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1566 蜜月
決別
しおりを挟むラスは浴室で汚れた体を洗う。シャワーの雨に打たれながら、せっけんを擦り付けた手でアルバが吐いたものがかかった肌をごしごしと擦る。自分の存在が彼への否定そのものだったと思い知らされて胸が苦しい。アルバを肯定して愛することで、自分も成長できると思っていた。日々を過ごすうちに心を開いてくれたアルバに、自分は彼を癒せる特別な存在とすら自惚れていた。今や彼への愛情すら、ラスの生まれながらの罪だ。
アルバは来客用の浴室に連れられて、使用人たちに体を洗われる。吐瀉物のしみた服も着替えさせられ、清潔になると来客用の寝室に寝かされる。ドナは彼の様子を見ることはせず、自分の部屋のベッドにぐったりと横になっていた。雷神は彼女を心配して、傍に寄り添っている。
「ねえ、母さん」
シャワーを終え、ラスが彼女の部屋に顔を出す。その表情はひどく暗い。ドナは息子の顔が見れず、枕に顔を埋めた。
「アルバ……シャマシュは、苦しんでたよ?」
ラスが母を責める。彼は寝室のドアより中には入らず、両親と距離を取ったままだ。ドナは返事をせず、雷神は彼女の隣でおろおろとする。
「彼がどんな思いで生きてきたか、想像がつく?」
そう言い、ラスは目に涙を浮かべた。アルバの抱えてきた悲しみを両親に突きつけてやりたいが、彼の知らないところで暴露するのは自分勝手に思われて口をつぐむ。ラスは一度深く呼吸をして少し冷静になると、今度は父に目を向ける。
「父さんも知っていたの?」
その答えはとっくにわかっているが、父自身の口から言わせたくて、尋ねる。雷神は目を泳がせた。
「知っていたが、お前に話すようなこととは……」
困ったように答える。彼は、何が問題かを本当の意味では理解していない。ラスの胸に甚だしい軽蔑が込み上げた。
「二人とも間違ってるよ」
そう吐き捨て、部屋を出て行こうとする。すると、それまでだんまりをしていたドナが声を上げた。
「間違いだって言えない」
布団に顔を押し付けたまま、くぐもった声で彼女は言う。ラスが目を見開いた。
「だってそんなことを肯定すれば、ラスが間違いになってしまう」
ドナはそう言い、雷神の手を強く握った。は、は、と、ラスの唇から乾いた笑い声が漏れ出す。
「何言ってるの? 私は間違い以外の何者でもないよ。アルバの人生を踏みにじって生まれてきたんだよ?」
ラスの歪んだ顔は、泣き出しそうにも、今にも激昂しそうにも見える。彼は震える唇で、紡ぐ言葉の意味を確かめながら口を開いた。
「おぞましいよ。母さん、どうして私を愛せたの?」
そのせりふは、ラスがこれまでの人生で母に注がれた愛情の全てを否定する。ドナは動揺し、しかしそれでもたった一つの彼女の真実を口にした。
「あの子は望んで産んでない」
あの子。
母の言葉が、ラスの頭の中にこだまする。そうか、と、彼は納得した。
「捨てたくせに自分の子どもみたいに言わないでよ」
ラスは蔑みを込めて両親を見やる。
「アルバはあなたの子じゃない。血の繋がりなんて関係ない、私たちはこれからも愛し合うよ」
そう言い放つと、両親の返事を待たずに部屋を出ていった。
ドナはバッと起き上がり、ラスの後を追おうとする。しかし幼いシャマシュの顔が浮かんで、体から力が抜ける。彼女はその場にへたり込んで、心配する夫に肩を抱かれるまま、呆けてしまった。
ラスは彼との結婚の書類を抱きしめ、アルバの元へと向かう。頭の中はぐちゃぐちゃだ。アルバは来客用のベッドで眠っている。ラスは寝具の上に書類を置くと、ベッドの傍で膝をついてアルバに寄り添った。彼の寝顔を見つめていると、涙が溢れてくる。彼はそれを手で拭い、使用人を人払いした。父に渡されている「お守り」もポケットから出し、自分から遠くに置く。
