今朝、興奮で泣きながら息子が本当に学校へ行ってくれましたと報告してきた女性でもある。
やや茶色の髪の毛を一本に結い、肩から流している。今回初めて会ったのだが、外見は清楚なお嬢様みたいな印象を受ける。
年齢は和葉より年下の三十三歳らしいが、それよりも若く見える。下手すれば女学生と間違われかねないくらいの童顔である。ひらひらした白のロングスカートに水色のカーディガン。さらには白のブラウスと、どこか乙女チックな服装も実に良く似合っていた。
最近化粧のりが悪くなってきた和葉としてはこの上なく羨ましいのだが、嫉妬している場合でもない。歳を重ねるにつれてスカートを履くのが余計に恥ずかしくなったのもあり、好んで着用する白のパンツに包まれた脚を組み換えながら、改めて鈴木真の母親に頭を上げてほしいとお願いする。
直接会ってお礼をしたいと言われたまでは良かったが、会うなりずっとこの調子なのだ。かれこれ十五分程度は続いており、注文を届けに来たウエイトレスにも怪訝そうに見られる始末。悪いことなど一切していないのに、和葉の中で奇妙な罪悪感が大きくなっているのもそのせいだろう。
「そ、そうですよね。とにかく私、嬉しくて。高木さんにお礼を言いたくて……本当にありがとうございます」
目元をハンカチで拭きながら、ようやく上がったかに思われた頭を再びテーブルすれすれまで下降させる。待ち合わせが午前十時だったので昼前には帰宅できるかと思っていたが、この分では遅くなってしまうかもしれない。
もっともそうなった場合でも、夫の春道であれば怒ったりするどころか、これ幸いとばかりに自身の好きな昼食を調達しようとするだろう。健康のために、和葉が日々せっせとしているカロリー計算を嘲笑うようなメニューを。
それだけは阻止しなければと和葉が思っているなど露知らず、ようやくお礼を言うのに満足したらしい香織が少しずつ落ち着きを取り戻し始めてくれた。
「す、すみません。取り乱してしまって」
「いいえ。不登校に陥っていた息子がまた登校するようになってくれたのです。母親であれば誰だって喜びます」
「ありがとうございます。母子ともども高木さんにはお世話になりっぱなしで……」
香織が恐縮する。電話で話を聞いていたくらいなので、和葉からすればお世話という大層な行為をした覚えはない。それでは菜月が頑張ったのだろうかと、その辺を尋ねてみる。
「菜月は本当にご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか」
「迷惑なんてとんでもないです! それは……最初に部屋に引き篭もってるあの子に、開けなければドアを蹴破ると言い出した時は驚きましたけど……」
初めて明かされた衝撃の事実に和葉は頭を抱えたくなる。帰ったら注意すべきかしらと考えていると、香織は決して怒ってはいないと強調する。
「あれくらい強引でなければ駄目だったんです。傷つかないようにと気を遣っても、あの子のためにはなっていませんでした。それを菜月ちゃんは教えてくれたんです。
あの年齢でずいぶんしっかりしているなと思っていたのですけど、高木さんを見て納得です。こんなにお綺麗で優しいですし、同じ女性として、母親として憧れます」
今度は褒め殺しである。その通りですと胸を張れない性格をしているだけに、そんなことはありませんとひたすら居心地の悪さに耐えるしかない。頼んでいた珈琲を飲んで気分を落ち着かせていると、対面の香織がやや俯き加減になった。
「真ちゃんは昔から内気な性格で、幼稚園でも友人ができなかったんです。それで夫が田舎でのびのび育ててみたらどうかと言ってくれて……」
「ではこちらへは最近、引っ越してこられたのですか?」
「最近というか、真ちゃんが小学校へ入学する少し前ですね。時間があまりなかったのですが、色々な地方を下見して、真ちゃんが景色を気に入ったこの土地に生活の基盤を移しました」
なるほどと頷き、どうしようか悩んだ末に和葉は生じていた疑問を口に出す。
「込み入ったことを聞くようですけど、旦那さんは……」
夫婦であれば互いに協力してと思うのだが、そのへんは各家庭に事情がある。目の前でどこか申し訳なさそうにする鈴木家も例外ではなかった。
「夫は仕事柄家を空けることが多くて……真ちゃんのために田舎へ移住はしたんですが、今は単身赴任みたいになっています。
それでも休みになればほぼ必ず、こちらへ来てくれるのですが、疲れている主人に相談するのは申し訳ないような気がして……」
夫も息子も愛しているからこその葛藤なのだろう。気持ちは痛いほどわかるが、それでは何も好転しない。
「相談すべきです。私も一人で抱え込みたがる癖があるのですけど、そのたびに主人に言われます。夫婦なのだから困難も一緒に背負うべきだと」
「高木さん……」
香織が瞳を潤ませる。
「そうですよね。夫婦なのに遠慮するなんて、おかしいですものね。はっきり言ってもらえて、なんだかすっきりしました」
「出過ぎた真似でしたら申し訳ありません」
「そんなことないです。菜月ちゃんにも高木さんにも助けてもらってばかりで……」
珈琲を一口啜り、和葉は気にしないでくださいと告げる。
「困った時はお互い様ですから。それよりも、娘が真君の部屋を図書館代わりに使っていないかと心配で……」
切り出した和葉に届けられたのは、それこそ気にしないでくださいと言わんばかりの微笑みだった。
「真ちゃんは読書よりもスケッチが好きみたいで、本好きな夫は少しだけ残念そうでしたから、愛書を菜月ちゃんが代わりに読んでくれていると知れば、きっと喜ぶと思います」
「それでしたらよいのですが……余計な気を遣わせてしまっているようでしたら……」
「全然大丈夫です。ウフフ。最初となんだか逆になってしまいましたね」
気がつけば和葉が申し訳なさそうにしていた。そうですねと応じつつ、首を僅かに傾けて笑みを浮かべる。
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