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11・冷血公爵の感情
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絶対にオドマンを同じ建物には入らせないから大丈夫だ、だけれど念の為に部屋からは出ないでくれ……そう言われて私は勿論翌日まで一歩も部屋の外には出ずに過ごしたけれど、あの男が同じ敷地の中にいると思うだけで気が気ではなく、その晩はろくに眠れなかった。神経が疲れ果ててうとうとしかかると、あの運命の日に館へ兵士が乱入して来た時に引き戻され、私は悲鳴を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。
「お嬢様、大丈夫、大丈夫ですから」
次の間にマリーが居てくれて、夜中に何度も様子を見に入って来てくれた。そうでなければ私は、一人ぼっちで処刑に怯えて過ごしていた牢屋の中に未だ居るのだと思い込んでしまったかも知れなかった。
「ユーグさまのお計らいでオドマン伯とその配下御一行には朝まで酒宴が設けられて饗されておりますし、こちらの棟にはリカルドさまがいらして万が一にも誰も近づかないよう待機して下さっていますから」
「まあ、リカルドまで?」
「そうですよ。皆でお嬢様をお護りしますから。ここはユーグさまのお館ですもの、よその方の好きになどさせません」
「そんなにまで、私の為に……」
どうして。その問いは散々投げかけて来たけれど、未だにシルヴァンは答えをくれない。
でも、私はマリーと話している内にふと気が付いた。理由はどうであれ、シルヴァンが私を、反逆の汚名を着る危険も顧みずに助け護ってくれている事実は変えられない。なのに私は、どうしてどうしてと思っているばかりで、護って貰っている恩をなんにも返していない。
シルヴァンは、私がいるだけでいいのだと言ってくれるけれども、だからといって、お喋りをしたり村の子どもと遊んだりしているばかりでいいのだろうか? いい訳がない。胸を切り裂くような悲しみと怒りが消えた訳ではないけれど、もういい加減、生きているならば前へ進むべきではないだろうか。
もちろん、オドマンが私に気付かずに去ってくれない事には何も出来はしないけれど。私は、ここにこうしているだけでシルヴァンの立場を危うくするだけの厄介者なのに、他家のリカルドまでが、恐らくシルヴァンへの友情から私を助けてくれている。私は彼らに報いなくては……。
眠れそうにもなかったので、夜半から明け方まで結局、マリーに話し相手になって貰って、シルヴァンの事を色々尋ねた。シルヴァンから余計な事を言うなと口止めされているので、マリーは過去の事は喋らないし、私も無理に聞き出そうとはもう思わない。代わりに、いまのこと……シルヴァンはどういうものが好みで何をして過ごすのが好きなのか、そういった事を教えて貰った。それから、リカルドの事、レジーヌの事……。シルヴァンのひとつ年上であるマリーは、みんなが子どもの頃からこの館に仕えていて、色んな事を知っているようだ。差し障りのない話題ばかりだったけれど、シルヴァンとリカルドが少年の頃からお互いに支え合う親友同士だった事はわかった。
「子どもの頃のユーグさまとリカルドさまは、ご気性もよく似ておられました。快活で社交的なところが」
「……」
何度聞いても、いまの無表情なシルヴァンからは想像できないけれども、マリーが嘘をついている訳ではなさそうだった。
「それに、ご家族の事で色々大変な思いをされた事も同じで……わたくしから詳しくお話しする訳には参りませんけれど、そういうことでお二人は兄弟同然の絆をお持ちなんですの」
「シルヴァンのご両親は、十年以上前に事故でお亡くなりになったのだったわね」
「はい……」
そういえば、十年以上前といえば、私は子どもではあったけれど、なんにもわからない、という年齢でもなかった。ジュリアンとの婚約が決まったのよりそう昔ではない筈。なのに私は、前王弟殿下だったシルヴァンのお父さまの事をなんにも知らない。
改めて考えてみればおかしな話だった。亡くなった前ラトゥーリエ公爵の話題は時には宮廷で出ていた気はするのに、私はその内容を殆ど覚えていない。今のラトゥーリエ公爵についての無責任な噂話以外に、王妃となる予定だった私が当時の国王陛下の弟君について何も知らされていないなんて不自然ではないだろうか。
広間にかかっていた肖像画を思い出す。王家の特徴を持った顔、髪の色を変えればシルヴァンと似ている顔……私は子どもの時に会っていた筈なのではないだろうか。
でも、思い出そうとすると、頭がきりきりと痛んだ。
「お嬢様? どうなさいました?」
私の様子が変わったので、マリーは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、少し頭痛がしただけよ」
「少しお休みになった方がよろしいですわ。もうすぐ夜明けです。朝食が済んだら伯爵一行は出立なさいます」
「そうね……」
そして、彼らは帰りに、私を括りつけて去った場所を見に行くのだと聞いている。もしもおかしいと言われたらどうなるだろう!
