きずもの華族令嬢は初恋の男とクズ夫に復讐する 〜わたしたちは、罪悪です。〜

サバ無欲

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《十八》

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 走る、走る、走る、走る!

 閉まりかけた扉が止まって、開いてゆく。明るい茶色の瞳が、豆鉄砲をくらった鳩のようにまん丸く開いて、朝の光をきらきらと映し出している。ああなんて、うつくしいのか。見とれながら走っていると視界が、がくっと下へ落ちる。おち、る──

「胡蝶っ!」

 とっさに抱きとめられて、息をつく。
 引きずっている足が石畳の隙間に挟まってしまっている。そうなるだろうとは思っていたがかまわなかった。だって、わたしだってこの腕に抱かれたかったのだから。

「は……急にどうしました」

「あな、たっ……おべんとう……」

「ああ! ……まさかそのために? 靴も履かずに?」

「……はい」

「ああもう……どこのやんちゃなお嬢さんなんだか」

 眉を下げて、困ったように笑う。
 うしろから女中のあわてる声がして立ち上がる。

 女中は雪駄も一緒に持ってきてくれた。よく気が回る。ありがとうと言って雪駄を履いているうちに、赤らめた顔を伏せてそそくさと次の仕事へ戻ってゆくのもかわいらしかった。歳若いあの女中は、まだ、男女の情というものを知らないのだろう。

 顔にかかった髪をやさしく指で払われて、わたしたちはふたたび向き合う。
 そこに拳ひとつ分の距離すらない。

「そうだ胡蝶。明日、やっと体が空きそうなんだ。もし休めたらみんなでデパートにくり出して、なにか甘いものでも食べよう」

「まあうれしい! デパートなんていつぶりかしら。外商さんもありがたいんですけれど、どうにも味気なくって……月竹のクリームあんみつが食べたいわ」

「ははっ、うん、そう言ってたなと思ってな。こないだ仕立てた千之助のコートも、そろそろ出来上がった頃だろうし……それと」

「きゃっ! あっ……ぅん……」

 背中に腕が回って、ぎゅうっと抱きしめられて唇が重なる。うすら赤くなった紅葉が片目のはしで風にゆれて、きっとわたしも同じくらいに赤いのだろうと目を閉じた。舌で唇をこじ開けられ、ぬるぬると、夜のように絡ませあう。女中がいたほうがよかったのか、いなくてよかったのか。誰がいても結局こうされていたような気さえする。

「は、ぁ……」

「それと今夜、もし、早く帰れたら……」

「……はい」

「うん……じゃあ今度こそ、行ってくるよ」

 門の扉を開いて、旦那様は待たせていた車に乗り込んだ。黒い煙をぶおんと立てて発進し、わたしはその背が遠くなるのを手を振りながら見守る。

 しあわせだった。

 千之助はすくすく育ち、みな元気で、旦那様はわたしに甘い。心配事といえばあの夏以来、旦那様がにわかに忙しくなったことくらいか。

 おかげでまた北の離れには閑古鳥が鳴いている。
 アキエとシヅはこの間、わたしに新しい仕事先を工面してほしいと言ってきた。見切りをつけたということだろう。したたかな女たちだから、次の場所でも上手くやっていくのだと思う。わたしはそれぞれに合う仕事先を見つけてやると約束した。ヨシコは……──


 ヨシコはふた月前に屋敷を去った。
 そう、旦那様から聞かされている。


 みぃぃんみんみんみんみんみんみんみん──


「ちょっと、よろしいですかな」

 幻聴にまざって男の声がして振り返る。ふとましい中年男と、ひょろひょろの若い男がくたびれた背広を着て立っていた。ふたりともご立派な警察手帳をかかげているくせに、わたしの顔を、傷あとを見てぎょっと大きく目を見張る。

「……なにか?」

「あ……いえ、すいやせん。アタシたちこういうモンでして……鷹山千晃さんのお屋敷はこちらで?」

「ええ、そうです」

「お嬢さんは」

「鷹山の妻でございます」

 刑事ふたりが一瞬、顔を見合わせる。
 その顔つきが変わるのが、たった一つの片目からでもよく見えた。

「お話しうかがえますかな、その……鷹山千景さんのことについて」

 背中につう、と汗が落ちる。
 きっと幻聴のせいだろう。

「…………千景さんは、鷹山ではございませんの。鷹山はわたしの姓で、旦那様は、わたしに婿入りしてくださったので」

「ア、こりゃ失礼、左様でしたか」

「ええ、妾の息子に鷹山の姓は名乗らせませんわ」

 わたしは大きな門を開ける。ズッ、ズッズ、ズッ……見かねたらしい若い刑事がうしろから扉を押すと、重い扉はいとも簡単に開いていった。見上げてにっこりほほえんでやると、刑事の頬もまた簡単に、赤くなる。

「ありがとうございます」

「いえ……」

「こんなところまでご苦労さまです。お茶か珈琲でもいかがでしょう。おいしいお茶菓子もありますから、どうぞ、客間でお待ちになって──」

「ところで奥さん、その傷はどうなさったんで?」

 敷地に入れた礼すら言わず、中年の刑事が問うてくる。きっと上の立場なのだろう。不躾で、無作法で、行儀のひとつもなっちゃいない……わたしはこういう男をよく知っていた。

「……さあ、どうぞ」

 玄関を開けてなかに入れてやる。
 千景は上手くやってのけた。今度はわたしの番なのだろう。笑いを噛み殺す。幸いにして、こういう男はよく知っている。ええそう、こういう男を手玉に取る方法も、いやというほどよく知っているのだ。


「あとできちんとお話しいたしますわ。ええきっと、千景さんのことも、この傷のことも、なにもかもお話しいたしますわね……──」


 がらがら、ぴしゃん、と戸を閉めた。


《了》
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