朗読幻想録

こががが

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雨と夢と音楽室

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 木の香りがした。
 それとニスの香り。
 どちらも嫌いな匂いだ。

 入山いりやま陸矢りくやが舞台の袖が嫌いな理由の一つ目はこの匂い。
 そして二つ目の理由は、袖口から差し込む強い照明。

 あの照りつけるライトの下で、見せつけなければならないのは、ヴァイオリンの技量だけ。
 許されるのは、完璧な演奏。
 許されるのは、一音のミスまで。
 それ以上の間違いは決して許されない。
 決して「音楽」とは認められない。
 完璧な技術の上で、「個性」という名の表情を乗せてゆく。
 それでも審査員の琴線に触れるかどうかは、「賭け」でしかない。

 それがコンクール。

 コンサートとは別の舞台。
 演奏会とは別の世界。
 求められるのは「完璧」のみ。
 音楽という名の競技。
 演奏だけが評価される音の戦場せんじょう

 入山陸矢は、実はこの「戦い」が嫌いではない。
 物心がついたときには、ピアノの鍵盤に指先が触れていた。時計の読み方を覚える前に、楽譜が読めるようになっていた。
 ヴァイオリンを持って、初めて「発表会」に参加したのは、5歳か6歳の頃。
 最初の発表会で披露した曲は「かっこう」。
 この頃の陸矢は、かっこうはただ可愛い鳥なんだろうと、思っていた。
 かっこうが他の鳥の巣を「支配する」という生態を知った頃には、陸矢はジュニア・コンクールの常連になっていた。

 ヴァイオリンの世界は狭い。
 コンクールにおいて、上位に位置する者は大体が同じ名前になってくる。
 時に、知らない名前の者が急に現れ、優勝することもある。しかし、天才と呼ばれた者が、必ずしも音楽を続けるとは限らない。
 自分が積んだ努力を軽々と越える者。

 羨望と嫉妬。

 陸矢のそんな感情なんて知る由もない彼らは、「コンクール」という「巣」に入り込んできたと思ったら、軽々と別の世界に移り住んでしまう。
 彼らのその後に思いを馳せても、陸矢はもう、ヴァイオリンの世界から抜け出すことはできない。
 ヴァイオリンの世界から離れることは、師匠が許さない。両親も許さない。友人も、ライバルと呼べる存在も、誰も許してくれない。
 もし、それを許してくれる人間がいるとしたら、それは陸矢自身だけだ。
 陸矢の味方は、陸矢ただ一人。
 それが現実。

 だから、今日も陸矢はヴァイオリンを響かせる。
 審査員に見せつけるため。
 そして認められるため。
 そうしなければ、それまで生きてきた陸矢の人生は意味のないものになってしまう。
 「無」に近づくこと、「無」という存在が自分の領域に入ってくることが陸矢にとっては地獄だ。
 自分の存在する理由はなくなり、全ての人間が離れてゆく。
 皆の目の中に、あるいは、せめて目の隙間でも良いから、自分を認識させたい。自分を存在させたい。
 それが陸矢が生き続ける理由。
 ヴァイオリンを続ける根源。
 彼の信念、あるいは執念とも呼べるかもしれない想いに応えて、左手は弦を押さえて、右手の弓は曲を鳴らす。
 真面目に、生真面目に、誠実に、楽譜に向き合う。
 ここで音を二つでも間違えてしまえば、無価値な存在になってしまう。
 だから必死で楽譜にかじりつく。
 楽譜は全て暗譜している。
 運指も、強弱も、数えきれないほどの技巧も完璧に両指に覚え込ませた。
 間違いなんて起こるはずがない。

 けれども、今日は違った。
 何を間違ったのか、どこで間違ったのか、全くわからない。指と腕がいつもよりも重く感じる。
 いつもよりも、0.5グラムくらいの重さを、ヴァイオリン本体と右手の弓から感じる。

 この違和感はなんだ?

