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第7話 同居生活の始まり
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目を開けると、薄暗い室内だけが春道にお早うと告げてくれた。
朝に眠る機会も多いので、私室の窓にはすべて真っ黒なカーテンをかけている。
新たな住居となった松島家の二階の部屋は、どちらも超がつくぐらい日当たりが良かった。高さのある建造物が少ない田舎物件の特権とも言えるが、その中でもここは群を抜いて素晴らしい。松島母娘も良い物件に当たったものである。
しかし、仕事中は日光の爽やかさが心をリフレッシュさせてくれるケースがあっても、こと睡眠中に関すると話は別である。徹夜明けで疲れていても、燦々と頬に日光が当たり続ければ、ぐっすり眠るのは至難の業だ。
幸い、前のアパートでも使っていたカーテンが、こちらでもそのまま使えたので早速重宝してる。
布団から上半身を起こし、枕元に置いてある時計を見ると、すでに正午を過ぎていた。この時間であれば、今は家に誰もいないはずである。
和葉は市内にある大手小売店で、総務の仕事をしていると教えられた。一部上場企業の地方店で、若いながらも課長の肩書きを持ってるらしかった。春道にあれだけの好条件を出せるくらいなのだから、給料も結構な額を貰ってるはずである。
娘の葉月は地元の小学校へ行っている。五、六歳程度だと思っていたら、実は小学二年生で七歳なのだと言う。今年十二月に誕生日を迎えれば八歳だそうだ。
これらの情報も、すべて和葉から得たものである。丁度、二階に洗濯物がないか見に来た彼女とばったり遭遇し、夕食を共にとれなかったのを謝るついでに春道から質問したのだ。
ちなみに食事に関しては、別に一緒にする必要はないと言われた。気が楽になると同時に、春道は和葉に好かれてない事実を再認識させられたのだった。
起床した春道は、脳を少しでも働かせるために洗面所で顔を洗う。元々二世帯住宅として作られた家だけに、一階とは別に二階にも洗面所やトイレがある。特別な用事がない限りは、わざわざ一階に足を運ぶ必要はない。
洗顔と歯磨きを終えてサッパリすると、次は俺たちの番だとばかりに腹がぐーっと大きな音を立てた。
仕事がひと段落して、眠ったのが今朝の五時過ぎ。夜食として、仕事をしながらスナック菓子を食いまくったりしたのだが、それでも胃袋は今日も元気に餌を催促してくる。
何気なく二階の廊下に置いてある小型冷蔵庫を開くと、中にはラップに包まれたお盆が入っていた。
取り出してみると、おかずが一式乗っている。どうやら春道が仕事をしてるあいだに、和葉が作って入れておいてくれたらしい。食事の乗ったお盆は三つあり、朝昼晩の分が一気に用意されていた。
昔なら冷えたまま食べなくてはいけなかったご飯も、今では文明の力で一分も待てば温かくできる。春道はお盆のひとつを冷蔵庫から取り出し、私室へと戻った。
私室にある電子レンジでメニューに温かみを復活させてから、少し遅めの朝食にする。
和葉の手料理は初めて食べたが、相当な腕で、小さな定食屋ぐらいなら営業できそうな味である。
あっという間に、春道は朝食に選んだメニューを平らげてしまった。春道が男性なのも考慮して、量は多めに用意されていたので充分に満足できた。
腹も膨れたら、あとは仕事にとりかかるだけである。空になった容器が乗ったお盆に再びラップを戻して、冷蔵庫の横に置いておく。空になった茶碗等を冷蔵庫にしまうのも変だったし、こうしておけば和葉も片付けやすいかと思ったのだ。
仕事部屋へと入り、パソコンと向かい合う。電源を入れて、起動するのを待つ間、春道は自分自身をまるで引きこもりみたいだなと思っていた。
仕事の性質もあるが、二階からほとんど降りたりせず、食事や洗濯は和葉がやってくれる。そういう約束なのだから、引け目を感じたりはしてなかった。
ただし近所の人間からは、そのうち駄目亭主とか言われだすのはほぼ間違いない。シーンを想像して、春道はまたひとり苦笑いを浮かべるのだった。
*
人間、本気でひとつの物事に集中すると時間を忘れてしまうものである。今現在の春道がいい例だった。
