リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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3話:世界を変える者

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「ほ、本当に……私が、旅に出ていいの?」

   問いかけた声は、先程までとは違って、自分でも驚くほど頼りなく揺れた。

   使い込まれた木のテーブル。湯気を立てるコーヒーカップ。いつも通りの朝の食卓が、判決を待つ法廷のように静まり返っている。

   ヴェルナーは即答しない。

   視線を落とし、一度だけ深く息を吐く。肺の中の空気をすべて入れ替えるような、長い間。

   彼がカップをソーサーに戻す音が、乾いた室内に硬質に響いた。その音だけが、リネットの鼓膜にこびりつく。

  「……お前には、随分と負担をかけちまってたからな」

   父の顔が上がった。

   射抜くような眼差しではない。けれど、決して逸らすことを許さない、凪いだ湖面のような静けさがそこにあった。

  「これは、俺一人の意見じゃないぞ。村のみんなが、お前の夢を知っている。応援している」

  「でも……」

  「だからな。お前が留守の間は、皆でこの村を守ることに決めたんだ」

   言葉の質量が、胸の奥底へと落ちていく。

   ずしりと重い。だが、それは足枷の重さではなく、土台の堅牢さだった。

   脳裏を過るのは、あえて言葉にはしなかった村人たちの姿だ。畑仕事の合間に汗を拭う太い腕、鍛冶場で火花を散らす真剣な横顔、怪我をした自分に無言で軟膏を塗ってくれた温かい手。

   ――守っていたつもりだった。けれど、守られていたのは自分も同じだったのだと遅れて気が付く。

   ヴェルナーが椅子を引く音がして、視界の中で影が動いた。

   一歩、彼が近づく。

   リネットの背中に、分厚い掌が添えられた。

   押し出すわけでも、引き止めるわけでもない。ただ熱だけを伝える、父の手。

  「お前は、夢だった旅を楽しんでこい」

   喉の奥が、熱い塊で塞がれた。

   旅に出たい。その渇望は、剣を振るたびに火花のように散っては、胸の内で燻り続けてきたものだ。この森の向こう側には、どんな空が広がっているのか。本でしか知らない景色を、この目で確かめたかった。

   けれど、足裏に感じる床板の冷たさが、現実を突きつけてくる。

   自分が抜けた穴を、誰が埋める? もし、自分がいない間に魔物の群れが押し寄せたら?