 陸矢が自問する間もなく、曲は前に進み続ける。
 コンクールという短い時間の中で、間違いの原因を探す時間など存在しない。
 持つ弓を間違えてしまったのか?
 あるいは、披露する曲を間違えたのか?
 いや、そんなことがあるはずはない。
 どんなに緊張していたとしても、そんな過ちは絶対におかさない! あり得ない! 絶対に!
 陸矢の思考を無視して、指は弦を強く押さえつけ、弓は音をかき鳴らす。
 曲が進む。
 時間が進む。
 思考が追いつかなくなる。
 しかし、指はコンピューターのように動き続ける。
 そして、思考は置いていかれる。

 脳の片隅で残っていた楽譜も、完全に光を失ってしまった。
 頭の中は、もはや真っ黒。
 ステージの強いライトに耐えきれず、見えもしないはずの審査員の表情が険しくなるのが分かり、まぶたが重くのしかかる。

 もう、この演奏は無理だ。
 この演奏はまったく評価されない。
 自分は無価値な存在だと言われる。
 師匠に。
 親に。
 友人に。
 自分自身に。

 その瞬間だった。
 右手の感覚が全てなくなった。
 神経が遮断された。
 右手の全ての指は、ヴァイオリンの弓を抑えることができなくなった。
 弓が宙に浮いた。
 弓は右手から完全に離れてしまった。

 一瞬の出来事だった。
 右手に感覚が戻ったときには、もう手遅れだった。
 弓は宙を舞い、そのまま垂直に舞台の底に落下する。
 弓の落ちる音が会場に鳴り響く。
 そして、訪れる。
 無音の時間が。

 陸矢はいつも、ここで目を覚ます。
 自分がベッドの上にいることを両手で確認してから、額の汗を手で拭う。
 ここが現実であるという確認をしてから、枕元に用意しているミネラルウォーターのペットボトルに口をつける。
 陸矢は再びベッドに横たわる。

 幸い、陸矢は夢の中のような失態を演じたことは一度もない。
 けれども、この一年間、陸矢は何度も同じ夢を見る。
 コンクールの舞台に立ち、演奏し、思考が止まり、そして弓を落とす。
 深呼吸をしながら目を瞑るが、眠れないまま朝を迎えることになる。
 世界がとても重い。
 これが陸矢が夜になって、眠るのを恐れている理由。
 悪夢。

(2)

 チャイムの音で、陸矢は目を覚ました。
 五限目の授業が終わり、白髪の女性教師が教室から去る前に、既に教室に賑やかさが戻る。
 惚けた目を右手でこすりながら、教科書を閉じる。
 後で誰かにノートを借りないと。
 背伸びをしながら、そんなことを考えていると、スマホにメッセージが届いていた。

ーー大丈夫?

 その後に、心配そうに首を傾げるハロー・キティのスタンプが送られてきた。
 どう返事をしようか迷っていると、さらにメッセージが届く。

ーー今日、放課後に会えない? 体調悪いなら無理にとは言わないけど

 メッセージの送信主をあまり心配させたくなかったので「わかった」とのみメッセージを返した。
 30秒で既読がついた。
 メッセージの送り主の漆畑うるしばた宇美うみは、教室で一人、本を読んでいた。
 教室には彼女しかいないようだが、陸矢は一応、ノックをする。

