愛すべき不思議な家族

桐条京介

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第8話 突然の交流

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 そして気づけばまた朝がやってきていた。
 いや、すでに昨日同様、春道が目覚めた頃には朝と呼べる時間帯はとっくに通り過ぎていた。

 洗顔を終えて冷蔵庫の中を覗くと、きちんと三食分のお盆が新たに投入されていた。
 夜食に三つ目のセットを平らげ、廊下に置いてた食器もすべて片付けられていた。遅番が多いシフトだと言ってただけに、朝は比較的時間があるのかもしれない。
 と言っても春道が目覚めた時には、すでに和葉は出勤してしまっている。

 今日の仕事を開始する前に、まずはお盆のひとつを冷蔵庫から取り出して、私室にて腹ごしらえをする。
 いくら胃腸が頑丈にできてるとはいえ、起きたてはやはりサッパリ系が好ましい。メニューを見比べた春道が朝食――というか昼食に選んだのは、野菜炒めがメインのセットだった。

 一緒についている煮物や、ワカメとじゃがいもの味噌汁も実に美味である。料理下手な春道には難しい品目だけに、こうして食べられるのはラッキーだった。
 和葉はもの凄い女性だと、改めて春道は実感した。食事の用意はもちろんながら、二階の洗面所やトイレ等も毎日きちんと掃除してるようだった。家でもこの調子なら、きっと会社でも手を抜いたりせずに、一生懸命仕事をしてるに違いない。

 尊敬すると同時に、少し頑張りすぎなのではないかとも思った。春道の世話をする条件で、結婚の話を受けたのだから当然の待遇ではあるものの、これでは和葉自身のプライベートな時間などとても持てない。
 春道の場合は好きな仕事だし、疲れれば多少の休憩時間をとって私室でゲームをしたりする。うまくストレスを発散させながら日々をこなしていた。

 しかし和葉の場合は――。

 そこまで考えたところで、春道は首を左右に振った。明らかに和葉は、自分たちの生活に深く干渉されるのを望んでいない。それは春道も同じである。
 となれば、あれこれ考えたりするのは時間の無駄。相手方にとっても大きなお世話だろう。春道はこのテーマの思考をストップさせ、食事を平らげたあとは即座に仕事モードへ頭を切り替えた。

   *

 そんな生活が一週間ほど続いた。

 環境はまさにお手伝いさん付きのひとり暮らしで、快適なことこの上なかった。おかげで予定よりも早く仕事が完成し、ついさっきメールでクライアントに送ったところだった。これで早ければ明日にでも、報酬の百万円が振り込まれるはずだ。

 今回は報酬が高いぶん、納期もかなり厳しかった。それでもなんとかなったのは、松島和葉のおかげである。
 いたれりつくせりの生活だっただけに、仕事にだけ集中してればよかったのだ。結果、引越し前と比べると倍の速度で作業を進行できた。

 事前の約束どおり、小遣いとして五万円がすでに手渡しで和葉から支給されていた。食料を調達するわけでもないので、充分すぎる額だ。結局一万円だけを手元に残し、四万円は自分の口座へと振り込んだ。

 車のローンも終わってるだけに、月々の支払いと言えば携帯電話の料金ぐらいだ。ネットの接続費用なんかも和葉が負担してくれているので、この調子でいけば貯金が増える一方である。

 幸いにして仕事は順調。程好く依頼がきてるので、無理をせずに処理できそうだった。

 母親である和葉が厳しく言ってくれているのか、娘の葉月が二階に上がってくることもなかった。当初はまとわりつかれまくって仕事にならないんじゃないかと危惧していただけに、これもまた春道にとっては有難かった。

 春道が二階から下りるのは、閉店ギリギリに銭湯へ行ったりなどに限られるため、引っ越してきた当日以降、葉月とは顔をあわせていない。
 加えて和葉の帰りが連日遅いため、いつもひとりで夕食をとっているようだった。

 家の出入口をくぐるとすぐに階段があり、上った突き当りが仕事部屋である。なので仕事に没頭してる時は気づけないが、それ以外の場合は葉月の帰宅に気づくことができる。数日ほど鍵の開く音が聞こえた経験があった。
 それはほとんど同じ時間帯で、常に葉月ひとりだけだった。以降はリビングに少し滞在したあと、自室にこもるようである。

