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24・凍てつくとき

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 馬車の振動でリカルドは呻きながら目を開けた。狭い床に横たわり、焦茶色の髪にはべっとりと血がこびりついている。



「リカルド、リカルド、しっかりして」

「ああ、アリアンナ……ごめんよ、やっぱり護れなかった」

「何故あなたが謝るの。あなたにはそんな義務なんて何一つないのに。謝るのは私よ。私のせいであなたは」



 幼馴染に裏切られ、欲の為に罪びとの女を囲っていたという恥辱に塗れた罪状で裁かれる事になってしまった。でもリカルドは軽く溜息をついただけで、



「僕の事は別にいいよ。僕がどうなろうと悲しむ家族なんていないし。家名に泥が付く事は悲しむだろうけど、まあ、本家のローレン侯爵がどうにか家族へ累が及ばないよう手を回してくれるだろう」

「なぜあなたはいつも自分のことはどうでもよさそうなの? 大事なひとはいないの?」



 無神経な質問かと感じつつも、そんな事を聞いてしまう。リカルドは怒りもせずにただ苦笑いを浮かべて、起き上がろうと身を捩ったけれど、縛られているのでなかなかうまくいかない。手助けしてあげたいけど、私も後ろ手に縛られたままなので何も出来ない。



「大事なのは、親友のユーグと、ユーグが愛してるきみだよ」

「一体どうしてそんなに友人を大事に思えるの? 他にはいないの?」



 王都までの道は長い。なにか話していれば、旅の果てに待ち受ける恐ろしい運命のことから気を逸らす事が出来る。



「他に、か……。っ、痛……」



 頭を上げかけたけれど傷が痛んだらしく顔をしかめる。



「大丈夫?」

「あいつら、剣の束で思い切り殴りやがって……。そういえば、レジーヌの姿が見えた気がしたけど、殴られてぼうっとなっていたから見間違いかな?」



 幼馴染が平気で彼を売ったのだとは言いにくかったが、どうせわかる事だ。私はレジーヌとのやり取りを話し、封じられた記憶を取り戻した事も伝えた。



「ああ、そうか……。これは僕の手落ちだな。レジーヌに王の意図を教えておくべきだった。あいつならやりかねないと思いつくべきだったのに」

「あなたのせいなんかじゃないわよ。ここまでする気があるなら、そう言ってくれれば私は出て行ったのに……そうしたら少なくともあなたをこんな目に遭わせる事はなかった」



 密告したから捕まりたくなければ誰にも迷惑がかからない所で死ね、と言われたら、きっと私はそれに従っただろう。大事な人を道連れに無惨に処刑されるよりかは随分ましだった筈。



「あいつは僕の事を嫌っていたから、ちょうどいい厄介払いだと思ったのかも知れないな」

「そこまで仲が悪いとは思ってなかったわ」

「僕もここまでとは思ってなかったけど、あいつは気位だけは高いからな」

「どういうこと?」

「まあ、道々ゆっくり話すよ」



 リカルドはやっと身体を起こして背中を馬車の壁にもたせかけた。開いた傷から血が滴り、青灰色の左目に流れて、不快そうに首を振る。縛られているので拭う事も出来ないのだ。青灰色の瞳……珍しい色ではないけれど、そう言えば、私は昔ある印象を持っていたのだった。



「それより、ユーグはどうなったろうか……」



 口に出すのが怖くて避けていたことをリカルドは言葉にした。私の身柄が確保されてしまったからには、兵士はかれのところにも行った可能性が大きい。あのひとが、私のせいで囚われ人になるなんて。



「ああ、私が死んであのひとの命乞いが出来るのなら、今すぐにそうするのに、それすら出来ない……」

「きみが死んで助かったところでユーグが喜ぶ訳ないだろう」

「それでも! ほんと、レジーヌが言った通り私は死神だわ。こんな事にならなくても、昔の私のせいで、かれは死ぬ運命に」

「諦めたら駄目だよ、アリアンナ」



 私はびっくりしてリカルドを見た。私の心にはもう絶望しかないのに、諦めるなとはどういう事だろう。三人揃って逃げ出す手段なんてある訳がない。仮にそう出来たとしたって、この騒動であのひとの命は更に縮まるだろう。冷たく静かな場所でじっとしている事が、氷結晶の力が増幅するのを遅らせるただひとつのやり方なのだから。

 それでも、希望を提示されればあり得ないと知っていても縋ってしまうのが弱い人間だ。



「なにか、考えがあるの? あなたひとりでもいい、助かる道があれば」

「ごめん、別にないよ。ただね、呪術師が言っていただろう、心の力が大事だと。諦めたら、あるかも知れない希望も消えてしまう。信じる事が大事だと、きみの父上はよく仰っていたよ」

「心の力……」

「そんなものしか縋るものがない状況だけどさ、怖がっていたってしょうがないさ」



『信じるべき時に信じる事が出来れば、きっときみは救われる……』



 父の遺した言葉。でも、いったい何を信じろというの?