「待たせて悪かった」
 陸矢の声を聞き、「大丈夫だよ」と宇美は答えて本をパタリと閉じる。
 陸矢は宇美の隣の席に座り、一階の自販機で買ってきたアイスココアの缶を彼女に渡した。
 宇美はいつもどおり、「ありがとう」と言い、冷たい缶を両手で受け取った。
「ネイル変えたのか?」
「そうだよ」
 気づいてくれて嬉しいな。
 宇美はそう言って、右手を広げて陸矢に自慢した。
「春っぽく、桜色にしてみたの」
「今回も自分でネイルしたのか?」
「そうだよ。楽しいから」
 宇美はココアを三口ほど飲んでから、右手の人差し指で彼女の唇をすうっと拭った。
「陸矢、大丈夫?」
 宇美が心配そうに陸矢に目を向けた。
「今日の朝、顔色悪そうだったから。また、あの夢を見たの?」
「ああ。いつものやつ」
高校ここに入ってからも、やっぱり夢を見ちゃうの?」
「まあ、そうだな」
「そっか……。きついね」
 宇美はため息を吐いた。
「音楽科のない高校に入れば、夢の頻度も減るかなって思っていたんだけど」
 宇美はココアの缶をぎゅっと握りしめた。
 缶はまだ冷たいだろう。
 陸矢は宇美の指をゆっくりと解きながら、笑ってみせる。
「こればかりは俺の問題。宇美が気に止むことはない」
「そうは言っても、レッスンは毎週、欠かさず行ってるんでしょ? 練習量も結局、中学から変わってないみたいだし……」
「レッスンは師匠との約束。それに日常の一コマに染み込んでしまっているしな」
「普通の高校に入ったら、練習量減らすって言ってたのに」
 宇美が心配そうに眉を下げるので、陸矢はコツンと宇美のおでこを叩く。
 痛いーー。
 恨めしそうに睨む宇美を見て、陸矢は「悪かった」と笑いながら謝る。
「兎にも角にも、宇美に責任は全くない。気にすんな」
「気にするよ」
 宇美は俯く。
 彼女の視線が痛かった。
 
「久しぶりに会ったことだし、カラオケにでも行くか? 」
 陸矢は話題を変えたかった。
 ヴァイオリンの緋色のケースを背負いながら、陸矢は宇美に聞いてみる。
「うーーん、今日は遠慮しとこかな」
「いきなりだもんな」
 謝る陸矢に彼女が「そうじゃなくて」と手を振る。
「陸矢が寝不足なのに、私が連れ回したら申し訳ないなって」
「宇美と遊ぶのはいつも楽しい。俺も気晴らしになる」
「嬉しいな。なら、遊ぶ日だけ決めよう」
 宇美が笑う。
「それに今日の陸矢、ヴァイオリンが弾きたくてたまらないって顔しているから」
 彼女の言葉にハッとして、手元を見る。
 両手の指がヴァイオリン・ケースの紐を強く握りしめていた。
「陸矢はやっぱり、ヴァイオリンが大好きなんだね」
「そうだな」
「でも、やっぱり、つらいよね。きついよね」
「まあな」
 陸矢は無理に口角を上げてみせる。
 苦笑いをしたつもりだったが、もしかしたら顔が引き攣っているかもしれない。
「不思議だよな。努力すればするほど、俺は楽器に呪われる」
 本当に皮肉な話だ。
 陸矢の顔を見て、宇美は眉間に皺を寄せて数秒考え込む。
 そして彼女は、制服のポケットからスマホを取り出した。
「ねぇ、この『お知らせ』見た?」
 宇美のスマホには、学年掲示板の写真が表示されている。宇美は左手の指で画面を拡大して、一枚の貼り紙の写真を陸矢に見せる。
「今日の朝に気がついたんだけど、旧校舎の音楽室が開放されるみたいだよ」
 宇美はそう言って、スマホをポケットに戻した。
「開放されたって、誰でも自由に使えるってことか?」
「そうらしいよ。楽器の自主練とか好きに使っていいんだって」
「古い方の音楽室って、『第二音楽室』のことだよな。なんで今年から開放されたんだ?」
「今までは合唱部が練習で使ってたんだって。でも、今年から新校舎の方の音楽室を使うらしいよ」
 宇美の言葉に「なるほど」と相槌を入れた。
「もし第二音楽室に寄ってみて、良さげな場所だったら練習に使ってみたら?」
 ヴァイオリンの練習は、師匠が経営しているスタジオをいつも借りている。それに、そもそも陸矢の家にも防音室がある。
「たまには、陸矢も違う場所で練習するのも悪くないかなって。リフレッシュとか良い刺激になるんじゃないかなって」
「『リフレッシュ』という意味は分かるんだけどさ、なぜ『刺激』になると思ったんだ?」
「ああ、それね」
 宇美が椅子に深く座ると、陸矢を見つめ上げた。
「昨日、たまたま第二音楽室の前を通ったら、うっすらとフルートの音色が聞こえてきたの」
「フルート?」
「そう、多分だけど男子生徒がフルートを吹いてたの。一人で」
「顔を見たのか?」
「ううん。見てないけど、音色的にたぶん男子だと思う」
 どの楽器の音色でも、その奏者の性別や年齢をほぼ的確に当てられる。それは宇美だけが持つ特別な「耳」だ。
「どんな音色だったんだ?」
「吹奏楽というより管弦楽の音に近い気がした。それと質素で、飾り気がないというか」
「フルートなのにはなが無いのは致命的だな」
「そうじゃないの。質素だけど、とても明るかったの」
 まるで、太陽のように、明るい音色。
「宇美がそこまで言うなら、明日、ちょっとだけ寄ってみるよ。今日は時間も遅いしな」
 陸矢の言葉に、宇美は「ほんと?」と嬉しそうに頬が緩む。
「それに久しぶりに会えたし、今日は宇美と一緒に帰りたい」
「うん。そうだね」
 宇美の丸い目が、嬉しそうに光る。
「一緒に帰ろう」