けれど、心配してもどうしようもない。万が一私が死んでいないと思われたって、すぐにシルヴァンが助けたのだと断定される訳でもない。頭痛と心痛が我慢出来なくなってきて、私はマリーの言う通りに、目を瞑って横になった。眠れないだろうと思ったけれど、やがて意識は浅い闇の中へ引きこまれていった。
―――
夕刻、シルヴァンが部屋に来た。オドマンは何も疑いの言葉も出さずに、現場にあった私の血塗れの髪を箱に入れて、そのまま王都へ帰って行った、と言う。一行がちゃんと村を出て王都への主街道に入るまで部下に見届けさせたので、もう心配はいらないそうだ。
「済まなかったな、心細く、不自由でもあったろう」
「不自由はないけれど心細くはあったわ。でも謝らないで。私こそ、厄介ごとをもたらしてしまって謝らなければならないわ」
「謝る必要などないが……少し、疲れた。ここで暫く休んでも、いいだろうか?」
「ここで? ではあの、窓を開けるわ」
「悪いが、頼む」
私の部屋は暖かくしてあるので、かれが長居するのは珍しい事だった。普段、ダイニングや書斎では、かれの過ごしやすい寒さの中で、私は上着を羽織って一緒にいる事にしている。
窓を開けると夕暮れの冷たい空気が室内に流れ込んで来る。私は肩掛けを巻いてシルヴァンの向かいに座った。
かれは酷く疲れた様子だった。今日はオドマンと一緒にあの現場に行った筈だけど、思い返せば私がここに来て以来、かれは殆ど外出していないような気がする。久々の外出で疲れたのだろうか? 私は急に心配になった。
暖かさが苦手な以外、日常でかれが弱っているという感じを受けた事はない。痩せ細っている訳でもないし、力もある。だから私は、かれが病人だという事を忘れそうになっていた。無表情で寒い所が好きな冷血公爵さま……それがいつの間にか傍にいるのが当たり前になってしまって、かれが普通の身体ではないという事を単なる特徴みたいに思ってしまっていた。でもいま、長身をぐったりと椅子に沈めて目を瞑っている姿を見ると、とても弱々しく感じた。
「あの、大丈夫? 具合が悪いの? バロー先生を呼んでもらいましょうか」
私も元気になるまでとても世話になった、信頼できる老医師の名前を挙げたけれど、シルヴァンは目を瞑ったまま首を横に振った。
「そこまで具合が悪い訳ではない。疲れたんだ。おまえの傍で休めば治る」
「そう……。でもどうしてそんなにまで疲れたの? 山が暖かかった?」
「いや、そうでもない。そうだな、ここまで疲れるとは予想していなかったが……まあ、この時期になったらこんなものなのかもな……。俺はあのろくでもない男の傍にいて、毒気にあてられた、とでも言えばいいかな」
「毒気に?」
確かにオドマンは、仮に何の因縁もないとしても一緒に過ごして楽しい種類の人間ではない。けれど、だからといって、大の男が、しかも公爵殿下が、こんなにぐったりしてしまうなんてあるだろうか?