 ますます自分に似てるなと春道は思った。
 小学校時代の春道はほとんど友達がおらず、よくひとりで行動していたのを覚えている。中学生からはなくなったが、小学生当時は何かと病弱で心身ともに弱かったのだ。おかげでいじめられ、だいぶ辛い思いをした。

 元いじめられっ子の勘は今でも有効で、葉月に対しては陽性反応を示していた。クラスの中で孤立し、母親はほとんど家にいない。悲しみも苦しみも自分ひとりで背負うしかないが、十歳にも満たない子供――しかも女の子にはシビアすぎる。

 直視するのも嫌な現実から、なんとか助けてもらいたくて父親の存在を欲する。丁度その後、偶然にも母親から教えられていた父親の姿を発見する。

 滅多にお目にかかれる展開ではないが、ドラマの撮影だとすればベタである。恐らく春道の推測は合っているだろう。

 だとしたら、葉月の現状はあまりに不憫だった。正式に血が繋がっていないとはいえ、ようやく見つけた父親とのコミュニケーションは禁じられているも同然。同居人数が増えただけで、とりまく状況は何も変わらない。

 顔を見るたびに明るく振舞っていた少女も、さすがに精神的に追いつめられて絶望しているに違いない。
 しかしそれがわかったとしても、手助けをしてやるかどうかは別問題だ。和葉の立場からすれば、娘が父親に失望し、嫌ってくれることこそ理想なはずだ。

 料理や洗濯の手間が一気に楽になるし、何年と待たずに離婚もできる。まさに一石二鳥に他ならない。

 相手の狙いに予想がついてる以上、春道が葉月のためであったとしても、親しくするのを和葉が嫌うかもしれない。悩んだ末に導き出した結論は、このまま様子を見ることだった。

 食事を終えて満腹になったところで、春道は私室内の壁にもたれかかって大きく伸びをする。納期の迫った仕事は終わったため、昨日までみたいに必死こいてパソコンのモニターとにらめっこする必要はなくなった。

 これで録りためていたDVDや、買いためていた小説を心置きなく楽しめる。酒は付き合い程度にしか飲めないので、真昼間から酔っ払おうとは思わない。DVDを見ながら喉を潤す飲料は、ミルクティーやアイスココア等である。

 実は春道は、一般的な女性と張り合えるぐらいの大の甘党だった。以前に間食でおやつを連日食べまくり、体重が困った状態になってしまってからは多少控えているが、やはり本能の欲求には逆らえない。
 ちなみに甘い食物を容赦なくとっていた当時の体重は、少なく見積もっても今より十キロは重かった。

 アイスココアとスナック菓子をお供にしながら、DVD観賞を始めようとした春道だったが、ここで思わぬアクシデントに襲われてしまう。
 なんとココアも紅茶もコーヒーも切らしてしまっていたのだ。飲みものを自ら作ったりせず、自動販売機等から調達する春道ならではの失態だった。

 そう言えばストックがなくなりそうだから、あとで買いに行かなければと思っていたのだ。ハッとして春道は、菓子類の置き場所も確かめてみる。

「スナック菓子類も底をついてたのか」

 納期に追われていたとはいえ、少し間抜けな話である。忘れたりしていなければ、銭湯の帰りにでもコンビニへ寄っていた。
 田舎町ではあるが、少し歩けばコンビニ程度は存在する。田舎らしく全国チェーン店ではないし、二十四時間営業はしていない。大手コンビニと比較すれば格段に品揃えは劣るが、ジュースと菓子はそれなりに売っている。

 後悔先に立たずなんて言葉があるとおり、今さら騒いだところでどうにもならない。ここはおとなしく買物に出かけるしかない。
 意を決してと表現するほど大袈裟な行動ではないが、とりあえず春道は外行き用の服に着替えてから階段を下りた。

「ん?」

 階段の突き当たり、玄関に丸められたメモ用紙みたいなのが落ちている。拾い上げると、春道は中身を見る。

「……さすがは小学生だな」

 メモ用紙は握り潰されたみたいにクシャクシャだったが、ボールペンで書かれている文字はしっかりと認識できた。

 ――父なき子。嘘は泥棒の始まり。

 字が汚いのを見ると、恐らくクラスの中心的児童が葉月に対して行ったいじめだろう。ボキャブラリーのなさが小学生らしさ全開だ。
 すでに大人になってる春道だからこそ、こういった悪意の文章を見ても何とも思わないが、体だけじゃなく心もまだ幼い当事者の少女にとっては話も変わってくる。