(3)

 午後には天候が回復するかと期待したが、雨の強さは強まり続けていた。
 窓からは真っ黒な雨雲が見え、陸矢は思わず「うっとうしい」と声を上げてしまう。
 雨の強さに比例するかのように、第二音楽室の扉は、とても冷たく重かった。
 この校舎そのものが古い建築物ゆえ、防音対策も物理的な厚さで対応していたのだろう。
 陸矢が鉄の塊に耳を近づけると、やや冷たい冷気とともに、かすかにピアノの音色が聞こえた。
 曲名はすぐに分かった。
 ショパンのピアノ曲集「24の前奏曲」の第15番。
 前奏曲の15番と言われてピンと来なくとも、その曲名が「雨だれ」であると言われたら、メロディーが頭に浮かぶ人も多いだろう。
 ピアノを弾いている人間の素性は分からないが、「雨だれ」を選んだのは、今日の朝から雨が降り続いているからだろうか。
 鍵盤のミスはなく正確に演奏ができているものの、音のパッセージが奔放すぎる。
 少なくとも、コンクールで審査員受けするタイプの演奏方法ではない。

 さて、この演奏が終わるまで、音楽室に入るのを待つべきか?
 陸矢はすぐに結論を出す。
 相手がどんな人間であれ、待つ義理などない。
 陸矢は音楽室の扉を躊躇わず開けた。
 その瞬間に、音はぴたりと止まった。
 そして、ピアノの影から、演奏者が顔をひょこりと出してきた。
 ピアノを演奏していた「彼」は、一瞬だけ不思議そうな表情をしたあと、すぐに、にこりと笑う。

