ピエロの仮面は剥がれない

寝倉響

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Tunnel of cherry blossoms

希死念慮④

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『一つ言っておくのですが……奥様の望みを叶えるためには奥様の残り余命を私が頂くことになるため……ここを出た後、生きることはできません。ですが、そうすれば私の出来うる範囲内で奥様の望みは必ず叶えさせていただきます。それでもよろしければこの篋から紙を一枚ひいてください』

 慣れたようにそう説明する彼は決して、私にはレースをかけた女性が言っていたようなダメな人には見えなかった。

「この箱から一枚紙をとればいいのね……」
 私はそう言うとその箱をまじまじと見つめた。箱からはやはり何か不気味なものを感じる。

『はい』

 私は意を決してその黒い箱に、か細くなってしまった右手を入れた。箱に入れた手はひんやりと冷たくなった。その感覚がまだ自分が確かに生きていることを実感させた。そして箱の底まで手を入れると、1枚の紙が私の手に触れた。私はその紙をしっかりと握りしめると箱から手を出した。そして四つ折りに折り畳まれた紙を開くと、紙は白紙だった。

『紙を私に。これで目を閉じればあなたの望みが叶えられます』

 私は紙を死神の手に渡した。そして私は目をつぶろうとした。
でも思いとどまった、私にはまだしなきゃいけないことがあったのだ。

「あの……わがままかもしれませんが……目をつぶる前に夫と娘にお別れをしたいんですが」

『やっぱり親子ですね。分かりました、信之さんと由実さんですね。まだ生きてらっしゃる優子さんには出来ませんが、それはどうかご了承ください』

 死神はそう言うと右手の指をパチンと鳴らした。
 するとここに来た時と同様に、また私の視界が真っ黒になり、気づくと霊園の中にいて、夫と由実の墓の前にいた。

 私は目の前に安らかに眠っている夫と由実に話しかけた。

「信之さん、私ももうすぐそちらへ行けますよ。向こうでもよろしくお願いしますね……向こうには桜はあるのかしら……もしあるのなら久しぶりにまた一緒に桜も見れたら嬉しいですね。その時はお弁当作りますよ」

「由実……あなたには、とても迷惑をかけちゃったね。本当にごめんね。でも私は本当に嬉しかったよ。由実、いつまでも愛しているわよ」

 この世界ともこれでお別れ……。
 私のことを覚えてくれた人達は一体どれくらいいるのだろう。
 向こうにいったらみんなに会えるのかしら……。

 私のすぐ後ろにはピエロの仮面を被った死神がいた。仮面の隙間から見える口元は優しい笑顔を作っていた。その笑顔はこの世界から消えてしまう恐怖心を和らいだ。

『もうよろしいですか?』

「はい……」

『じゃあちょっと私に付き合ってくれませんか?』

「え……はい」
 私がそう言うと、死神は私の乗っている車椅子を押し始めそのまま霊園を後にして桜のトンネルのほうへと押してくれた。

『ここは奥様の思い出の場所なんですよね?ずっと通っていますがこんな所があるなんて初めて知りましたよ』

 そう言うと死神は私の車椅子を押しながら上を見上げた。私も同様に上を見上げる。
 さっき通ったばかりの桜のトンネルがより一層綺麗に見えた。風で落ちるはずの桜の花びらは空中で止まったまま動かずにいる。時間が止まったこの世界で聞こえてくるのは死神が一歩一歩ゆっくり歩く足音だけだった。

 水色のキャンバスの上には、白い絵の具と綺麗な桜色の絵の具が点々と描かれている。少しずつ前に進んでいく度、そのキャンバスは違った形を私に見せ、時折空中に浮かんだその桜色の絵の具が私の手に触れて時を戻す。

 ふと横を見ると、道が広がった場所にある木の長い机と木の長椅子が見えた。毎年のようにここで、私の作ったお弁当を食べながら、家族みんなで楽しく花見をしていたのを思い出した。

「はい……ここは家族でよく花見に来てた場所なんですよ。あの時はとても楽しかったなぁ。でも、もう桜も散り始める頃ですね」

 私は優子と一緒にここを通った時のことを思い出していた。春の終わりを告げるために強く吹く風が桜の花びらを散らしていた。

『向こうに行ってもきっと桜は咲いてますよ。死神界でも花見は季節恒例の行事になっているほどですからね。きっと奥様のいく天界にも桜はありますよ』
 死神はそう言うと再び上を見上げた。目にしっかりと焼き付けるように。

「それはよかった……また花見ができる」
 私の顔には自然と満面の笑みが浮かんだ。目には涙が溜まり、その涙は受け皿を無くし目から零れ落ちていく。

『それでは目をつぶってください』

「はい……」
 私は目を閉じた。涙が下へと落ちていく。手の甲に落ちた涙はとても暖かかった。

(……優子 今までありがとう。これからも――)
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