40代のオネエおじさん男娼を一晩買ったら沼った話 〜エリィの虚像〜

サバ無欲

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「と、と、と、とにかくありがとうライナス。今も、昨日も……『深海魚』も面白かった」
「だろう? お前以外でも異性装《ああいうこと》をする連中はいるって事だ」
「うん……励みになったよ」

 やっぱりそうだった。ライナスは事情があって男装するエリシアに同類がいると暗に教えてくれたのだ。

 でなければ頭の回る彼があんなに騒がしい場所を二次会に指定するはずがなかった。もっと高級感のある落ち着いた店が、ポワソン街三丁目にはいくらでもあるに違いない……それを、予約までして。

 ライナスの企みは成功だったように思う。
 エリシアは確かに女装をする彼らを見て励まされたし、気が楽になった。世界に独りきりではないかという孤独は常に付きまとうが、似た者がいるというだけでも、ずっと心が軽くなる。

「ところで」
「うん?」
「これはなんだ?」

 ライナスの言葉にエリシアは固まる。
 スケッチブックは後半の、あの人をやたらに描いたページにさしかかっていた。

「あー……」

 立ち姿、座位、全体像、胸部。
 顔正面、横顔、うしろ姿……
 あの人の、思い出せる限り。

「えーっと……た、た、助けてもらったの。昨日、途中で少し気分が悪くなったから」
「そうなのか? 知らなかった、今は?」
「もう平気。昨日もすぐに戻ってきたでしょ? トイレに行って、その人に会って、ちょっと控え室で休ませてもらったの」
「なるほどな、だからこの絵か」
「うん」

 ライナスは数ページめくって、『深海魚』のトイレの絵を出す。もう興味が移ったようだ。

 エリシアは不思議だった。ライナスにエリィの事を問われた時にドキッとしてしまった。どうしてそんな、やましい事のように思ってしまったのだろう。こうして説明すればなにも後ろめたい話ではないのに。

 ──感情の変化についていけない……

 エリシアはこのもやもやの原因を知りたくてもう少し話を続けることにした。

「さっ、さ、さっきの人なんだけどね、すごく素敵だった。赤い髪に明るい青緑の瞳なんてもう見事のひとことで」
「エリィさんだろ、『深海魚』じゃ有名だよ。オレも近くで見た事はないが、四十半ばのおっさんであの美貌はちょっと驚くよな。店じゃ一番の古参で、オーナー……入口にいたデブと一緒に店を立ち上げたはずだ」
「そっ、そうなんだ」
「でも、お前には少し刺激が強すぎたんじゃないか? こんなものまで描くなんて」

 そう言いつつライナスはページを戻し、例の絵を開いた。エリシアは分かりやすく眉をひそめる。下卑た歓声が頭の中で再生される。

「ライナスまでそんなふうに思うの? す、す、すばらしかったのに」
「切り取り方の問題だ。これだと『記号』が強すぎる。視線誘導も構図もココを見てくれと言わんばかりじゃないか」
「そのつもりで描いたもの。あの瞬間、あの人の肉体すべては芸術そのものだった。ライナスだって観てたでしょう?」
「ご高潔なのは結構。だが観衆にまでそれを求めるな。やつらは基本、俗っぽくて卑猥で簡単なものがお好みだ。美術史で散々やってきたはずだろう? これだとそういう記号が強すぎて、描き手おまえの意図なんか何ひとつ伝わらないぞ。ポルノ画家にでもなりたいか?」
「……ッ、わ、ァ……ッ」

 分かるけど——

 そう言いたくてエリシアは胸を叩く。出てこない。大きなガラス玉がいつものようにエリシアの喉を塞いでいる。

 出てこない、出てこない、出てこない……!

「納得できないって顔だな、お姫様?」
「っ、茶化さないで」
「悪かった、でもこれは抜いておけよ。あらぬ誤解を受けかねない」

 スケッチブックからその一枚を引き抜かれ、サイドテーブルの引き出しの中に仕舞われる。エリシアはむっとした顔で見つめていた。抵抗はしないが、彼の言うとおり納得もできない。

「そうむくれるなよ」

 ライナスのその声色は兄たちによく似ていた。兄たちの幾人かは既に家業を継いでいるが、今頃どうしているだろう……懐かしさについ力がゆるむ。

「ごめん」
「いいや、オレも熱くなりすぎた。それにスケッチブック自体はいい出来だ。これなら『深海魚』で一緒に観ていた連中は誰だって喜ぶさ。会話のきっかけにもなる……上手くいくといいな」
「う……うん」

 そこで会話は途切れる。
 ライナスは手持ちの懐中時計を取り出した。

「きっかり十五分、ってとこだな」
「来てくれてありがとうライナス、助かった」
「そうだろうよ。まったくいつまでお前のお守りをさせる気だ?」
「うぅ……きっ、き、気をつける」
「そうしてくれ。まぁでも、期待はしない」

 お互いに立ち上がり、玄関へ向かいながらやりとりをする。エリシアにとっては耳の痛い話だ。一度夢中になると後先を考えずにのめり込んでしまうのは昔からの性分だった。このせいでライナスには何度世話になったか分からない。

 錆びついた扉を開ける。ライナスは玄関の外へ出てくるりと振り向いた。真剣な表情をしていた。

「エリシア」
「うん?」
「大丈夫か? その……一緒にいなくて」

 その言葉はまさしく兄のようだった。ライナスが何を心配してくれているかは痛いほど分かっている。エリシアは努力して、暗い顔にならないようにした。

「う、う、うん、だ、大丈夫だよ。しっ……心配しないで」

 くやしい。どうしても言葉が詰まってしまう。
 これでは不安だと言っているようなものだし、実のところ不安だらけだ。でも。

「分かった」

 ライナスはそれだけ言って帰った。エリシアは気を取り直す。大丈夫、間に合った……スケッチブックだってある。大きく息を吸って吐き、顔を叩いて気合を入れた。

 きっと上手くいく、そのはずだ。

 しかしそれから三十分後、エリシアは尻を揉まれていた。
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