「はじめまして、だよね?」
 明るい声色だ。
 初めて会うのに、彼の表情筋からは緊張を感じない。喉に力も入っていないようだ。
 まるで太陽のような笑顔だ。
 彼の周りには山吹色やまぶきいろの陽光が当たっているかのような明るさがあった。作り物の照明ではない明るさが。
 ぼうっと物思いをしているうちに、畳み掛けるように、「それ、ヴァイオリンだよね」と彼は振り向き、陸矢に聞いてきた。
「すごいね」
 彼の言葉に、陸矢は思わず「何が?」と返してしまう。
「僕には弦楽器の才能がないから」
 彼は明るい声色で続ける。
「小さい頃にヴァイオリンを習ってみたけど、からっきしだったから。まともな音ひとつ出せなかった」
 彼はそう言いながら背伸びをする。
「そういえば、自主練? 譜読み? この第二音楽室へやを使うなら、荷物まとめるけど?」
 ピアノの鍵盤の蓋を閉じようとするのを見て、陸矢は「いや」と彼の言葉を否定した。
「知り合いに良い練習場所があると教えてもらったから、見に来ただけだ」
「そうなんだ」
 みんな耳が早いんだね。
 彼は笑った。
「それで、下見の感想は?」
「悪くない。古い校舎だから、もっと埃くさいかと思っていた」
「意外と良い場所でしょ」
 彼はまた笑う。
 そのタイミングを見計らったかのように、雨雲の隙間から一瞬だけ陽光が差し込んだ。
 反射的に陸矢が顔を上げると、彼の顔つきがよく分かった。
 高校1年生の割には、かなり幼い顔つきだ。
 男子にしては、人中じんちゅうが短い方ではないだろうか。
 何よりも特徴的なのは彼の眼だ。
 夕暮れの一瞬を彷彿させる、明るい黄色の瞳。
 おそらくカラコンではなく、生まれつきの目の色なのだろう。
 彼は眩しそうに目を細めながら、何事もなかったかのように陸矢に問いかける。
「名前、聞いてもいい?」
入山いりやま陸矢りくやだ」
 素っ気なかっただろうか?
 後悔をするよりも前に、彼は明るく「ありがとう。教えてくれて」と返す。
「僕の苗字は……」
 ピアノの前に座る彼が言い出す前に、チャイムの音が遠くから聞こえた。

 もうこんな時間か。
 陸矢は腕時計を見るが、針が止まっている。
 ちょうど一週間前に電池が切れてしまったのだが、時計屋に足を運ぶのが億劫で、先延ばしにしていた。

「せっかくだし」
 彼はピアノの椅子に座り直し、鍵盤に指を構え直した。
「一曲くらい、セッションしていかない?」
「セッション?」
「そう一曲だけ。陸矢君の音が聴きたいな」
 彼は歯を見せて軽く笑う。
 自己紹介をしたばかりなのに、いきなり「君」付けされて呼ばれたことに、陸矢は戸惑う。
「音を聴かせるのは構わないが、即興で合わせられる曲なんてあるか? お互いのレパートリーさえ知らないのに」
「今は本番でもなんでもないし、なんなら練習でもレッスンでもない。ただのお遊び」
 そして、彼は鍵盤の右端に手を添えた。
 自分の音を魅せつけることに抵抗はない。
 だが、初めて合ったばかりの人間と曲を合わせるなど無謀だ。
 何より、徐々に暗くなりつつある音楽室で、楽器をわざわざ構えろと?
 照明も付けず、無責任とすら思えてきた。

「陸矢君は誰の曲が得意?」
「ヴァイオリンの有名どころは押さえているつもりだが、特に思い入れのある作曲家はいない」
「そうなの? 意外だね」
 彼が興味深そうに、陸矢の目を見つめる。
「おまえは、好きな作曲家がいるのか?」
「もちろん」
「例えば?」
「フォーレとか」
 ガブリエル・フォーレ。
 彼の作曲した作品は、幻想的で切ないメロディーのものが多い。
「ラヴェルやドビュッシーとかはどうだ?」
「もちろん大好き! でも、陸矢君はもっと『強そう』な曲を弾きたいんじゃない?」
 陸矢は彼に思考を読まれたかのような感覚に陥る。
 だが、不思議なことに不快な気持ちにはならなかった。
 それは、彼が人の心のなかを先に読みながら、優しい「を作ってくれたからだろう。
「うん、じゃあ、クラシック以外の曲で合わせてみない? お互い、好きな作曲家で手合わせするのが一番楽しいでしょ?」
 合奏のことを「手合わせ」という言葉で表現する人間は、相当に稀有だ。
「例えば、どんなジャンルで合わせるんだ?」
「ジャズとか、どうかな?」
「いや、ジャズは習ったことがない。かじったことはあるが」
 陸矢の師匠は生粋のクラシック畑の人間だ。
 ジャズは独学で勉強したことがあるが、しっかりとした手ほどきを受けたことはない。
 彼は右手の人差し指で、こめかみを三回叩く。
 子どものような仕草に、思わず陸矢は笑ってしまいそうになった。
「じゃあ、思い切ってタンゴなんてどうかな」
 彼の目が輝いている。
 まるで、陸矢が即答するのを待ち構えているかのように。
 実際にジャズよりタンゴの方が、自分のヴァイオリンの音色に向いていることを陸矢は自覚していた。