いい加減にしろよと、腹の虫に怒鳴られてキーボードから手を離せば、すでに午後の十時をまわっていた。
仕事部屋を出ると、昼に置いておいた容器は変わらず廊下に存在していた。和葉はまだ二階へ上がってきてないようだ。
もしかして毎日朝にまとめて作って、ついでに容器もさげるのだろうか。だとしたら、春道ひとりで随分な量の皿や茶碗を使うことになる。
もっとも百円ショップで簡単に揃えられる今の時代、それほど費用はかさんだりしない。
春道は冷蔵庫から、本日二つ目のお盆を取り出す。冷凍食品もあるが、手作りもきちんとあって、しかもほとんどのメニューは被っていない。春道も自炊経験者だけに、素直に感心した。
見れば、もうひとつのお盆に乗ってるおかずもほとんど同じものがない。さすがに一品や二品はあるが、それでもかなりの気の遣いようである。何せひとつのお盆には、白米が入った茶碗の他に五品程度のおかずが用意されてるのだ。
自炊少々、コンビニ弁当多数の日々を送ってきた春道からすれば充分すぎるほどだった。日中と同じように私室で電子レンジを使ってから、お盆と一緒に用意されていた箸を使って食事をする。
箸はデザインのない真っ黒な色だけのタイプで、すべて同じ箸がお盆とセットになっていた。家族のと区分するために、和葉がこの箸を春道用に選んだのだろう。
相変わらず味は抜群で、前回同様に幸せなひと時を堪能させてもらった。空になった食器は昼の残骸の横に並べておく。
「次は風呂か……」
ここで春道は考えた。松島家にも風呂はあるが、銭湯に慣れているだけにどちらを利用しようか迷ったのだ。しかしすぐに疲れをとるには、大きな浴槽でゆっくり湯に浸かるに限ると判断する。
女家族の松島家だけに、男の春道に使われるのは嫌かもしれないし、銭湯は幸いにして夜の十一時まで営業している。急いで向かえばギリギリなんとかなりそうだ。
「よし、決めた」
春道は私室に戻り、風呂道具を持って部屋から出た。下に降りてチラリとリビングを見ると、電気はついていなかった。
玄関には葉月の靴はあっても、和葉の靴はない、もしかしてまだ会社から帰宅してないのだろうか。
考え込みそうになったところで、ハッと春道は我に返った。今はそんなことを考えてる場合じゃなかったと気づいたのだ。急がないと銭湯が閉まってしまう。
鍵を開けて外に出ると、事前に預けられていた合鍵を使って、しっかりと戸締りをする。小さな少女ひとりしかいないのに、玄関のドアをフリーパスにしていくほど春道もアホではなかった。
*
閉店時刻が迫りつつあったので、烏の行水になってしまった。それでも足をゆっくりと伸ばして浴槽に浸かったおかげで、かなりの体力を回復できた。
濡れた髪を夜風になびかせながら家路につく。冬場だと間違いなく風邪をひいただろうが、幸いにして季節は緩やかに夏へ進んでる最中である。ドライヤーの代わりになってくれるし、火照った肌を程好く冷ましてくれる。
家に到着する頃にはあらかた乾いていたが、念のために私室でドライヤーを使うことにする。合鍵を使ってドアを開けると、そこにはまだ和葉の靴はなかった。
地方店とはいえ、大手企業の管理職。担当する業務と責任は、想像以上に凄いのかもしれない。フリープログラマーなんて仕事をしてる春道には、あまりの縁のない状況や感情だった。
意外なのは娘命みたいに見えていた和葉が、平気――じゃないかもしれないが、葉月をひとりぼっちにさせている現状である。
春道の勝手な想像では、毎日きちんと定時で帰宅して、温かな手料理を振る舞いながら明るく一日の報告をしあっているとばかり思っていた。
舞台となるべきリビングは今も明かりがなく、暗闇と静寂に包まれている。物音が一切しないところを見ると、葉月はもう自室で眠っているのかもしれない。
似てるな。
靴も脱がずに玄関で立ち尽くしてる春道は、ふと己の幼少時代を思い出した。
実家は決して裕福ではなかった。そのせいで春道が小さい頃から、両親は共働きで夜遅くまで必死に仕事をしていた。
二十代半ばになった現在なら大変さも理解できるが、当時はとても悲しく、切なかった記憶しか残ってない。
生まれ育った実家はボロアパートで、リビングなんて上等な空間はなかった。両親と一緒に寝ている部屋で、電気もつけずに早い時間から布団にこもっていた。