「俺は決まった人間以外には滅多に会わないし、みんないい人間ばかりだ。レジーヌはそうではないが、あれは昔からいるので慣れている。そして、おまえが来て以来、おまえと過ごしていればとても安らいで癒された」
いつの間にかまた館に出入りしている、かれのいとこのレジーヌは、相変わらず私を敵視してはかれに追い返されたりしている。彼女の事は嫌いだけれど、悪人とは思っていない。私に突っかかって、出て行けばいいのに、と言うのは、今日のような事が悪い結果を導いてシルヴァンの立場が危うくなるのを心配しているからだと理解は出来る。けれどとにかくシルヴァンは彼女が嫌いらしいし、彼女も『鈍いユーグのことを心配してやっている』という態度なので、二人はいつも険悪な感じだ。二人を子どもの頃から知っているらしいリカルドも、『あれはどうしようもない』と言って口を出そうとしない。
それはともかく、普段会わない嫌な人間に会ったからって、そうまで疲れるだろうか。
「アリアンナ。俺は自分に感情がない分、他人の感情の影響を受けやすいんだ」
「まあ。あなたにだってちゃんと感情はあるじゃない」
と私は言った。
シルヴァンは瞼を開けて私を見た。アイスブルーの瞳に戸惑いが浮かんでいるのが私にはわかった。
「俺が? 俺に感情が?」
「そうよ。まあ、そんな事を思っていたの? わかりにくいだけで、あなたにはちゃんと感情があるじゃないの」
「俺は冷血公爵だ」
「そんなのただのあだ名でしょ? あなたは優しいわ。そうじゃなきゃ、こんなに一生懸命私を助けてくれるわけないわ」
シルヴァンは私の言葉に目を逸らす。
「それは、俺が優しいからではなくて、おまえに傍に居て欲しいからだ」
「そう。理由は知らないけど、いつもあなたはそう言うわね。でも、誰かに傍に居て欲しい、というのも立派な感情だと思うわ。それに、館の人たちにだってあなたは優しいわ。リカルドと話している時、普段より楽しそうだわ。本当に小さな変化だけど、感情は見えるわ。まだ知り合って長くない私でもわかるわ」
恩に報いなければ、という気持ちが芽生えたせいか、私は辛そうなかれの心を言葉で癒せたら、という思いだった。勿論、適当に並べた言葉ではない。本心だ。
最初は確かに無感情で冷血なのかもと思ったけれども、今でもかれに関してはわからない事ばかりだけれど、でも、かれの感情がわかるのは嘘ではない。
「アリアンナ」
とかれは言った。表情はあまり変わらないけれど、いつもと少し、声音が違う気がした。
「そんな事を言ってくれるのは、おまえだけだ。ほんとうか」
「本当よ。きっともっと色んな人と話せば、もっと感情を出せるようになるのではないかしら」
「俺は……怖いんだ」
「怖い?」
なにかを怖がっている人のようには見えないけれども、何故だか泣きだしそうな子どもが思い浮かぶ。不思議だった。恐怖の一晩が過ぎたあと、私はシルヴァンの気持ちが前よりわかるようになっている気がした。
「以前は、もっと感情があった気がする。他人の気持ちがわかっていた気がする。だが、近頃、なにも感じない、と思う事が多いんだ。それもしかたない、と前は思っていたが、いまは、怖い。俺は、おまえを忘れてしまいはしないかと……」
「まあ、私は毎日傍にいるじゃない。忘れる訳ないわ」
「そうだろうか」
「そうよ」
私はかれの手をとった。ぞっとする程その手は冷たかったけれど、私は我慢してその手を握った。
「あなたに救ってもらったもの……あなたが怖いと思っているのなら、今度は私があなたを助けたいわ」
ありがとう、と抑揚のない声でかれは言った。でも、恐怖は幾らか治まっているように思えた。私の思い込みでなければよいのだけれど。
なんだかだいぶん恩人の事を知ることが出来た気がして、私は嬉しかった。
オドマンは簡単に騙される男でないこと、それから、シルヴァンが言った『この時期』という意味……それらについて考えなければならないと、この時私は気が付いていなかった。
「お嬢様、大丈夫、大丈夫ですから」
次の間にマリーが居てくれて、夜中に何度も様子を見に入って来てくれた。そうでなければ私は、一人ぼっちで処刑に怯えて過ごしていた牢屋の中に未だ居るのだと思い込んでしまったかも知れなかった。
