壊れた世界で生きる

黒い猫

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第4話 運否天賦

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 息を吸う。

 肺が悲鳴を上げている。それでも、詠唱のために空気を取り込まなければならなかった。

 足を止めるな。
 止まったら、終わる。

 頭では分かっている。分かっているはずなのに。

「――土よ」

 言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。

 つま先が、わずかに何かに引っかかる。

 ほんの一瞬。
 ほんの僅かな、躓き。

 だが、全力で走っていた身体は、その僅かな狂いを許さなかった。

「――っ!」

 視界が反転する。
 前に投げ出される感覚。手を出そうとしたが、間に合わない。

 肩から、地面に叩きつけられた。

 衝撃が骨を通して脳へ流れ込み、息が強制的に吐き出される。

「奏っ!」

 蒼の声。

 靴底が土を擦る音。
 止まった。蒼が、止まってしまった。

「立てるか!?」

「……っ、だいじょ――」

 言い切る前に、背後で空気が裂けた。

 甲高い咆哮。
 近い。さっきまでとは、比べものにならないほど。

 奏は歯を食いしばり、身体を起こそうとする。だが、腕に力が入らない。強く打った肩が、完全に拒絶していた。

「くそ……!」

 焦りが喉を焼く。

 蒼が、迷いなくこちらへ駆け寄ってくるのが視界の端に映る。

「無理すんな、俺が――」

「だめだ!」

 叫んだ。

 ――だが、俺の声が聞こえていないかのように、蒼は倒れた俺の横を通り過ぎた。

 生臭い息。
 鱗が擦れる音。

 リザードマンの気配と、蒼の気配が重なる。

 身体を転がし、蒼とリザードマンの方へ向き直る。
 詠唱を再開しようと必死に息を吸い込んだ。

 ――弱くていい。
 ――遅れてもいい。

 ただ、蒼の助けに――だが、遅すぎた。

 次の瞬間、ブンッ、と風を裂く音。

 同時に、何かが半ばから折れたような、甲高い音が響いた。

 理解するより早く、二度目の斬撃。

 脳が、事実を拒絶する。

 ただ、視界いっぱいに赤が広がり、生暖かいものが降り注いだ。

「あ……あぁ……」

 べチャリ、と音を立てて、蒼の上半身が地面に落ちる。

 リザードマンは、こちらを見て笑っていた。

 否応なく、理解させられる。

 蒼は、死んだ。

 ただ、運が悪かっただけだ。

 蒼は反応できていた。
 だが、リザードマンの得物が、運悪く業物だった。
 そして、ほんの僅かに受け違えた。

 それだけだ。

 いつもなら、立て直せたかもしれない。
 だが、その僅かな差で剣は折れ、二度目の斬撃を受け止められず、死んだ。

 ただの運で、優しかった青年は、死んだ。

 戦意を失った俺を、リザードマンが愉しそうに見下ろしている。

 指の一本すら、震えず動かない。

 ――今すぐ、殺してくれ。


 空気が、歪んだ。

 熱ではない。
 圧でもない。

 魔力そのものが、場を書き換える感覚。

 笑っていたリザードマンの動きが、完全に止まる。

 次の瞬間、轟音。

 赤ではない。
 青白い、光の奔流が空から降り注ぎ、その一本が、眼の前のリザードマンを呑み込んだ。

 衝撃波。
 生物の焼け焦げる匂い。

 光が消えたとき、そこに魔物の姿はなかった。

 代わりに、少し離れた場所に立つ、一人の男。

 ローブを纏った、痩せた背中。
 三十前後だろうか。

 だが、その立ち姿だけで分かる。

 ――格が、違う。

「……あらかた、殺せたか」

 淡々とした声。

 男は俺に気づき、わずかに目を見開いた。

「……すまない」

 その言葉の意味を、奏は理解できなかった。

 ただ――

 助かったのだ。
 俺は、優しき青年を犠牲にして、
 偶然、動かなかったおかげで、生き残ってしまった。
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