両親が常に一緒だった人間からは羨ましがられるかもしれない。テレビのチャンネル争いなんて存在せず、夜更かしをしても、宿題をしなくても誰にも注意されない。
一部の人間から見れば、まさに幸せの極致だろう。だが当事者たる春道少年は、微塵もそんな考えを持ってなかった。
好きなテレビアニメを見ても妙に楽しくなく、ひとりで座る食卓は無意味に広かった。それはとても無慈悲で、まるで君は陸の孤島に住む唯一の人間なんだよと宣告されているみたいだった。
冷めたままのご飯を食べ、宿題をすませたら、とりたててすることもないのでひたすらボーっとしている。そんな小学生時代を終えて、中学生になると両親からプレゼントだとパソコンを与えられた。
その頃になっても経済力はあまり変わってなく、両親は相変わらず共働きだった。
罪滅ぼしの意識でもあったのか、パソコンに遊び相手をしてもらえということだったのか。意図は未だにわからないが、両親が知り合いから譲ってもらったパソコンが春道の大親友となってくれた。
パソコンとプログラムの楽しさにハマり、高校生になればバイトをして、新たなハードやソフトウェアを購入した。
こうした学生時代を通過して、今の高木春道という人間が形成された。
友人はいないわけではないがそれほど多くなく、人付き合いはあまり得意ではない。だからこそあまり人と顔をあわせなくてすむ、在宅でのプログラマーなんて職業に落ち着いたのだ。
他人の目からは寂しい人生に見えるかもしれないが、後悔はしていない。天職だと思える職業に出会え、ご飯も食べられるだけの収入もあるのだ。
もっとも今現在はイケメンホストよろしく、ヒモ同然の生活をしているが。
とその時、唐突に背後で物音がした。驚いて振り向くと、和葉がようやく帰宅をしたようだった。
「どうしたんですか、こんなところで」
春道とは違い、さして驚きもせずに和葉が声をかけてきた。
返事をするまえに、春道が持っていた風呂道具を見て、なるほどと頷く。
「銭湯に行ってきたのですね」
何故、家風呂を使わなかったのかとは聞かれなかった。お互い不干渉を約束しているからか、単に興味がないだけなのか。
恐らく後者だろうなと春道は思った。松島和葉という女性は、とても綺麗なのだがどこか冷めた目をしている。今風に言えば、クールビューティとでも形容するべきか。とにかく、並の男では近寄れない雰囲気を漂わせている。
春道にしても、向こうから声をかけられてなかったら、とてもこうして会話ができる関係にはなれなかっただろう。通常とは違う特殊な関係ではあるものの、一応は夫婦なのだ。
「今、仕事の帰り?」
答えはわかりきっていたが、なんとなしに聞いてみる。
「ええ、そうです」
「いつもこんなに遅いんだ」
「早めに帰宅できる場合もありますが、基本的に遅番という夜のシフトをこなす機会が多いです」
別に答える理由はないのだが、質問に対して和葉は丁寧な答えを返してくれた。
「じゃあ、あの子はいつもひとりで?」
「葉月ですか? そうですね、今日みたいなケースではそうなりますね。でもきちんと夕食は朝のうちに作って冷蔵庫に入れてありますので、心配はないと思います」
なるほどと春道は頷いた。
要するに春道に食事を提供してくれるパターンと一緒なのだ。
「……子供は苦手だと伺ってましたが」
「え? ああ、苦手だ。嘘を言った覚えはない。それがどうかした」
「いえ、葉月を心配してくださってるような発言でしたので」
「それで本当は子供好きなんじゃないかって思ったのか」
「そこまでは……ただ何となく気になったものですから」
「その台詞のとおりだ」
春道がそう言うと、和葉は「え?」と顔にハテナマークを浮かべた。
「俺も小さい頃は両親の帰りが遅くてね。いつもひとりきりで飯を食ってたんだ。当時の俺になんとなく状況が似てる気がしてさ。それでさっきの言葉どおり、何となく気になっただけだ」
和葉は春道の答えに、素直に納得してくれたようだった。
「あの……」
「ん?」
「いえ、何でもありません」
不意に和葉が顔を俯かせ、玄関に沈黙が舞い降りた。
気まずくなった春道は部屋に戻って仕事をすると告げて、やや急いで靴を脱いで二階に上がっていく。
その途中で頑張ってくださいと、和葉の小さな声が春道の背中に届いてきた。