「アルバ」
ラスが名前を呼ぶ。ん、とうめき声をあげて、アルバが目を覚ました。彼は状況を理解できずにぼんやりとラスを見たが、やがてその表情は憎しみに染まる。
「愛してるよ」
悲しい気持ちでいっぱいになり、ラスは思わずそう口走る。
「何も、私たちには関係ないよね?」
それがどう受け取られようとも、ラスは言わずにいられない。アルバの目が見開かれ、その青色にラスの姿がくっきりと反射した。ラスはパッとアルバの手を取る。
「アルバ、愛してる、君のためなら何だってする、ねえ、傍にいてくれるよね?」
すがりつく気持ちが、後から後から溢れてくる。今すぐ彼にキスをしたい。快楽なしに、アルバのたくましい体に激しく抱かれたい。両親と縁を切ったっていい、アルバに愛されたいと願ってやまない。そうしてお互いを肯定したくてたまらない。ラスの願いは、濡れた手でたぐるこよりのように危うげだ。
アルバはラスの手を振り払った。泣きじゃくるラスを嫌悪に満ちた目で一瞥して起き上がると、布団の上に婚姻の書類を見つける。たちまち、アルバの顔が真っ赤になった。彼は書類を引っ掴むと、力一杯破る。ラスが悲鳴をあげて止めようとしたが、それを押し除けて全てびりびりにしてしまった。
「嫌だ! やめてよ!」
ラスは泣きながら叫び、アルバにしがみつく。彼に抱きつかれ、アルバはカッとなった。
「触るな!」
怒鳴り、ラスの髪を掴んでその頭を床に叩きつけようとする。ラスはかろうじて床に手をついて頭は守れたが、腕には強い痛みが走る。彼が慣れない痛みにうずくまってしまうのを見下ろし、アルバは肩で荒く呼吸をした。フーッ、フーッと、アルバの息遣いだけがラスの頭に鈍く響く。
「父さんを返せ……」
アルバが小さくつぶやく。炎に飲まれて崩れていく、優しい父の水死体が彼の眼前にフラッシュバックする。アルバは自分の頭を押さえて絶叫した。
「ああああー‼︎」
ラスに飛びかかり、馬乗りになる。彼の叫び声で部屋に飛び込んできた使用人たちを振り払い、ラスの顔面に加減なく拳を叩き込む。血飛沫が舞い、拳には鼻が折れる感触があった。アルバはためらわず、二発目の拳を振りかざす。今度は顎が砕け、ラスの口から折れた歯が一本飛び出した。ラスは既に意識を失い、ぐったりと倒れたままだ。
アルバは彼を殺す気で、もう一度拳を上げた。が、自分がめちゃくちゃにしたラスの面を見ると、不意に冷静になる。死んで終わりにできるなんて、そんなのぼくの人生には釣り合わない。アルバは薄ら笑いを浮かべる。何もかも奪って、殺すよりよっぽど酷い目に遭わせてやりたい。そう思って、ゆっくりと拳を下ろす。
血だらけの拳をさげて立ち上がるアルバに、使用人たちが怯えて身を引く。アルバは使用人たちを乱暴に突き飛ばすと、部屋を飛び出した。すれ違う誰の顔もわからないくらい、わき目も振らずに走っていく。裸足のまま屋敷を飛び出し、庭を走り抜けて、固い石や尖った枝を踏んで足が傷つこうとも走り続ける。息が苦しい。心臓は今にも破れてしまいそうだ。それでも、目的の場所へと足を止めない。
城壁の入り口に辿り着くと、アルバはようやく足を止める。ここから先は貴族の居住地だ。アルバは息も絶え絶えに、門番に掴みかかる。彼が途切れ途切れに「ザラス」と言うので、門番たちは困惑しながらもザラス家に連絡を入れる。ザラス家の当主、アンジャンドはすぐに駆けつけ、アルバを門の中に招き入れる。
「ぼくをやるよ」
激しく鳴る胸を手で押さえ、アルバは取引を持ちかける。
「だから、ぼくに力をよこせ」
尋常でないアルバの目つきに、アンジャンドは怯む。しかし、このチャンスを逃すわけにはいかないと、アルバの手を取った。
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