―――



 この時、馬車の外が俄かに騒々しくなってきた。兵士の叫び声や馬のいななき声……。馬車はまだ町から出てはいない筈だ。

 囚人移送用の馬車は窓に目張りがされているけれど、元々造りがわるいので、隙間から細い外が見える。馬車が止まったので、私は後ろ手に縛られたまま外を窺った。



「あっ!」

「どうしたんだ、アリアンナ」



 外の光景に、リカルドの問いにすぐに答えられない程の衝撃を受けていた。

 馬車を追い、砂ぼこりを上げながらたった一騎、近づいて来る。その白馬を、私は知っている。跨っている騎士の顔は私からは見えないけれど――。



「ラトゥーリエ公爵?!」



 兵士長が叫んだ。銀の髪が、陽光を受けて輝いた。左手で手綱をとり、右手に剣を構えて脇目もふらずに駆けてくる。この国で誰も逆らえない、国王の兵士たちの行列に向かって一直線に。

 私の、シルヴァン……ユーグさま。私の救い手。私の――。



「アリアンナは俺のものだ! 勝手に連れて行くなど許さない! 薄汚れた手で彼女に触れた事を後悔させてやる!」

「公爵殿下! あなたにも捕縛命令が出ています! 一隊が向かった筈なのに何故ここに?!」

「どうでもいいっ!」



 かれは勢いよく兵士長に向かって馬を走らせ、すれ違いざまに抜いた剣の束で叩きつける。兵士長は落馬して見えなくなった。周りの兵士たちは騒然となり、剣を抜いた。ざっと見て二十人はいる。ああ、ひとりで敵う筈がない。それに、あんなに動き回っては、いつ氷結晶に完全に支配されてしまうか――。

 涙が出た。どうにか逃げ延びてくれたら、とばかり思っていたのに、外に出る事すら大変な身体で、馬に乗り私を助けに来てくれるなんて。あなたを不幸にするばかりの私の為に、残り少ないいのちを無駄に使わないで……。どうして、愛の意味が判らないと言うあなたが、私の為にそんな事をするの?!



「アリアンナ! どこだ?!」



 包囲されながらもかれは叫んだ。



「わたし、ここよ!」



 泣き叫ぶ私の声は遠かった筈なのに、かれに届いたようで、こちらを向く。



「いま、助けてやるからな!」



「公爵殿下! 国王陛下への反逆ですぞ! 暗殺犯の娘を庇い、国軍へ剣を向けたとなれば、言い逃れも叶いますまい!」



 落馬した兵士長の声がする。



「うるさい! アリアンナもアンベール侯も罪びとなどではない! これは反逆ではない!」

「みな、殿下を捕えろ! なるべく殺すな。しかし怪我をさせても構わん!」



 兵士たちはわあっと声を上げて、かれに向かってゆく。



「ああ、リカルド、あのひと、殺されちゃう!」



 私は喚いたけれど、けれど心配をよそに、かれは数をものともせず、兵士たちを蹴散らしてゆく。かれが近づいただけで、兵士の動きは止まってしまうようにも見えた。

 かれが剣を使える事は、あのオドマンの心臓を正確に貫いた腕前を知ってはいたけれど、あの乱闘の中で、なんの味方もなくひとりであんな動きが出来る人間がいるだろうか。神の奇跡だろうか? そう思ってしまう位、兵士たちは不自然に、かれに近付くとそのまま硬直したようになって殴り倒されてしまっている。



「アリアンナ!!」



 遂にかれは私たちの馬車に辿り着き、扉を開けた。



「縛られて。恐ろしい思いをしただろう、遅くなって済まない」

「そんな。あなた、大丈夫なの……?」



 雄々しい立ち回りは呪いを感じさせなかった。本当になにか奇跡でも起きて呪いが解けたのかとさえ思ったけれど――かれが扉を開けた途端、かれより先に飛び込んで来たのは霙のようなものだった。かれの身体は凍てつきかけ、今や寒いどころではなく、本物の吹雪を纏っているようだった!