朝に眠る機会も多いので、私室の窓にはすべて真っ黒なカーテンをかけている。
新たな住居となった松島家の二階の部屋は、どちらも超がつくぐらい日当たりが良かった。高さのある建造物が少ない田舎物件の特権とも言えるが、その中でもここは群を抜いて素晴らしい。松島母娘も良い物件に当たったものである。
しかし、仕事中は日光の爽やかさが心をリフレッシュさせてくれるケースがあっても、こと睡眠中に関すると話は別である。徹夜明けで疲れていても、燦々と頬に日光が当たり続ければ、ぐっすり眠るのは至難の業だ。
幸い、前のアパートでも使っていたカーテンが、こちらでもそのまま使えたので早速重宝してる。
布団から上半身を起こし、枕元に置いてある時計を見ると、すでに正午を過ぎていた。この時間であれば、今は家に誰もいないはずである。
和葉は市内にある大手小売店で、総務の仕事をしていると教えられた。一部上場企業の地方店で、若いながらも課長の肩書きを持ってるらしかった。春道にあれだけの好条件を出せるくらいなのだから、給料も結構な額を貰ってるはずである。
娘の葉月は地元の小学校へ行っている。五、六歳程度だと思っていたら、実は小学二年生で七歳なのだと言う。今年十二月に誕生日を迎えれば八歳だそうだ。
これらの情報も、すべて和葉から得たものである。丁度、二階に洗濯物がないか見に来た彼女とばったり遭遇し、夕食を共にとれなかったのを謝るついでに春道から質問したのだ。
ちなみに食事に関しては、別に一緒にする必要はないと言われた。気が楽になると同時に、春道は和葉に好かれてない事実を再認識させられたのだった。
起床した春道は、脳を少しでも働かせるために洗面所で顔を洗う。元々二世帯住宅として作られた家だけに、一階とは別に二階にも洗面所やトイレがある。特別な用事がない限りは、わざわざ一階に足を運ぶ必要はない。
洗顔と歯磨きを終えてサッパリすると、次は俺たちの番だとばかりに腹がぐーっと大きな音を立てた。
仕事がひと段落して、眠ったのが今朝の五時過ぎ。夜食として、仕事をしながらスナック菓子を食いまくったりしたのだが、それでも胃袋は今日も元気に餌を催促してくる。
何気なく二階の廊下に置いてある小型冷蔵庫を開くと、中にはラップに包まれたお盆が入っていた。
取り出してみると、おかずが一式乗っている。どうやら春道が仕事をしてるあいだに、和葉が作って入れておいてくれたらしい。食事の乗ったお盆は三つあり、朝昼晩の分が一気に用意されていた。
昔なら冷えたまま食べなくてはいけなかったご飯も、今では文明の力で一分も待てば温かくできる。春道はお盆のひとつを冷蔵庫から取り出し、私室へと戻った。
私室にある電子レンジでメニューに温かみを復活させてから、少し遅めの朝食にする。
和葉の手料理は初めて食べたが、相当な腕で、小さな定食屋ぐらいなら営業できそうな味である。
あっという間に、春道は朝食に選んだメニューを平らげてしまった。春道が男性なのも考慮して、量は多めに用意されていたので充分に満足できた。
腹も膨れたら、あとは仕事にとりかかるだけである。空になった容器が乗ったお盆に再びラップを戻して、冷蔵庫の横に置いておく。空になった茶碗等を冷蔵庫にしまうのも変だったし、こうしておけば和葉も片付けやすいかと思ったのだ。
仕事部屋へと入り、パソコンと向かい合う。電源を入れて、起動するのを待つ間、春道は自分自身をまるで引きこもりみたいだなと思っていた。
仕事の性質もあるが、二階からほとんど降りたりせず、食事や洗濯は和葉がやってくれる。そういう約束なのだから、引け目を感じたりはしてなかった。
ただし近所の人間からは、そのうち駄目亭主とか言われだすのはほぼ間違いない。シーンを想像して、春道はまたひとり苦笑いを浮かべるのだった。
*
人間、本気でひとつの物事に集中すると時間を忘れてしまうものである。今現在の春道がいい例だった。
いい加減にしろよと、腹の虫に怒鳴られてキーボードから手を離せば、すでに午後の十時をまわっていた。
仕事部屋を出ると、昼に置いておいた容器は変わらず廊下に存在していた。和葉はまだ二階へ上がってきてないようだ。
もしかして毎日朝にまとめて作って、ついでに容器もさげるのだろうか。だとしたら、春道ひとりで随分な量の皿や茶碗を使うことになる。
