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合わせ鏡のピアノソナタ
しおりを挟む音楽室の白い扉を開こうと手を伸ばしたときに、ぼくは、ふと懐かしい気持ちになった。
「なにか」に似ている。
「なにか」というか、「だれか」に似ている。
「だれか」というよりも、明確に「あの人」に似ている。
そして、もっと正しくいうと、あの人の奏でる「音」に似ている。まるで、太陽のように明るいあの「音色」に。
ぼくはそのとき、そう思った。
音楽室の中のピアノ。
先生だけが授業の時間だけ、弾くことが許されている特別な楽器。
そのピアノの鍵盤を、今は「だれか」が奏でている。
音楽室の扉に触れるまで、その音に気が付かなかったのは、午後4時のチャイムが鳴ったばかりだったからだろう。
たった一小節目で、ぼくは確信した。
一年前まで、何度も、何度も耳に残るまで聴き続けた「あの人」の音に似ているのだ、と。
ぼくは、この曲の名前を知らなかった。
けれども、軽快なステップを踏むようなメロディーは、夕焼け空を優雅に引き立ててゆく。
後に、この曲はベートーヴェンが作曲したピアノソナタ「月光」の第二楽章だということを知った。
重々しい響きの第一楽章とは正反対に、まるで合わせ鏡のように、軽やかに弾む「月光」の第二楽章。
夕日が地平線の彼方にゆっくり身を隠し、月が明るく輝く準備を始める時間帯。
淡い夕陽の影と、誰もいないはずの時間に聴こえてくる綺麗なピアノソナタ。
ぼくにとっては、少しだけ現実離れしたような不思議な空間だった。
音色が一瞬、途切れた。
そして、また、すぐに演奏が始まった。
その瞬間、ぼくは本来の目的を思い出して、ランドセルの肩紐をきゅっと握り直す。
そのまま、左胸に付いている水色の名札の向きを少し直し、音楽室の扉に手を当てる。
今月から付け始めたこの名札は、ピカピカに表面が光っている。
この名札は、この小学校で4年生になったら付けることが許される。
プラスチックでつるりと表面が光るこの青色の名札は、ぼくにとってのお気に入りだった。
黄色や赤色もいいけれど、やっぱり、ぼくは青色が大好き。
青は「あの人」がよく着ていた色だったから。
紫陽花のようなカーディガンを着たその人は、ぼくに「どれみ」を一から教えてくれた優しい先生。
その人は、いつも微笑みながら、いろんな国の民謡を弾いて聴かせてくれた。
そのすべての曲の名前を、ぼくはちゃんと覚えている。
そのすべてのメロディーを、ぼくはすぐに鍵盤で鳴らすことができる。
音楽室の中から聴こえてきたピアノの音色。
その一つ一つの指の「重み」は、この学校の音楽の先生のそれとはまるで別物。
では、誰が弾いているのだろう?
自分自身の問いに、ぼくは答えられなかった。
演奏が完全に終わり、最後の音の余韻が残った。
蝋燭の火をふうっと消したかのような、ゆっくりと消えゆく優しい余韻。
この余韻の残し方は、ぼくにはまだ出来ない表現だった。
いつも、ぼくは楽譜を目で追って、それを真面目に弾くことだけで頭がいっぱいになってしまう。
あの先生は、楽譜を正確に弾くぼくをいつも褒めてくれた。
でも、ぼくはいつも満足できなかった。
先生の弾くピアノの音は、真面目で正確なだけじゃなくて、いつだって何かが「特別」だったから。
そして、ぼくは自然とあの特別な音色を求めてしまうようになっていた。
何が「特別」だったのか、レッスンの終わりに、ぼくは「ぼく」に問いかけ続けていた。
音楽室の向こう側でピアノを弾いている人は、明らかに、というよりも圧倒的に、ぼくよりもピアノの腕が上だった。
ピアノを弾いている友達は何人かいるけれど、その誰もが、たぶん、この人の音色を真似できない。
そして、このピアノの演奏者はおそらく最高学年である6年生だろうと思った。
根拠は何もなかった。
けれども、ぼくは直感的にそう思った。
もし、音楽室にいるのが本当に6年生だったのなら、顔を見られるのは少し恥ずかしい。
軽く会釈をして、「こんにちは」と言ってから、すぐに目的を果たしてすぐに立ち去ろう。
頭の中で簡単なイメージトレーニングをする。
ぼくは両手で僕自身のほっぺをぱしんと叩いて、音楽室の扉を開けた。
乱暴にならないように、でも、慎重にもなりすぎないように開いたつもりだった。