「ユーグさまのお計らいでオドマン伯とその配下御一行には朝まで酒宴が設けられて饗されておりますし、こちらの棟にはリカルドさまがいらして万が一にも誰も近づかないよう待機して下さっていますから」
「まあ、リカルドまで?」
「そうですよ。皆でお嬢様をお護りしますから。ここはユーグさまのお館ですもの、よその方の好きになどさせません」
「そんなにまで、私の為に……」
どうして。その問いは散々投げかけて来たけれど、未だにシルヴァンは答えをくれない。
でも、私はマリーと話している内にふと気が付いた。理由はどうであれ、シルヴァンが私を、反逆の汚名を着る危険も顧みずに助け護ってくれている事実は変えられない。なのに私は、どうしてどうしてと思っているばかりで、護って貰っている恩をなんにも返していない。
シルヴァンは、私がいるだけでいいのだと言ってくれるけれども、だからといって、お喋りをしたり村の子どもと遊んだりしているばかりでいいのだろうか? いい訳がない。胸を切り裂くような悲しみと怒りが消えた訳ではないけれど、もういい加減、生きているならば前へ進むべきではないだろうか。
もちろん、オドマンが私に気付かずに去ってくれない事には何も出来はしないけれど。私は、ここにこうしているだけでシルヴァンの立場を危うくするだけの厄介者なのに、他家のリカルドまでが、恐らくシルヴァンへの友情から私を助けてくれている。私は彼らに報いなくては……。
眠れそうにもなかったので、夜半から明け方まで結局、マリーに話し相手になって貰って、シルヴァンの事を色々尋ねた。シルヴァンから余計な事を言うなと口止めされているので、マリーは過去の事は喋らないし、私も無理に聞き出そうとはもう思わない。代わりに、いまのこと……シルヴァンはどういうものが好みで何をして過ごすのが好きなのか、そういった事を教えて貰った。それから、リカルドの事、レジーヌの事……。シルヴァンのひとつ年上であるマリーは、みんなが子どもの頃からこの館に仕えていて、色んな事を知っているようだ。差し障りのない話題ばかりだったけれど、シルヴァンとリカルドが少年の頃からお互いに支え合う親友同士だった事はわかった。
「子どもの頃のユーグさまとリカルドさまは、ご気性もよく似ておられました。快活で社交的なところが」
「……」
何度聞いても、いまの無表情なシルヴァンからは想像できないけれども、マリーが嘘をついている訳ではなさそうだった。
「それに、ご家族の事で色々大変な思いをされた事も同じで……わたくしから詳しくお話しする訳には参りませんけれど、そういうことでお二人は兄弟同然の絆をお持ちなんですの」
「シルヴァンのご両親は、十年以上前に事故でお亡くなりになったのだったわね」
「はい……」
そういえば、十年以上前といえば、私は子どもではあったけれど、なんにもわからない、という年齢でもなかった。ジュリアンとの婚約が決まったのよりそう昔ではない筈。なのに私は、前王弟殿下だったシルヴァンのお父さまの事をなんにも知らない。
改めて考えてみればおかしな話だった。亡くなった前ラトゥーリエ公爵の話題は時には宮廷で出ていた気はするのに、私はその内容を殆ど覚えていない。今のラトゥーリエ公爵についての無責任な噂話以外に、王妃となる予定だった私が当時の国王陛下の弟君について何も知らされていないなんて不自然ではないだろうか。
広間にかかっていた肖像画を思い出す。王家の特徴を持った顔、髪の色を変えればシルヴァンと似ている顔……私は子どもの時に会っていた筈なのではないだろうか。
でも、思い出そうとすると、頭がきりきりと痛んだ。
「お嬢様? どうなさいました?」
私の様子が変わったので、マリーは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、少し頭痛がしただけよ」
「少しお休みになった方がよろしいですわ。もうすぐ夜明けです。朝食が済んだら伯爵一行は出立なさいます」
「そうね……」
そして、彼らは帰りに、私を括りつけて去った場所を見に行くのだと聞いている。もしもおかしいと言われたらどうなるだろう!