もっとも百円ショップで簡単に揃えられる今の時代、それほど費用はかさんだりしない。
春道は冷蔵庫から、本日二つ目のお盆を取り出す。冷凍食品もあるが、手作りもきちんとあって、しかもほとんどのメニューは被っていない。春道も自炊経験者だけに、素直に感心した。
見れば、もうひとつのお盆に乗ってるおかずもほとんど同じものがない。さすがに一品や二品はあるが、それでもかなりの気の遣いようである。何せひとつのお盆には、白米が入った茶碗の他に五品程度のおかずが用意されてるのだ。
自炊少々、コンビニ弁当多数の日々を送ってきた春道からすれば充分すぎるほどだった。日中と同じように私室で電子レンジを使ってから、お盆と一緒に用意されていた箸を使って食事をする。
箸はデザインのない真っ黒な色だけのタイプで、すべて同じ箸がお盆とセットになっていた。家族のと区分するために、和葉がこの箸を春道用に選んだのだろう。
相変わらず味は抜群で、前回同様に幸せなひと時を堪能させてもらった。空になった食器は昼の残骸の横に並べておく。
「次は風呂か……」
ここで春道は考えた。松島家にも風呂はあるが、銭湯に慣れているだけにどちらを利用しようか迷ったのだ。しかしすぐに疲れをとるには、大きな浴槽でゆっくり湯に浸かるに限ると判断する。
女家族の松島家だけに、男の春道に使われるのは嫌かもしれないし、銭湯は幸いにして夜の十一時まで営業している。急いで向かえばギリギリなんとかなりそうだ。
「よし、決めた」
春道は私室に戻り、風呂道具を持って部屋から出た。下に降りてチラリとリビングを見ると、電気はついていなかった。
玄関には葉月の靴はあっても、和葉の靴はない、もしかしてまだ会社から帰宅してないのだろうか。
考え込みそうになったところで、ハッと春道は我に返った。今はそんなことを考えてる場合じゃなかったと気づいたのだ。急がないと銭湯が閉まってしまう。
鍵を開けて外に出ると、事前に預けられていた合鍵を使って、しっかりと戸締りをする。小さな少女ひとりしかいないのに、玄関のドアをフリーパスにしていくほど春道もアホではなかった。
*
閉店時刻が迫りつつあったので、烏の行水になってしまった。それでも足をゆっくりと伸ばして浴槽に浸かったおかげで、かなりの体力を回復できた。
濡れた髪を夜風になびかせながら家路につく。冬場だと間違いなく風邪をひいただろうが、幸いにして季節は緩やかに夏へ進んでる最中である。ドライヤーの代わりになってくれるし、火照った肌を程好く冷ましてくれる。
家に到着する頃にはあらかた乾いていたが、念のために私室でドライヤーを使うことにする。合鍵を使ってドアを開けると、そこにはまだ和葉の靴はなかった。
地方店とはいえ、大手企業の管理職。担当する業務と責任は、想像以上に凄いのかもしれない。フリープログラマーなんて仕事をしてる春道には、あまりの縁のない状況や感情だった。
意外なのは娘命みたいに見えていた和葉が、平気――じゃないかもしれないが、葉月をひとりぼっちにさせている現状である。
春道の勝手な想像では、毎日きちんと定時で帰宅して、温かな手料理を振る舞いながら明るく一日の報告をしあっているとばかり思っていた。
舞台となるべきリビングは今も明かりがなく、暗闇と静寂に包まれている。物音が一切しないところを見ると、葉月はもう自室で眠っているのかもしれない。
似てるな。
靴も脱がずに玄関で立ち尽くしてる春道は、ふと己の幼少時代を思い出した。
実家は決して裕福ではなかった。そのせいで春道が小さい頃から、両親は共働きで夜遅くまで必死に仕事をしていた。
二十代半ばになった現在なら大変さも理解できるが、当時はとても悲しく、切なかった記憶しか残ってない。
生まれ育った実家はボロアパートで、リビングなんて上等な空間はなかった。両親と一緒に寝ている部屋で、電気もつけずに早い時間から布団にこもっていた。
両親が常に一緒だった人間からは羨ましがられるかもしれない。テレビのチャンネル争いなんて存在せず、夜更かしをしても、宿題をしなくても誰にも注意されない。
一部の人間から見れば、まさに幸せの極致だろう。だが当事者たる春道少年は、微塵もそんな考えを持ってなかった。