しかし、扉は想像以上に重く、軋む音が鳴ってしまった。
そして、その瞬間に演奏者と目が合ってしまう。
山吹色の夕陽に照らされたその人は、ぼくを見て微笑んだ。
まるで、太陽みたいな女の子。
ぼくはその人の笑みを見て、それ以外の言葉が思いつかなかった。
「こんにちは」
ゆっくりと笑いかけながら、彼女の方からぼくに挨拶をしてきた。
風も吹いていないはずなのに、彼女の髪が数ミリほど横になびく。
肩にぎりぎりにかかるくらいの毛先が、音楽室の窓から差している夕陽をうっすらと透かした。
こんにちは、ともう一度、ゆっくりと笑いかける彼女はやはり6年生だった。
彼女の右胸に付いているのは紫色の縁の名札。
ぼくが通っているこの学校では、3年生までが黄色の枠の名札、4年生は青色、5年生は緑、そして6年生が明るい紫色と決まっていた。
黄色、青、緑、紫。
そして、最高学年である彼女の挨拶の声は、まっすぐに、ぼくに届いた。
ぼくの胸の奥に、すっと届くその声は同級生のどの子の発声とも違って、とても大人びていた。
ぼくは、音楽室に入って一歩だけ前に出てから、ピアノの方に向き直り「こんにちは」と掠れた声を出す。
やっぱりだけど、ぼくは年上の人と話すのが苦手らしい。喉の筋肉がきゅうっと締まりかけている。
目の前にいる彼女は、ピアノの前に座ったまま、開いていた楽譜をぱたんと閉じる。
それからぼくの方を見て、にこりと首を傾げた。
「これを取りに来たのかな?」
あ、全部、見透かされている。
ぼくは、そう悟って「はい。それです」と一回頷いた。
ぼくの顔が妙ちくりんに見えたのか、彼女はふふっと笑ってから「よかった」と言った。
これ、それ。
彼女とぼくが、こそあど言葉でやりとりしていたものは黒い表紙の薄いノート。
10ページほどで、B4サイズの小さなノート。
中のページには五線譜が引いてあり、裏表紙に小さな金色のヴァイオリンの絵が刻印されている。
「このノート、ピアノの上に置いてあったよ」
「あ、えっと、そうですよね」
もちろん、ぼくには心当たりがあった。
音楽の授業が終わったとき、音楽の先生からCDプレーヤーの片付けを命じられた。
どうやら、その時にこの五線譜のノートを、うっかりピアノの上に置いてしまったらしい。
なんとも笑っちゃうような凡ミス。
「ごめんね、ちょっとノートの中を見ちゃった」
彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「あ、いえ、ぜんぜん、その……大丈夫です」
「ノートの後ろに書いてあるのは、キミの名前かな?」
「そうです」
ぼくは、こくりと頷く。
「珍しい名前だね。なんて読むの?」
なんて気さくな人だろう。
でも、彼女のこの明るさがとても心地よかった。
この心地よさは、ぼくは今でもしっかり覚えている。
「ぼくの苗字は、日枯って読みます。太陽の『日』が『枯れる』と書いて、ヒガラシです」
この苗字は一度で相手に伝わらないことも多くて、漢字の説明までしてしまうのが癖になっていた。
この時も、口から滑るように、自分の苗字を説明してしまっていた。
「そうなんだ。日枯くん。可愛い名前だね」
「そうですか?」
「うん、可愛いよ。なんかね、響きかな? とてもいい苗字だと思うよ」
珍しい、とはよく言われるけれど「可愛い」という表現をした人は彼女が初めてだった。
ぼくは「そうなのかなぁ?」と目を丸くする。
「よければさ、下の名前の読み方も教えて」
私、漢字の読み方苦手なんだ。
彼女は冗談っぽくそう口にしたけれど、ぼくからは決してそうは見えなかった。そもそもの話、勉強が出来るかどうかに関わらず、ぼくの下の名前は相当変わっているから、大人でさえ戸惑うことの方が多い。
少し間を置いてから、ぼくは下の名前を伝えた。
下の名前を言うときに、目を逸らしてしまうのは、いつもの癖。
自分の名前を言う瞬間、ぼくはいつだって恥ずかしい。
でも、名前を言い終わったあとに、彼女からは怪訝な視線を感じなかった。
おそるおそる彼女の目を見ると、やっぱり彼女は優しく笑っていた。
「かっこいいね。苗字は可愛いから、下の名前はギャップあるっていうか」
「そう、なんでしょうか」
「うん、かっこいいよ」
やっぱり、クラスのみんなからは下の名前で呼ばれているの?