けれど、心配してもどうしようもない。万が一私が死んでいないと思われたって、すぐにシルヴァンが助けたのだと断定される訳でもない。頭痛と心痛が我慢出来なくなってきて、私はマリーの言う通りに、目を瞑って横になった。眠れないだろうと思ったけれど、やがて意識は浅い闇の中へ引きこまれていった。
―――
夕刻、シルヴァンが部屋に来た。オドマンは何も疑いの言葉も出さずに、現場にあった私の血塗れの髪を箱に入れて、そのまま王都へ帰って行った、と言う。一行がちゃんと村を出て王都への主街道に入るまで部下に見届けさせたので、もう心配はいらないそうだ。
「済まなかったな、心細く、不自由でもあったろう」
「不自由はないけれど心細くはあったわ。でも謝らないで。私こそ、厄介ごとをもたらしてしまって謝らなければならないわ」
「謝る必要などないが……少し、疲れた。ここで暫く休んでも、いいだろうか?」
「ここで? ではあの、窓を開けるわ」
「悪いが、頼む」
私の部屋は暖かくしてあるので、かれが長居するのは珍しい事だった。普段、ダイニングや書斎では、かれの過ごしやすい寒さの中で、私は上着を羽織って一緒にいる事にしている。
窓を開けると夕暮れの冷たい空気が室内に流れ込んで来る。私は肩掛けを巻いてシルヴァンの向かいに座った。
かれは酷く疲れた様子だった。今日はオドマンと一緒にあの現場に行った筈だけど、思い返せば私がここに来て以来、かれは殆ど外出していないような気がする。久々の外出で疲れたのだろうか? 私は急に心配になった。
暖かさが苦手な以外、日常でかれが弱っているという感じを受けた事はない。痩せ細っている訳でもないし、力もある。だから私は、かれが病人だという事を忘れそうになっていた。無表情で寒い所が好きな冷血公爵さま……それがいつの間にか傍にいるのが当たり前になってしまって、かれが普通の身体ではないという事を単なる特徴みたいに思ってしまっていた。でもいま、長身をぐったりと椅子に沈めて目を瞑っている姿を見ると、とても弱々しく感じた。
「あの、大丈夫? 具合が悪いの? バロー先生を呼んでもらいましょうか」
私も元気になるまでとても世話になった、信頼できる老医師の名前を挙げたけれど、シルヴァンは目を瞑ったまま首を横に振った。
「そこまで具合が悪い訳ではない。疲れたんだ。おまえの傍で休めば治る」
「そう……。でもどうしてそんなにまで疲れたの? 山が暖かかった?」
「いや、そうでもない。そうだな、ここまで疲れるとは予想していなかったが……まあ、この時期になったらこんなものなのかもな……。俺はあのろくでもない男の傍にいて、毒気にあてられた、とでも言えばいいかな」
「毒気に?」
確かにオドマンは、仮に何の因縁もないとしても一緒に過ごして楽しい種類の人間ではない。けれど、だからといって、大の男が、しかも公爵殿下が、こんなにぐったりしてしまうなんてあるだろうか?
