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アンコン前日

誰も悪くない

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「英里佳、英里佳」
 先生に連れられて、楽器庫へと歩いていると、たっちゃんはしきりにあたしを呼んだ。声変わりのしてない女の子の声で。それから、あたしの手を握った。嬉しかった。たっちゃんに名前を呼ばれて。手を握ってもらえて。けど、それと同じくらい悲しかった。どうしたらいいのか分からなかった。たっちゃんはどうするつもりなんだろう。宇野のことなんて、とっくに気がついてるはずだ。あれは分かりやすい奴だから。だけど、宇野はきっと何もしない。宇野だって、あたしと同じように、今の関係に安心してるから。あたしは壊そうとしたけど。宇野は壊したくないって思ってるだろうし、たっちゃんも宇野の心に従うだろう。結局、あたしとたっちゃんは宇野の口から本当のことを聞けない。たっちゃんの恋は、どうやっても叶わない。たっちゃんが宇野に告白したとしても、宇野は当たり障りのないことを言って、たっちゃんを振る。自分の想いは、誰にも言わない。そうするはずだ。だって宇野だから。なら、たっちゃんは悟くんとどうにかなる? この先、現れるか分からないような、たっちゃんを好きになる男の子と。代わりに慰めてもらうの?
 そうなったら、あたしはどうしたらいい。
「英里佳?」
 たっちゃんの訝しげな声に、ハッと我に返った。あたしはたっちゃんを見て、たっちゃんはあたしを見ている。
「大丈夫。ぼーっとしてた」
「そう。ごめんね」
 謝らないで。そう言おうとしたけど、言えなかった。中崎とのことが、頭に浮かんだ。中崎は不幸になった。たっちゃんは苦しんでいる。宇野はあたしに傷つけられた。あたしは今も、変われないままでいる。あたしたち、誰なら幸せになれるんだろう。
「誰も」
 不意に、たっちゃんは言った。
「誰も悪くないんだ」
 そうして、あたしから目をそらした。
「誰も悪くない。僕以外はね」
 その言葉に、前を歩いていた若山がちょっと振り向いた。心配そうな顔で。嫌な予感がした。
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