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第二十七章
第三話
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家に帰った智香は、家の中の明かりでお母さんが先に帰っていることに気付いた。智香は「ただいま」と一言言い残して、部屋に入った。誰にも会いたくなかった。彼女は一人で頭の中にできてしまったパズルと向き合うつもりだった。
部屋に入るなり、智香はびんが入った鞄を投げ捨て、ベッドに倒れ込んだ。そのまま悶えていると、夕飯が冷めてしまうのを気にしたお母さんが呼びに来た。
「智香。ご飯」
ドアの向こうから顔を覗かせたお母さんを見て、智香は自分の日常は何も変わっていないことをに気付いた。智香は寝返りを打ち、うめき声を挙げた。
「……あとで食べるから、置いといて」
智香の態度に、母親は一瞬ムッとしたが、すぐに気持ちを落ち着かせた。それから、母親は、「そう。じゃあちゃんと食べなさいよ」と言って去ろうとして、
「あ、そうだ、智香。パパ……あの人と会う日についてなんだけど」
と言うべきことがあったと思い出した。
「え?」
智香は不機嫌そうに身体を起こした。ドアにいるお母さんと目が合う。
「来週の土日とかどうかって」
智香はベッドに沈み込んだ。
「来週? そっか、うーん」
「何? 嫌なの? 智香が会わなきゃいけない、とかって言ったんじゃない」
母親は不満げに言った。
「別に、嫌だなんて言ってないじゃん」
智香は足をバタバタさせた。
「ただ最近忙しくてさ」
そして付け加えた。
「まあ何でもいいけどさ。で、延期するの? もしそうなら、今回は伝えるけど?」
「延期なんてしないよ」
「そう? じゃあそう伝えるよ。……そうだ。でね、今後もしあの人に会うつもりなら、次からは智香が直接あの人と連絡とってくれない? 今回はお母さんが連絡したけど、毎回そんな感じになられちゃお母さん困るし」
「でもお母さん、連絡先教えてくれなかったじゃん」
智香は下唇を尖らせた。
「今まではね。智香にとってよくないと思ったの」
智香はいら立った。
「お母さんに、でしょ?」
つい、そう言ってしまうと、お母さんは一瞬黙った。智香は真っ白な天井を見つめたまま、様子を伺い、口が滑ったことを認めたが、謝る気はなかった。
「で? どうするの? 会うのね?」
「もう! だからそう言ってるじゃん! 会うよ。来週ね、来週の日曜日って伝えといて」
智香は枕に顔を埋めた。真っ暗になった視界の中で、来週の日曜日までに、抱え込んだすべての問題を解決できるかどうか考えていた。
三國に百川に、びんの悪魔に……明確な道筋は見えていなかったが、智香がお父さんに会うとしたら、これらの問題を終わらせた後がよかった。
お父さんに今の困難を相談するつもりはなかった。負担に思われたくないし、どう話したらいいのかもわからない。
だが、証拠も手に入れたとはいえ、あと一週間か……と智香は自分を待ち受けている今までで一番濃度の高そうな一週間を思って震えた。もしかして自分は、刃の上を渡るようなことをしようとしているんじゃないかと思った。だからといって、何も諦めるつもりはなかったのだが。
「そう。じゃあそう伝えるから。でも智香、一人で会ってよ? お母さんはもうあの人に会う気はないから」
「何で?」と聞くつもりはなかった。「しつこい」と言う元気も今はなかった。
「うん」
代わりに智香は答えた。喧嘩をするつもりはない。
智香はもう、二人の愛が枯れ果ててしまったのを知っていた。それが戻らないことも、昔のように、お父さんとお母さんが智香のおかげで、失った愛を見つけ出す、というロマンティックなストーリーに魅了されることもない。そのストーリーに従ってくれないお母さんを責めるつもりもない。
「じゃあちゃんと後で晩御飯、食べなよ」
智香は頷いた。お母さんはそれを見る前にドアを閉めた。
智香はまた一人になった。
それから思い出したようにポケットからレコーダーを取り出した。三國と百川の情事の音声。かつてここにはお父さんと浮気相手との〝情事の終わり〟が記録されていた。家族を壊したはずの、忌々しくて触りたくもなかったはずの機械。
だが家族を壊したのはお父さんであり、お母さんだ。そして、気に食わないがおそらく……智香もその一人だったのだろう。
レコーダーはボタンを押されたから決められた回路に従って起動し、主人の指示通りに録音しただけだ。機械に罪はない。びんはどうだろう?
