おもしろSFショート

山田みぃ太郎

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アクアラング細胞 後編

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 担当医の言葉に彼の妻は唖然としたけれど、もちろん彼は大喜びだった。
 実は肺が水で満たされて以来、彼の状態はさらに良くなっていたのだ。
 もちろん常に酸素吸入を行なう必要はあったものの、食事も摂れるようになり、栄養剤の点滴も不要になっていたのだった。
 そして点滴がないから、海で泳いだとしても感染の心配もなかった。

 数日後、彼は酸素吸入を受けながら、妻や病院のスタッフとともに車で海へと向かった。
 そして海に着くと、さっそく水着に着替えた。

 それから彼は海に入った。
 そして酸素マスクを外した彼は海に潜ろうとしたけれど、そこで躊躇してしまった。そのとき彼の脳裏に、一年余り前の水難事故の恐怖がよみがえったのだ。
 だけど彼には、その恐怖を押しのけてでも、水の中に入たいという衝動があった。
 なぜだか分からないけれど、彼の目の前の海が、彼を呼んでいるような気がしたのだ。

(この衝動は何だろう? どうして僕はこんなに海に潜りたいのだろう? やっぱり僕はこの海の中にいるべき人間なのではないだろうか…)

 それから彼は、躊躇していた彼は、その衝動に後押しされるように思い切って顔を水に着け、そしてそのままその海に潜った。
 それから彼は意を決し、一気にその海水を吸い込んだ。

 するとどうだろう。
 海水は彼にとってまるで空気のように、すーっと、彼の肺の中に入っていったのだ。
 そして彼がそれまで感じていたあの息苦しさは、嘘のように消えていったではないか。
 それは彼にとって久しぶりの体験だった。こんなに楽に「息」が出来るのは!
 そしてその時、彼は思い出した。

 彼が少年の頃の夏の日。彼は友達と野原を駆け回った。
 子供でも息が上がるくらい、彼は走り回った。
 それから彼は木陰を見付け、そこに座った。緑がそよ風になびいていた。
 そのそよ風を見ながら、彼は大きく息を吸った。草や木々の匂いがした。
 そして彼は何度も何度も深呼吸をした。
 すると、ハアハアと上がっていた彼の息が、すーっと静かになっていった。
(そうだ! そんな感じだ。あの時と同じように、息が楽になっていく…)

 それから彼は水面に戻り、手を出した。
 妻はいつものように彼にボードを手渡した。
 そのボードに彼はこんなことを書いた。

〈ここではすごく息が楽だよ!〉

 次の日から彼の病室には、海水を入れた大きな水槽が置かれることになった。
 彼は一日中その水槽の中で過ごすようになったのだ。
 そしてその水槽には、まるで熱帯魚でも飼っているかのように、常に空気がぼこぼこと送り込まれていた。

 彼は水中でも物がはっきり見えるようにと、いつも水中眼鏡を掛けていた。
 しかし不思議なことに、それからしばらくすると、彼は水中眼鏡なしでも物がはっきりと見えようになった。
 おそらく彼の目の角膜や水晶体に何らかの変化が起こったのだろう。
 そのことを聞いた担当医はそう考えた。
 だけどどうしてそうなったのかは、担当医にもよく分からなかった。

 とにかく彼はそれ以来、水の中からガラス越しに病室の様子をはっきりと見ることが出来たし、病室のテレビを見ることも出来た。
 それどころか、水槽の外に本を置けば読書さえ出来た。

 それから彼と彼の妻は手話を学ぶことにした。
 手話なら、水中の彼とのコミュニケーションもずいぶんとやりやすくなった。
 それからしばらくして、彼の体にもう一つの「異変」が起こった。

 彼の「肺癌」の細胞は、彼の肺を全て「鰓」の細胞に置き換えたところで、ぴたりとその増殖を止めてしまったのだ。
 それは定期的なCT検査で判明した。

「つまり、彼は本当の意味での、『癌』ではなかったのですよ!」
 ある日、担当医は彼の妻にそう説明した。

「通常、癌細胞というのは放っておけばその人を死に追いやるまで増殖を続けるものなのです。ところが彼の肺の細胞はそうではなかった。肺の全てを鰓に置き換えたところで、ぴたりと増殖を停めてしまったのです。こんなことは通常の癌では有り得ないことです」
「つまり先生は、彼が癌ではないとおっしゃるのですね」
「おそらく癌ではないと思います」
「本当ですか?」
「ただし肺を移植しない限り、このままでは空気中で呼吸が出来ない。もちろん大量の酸素吸入を行なえば、ある程度は可能なのですが、やはり水中に居るほうが、彼にとってはるかに居心地が良さそうに、私には思えるのです」
「それじゃ彼は、これからもずっと水の中に…」
「おそらく。そしてそれが彼にとっては最善の選択とさえ思うのです。それに私には彼がそのことを望んでいるように思えてなりません」