 彼は指ならしとして、ピアノで簡単なスケールを鳴らす。
 ありきたりの音階のはずなのに、小さな浅瀬の波を彷彿とさせる淡い響きだ。

「タンゴといえば、ピアソラ。ヴァイオリンとピアノの組み合わせにぴったりだと思わない?」
「まあ、そうだな」
「それならピアソラで一番有名な……」
「いや、ちょっと待て」
 陸矢は彼の言葉を静止した。
 彼のようにピアノを「出鱈目」に弾くような人間に出会ったのは、とても久しぶりだ。
 せっかくコンクールの「外」に暮らしていた人間と合わせる機会だ。少し捻ったくらいの選曲でも許されるだろう。
「ここはもっとタンゴらしい曲を選ぼう」
「というと?」
「タンゴの歴史。これなら、お互い、演奏の方向性をすり合わせるのも楽だろう?」
 タンゴの歴史。
 それはピアソラという作曲家の第四章から成る「組曲」のことを指す。
「俺たち、お互いの技量が全く分からないだろう。だから、テンポがゆるやかなカフェにしよう」
「カフェね。確かに! 面白そう! なんなら『タンゴの歴史』の中で一番好きな曲だし」
 彼の黄色の目がきらりと小さく光る。
 その直後、彼は一瞬だけ静止し、自身のこめかみを人差し指で三回叩く。
「でも、僕は1960の方を弾きたいかも」
「なぜ?」
「陸矢君のヴァイオリンが弾(はず)見そうだから!」
 くやしいかな。
 当たりだった。
 陸矢は「タンゴの歴史」の四曲とも演奏をしたことがある。そして、一番好きな曲は彼の提案どおり、ナイトクラブだった。
「わかった。そう言うなら」
 陸矢は艶やかな緋色のケースから、ヴァイオリンを取り出す。
 まさか、校内でヴァイオリンを手に取るタイミングが来るとは。
 自身でも驚きながら、顎にヴァイオリンを挟み、調弦を行う。チューナーは必要なかった。彼のピアノの音に合わせれば済む話だ。
「俺はナイトクラブを暗譜している。譜面を準備するなら、しばらく待つが?」
「ううん。大丈夫だよ。僕も暗譜できているから」
 彼はそう言って、鍵盤に指の先を乗せる。

 じゃあ、弾き始めるね。
 彼は陸矢の目を見たあと、すっと息を吸い、勢いよく演奏を始めた。
 陸矢は彼のテンポに合わせて、ヴァイオリンの弓を弾(はじ)いた。
 陸矢は拍子抜けした。
 彼のピアノの音は、廊下から聞こえた時のような「不正確さ」がなかったのだ。
 あまりにも優等生。
 これでは、自分が暴れることができない。
 しかも、この曲は、途中で緩やかな「間奏」を二度、挟む。
 このテンポが落ちるタイミングで、彼は陸矢のヴァイオリンの音に合わせて、呼吸を微調整してくるだろう。
 陸矢が聴きたいのは、先ほどまで廊下に響いていた「出鱈目」な音。彼が鍵盤で「遊んだ」あとの音の余韻だ。
 陸矢は右手の人差し指に少し力を入れた。

 本来なら、曲の速さが落ちるタイミングで、陸矢は力強く、音の頭を蹴り付ける。
 これには、彼も驚いたようだ。
 急にピアノの音量が下がった。

 俺の演奏について来られるか?
 俺の即興について来られるか?
 経験値が違う。
 だが、お前ならついて来られるんじゃないか?

