その後の愛すべき不思議な家族

桐条京介

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愛すべき子供たち編

宏和の決断

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 ついにこの時がきたか、と宏和は思った。

 一軍に呼ばれることなく二軍の日程をすべて終え、今年は昨年よりも成績はさらに悪化した。

 残暑の気配が残りつつも、朝晩に秋の気配が濃くなってきた十月。

 一軍は早々に順位が決定し、消化試合を残すのみ。
 そんなさなかに宏和の携帯電話が鳴り、翌日に球団事務所まで顔を出すように伝えられた。

 そして今日。

 宏和は球団事務所で来季の契約を結ばない戦力外通告を受けた。

 大卒の社会人からプロ入り。
 しかも指名順位は下位。

 時間がないのはわかっていた。
 全力で目の前の壁にもぶつかった。

 けれど現実は想像以上に過酷だった。

 やれると思っていた。

 しかし宏和の自信はうぬぼれでしかなかった。
 覚悟はしていたはずなのに、考えがまとまらない。

 寮の自室でしばらくボーっとしていたあと、不意におかしくなって宏和は笑った。
 なんだか無性に笑いたい気分だった。

「あー……笑った、笑った。
 それじゃ、片づけるかな」

 今月下旬にはドラフトが行われ、新しい選手がプロの扉を開く。
 落伍者の烙印を押された宏和に、もう居場所はない。

「その前に、報告しとかないとな」

 スマホを操作し、片付けながらハンズフリーで電話をかける。

「はい、愛花です」

 いの一番に電話をかけたのは両親ではなく、夫婦になりながらも寂しい思いばかりをさせてきた愛妻だった。

「これまで苦労かけたな」

「え? どうしたのですか?」

「これからはゆっくり、一緒に暮らせるぞ」

 電話の向こうで愛花が息を呑むのが伝わってくる。

 音が止まる。
 世界から取り残されたみたいにシンとしている。

 宏和の心が急速な冷たさに襲われる。

「……お疲れ様でした」

 事情を察した愛花は少しの沈黙の後、労いの言葉を宏和にかけた。
 悩んだ末にそれが一番だと判断したのだろう。

「ありがとう」

 そして宏和もそれだけしか伝えられなかった。

   *

 穏やかな日差しが降り注ぐマウンドの上は、とても気持ちが良かった。

 葛藤がないと言えば嘘になる。
 未練だって残っている。

 それでも宏和が選んだのは引退の二文字だった。

 もともとプロ野球選手になれるとは思っていなかった。

 好きな女の子を振り向かせたくて始めただけのスポーツ。

 いつしか青春そのものになっていたスポーツ。

 気が付けば自分の一部と――生活と化していたスポーツ。

 野球をしていたからこそ、出会えた人たちがいる。
 野球をしていたからこそ、得られた思い出もある。

 一般の学生に比べれば遊びの記憶は少ないが、それでも宏和は自分の野球人生に満足していた。

 だからすべてをぶつけるために、今日のトライアウトに参加した。

 テレビカメラも入っているみたいだが、無名中の無名である宏和が取材などされるはずもない。

 だが見てくれている人はいる。

 開放されたスタンドで、いつものように胸の前で両手を組み、心配そうに見つめる瞳が背中を撫でる。

 初恋に敗れて一生一人でいいと思ったのに、ずっと寄り添ってくれて今も宏和を支えてくれる唯一無二のパートナー。

 その隣には東京でエリート街道をひた走る初恋の女性もいた。

 両親も立って声援を送っている。マウンドからでも、母親の目が赤く腫れているのがわかる。

「どいつもこいつも俺より先に泣きやがる」

 フッと肩を竦めると、凝り固まっていた力が抜けていく。

「さあ、やるか。
 最後におもいっきり楽しんでやる」

 猛々しく咆え、全力で腕を振る。
 指から放たれる白球が、糸を引くようにキャッチャーミットに吸い込まれる。

 どうしてここで最高の一球が投げられるんだよ。

 自嘲気味に嗤う宏和が腕を振るたび、ストライクカウントが増える。

 打者三人との対戦はすべて三振。

 どよめきと歓声がスタンドから降り注ぐ中、投げ切った宏和はどこまでも青い空を仰ぐ。

 これで本当にプロ野球生活が終わる。

 こみ上げてきた実感に胸が熱く震え、頬に一筋の涙が零れた。

   *

 プロ野球のシーズンが終わりに近づくにつれて、愛花の胸は張り裂けそうなぐらい緊張でドキドキしていた。

 呼吸が苦しくなるたび、迷惑と知りながらも友人たちに電話をかけて気分を紛らわせた。

 プロ野球選手の妻になることが、こんなにも苦しいとは知らなかった。
 自分では何の手助けをすることもできない。
 衛星放送で中継される二軍の試合を見るか、球場まで応援に行くだけ。