好きなテレビアニメを見ても妙に楽しくなく、ひとりで座る食卓は無意味に広かった。それはとても無慈悲で、まるで君は陸の孤島に住む唯一の人間なんだよと宣告されているみたいだった。
冷めたままのご飯を食べ、宿題をすませたら、とりたててすることもないのでひたすらボーっとしている。そんな小学生時代を終えて、中学生になると両親からプレゼントだとパソコンを与えられた。
その頃になっても経済力はあまり変わってなく、両親は相変わらず共働きだった。
罪滅ぼしの意識でもあったのか、パソコンに遊び相手をしてもらえということだったのか。意図は未だにわからないが、両親が知り合いから譲ってもらったパソコンが春道の大親友となってくれた。
パソコンとプログラムの楽しさにハマり、高校生になればバイトをして、新たなハードやソフトウェアを購入した。
こうした学生時代を通過して、今の高木春道という人間が形成された。
友人はいないわけではないがそれほど多くなく、人付き合いはあまり得意ではない。だからこそあまり人と顔をあわせなくてすむ、在宅でのプログラマーなんて職業に落ち着いたのだ。
他人の目からは寂しい人生に見えるかもしれないが、後悔はしていない。天職だと思える職業に出会え、ご飯も食べられるだけの収入もあるのだ。
もっとも今現在はイケメンホストよろしく、ヒモ同然の生活をしているが。
とその時、唐突に背後で物音がした。驚いて振り向くと、和葉がようやく帰宅をしたようだった。
「どうしたんですか、こんなところで」
春道とは違い、さして驚きもせずに和葉が声をかけてきた。
返事をするまえに、春道が持っていた風呂道具を見て、なるほどと頷く。
「銭湯に行ってきたのですね」
何故、家風呂を使わなかったのかとは聞かれなかった。お互い不干渉を約束しているからか、単に興味がないだけなのか。
恐らく後者だろうなと春道は思った。松島和葉という女性は、とても綺麗なのだがどこか冷めた目をしている。今風に言えば、クールビューティとでも形容するべきか。とにかく、並の男では近寄れない雰囲気を漂わせている。
春道にしても、向こうから声をかけられてなかったら、とてもこうして会話ができる関係にはなれなかっただろう。通常とは違う特殊な関係ではあるものの、一応は夫婦なのだ。
「今、仕事の帰り?」
答えはわかりきっていたが、なんとなしに聞いてみる。
「ええ、そうです」
「いつもこんなに遅いんだ」
「早めに帰宅できる場合もありますが、基本的に遅番という夜のシフトをこなす機会が多いです」
別に答える理由はないのだが、質問に対して和葉は丁寧な答えを返してくれた。
「じゃあ、あの子はいつもひとりで?」
「葉月ですか? そうですね、今日みたいなケースではそうなりますね。でもきちんと夕食は朝のうちに作って冷蔵庫に入れてありますので、心配はないと思います」
なるほどと春道は頷いた。
要するに春道に食事を提供してくれるパターンと一緒なのだ。
「……子供は苦手だと伺ってましたが」
「え? ああ、苦手だ。嘘を言った覚えはない。それがどうかした」
「いえ、葉月を心配してくださってるような発言でしたので」
「それで本当は子供好きなんじゃないかって思ったのか」
「そこまでは……ただ何となく気になったものですから」
「その台詞のとおりだ」
春道がそう言うと、和葉は「え?」と顔にハテナマークを浮かべた。
「俺も小さい頃は両親の帰りが遅くてね。いつもひとりきりで飯を食ってたんだ。当時の俺になんとなく状況が似てる気がしてさ。それでさっきの言葉どおり、何となく気になっただけだ」
和葉は春道の答えに、素直に納得してくれたようだった。
「あの……」
「ん?」
「いえ、何でもありません」
不意に和葉が顔を俯かせ、玄関に沈黙が舞い降りた。
気まずくなった春道は部屋に戻って仕事をすると告げて、やや急いで靴を脱いで二階に上がっていく。
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――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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