 そうか、と気づく。兵士は奇跡で硬直したのではなく、この忌々しい呪いの末期の影響を受けて身動きがとれなくなったのだ、と。



「シルヴァン――!」



 私はかれの身体の異変に否応なく気づかされ、泣きながらかれを呼んだ。かれは優しい貌で私を見た。かつてのユーグさまの貌だ。



「アリアンナ」

「ユーグさま!」



 だけどこの時、ひとりの兵士が、馬車のタラップに足をかけたかれの背後から剣を振りかざして駆け寄って来た。かれは狭い入り口で剣を大きく振るえない。



「危ない、ユーグさま!」



 ああ、あの時と同じだ。駄目だ……10年経っても同じだ。私のせいでユーグさまが殺される。私はやっぱり、害しかもたらさない――。



 でも。かれは振り向きざま、兵士の剣を素手で掴んだ。



「ひいっ!!」



 みるみるうちに、兵士の剣が凍ってゆく。そしてそのまま、剣を握った腕まで、ぱきぱきと音を立てて氷が――。



「うわあああっ!」

「呪いだ! 悪魔だ!」

「やっぱり冷血公爵は氷の悪魔なんだ! 普通の人間が触れられる存在じゃないんだ!!」



 腕が凍った兵士は絶叫して転がり落ちる。その悲鳴に被せて周囲の兵士たちが叫び、戦意をなくして次々と逃げてゆく。馬車の周囲には吹雪が舞い、凍えた。逃げる部下を叱責もせず、兵士長も方々の態で逃げ出して行く。



「アリアンナ、大丈夫か」

「ユーグさま。どうして私の為に」

「おまえを、愛しているから」



 かれは私に触れようとしたけれど、指が近づいただけで、私の髪は凍った。かれはびくっとして手を引っ込める。でも、その手を私は取って、頬に寄せた。冷たくて痛いけれど、温かな気持ちになる。

 なにが、氷の悪魔なの。私の為に来てくれたこのひとが、悪魔な訳ないじゃない。私はかれに笑いかける。このひとは、心を持った人間よ。



「愛していると言ってくださるの」

「アリアンナ、俺はいま、死ぬ。心臓が凍って来るのがわかる。でも、悲しまないでくれ。俺はやっとわかったんだ、おまえを愛していると。おまえが危険な目に遭ったから、という情けない理由ではあるが、おまえのおかげだ。愛しているという事は、おまえを離してただ幸せになって欲しいと願う事じゃなかった。俺自身の手で、おまえを助け、幸せへの道を切り開きたいと願う事なんだ。俺はおまえに救われ、おまえを救えて幸せだ。おまえのおかげで、愛する心を取り戻せて幸せだ。両親が暗殺され、温かだと思っていた世界が壊れたあの頃、俺の心は、呪術なんかなくても凍り始めていたんだ。それを溶かしてくれたのはおまえだ。おまえはいつも俺に愛を教えてくれた――」

「だったら! 逝かないで!」



 こんなに、感情を見せているのに、呪いは無慈悲に冷たさを増してゆく。呪いよ、おねがい。かれのかつての傷口の血を止めてくれたことは感謝する。だから、もう去って。いまここに立っている温かいひとの心臓を奪わないで。



「それは無理だ。でも、嘆かないで欲しい。俺は幸せだから。おまえは俺のものになって俺を幸せにしてくれた。いまからおまえはおまえのものだから、自由に生きて欲しい――さあ、離れろ。俺の傍にいたら、おまえまで凍ってしまう」

「あなたは、幸せ?」

「そうだ。ありがとう。だからもういい。リカルドが安全なところへ連れて行ってくれる。そこで自由になってくれ」

「自由に……」



 かれは私から離れようとしたけれど、私は涙を流しながらも笑顔を作って、かれの傍に近付いた。



「? 離れろと言ってる。おまえは幸せに生きて――」

「ばかなひとね。私はいま、これ以上ないくらい幸せよ。離れたら、その幸せは失われるわ」



 そう言って近付き、凍てついてゆくかれの背中に腕を回した。私の腕も、凍ってゆく。でも、耐えられる。腕から、血が凍ってゆく。斬りおとされそうな痛みだけれど、耐えられる。私の為に、こんな苦しみとずっと闘っていたのね。ごめんなさい。でも、もういいの。いっしょに、逝きましょう……。



「やめろ、アリアンナ!」

「私も今まで、愛を本当にはわかってなかった。あなたを大事に思い、あなたの幸せの為に何かしたい、という気持ちが愛だと思ってた。でも、それだけじゃない――なにが起きても私は愛するあなたと一緒にいたい、という気持ち。私はあなたのもので、あなたは私のもの。生きるのも死ぬのも一緒よ。私はいま、それがわかって、自由で幸せなの」



 身体が凍る。私の心臓まで一緒に凍ってかまわない。同じ氷の彫像になりましょう。ごめんなさい――だけど、『私のせいで』って嘆いても、あなたはきっと喜ばないわよね。これが運命ならば、一緒に凍り付きましょう。もう、永遠に離れない。



「駄目だ、アリアンナ!」

「愛してる……」



 音を立てて、氷は抱き締め合った私たちを覆ってゆく。重ね合った唇が離れることはもうない筈。これでいい。解けない呪いなら、愛を知って一緒に凍ってしまう事こそ、望み――。



 意識が遠くなってゆく中で、何かが弾けた音を聞いた。そのまま、私は、かれの体温を感じながら眠った。
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