 それから彼と彼の妻と担当医は手話を交え、彼のそれからの「身の振り方」を相談した。
 そして最終的に、彼はその後の人生を水中で過ごすことに決めた。
 もちろんそれが彼にとって重大な決断だったということは言うまでもない。

 それからしばらくして、彼は退院した。
 彼はいけすに入り、トラックで病院を後にした。
 それからそのいけすを自宅に置き、彼は水の中での生活を続けた。

 そんな彼を、以前「奇跡の人」としてテレビで紹介したマスコミが取材に来た。
 いけすの中で暮らす彼の様子は全国に放送され、多くの人に感動を与えた。

 その後、彼の元にはたくさんの励ましの手紙とともに、カンパが寄せられた。
 そしてそのお金と彼らの貯金を元に、彼らは南の珊瑚礁のきれいな島に、小さな家を建てた。

 彼らの家は、海に程近い所に建っていた。
 部屋の中央には大きな水槽があり、それは小さな水路で海に繋がっていた。
 家にいるときは、彼はいつもその水槽の中で過ごし、彼が「外出」するときは、その水路を通って海に出るのである。

 それから彼は珊瑚礁や熱帯魚やイルカやジュゴンなどの水中写真を撮り始めた。
 そして彼は水中写真家として、その後の生計を立てることに決めたのだ。

 そして彼はたくさんのイルカたちと友達になった。
 彼は声を出せなかった。だけどそれは空気中でのことに過ぎなかった。
 何と彼は、水中では声を出せたのだ。
 それは空気中とは異なり、とても高い声だった。

 そして水中での彼の声に、イルカたちは反応した。
 いつしか彼とイルカ達は人間と犬のように、いや、それ以上に親密な関係になった。
 それから彼の妻はスキューバダイビングを初め、やがて水中での散歩は彼らの日課となった。

 こうして月日が流れた。
 それからしばらくの間、彼と彼の妻と、そして彼の入院中に生まれた、彼らの息子との、幸せな「水辺の生活」が続いた。

 そして二十余年の時が流れた。
 彼の息子は二十二歳になり、すでに結婚して子供もいた。
 ところが彼の息子は、彼と同じ年齢の時に彼と同じ病気を発病したのである。
 肺が鰓に置き換わる…

 だから一年ほどで、彼の息子も彼同様の水中生活を始めることとなった。
 実は彼の担当医はその後も彼らの病気について研究を続けた。
 そしてそれが突然変異であることと、遺伝性の病気であることを突き止めていた。
 しかもそれは優性遺伝、つまり彼の子孫はすべて彼と同じ病気を発病するのである。

 この病気は二十二歳前後で発病し、二十三歳頃までには、水中生活を始めなければならないのだ。
 しかも優性遺伝だから、彼の子も、孫も、曽孫も、玄孫も、その子供も、その子供も…

 さらに数百年の時が流れた。
 彼の子孫はすでに数千万人にも及び、世界中の水辺で生活していた。
 二十二歳までは陸上で暮らし、二十三歳からは水中で暮らす…

 人々は肺を鰓化するこの細胞のことを「アクアラング細胞」と呼んだ。

 その頃、地球環境は大きく変わっていた。
 海面は数十メートルも上昇し、残された陸地は大変少なくなっていたのだ。
 だが水辺と海中で一生を送る彼らは、見事にその環境に適応することが出来た。

 その一方、一生を陸上で過ごす旧来の人類は、大変な苦難を味わうこととなった。
 そして数万年後、その「旧来の人類」は絶滅してしまったのである。

 人類は自らの営みで地球環境を変えてしまった。
 しかしその人類は、水辺と海中で暮らすという彼らのような方法で、見事その環境に適応したとも言えるのではないか。

 人類は両生類へと進化したのである。

 アクアラング細胞 完
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