   責任という名の蔦が足首に絡みつき、何度も寝返りを打った夜の記憶が蘇る。


   ――行きたい。


   ――離れたくない。


   相反する熱が肋骨の内側で暴れ回り、呼吸が浅くなる。

   父の手の温もりを背中に感じながら、リネットは顔を上げた。唇が震える。何かを言おうとして、言葉になる前の呼気が漏れただけだった。


   その時だ。


  『コンコン』と、

   遠慮がちなノックの音が、張り詰めた空気を物理的に叩き割った。

   リネットの肩が跳ね、肺に溜まっていた息が一気に吐き出される。

  「アラン。誰か来たみたいだ。出迎えてくれるか?」

  「わかった」

   ヴェルナーの声で、凍り付いていた時間が溶け出す。アランが椅子から飛び降り、パタパタと軽快な足音を立てて玄関へと走った。

   重厚な蝶番がきしむ音と共に、扉が開かれる。

   すうっと流れ込んできたのは、朝露に濡れた土と、森の草木の匂い。

   リネットは無意識にその匂いを深く吸い込み、扉の向こうへ視線を向けた。

  「あれ? オーウェンさん?」

   アランの無邪気な声が、開け放たれた扉の向こうへ投げかけられる。

  「やぁ、アラン君。少し、お邪魔してもよいかな?」

   返ってきたのは、よく聞き慣れた穏やかな声。

   だが、その声が鼓膜に届いた直後、リネットの視界の端で景色が不自然に滲んだ。

   陽炎のように空間が歪む。


   瞬きを一つ。


   瞼を上げた刹那、そこには既に緑色のローブが佇んでいた。

  「……っ?」

   足音はなかった。

   床板がきしむ音すら置き去りにして、オーウェンは唐突に室内の風景の一部となっていた。揺れていたローブの裾が、重力に従って静かに落ち着く。

  「……おいおい、オーウェンさん」

   ヴェルナーが眉間を揉みながら息を吐く。その声には呆れと、隠しきれない親しみが混ざっていた。

  「家の中でまで魔法かい?」

  「すまないね」

   オーウェンは悪びれもせず、軽く肩をすくめる。

  「どうしても、すぐにリネットへ伝えたいことがあったのだよ」

  「えっ? 私ですか?」

   名前を呼ばれ、思わず上擦った声が出た。

  「そう。君に、だ」

   オーウェンがゆっくりと向き直る。

  「……なんでしょう?」

  「単刀直入に言おう」

   オーウェンの低い声が、部屋の空気を凍結させる。立ち昇っていたコーヒーとミルクの湯気さえ、その動きを止めたように見えた。

  「――君は、世界を変えることになる」

   「…………???」

   言葉の意味を脳が拒絶し、思考が白く染まる。

   アランは半開きの扉の前で、小さな彫像のように固まっていた。

   リネットの手の中で、カップだけが現実的な熱を主張し続けている。陶器の熱が指の皮を温め、ようやく彼女を現実に繋ぎ止めていた。

  「え? はっ??」

   凍りついた時間を叩き割ったのは、素っ頓狂な父の声だった。

  「まてまてまってくれ……リネットが、世界を変える??? 正気なのか?」

   叫びに近いその声が、反響する。

   オーウェンは、父の剣幕を受けても眉ひとつ動かさない。

   風に揺れる柳のようにさらりと受け流し、首を横に振った。

  「私は極めて冷静だとも。そして、正気だ」

   断言し、ふっと口元を緩める。

   それはリネットが幼い頃から見てきた、オーウェンの柔らかな笑み――のはずだった。けれど、今のその表情には、見たこともない熱っぽい高揚が滲んでいる。

  「……いや。一つだけ、訂正しよう」

   オーウェンは視線を足元へ落とし、沈黙を舌の上で転がすように間を置いた。

    家鳴りの音だけが、やけに大きく耳につく。

  「私自身が冷静なのは変わらない。だが――リネットが世界を変える、という占い結果を見て……この私でさえ、踊り出したくなるような気持ちになった」

  「……つまり?」

  「正気では、いられていないということさ」

   肩をすくめ、オーウェンは自嘲気味に笑う。

   古びた羊皮紙のように乾いた、けれど重みのあるエルフ特有の言い回し。それが逆に、冗談ではないことを雄弁に物語っていた。

   リネットの喉が、乾いた音を立てる。

   胸の奥で正体不明の感情が泡立ち、溢れ出しそうになるのを、拳を握りしめて必死に押し留めた。

  「……私が、世界を変えるって……どういうことですか?」

   震える声で問うのが精一杯だった。

   村を守ってきた自負はある。だが、それはあくまで「村」の話だ。

   自分の剣が届くのは、せいぜい半径数メートル。振るえば空を切る、鉄の長さ分だけ。

   それなのに「世界」という言葉は、あまりに輪郭が大きすぎて、足元の地面をまるごと引き剥がされたような浮遊感を覚える。

   オーウェンは、リネットの動揺をその深淵のような瞳ですべて吸い込むと、静かに頷いた。

  「私はね。君が旅の許可をもらうこと自体は、すでに占いで知っていた」

  「おいおい……」

   ヴェルナーが唸るように不満を漏らす。だがオーウェンは、さざ波ほどの関心も払わず、言葉を継いだ。

   その視線は、一本の釘で打ち付けられたように、リネットの瞳から外れない。

  「……だからこそ、改めて今朝、占ったのだよ」

   ふっ、と。

   部屋の明度が落ちた気がした。

   窓からは変わらず朝の光が差し込み、埃がキラキラと舞っている。なのに、そこだけ目に見えない雲が通り過ぎたような、冷たい影の気配。


  「するとね。一人の少女が――強大な“闇”に立ち向かう姿が見えた」

   喉の奥が引き攣り、小さな呼吸音が漏れた。

   背中に添えられたままの父の手。その分厚い温もりが、急に遠い世界の出来事のように感じられる。

   オーウェンの言葉が、平和な日常の皮を一枚ずつ剥がしていく。

  「この平和な世界で、何が起きているのか。何が起きようとしているのか……そこまでは、見ることが叶わなかったが……」

   オーウェンは、確信を刻み込むように言葉を継いだ。

   その声色は変わらず柔らかい。だというのに、言葉の一つひとつが鉛のように重く、床板の軋みさえも遠い世界へ押しやっていく。

  「だが、確実なことが二つだけある」


   一拍、沈黙が落ちた。


  「その少女が――君だったこと」

  「……は、はぁ……」

   リネットの唇から、間の抜けた呼気が漏れる。

   鼓膜は音を捉えている。脳も意味を理解しようとしている。だが、胸の奥にある感情の扉が、頑としてその情報を拒絶していた。

   闇に立ち向かう。世界を変える。私が?

   単語だけが上滑りし、心に根を張らない。

  「そして、もうひとつ」

   オーウェンの視線が鋭さを増す。

  「“勇者”が、何らかの形で関わっているのは、まず間違いない」 


   ――勇者。


   その二文字が投下された瞬間、部屋の酸素が希薄になった錯覚を覚えた。

   ヴェルナーの広い背中が強張り、アランが小さく息を呑む音が、静寂の中でやけに大きく響く。

   リネットの喉は干からびたように乾き、無意識に唇を噛んでいた。 


   勇者。


   それは、御伽噺の中に住む存在だ。

   終焉の縁に立たされた世界を救い、光を取り戻す伝説の象徴。幼い頃、父の膝の上で、あるいは村の広場で、何度も聞かされてきた英雄譚が、木の壁の年輪のように脳裏に甦る。


   だが。


   今、この時代に魔王はいない。

   人類を脅かす共通の敵など、歴史の彼方に消え去っているはずだ。

   だからこそ、不気味だった。

   敵の姿が見えないということは、どこから刃が飛んでくるのか、どこへ剣を向ければいいのかさえ分からないということだ。

  (何と戦うの……? 平和なこの世界で、どうして今さら勇者が……?)

   問いは泡のように浮かんでは、答えのない暗がりへと沈んでいく。

   旅立ちの朝に手渡されたのは、自由へと羽ばたく翼ではなく、正体不明の使命という鎖だったのか。

   そんな予感が肌を粟立たせる。

   リネットは深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。

   肺を満たす空気は冷たい。

   無意識に握り込んでいた拳を開こうとするが、指先は石のように硬直し、強張ったまま震えていた。それでも彼女の瞳だけは、逃げ場を探すことなく、目の前の予言者を捉え続けていた。
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