「俺は決まった人間以外には滅多に会わないし、みんないい人間ばかりだ。レジーヌはそうではないが、あれは昔からいるので慣れている。そして、おまえが来て以来、おまえと過ごしていればとても安らいで癒された」
いつの間にかまた館に出入りしている、かれのいとこのレジーヌは、相変わらず私を敵視してはかれに追い返されたりしている。彼女の事は嫌いだけれど、悪人とは思っていない。私に突っかかって、出て行けばいいのに、と言うのは、今日のような事が悪い結果を導いてシルヴァンの立場が危うくなるのを心配しているからだと理解は出来る。けれどとにかくシルヴァンは彼女が嫌いらしいし、彼女も『鈍いユーグのことを心配してやっている』という態度なので、二人はいつも険悪な感じだ。二人を子どもの頃から知っているらしいリカルドも、『あれはどうしようもない』と言って口を出そうとしない。
それはともかく、普段会わない嫌な人間に会ったからって、そうまで疲れるだろうか。
「アリアンナ。俺は自分に感情がない分、他人の感情の影響を受けやすいんだ」
「まあ。あなたにだってちゃんと感情はあるじゃない」
と私は言った。
シルヴァンは瞼を開けて私を見た。アイスブルーの瞳に戸惑いが浮かんでいるのが私にはわかった。
「俺が? 俺に感情が?」
「そうよ。まあ、そんな事を思っていたの? わかりにくいだけで、あなたにはちゃんと感情があるじゃないの」
「俺は冷血公爵だ」
「そんなのただのあだ名でしょ? あなたは優しいわ。そうじゃなきゃ、こんなに一生懸命私を助けてくれるわけないわ」
シルヴァンは私の言葉に目を逸らす。
「それは、俺が優しいからではなくて、おまえに傍に居て欲しいからだ」
「そう。理由は知らないけど、いつもあなたはそう言うわね。でも、誰かに傍に居て欲しい、というのも立派な感情だと思うわ。それに、館の人たちにだってあなたは優しいわ。リカルドと話している時、普段より楽しそうだわ。本当に小さな変化だけど、感情は見えるわ。まだ知り合って長くない私でもわかるわ」
恩に報いなければ、という気持ちが芽生えたせいか、私は辛そうなかれの心を言葉で癒せたら、という思いだった。勿論、適当に並べた言葉ではない。本心だ。
最初は確かに無感情で冷血なのかもと思ったけれども、今でもかれに関してはわからない事ばかりだけれど、でも、かれの感情がわかるのは嘘ではない。
「アリアンナ」
とかれは言った。表情はあまり変わらないけれど、いつもと少し、声音が違う気がした。
「そんな事を言ってくれるのは、おまえだけだ。ほんとうか」
「本当よ。きっともっと色んな人と話せば、もっと感情を出せるようになるのではないかしら」
「俺は……怖いんだ」
「怖い?」
なにかを怖がっている人のようには見えないけれども、何故だか泣きだしそうな子どもが思い浮かぶ。不思議だった。恐怖の一晩が過ぎたあと、私はシルヴァンの気持ちが前よりわかるようになっている気がした。
「以前は、もっと感情があった気がする。他人の気持ちがわかっていた気がする。だが、近頃、なにも感じない、と思う事が多いんだ。それもしかたない、と前は思っていたが、いまは、怖い。俺は、おまえを忘れてしまいはしないかと……」
「まあ、私は毎日傍にいるじゃない。忘れる訳ないわ」
「そうだろうか」
「そうよ」
私はかれの手をとった。ぞっとする程その手は冷たかったけれど、私は我慢してその手を握った。
「あなたに救ってもらったもの……あなたが怖いと思っているのなら、今度は私があなたを助けたいわ」
ありがとう、と抑揚のない声でかれは言った。でも、恐怖は幾らか治まっているように思えた。私の思い込みでなければよいのだけれど。
なんだかだいぶん恩人の事を知ることが出来た気がして、私は嬉しかった。
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