彼女が興味しんしんに食い気味に聞いてきた。
「みんなからは、『むー君』って呼ばれることが多いです」
下の名前の頭の文字を取って、むー君。
名前を全部言うよりも、皆にとってはそう呼ぶ方が楽らしい。
ぼく自身も、そう呼ばれる方が居心地が良いと感じていた。
「じゃあ、私も『むー君』って呼んでいい?」
そう聞かれて、ぼくはただ「はい」という返答しか思いつかなかった。
ぼくの返事を聞いてから、彼女は嬉しそうに「ありがとう、むー君」とぼくをそう呼んだ。
「それと、ずっと、こっちから質問してごめんね」
彼女は、急にハッとしたように、顔を上げた。
「こんなにたくさん聞いちゃうなら、私の方も名乗らなきゃって」
髪を耳にかけてから、彼女はぼくの方に向き直る。ピアノの黒い表面から、ゆらゆらと夕陽が反射し始めていた。
「私は暁ひかり。今、6年生」
素敵な名前だと思った。
今にして思えば、彼女の名前も相当に変わっている部類だと思っている。
けれど、当時のぼくからしてみれば、この人の名前は体をよく表していると思った。
彼女の笑顔は眩しかった。彼女のピアノの音が眩しい理由が、一瞬、分かったような気がした。
「とても素敵な名前だと思います。羨ましいです」
ぼくは思ったことをそのまま伝えた。
言葉に何か飾りを付けることもせずに、思ったことをそのまま、素直に。
「羨ましいと思ってくれるの? 本当に?」
「もちろんです」
ぼくは断言した。
暁ひかり。
その名前は、ぼくの名前なんかよりも、ずっとずっと、前向きで、ずっと美しい響きに思えたから。
「嬉しいな」
ありがとう、とぼくに言いながら、彼女は興味深そうに首を少し斜めに傾けた。
「てっきり、私、変な人だと思われたのかなって。そんな気がしてたから」
「変だなんて、そんな、まさか」
「だって、変だと思わない? 音楽室で一人で弾いててさ」
「いえ、まさか、そんな」
ぼくは、彼女の言葉に驚いて、ただ同じ言葉を繰り返す。まさか、そんな、変だなんて。
「変な人が変な時間にピアノ弾いてるって思ったから、音楽室の前で固まっていたんじゃないの?」
「固まってなんて……」
「私のピアノ終わるまで待っててくれたんでしょ?」
ひかりがいたずらっぽく笑って、ぼくの目の奥を見つめてきた。
なぜだろう。
この人はピアノを弾いていたはずなのに、音楽室の外にいるぼくの存在に気が付いたらしい。
「やっぱり、気がついていたんですね」
「気付いちゃったときから、こっちから声かけようかって迷ったんだよ」
「それはそれで、とても困ります」
ぼくが苦笑いすると、やっぱり声かければ良かったな、とひかりが畳み掛けた。
「どんな理由でもね」
ひかりが一呼吸した。
「私の演奏を聴いてもらえたのは嬉しかった。しかも最後まで。本当に嬉しかったよ」
ひかりの満面の笑みに釣られて、ぼくも、うっかり笑ってしまう。
「とても綺麗な音でした。」
そのまま一呼吸してぼくは言葉を繋いだ。
「ひかりさんの音がすごく似ていたんです。好きだったピアノの先生の音にすごく」
ごめん、ちょっと窓、開けていいかな。
ひかりは不意にピアノの椅子から立ち上がると、静かに音楽室の窓を開けた。
春の桜の淡い香りが、外からゆっくりと流れ込んでくる。
ひかりは夕陽を浴びてから嬉しそうに言った。
「それって、すごく嬉しい言葉。大人の先生の音に似ているなんて、初めて言われたよ」
落ちる陽の光を浴びる彼女の姿は、まるで陰絵のよう。
一瞬、ぼくは夢を見ているかのような気持ちになった。
「似ているのは私の音? それとも演奏の仕方?」
どっちでも嬉しいな。
そう言うと、ひかりは窓に近づき空を見上げた。
「こっちに来て見てみて」
彼女の言葉に従うまま、ぼくは隣に立って、空を眺める。