 陸矢は彼の表情を見る。
 彼は驚きはしつつも、にこりと目を優しく細めた。
「面白い弾き方をするんだね」
 口には出さなくとも、彼の目からその言葉が伝わってきた。
 陸矢は「真面目に弾き切るのはもったいない」と睨み返す。
 彼はにこりと笑う。
「真面目な演奏がつまらなかった? それなら、思い切って遊ぼうか」
 彼は口に出す代わりに、ピアノのアクセントのキレを強める。
 優等生をやめた彼の演奏は、明らかに「素人」の演奏に逆戻りをした。
 しかし、そちらの方がなぜか呼吸を合わせやすい。
 心地が良い。
 陸矢は自身の音を確かめる。
 自分の音で、こんなにも「遊んだ」のはいつ以来だ?
 おそらく、観客がいれば、彼との二重奏は酷評の嵐となるだろう。
 だが、今は、この暗い音楽室に二人しかいない。
 音で遊んだところで誰にも怒られない。
 叱られない。
 責められない。
 評価されない。
 不器用な和音に、陸矢の耳が弾(はず)んだ。
 そして、二人とも過剰なまでのフォルテッシモで最後の音を弾(ひ)き切った。

「楽しかった?」
 彼は腕を伸ばして、陸矢に聞いた。
「面白かった」
 陸矢はヴァイオリンを片づけながら答える。本音だった。
「それなら良かった」
 彼は嬉しそうにそう言ってピアノの蓋を下す。
「僕は今から、フルートの先輩に会いに行くから。この部屋の鍵閉めるのお願いしていい?」
 陸矢が「うん」と言う前に、彼はぽいっと音楽室の部屋の鍵を陸矢に向かって投げ、陸矢は条件反射で右手で鍵を受け取った。
「先輩?」
「そう、先輩。まるで太陽のような明るい人。小学生の頃から今までずっと、尊敬している人。心の中では師匠って呼んでいるんだけど、それだと仰々しいでしょ?」
「フルートも吹くのか?」
「実は本業はそっち」
 つまり、ピアノは彼にとって文字どおり「遊び」だったわけか。
 そして、宇美が語っていたフルート奏者は、おそらく彼のことだったのだろう。
「僕は明日も第二音楽室ここで練習するから、今度はヴァイオリンとフルートでセッションしようよ」
「何の曲を?」
「何でも!」
 曲はそのときの気分で決めよう。
 彼は笑った。
 たんぽぽの花びらのような笑顔。
 ひらひらと優しく舞う、花びらのような笑顔。
「あと、ごめん。自己紹介の途中だったね」
 彼は音楽室の入り口で陸矢の方に振り返る。
「僕の名前は日枯ひがらし。なかなか変わった苗字でしょ」
 太陽の「日」が「枯れる」と書いて日枯ひがらし
 日枯ひがらしは「またね」と言って、駆け足気味で音楽室を去ってしまった。

 陸矢は音楽室の中で、一人、雨で湿った空気を吸う。
 真っ暗な夢の中で弓を落とすより、光がゆらめく華やかな舞台より、音が溢(あふ)れる雨の日に、弦(げん)を押さえるのも案外悪くない。

 陸矢は窓を見る。
 窓に映る自分の顔が、薄く、明るくゆらめいた。
 外の雨は、弱くなっていた。
 雨の音は聞こえなくなっていた。
 弓を持つ指が、軽くなっていた。
 心の中の音楽が軽くなっていた。
 世界が軽くなっていた。
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