 最愛の夫が頑張っても頑張っても報われない日々に、頭がどうにかなりそうだった。けれど弱音だけは絶対に吐けなかった。

 誰より苦しいのは困難に直面している夫の宏和なのだから。

 早く過ぎてほしい。
 そう願いながら時計ばかりを見つめる日々。

 しかし愛花の祈りは通じずに、夫からの電話が鳴った。
 時期が時期だけに嫌な予感が大半を占める。

 それでも愛花は微かな希望に縋って夫の報告を聞いた。

 苦労をかけたと宏和は言い、これからは一緒に暮らせると微かに笑った声はとても寂しそうだった。

 全身がバラバラに砕け散るかと思った。

 覚悟はしていても、想像以上にショックだった。

 なんとか労いの言葉を絞り出し、電話を切ったあと愛花は号泣した。

 泣いて。

 泣いて。

 泣き続けて。

 最後にやってきた感情が安堵だと気付いた時、愛花は自分を最低だと罵りながらまた泣いた。

 夜に親友の菜月に電話をかけ、その日の出来事と気持ちをすべてぶちまけた。

 仕事で疲れているはずなのにまったく嫌そうにせず、菜月は愛花の痛みも苦しみも悲しみも懺悔もまとめて引き受けた。

 そして落ち着くのを待ってから会話に付き合ってくれた。

 菜月には恩ばかりが溜まっていくが、いつか必ず返そうと心に決めた。

 それから宏和の退寮と引っ越しの手伝いなどをしているうちに時間が流れ、トライアウトの日を迎えた。

 現役に固執するのではなく、最後におもいきり野球を楽しみたいと彼は言った。

 野球をしている姿を世話になった人に見てほしいと彼は言った。

 自分がプロ野球選手だったことを、愛花に覚えていてほしいと彼は言った。

 その夫が次々と打者を三振にする姿を心に刻みながら、愛花はまた泣いた。

   *

 トライアウトがあった日の夜。

 借り切った小さな居酒屋の座敷に座りながら、菜月は幼馴染の宏和の背中を「お疲れ様」と強めに叩いた。

「何すんだよ」

「痛みを与えてあげた方が泣きやすいかと思ったのよ」

「はあ? 菜月ってたまに訳わからん行動するよな」

 グラスに注がれたビールを呑み干して、宏和が呆れた様子を見せる。

「おかしいわね。私の想定だとここで宏和がわんわん泣きだして、店内に爆笑の渦が巻き起こるはずなのだけれど」

「どういう想定だよ!」

「……もう吹っ切れたの?」

「最初から吹っ切れてるよ。
 そりゃ、悔しいけどな」

 悔いが残らない人生などないと菜月は思う。
 その中で屈託なく笑えている宏和は、本当にプロ野球という世界に全力を注いできたのだとわかる。

「心配してフォローするなら、俺より愛花にしてくれ」

 宏和がチラリと視線を送る先には、涼子や明美と言った友人たちに囲まれ、見るからに作った笑顔で応対している愛花がいた。

「宏和がクビになった日にしたわ」

「菜月さん、菜月さん、少し歯に衣を着せるということを覚えた方がよろしいのでは?」

「薄給だから買うお金がないのよ。恵んでくれる?」

「無職の男に言う言葉じゃねえなあ」

「だったら私に頼んだりせずに、自分でフォローしてあげなさい。大切な奥さんなのでしょう?」

「……そうだな。
 その通りだ」

 新たに注いだビールも呑み干し、立ち上がった宏和が愛花に声をかけに行く。

「なっちーは友達思いだねえ」

 突然に肩を抱かれ、何事かと視線を向ければ、一人でうんうんと頷いている姉の顔が隣にあった。

「宏和君、家を継ぐんだってね」

「元々そのつもりだったみたいだし、
 愛花も地元に戻りたいと後押しをしたらしいわ」

 菜月の周囲は関東で就職をしても、悉く地元に帰ってきている。
 それだけ楽しい思い出があるということなのかもしれない。

「なっちーも後悔なくやりなよ?
 せめて諦める時には、今の宏和君みたいに笑えるようにね」

「言われなくともわかっているわ。
 それに、はづ姉にも同じ言葉を贈らせてもらうわ」

「うん、頑張る。野球であれ銀行員であれパン屋であれ、そういう人生を歩めるのは幸せなことだからね」

「その点については同意するけれど、どうして抱き着いてばかりいるのかしら」

「だって久しぶりのなっちーだよ! なっちー成分を補給しとかないと、お姉ちゃん、倒れちゃうよ」

「なら私は穂月と春也に癒してもらうとするわ」

 腕を振り解かれた葉月が、拗ねて頬を膨らませる。

 いくつになっても残っている子供っぽい一面にため息をつきたくなるが、変わりゆく日々の中で昔と同じ光景を目の当たりにできて安心もする。

「穂月と春也も久しぶりの遠出でしょうし、だいぶはしゃいでいたのではない?」

「穂月はいつもとあんまり変わらなかったかな。でも、春也はじーっとグラウンドを見てたね。もしかしたら何か感じるものでもあったのかも」

「だとしたら将来は身内からの二人目のプロ野球選手になるかもしれないわね」

「アハハ! それが春也の選んだ道なら、ママは全力で応援するよ」

「私も叔母として精一杯後押しするわ」

 会話が途切れると、奥の席から楽しそうな声が聞こえてきた。

 隣の宏和に笑いかけられている愛花に、先ほどまでの寂しげな様子は見当たらなくなっていた。
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