地平線の遠くの太陽は、もう半分くらい隠れてしまっていた。
「綺麗だよね」
「はい、とても」
「よかった」
安心したように、彼女はもう一度、夕空に目を向ける。
彼女の空への視線と音楽室に溢れる春風に背中を押されて、ぼくはぽつりと、彼女に話し始めていた。大した内容ではない、つまらない身の上話を。
「似ていると思ったのは、音でした。一音、一音の粒もそうなんですが、弾いている時の音全体も、とても、似ていて……。とても、美しいと思いました」
彼女が耳を傾けてくれていることは、顔を見なくても分かった。
「いつからだったかは、よく覚えてないんです」
自分の声が、とても淡々としているように感じた。
少なくとも、音楽室に入った時ほど声は震えてはいなかった。
「ぼくがその先生にピアノを習い始めたのは、幼稚園の頃でした。でも、レッスンはもう受けていなくて」
正確にはレッスンを「受けていない」のではなく「受けることができない」という表現が正確なのだが、ぼくはその表現を避けることに決めていた。
「その先生の音を初めて聞いたとき、僕はすぐにピアノという楽器に魅了されました。先生の音に近づきたくて、音楽がぼくの生活の一部になったんです」
「その気持ち、すごく分かるなぁ」
彼女が静かに相槌を打った。
「実はね。私も憧れている音楽があるんだ。むー君と同じように、音楽は私の生きる道の一つだと思っているよ」
彼女はぼくの言葉を一つも否定しない。
それが嬉しかった。
そして、彼女は、ぼくがもう憧れのピアノのレッスンを受けていない理由を聞こうとはしなかった。
「暁ひかり」という人間は、人の心を先に読み、察して、優しい沈黙を作る。そういう人間だった。
「その先生が出す音、私も聞いてみたかったな。むー君が、それほどまでに憧れる音って、とっても気になるから」
「先生の音は、本当に不思議でした」
彼女が好奇心に満ちた瞳で、ぼくを見つめた。
「先生が楽しい曲を弾いたとき、ぼくは楽しい気持ちに満ち溢れました。昔の楽しかった思い出を直接引き出してくれるような。逆に物悲しいメロディーを弾けば、ぼくは悲しい思い出、悲しい感情に包まれました」
そう、先生が花がモチーフの曲を弾けば、世界のどの花をイメージしているのか、花びらの色まではっきりと伝わってきた。
先生が弾きながら思い浮かべた情景は、ピアノを通して、確実にぼくの頭の中に届いた。
それが先生の音色だった。
ぼくの頭の中の記憶に直接繋がって、忘れていた感情を引きずり出してしまう。
先生自身が思い浮かべたもの、先生自身の感情をぼくの頭の中に送り込んで共有してしまう。
たとえ、ぼくが悲しい気持ちでいっぱいの時でさえ、音を通じて、「しあわせな感情」に上塗りしてしまう。
そして、弾いている者と聴く者の心を繋げてしまう。そんな不思議な力が先生の音の中にあったのだ。
「音楽の神様みたいだね」
ぼくのぎこちない説明を聞いたあとに、ひかりがそう言った。
「音色を自由に操って、聴いている人の心と直接繋がってしまう。そういう人、本当に存在するんだね」
音楽の神様。
言い得て妙だと思った。
ぼくにとって、あの先生は音楽の神様。
あるいは神様に認められた人で、そういう人だけが許された音色の持ち主だった。
窓から離れた彼女は、ピアノ椅子に座り直して、ノートを細い指先で開く。
「この曲はカノンね」
彼女の言葉どおり、ノートに書かれていたのはパッヘルベルの「カノン」だった。
おそらく、クラシックに明るくない人でも人生で一度は聴いたことがあるくらいに、それくらいに有名な曲。
「すごいね。どの音符も綺麗な字。このカノンって、二重奏用?」
「はい。先生が書き残してくれました」
「なるほどね。だから字も丁寧なんだね」