今日智香が使った力は、必要のないことだった。あれだけびんの力を恐れていたのに、少し気が立っているだけで、対価を取るに足らないものだと考え、使ってしまう。その結果が、鬼平の中に封印されていて、目覚める予定のなかった記憶を無理やり開き、彼を苦しめた。それは智香が最も嫌うような対価の一つだった。
智香はレコーダーを手から離した。――こいつができることはびんに比べてずっと少ない。少ないからこそ、コントロールできる。
びんは鞄の中に入ったままだ。智香はまだ結論が出ていなかった。自分が告発すれば、もう三國は逃れられないだろう。そうなった時、本当に三國は死んでしまうのだろうか。それともあれは嘘で、三國は自分を恨み、復讐をしようとするだろうか……。
智香は震えた。証拠を手に入れれば、すべてこっちのものだと思っていたのが馬鹿らしくなった。本当の闘いはここから始まっていたのだと気付いてしまった。
智香は仰向けになって、腕で庇を作った。びんも三國もどうすればいいのかわからなかった。智香は、目をつぶった。そして、もしびんが何も対価を要求しないなら、こんな悩みなんてなくなったらいい、と願うのに、と思った。
部屋に入るなり、智香はびんが入った鞄を投げ捨て、ベッドに倒れ込んだ。そのまま悶えていると、夕飯が冷めてしまうのを気にしたお母さんが呼びに来た。
「智香。ご飯」
ドアの向こうから顔を覗かせたお母さんを見て、智香は自分の日常は何も変わっていないことをに気付いた。智香は寝返りを打ち、うめき声を挙げた。
「……あとで食べるから、置いといて」
智香の態度に、母親は一瞬ムッとしたが、すぐに気持ちを落ち着かせた。それから、母親は、「そう。じゃあちゃんと食べなさいよ」と言って去ろうとして、
「あ、そうだ、智香。パパ……あの人と会う日についてなんだけど」
と言うべきことがあったと思い出した。
「え?」
智香は不機嫌そうに身体を起こした。ドアにいるお母さんと目が合う。
「来週の土日とかどうかって」
智香はベッドに沈み込んだ。
「来週? そっか、うーん」
「何? 嫌なの? 智香が会わなきゃいけない、とかって言ったんじゃない」
母親は不満げに言った。
「別に、嫌だなんて言ってないじゃん」
智香は足をバタバタさせた。
「ただ最近忙しくてさ」
そして付け加えた。
「まあ何でもいいけどさ。で、延期するの? もしそうなら、今回は伝えるけど?」
「延期なんてしないよ」
「そう? じゃあそう伝えるよ。……そうだ。でね、今後もしあの人に会うつもりなら、次からは智香が直接あの人と連絡とってくれない? 今回はお母さんが連絡したけど、毎回そんな感じになられちゃお母さん困るし」
「でもお母さん、連絡先教えてくれなかったじゃん」
智香は下唇を尖らせた。
「今まではね。智香にとってよくないと思ったの」
智香はいら立った。
「お母さんに、でしょ?」
つい、そう言ってしまうと、お母さんは一瞬黙った。智香は真っ白な天井を見つめたまま、様子を伺い、口が滑ったことを認めたが、謝る気はなかった。
「で? どうするの? 会うのね?」
「もう! だからそう言ってるじゃん! 会うよ。来週ね、来週の日曜日って伝えといて」
智香は枕に顔を埋めた。真っ暗になった視界の中で、来週の日曜日までに、抱え込んだすべての問題を解決できるかどうか考えていた。
三國に百川に、びんの悪魔に……明確な道筋は見えていなかったが、智香がお父さんに会うとしたら、これらの問題を終わらせた後がよかった。
お父さんに今の困難を相談するつもりはなかった。負担に思われたくないし、どう話したらいいのかもわからない。
だが、証拠も手に入れたとはいえ、あと一週間か……と智香は自分を待ち受けている今までで一番濃度の高そうな一週間を思って震えた。もしかして自分は、刃の上を渡るようなことをしようとしているんじゃないかと思った。だからといって、何も諦めるつもりはなかったのだが。
「そう。じゃあそう伝えるから。でも智香、一人で会ってよ? お母さんはもうあの人に会う気はないから」
「何で?」と聞くつもりはなかった。「しつこい」と言う元気も今はなかった。
「うん」
代わりに智香は答えた。喧嘩をするつもりはない。
智香はもう、二人の愛が枯れ果ててしまったのを知っていた。それが戻らないことも、昔のように、お父さんとお母さんが智香のおかげで、失った愛を見つけ出す、というロマンティックなストーリーに魅了されることもない。そのストーリーに従ってくれないお母さんを責めるつもりもない。
「じゃあちゃんと後で晩御飯、食べなよ」
智香は頷いた。お母さんはそれを見る前にドアを閉めた。
智香はまた一人になった。
それから思い出したようにポケットからレコーダーを取り出した。三國と百川の情事の音声。かつてここにはお父さんと浮気相手との〝情事の終わり〟が記録されていた。家族を壊したはずの、忌々しくて触りたくもなかったはずの機械。
だが家族を壊したのはお父さんであり、お母さんだ。そして、気に食わないがおそらく……智香もその一人だったのだろう。
レコーダーはボタンを押されたから決められた回路に従って起動し、主人の指示通りに録音しただけだ。機械に罪はない。びんはどうだろう?
今日智香が使った力は、必要のないことだった。あれだけびんの力を恐れていたのに、少し気が立っているだけで、対価を取るに足らないものだと考え、使ってしまう。その結果が、鬼平の中に封印されていて、目覚める予定のなかった記憶を無理やり開き、彼を苦しめた。それは智香が最も嫌うような対価の一つだった。
智香はレコーダーを手から離した。――こいつができることはびんに比べてずっと少ない。少ないからこそ、コントロールできる。
びんは鞄の中に入ったままだ。智香はまだ結論が出ていなかった。自分が告発すれば、もう三國は逃れられないだろう。そうなった時、本当に三國は死んでしまうのだろうか。それともあれは嘘で、三國は自分を恨み、復讐をしようとするだろうか……。
智香は震えた。証拠を手に入れれば、すべてこっちのものだと思っていたのが馬鹿らしくなった。本当の闘いはここから始まっていたのだと気付いてしまった。
智香は仰向けになって、腕で庇を作った。びんも三國もどうすればいいのかわからなかった。智香は、目をつぶった。そして、もしびんが何も対価を要求しないなら、こんな悩みなんてなくなったらいい、と願うのに、と思った。
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