 父親がいないのをからかわれた葉月が反論。しかし父親になったばかりの春道は、家からほとんど外出しないため正体不明。なおかつ和葉はご近所さんに、結婚の報告等は別段していなかったようである。

 町内で取り決められた事項にはきちんと従いそうだが、進んで近所付き合いをしたがるタイプではない。
 結果、松島家は孤立した存在になり、噂話が好きな田舎のおば様方は、勝手な推測に基づいて松島家の内情をあれこれと話し合う。

 いつしか子供たちの耳にも入り、立派ないじめの土台が完成する。この方式にも困ったものだが、そのおば様方に真実でも話そうものなら、事態はさらに悪化すること間違いなしである。

 やれやれ、どうしたものか。

 ため息をついたところで春道はハッとする。松島母娘に関しては先ほど様子見を決めたばかりなのに、早速決定に反して少女の身を案じる自分がいたからだ。
 よくよく見れば、玄関には春道の革靴の他に、女の子らしい小さな靴があった。
 時刻はまだ正午過ぎ。帰宅するには早すぎる。もしかしたら学校が嫌で、仮病を使って逃げ出してきたのかもしれない。

 そんなことを思っていると、不意にリビングのドアがガチャリと開いた。持ってたメモ紙を、慌てて春道はジーンズのポケットにしまいこむ。

「あ、パパだー」

 しょげている風だった表情がパッと明るく輝く。リビングから姿を現したのは、一応春道の娘でもある葉月だった。
 トコトコと近づいてきて笑顔を見せるが、大きめで愛らしい目が充血していた。さっきまで彼女がどんな状態だったかは容易に想像がつく。

「パパのお仕事って大変なんだね。いつもお部屋にいるんだもん」

 久しぶりに会えて嬉しいのか、少女は春道の右手を両手でギュッと握り締めながら会話を続ける。その仕草は、まるでひとりぼっちにしないでほしいと心の底から叫んでるようだった。

 なまじ学校でいじめられているのを知ってしまっただけに、なんて言葉をかけてやればいいのかわからない。
 春道が無言だったので機嫌を悪くさせてしまったと勘違いしたのか、相手の表情が曇る。

「大丈夫だよ。葉月、絶対パパのお仕事の邪魔をしないから。ママにも言われてるし」

 笑顔がどことなく翳っていく。口では強がってもまだ子供。ひとりきりで家にいるのは寂しいに決まっている。
 今でこそ他人と深く関わるのは面倒くさがる春道だが、幼い頃は誰かに構ってほしくてたまらなかった。だからこそ、葉月の気持ちがよくわかる。

 だが娘の与り知らぬところでとはいえ、春道は和葉と互いのプライベートには深く干渉しないと約束している。残酷かもしれないが、これはあくまで松島母娘の問題なのだ。

「ごめんなさい。葉月、もうお部屋に戻るから、パパもお仕事頑張ってね」

 そうしてひとりで部屋にこもって、一体何をするのだろうか。宿題か、それとも寂しさの中で学校でのいじめを思い出して、誰にもわからないようにまたひとりで泣くのか。
 いずれにしても、遊びたい盛りの年頃の女児とは思えない選択肢しかない。毎日帰宅してきてから外に出かけないので、友達もいないのかもしれない。

 考えれば考えるほどに昔の春道に似ていた。春道の場合は中学生になって親友ができてからは、それまでのいじめられっ子人生が一変した。おかげで中学生からの想い出はまともになったが、小学生時代は未だに思い出したくもない過去のひとつである。

「今日は……学校はどうしたんだ」

 春道に背を向けようとしていた葉月の動きがピタリと止まる。見上げる表情は驚きに満ちていた。

 ビックリしたのは春道も同感である。無意識のうちに、気づいたら目の前の少女に話しかけていたのだ。
 自覚している以上に情け深い人間だったのか。もしくは、過去の自分とそっくりな境遇の少女を放っておけなかったのか。どちらにしろ、一度話しかけてしまっただけに、もうあとにはひけない。

「今日は午前中で終わりの日だったんだよ」

 案の定、嬉しそうな顔をして葉月が質問に答えた。綺麗な瞳をキラキラさせて、こちらの次の言葉を待っている。

「買物に行くんだけど、それなら一緒に来るか」

「うんっ」

 瞬間、信じられないような顔をしたあとで、元気一杯に葉月が頷いた。
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