「でも、楽譜見ただけで、よく曲が分かりましたね。弾いたこと、あるんですか?」
「うん。私もたまに弾くの。私の中で一番好きな曲かもしれないな」
彼女は再び鍵盤に指を乗せ、奏で始めた。
今度はぼくも良く知っているカノンのメロディーで、音楽室が満たされてゆく。
ひかりは事もなげに左手でピアノ椅子をぽんと叩いて「一緒に弾こうよ」と笑った。
「せっかく二人いるんだし、この二重奏、やってみようよ」
「でも、ぼく、しばらくピアノに触れてなくて……」
うまく指が動いてくれるか、自信がありません。俯いたぼくに、ひかりは「大丈夫だよ」と大きく笑う。
「むー君は大丈夫。きっと、必ず、大丈夫」
「どうして言い切れるんですか?」
「だって、むー君が音楽が大好きなのがとても伝わってきたから。このノートを大切にしているって知っているから」
毎日、あの先生を思い出せるように、楽譜はいつも眺め続けて、毎日、持ち歩いてきた。
だから、全ての音を暗譜している。
全てのリズムも覚えている。
テンポも完璧に保つ自信さえある。
けれども、頭の中にある先生の音を、ぼくの指では再現できない。
「大丈夫」
ひかりは笑った。
「もし、むー君がつまずいてもさ。私がカバーするから」
私、こう見えて吹奏楽部の部長もしているんだよ。
私、こう見えてフルート得意なんだよ。
咄嗟に誰かに合わせるのなんて、毎日してるんだよ。
ひかりの言葉はまっすぐだった。
影も含みもない言葉。
だからだろう。
この人のこと、信じてみても大丈夫だと、ぼくは思った。
「それにさ。これって本番でもなんでもないし、なんなら練習でもレッスンでもないし、ただのお遊び」
そして、ひかりは鍵盤の右端に手を添えた。
二重奏の上のパートを弾くつもりなのだろう。
この二重奏は、上と下のパートに分かれているが、下のパートの者から弾き始める。
つまり、彼女は「きみの演奏に合わせるよ」と無言で宣言したわけだ。
そんな彼女とは対照的に、ぼくは小さな緊張で指に力が入ってしまう。
同じピアノを弾く者なのに、なぜだろう、ひかりはぼくとは全くの正反対の存在に感じられてた。
「じゃあ、弾きます」
ぼくは一息鼻から吸って、一番最初の音、「レ」を弾いた。
テンポがちょっと遅すぎるかな。
そう思ってひかりの顔を見るが、彼女はただ、穏やかに微笑む。
そして、ぼくが4小節弾き終わったタイミングで、彼女が音を鳴らす。
彼女の音とぴたりと重なったとき、ぼくはこの楽譜の本当の魅力を知った。
二人の音が重なる時、先生の描いたカノンは本当の輝きを見せることに、初めてぼくは気付かされたのだ。
そして、先生はこの響きをぼくに感じさせたかったのだと、すっと腑に落ちた。
もし、先生とこの曲を弾いたなら、どんな響きが生まれたのだろう。
しかし、その疑問は暁ひかりが重ねる和音によって、どこか遠くに薄らいでゆく。
ただ、楽しい。
それが、彼女と一緒に演奏した時のはじめての記憶。
夕暮れの音楽室に、楽しい記憶だけが溢れる世界。
音楽室に音が溢れるのと同時に、太陽が完全に山影に隠れてしまう。
それでも、ぼくは無闇に音を奏で続ける。
夕陽は容赦なく沈む。
もっと弾きたい。
まだ、彼女と一緒に演奏したいとぼくが願っても、沈む太陽は音楽室に影を落とす。
暗く、暗く、夕闇がぼくと彼女を包む。
それでも、優しい旋律も、楽しそうに輝くひかりの顔も、見えなくなることはない。
暗い影の中、ひかりの顔だけはまだ明るい。
ぼくは初めての感情を受け入れる。
音を弾き続けながら、新しい感情が満ちてゆく。
ぼくはその日、初めて「音」に恋をした。
知らなかった「世界」に恋をした。
初めて「人」に恋をした。
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