リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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4話:少女の決意

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  先ほどまでリビングを満たしていた笑い声や、色とりどりの包み紙が舞う浮かれた熱気は、唐突に凪いでいた。

  「分からないことがあるんだけど……」

   アランが、おずおずと手を挙げる。

   ついさっきまで、姉の誕生日だ、贈り物だと騒いでいたはずの弟は、今はまるで叱られた子供のように背を丸め、膝の上で拳を握りしめている。

  「お姉ちゃんは、ただ旅に出ればいいの? それとも……なにか目的が必要なの?」

   アランの瞳は、真っ直ぐにオーウェンを射抜いていた。

   それは素朴な問いだ。けれど、飾り気がないからこそ、その疑問は鋭利な切っ先となってこの場の空気を切り裂く。

   もし本当に、この旅が“世界を変える”などという大層な運命を孕んでいるのなら。

   そこには相応の理由や、踏破すべき道筋、あるいは避けては通れない使命が存在するはずだ――。

   アランの言葉に引きずり出されるように、リネットの胸の内にも、遅れて重たい鉛のような感覚が沈殿していく。

   リネットが旅に出たい理由は、ただひとつ。

   この世界を、自分の目で見てみたい。それだけだった。

   森の境界線を越えた先に広がる空気の味を知りたい。見知らぬ街の雑踏に耳を澄ませ、一度も嗅いだことのない土や風の匂いを肺一杯に吸い込んでみたい。

   そこに崇高な使命感も、世界を救う英雄のような覚悟も、ひとかけらだって混じってはいない。

   だからこそ、オーウェンの予言はあまりに巨大すぎて、リネットの両手からはみ出し、胸の奥でゴロリと鈍い音を立てて転がっていた。

  「いい質問だ、アラン君」

   沈黙を破ったのは、オーウェンの穏やかな声だった。

   彼は満足そうにひとつ頷くと、長い指先を組む。

  「結論から言おう。リネットが、何か特別な目的を持つ必要はない」

  「え……?」

   リネットの喉から、擦れた息が漏れた。

   向かいの席で、父のヴェルナーがコーヒーカップを口元へ運ぶ手を止める。湯気と共に漂う深煎りの豆の香りが、ふと鼻孔をくすぐった。父もまた、眉間に深い皺を刻み、次の言葉を待っている。

  「彼女が、自身の望む通りに世界を見ること。それ自体が、“世界を変える”ことになるのだよ」

   断言だった。

   そこに迷いやあやふやな慰めは一切ない。

   けれど、その明確すぎる肯定は、リネットの胸のざわめきを静めるどころか、むしろ強く波立たせた。

   世界を見るだけで、世界が変わる?


   そんなの、まるで――。


  (私が踏み出す一歩一歩が、何か巨大な機械の歯車を勝手に回してしまうみたい……)

  「オーウェンさん……」

   リネットは無意識に、自分の胸元を強めに押さえていた。

   心臓の音が、少しだけ速くなっている。

   この人を信じたい。占い師としての彼を疑っているわけではない。それでも、提示された現実のスケールに、思考が追いつかない。

   カチャリ、と陶器がソーサーにぶつかる硬質な音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。

  「あなたの占いを信じてないわけじゃない。でも……」

   リネットの視線がふっと下がり、テーブルの使い込まれた天板へと落ちる。指先で無意識に木目をなぞるが、その感触すらどこか他人事のようだ。

  「そんな大きなことを言われても、正直……実感が湧かないよ」

   言い終えた瞬間、部屋の隅々にまで静寂が満ちた。

   窓から差す朝の光は変わらないはずなのに、光の中で踊る埃さえも動きを止めたかのように、視界の隅に影が落ちる。

   リネットはその幻影を振り払うように小さく息を吸い――けれど、オーウェンの射抜くような視線からだけは、どうしても逃れられなかった。

  「……それも、当然だね」

   ふわり、と。

   オーウェンが柔らかく笑うと、部屋の気温が一度上がったような錯覚を覚えた。声の温度だけで、張り詰めていた糸が緩んでいく。

   だが、緩んだ分だけ抱えていた不安が決壊しそうで、リネットは呼吸を整えるように深く肩を落とした。

  「君は旅立つ。そこで、君自身が“したいこと”をすればいい。それだけでいい」

  「……」

   言葉が出ない。何か言おうと唇を動かしても、胸の奥で渦巻くざわめきが先に喉へ詰まってしまう。

  「そうすれば、自ずと道は開かれるのだから」

   それは答えになっているようで、何も答えていない。けれど不思議と、その曖昧さを否定する気にはなれなかった。


   そして――。


  「あ、あともうひとつ……」

   アランが再び、恐る恐る口を開いた。

   先ほどの質問で勇気を使い果たしてしまったのか、その声は微かに裏返っている。

  「お姉ちゃんが世界を変えるって……それって、いい方向に? それとも……悪い方向に?」

   一瞬、空気が凍りついた。

   リネットの心臓が、どくんと早鐘を打つ。質問の形こそ違えど、それはリネットの胸にも鋭い棘となって刺さっていた問いだった。

   もし自分が“変えてしまう”のが、何かを壊すほうだったら――。

   オーウェンは目を細め、くつくつと喉の奥で笑う。

  「ふふ。いい方向に決まっているじゃないか」

   さらりとした口調だ。だが、その言葉には物理的な質量があるかのように重い。 


  「悪い方向へ進むようなら――」


   涼やかな声のトーンが、半音だけ下がる。


  「私が、彼女を縛り付けてでも、旅など行かせんよ」

   冗談めかした響きだった。

   けれど、その瞳の奥に宿る光は笑っていなかった。

   エルフという長命種特有の、人知を超えた静かな圧。笑いながら切っ先を喉元に突きつけるようなその気配に、肌が粟立つ。

   それでも――リネットは胸の奥で、そっと肺の中の澱を吐き出した。

  (……少なくとも)

  (私が、世界を壊す側じゃないってことだけは……信じていいんだよね)

   不安が消え去ったわけではない。

  けれど、胸の底に沈んでいた鉛のような重りが、ほんの数センチだけ浮上した気がした。

   彼が止めてくれるなら、自分はきっと大丈夫だなのだと。

  「はぁ……もう、難しいことを考えるのはやめだやめだ!!」

   唐突に、ガタッ!

   と大きな音が鳴った。

   ヴェルナーが勢いよく椅子を蹴るようにして立ち上がったのだ。

  椅子が床を擦る軋んだ音が、合図のように部屋の重苦しい空気を物理的に揺らす。

   彼は太い腕を組み、娘の顔を真正面から捉えた。

  強い口調だが、そこに叱責の色はない。

  ただただ不器用なほどの親愛が、その一挙手一投足に乗っていた。

  「とりあえずだ、リネット。お前は――お前のしたいようにすればいい」

   アランの声が、張り詰めた空気を強引に断ち切る。

  「世界を変えるだとか、そんな重っ苦しい使命感なんて、背負うな!! お前には関係ない!」

   その言葉が合図だったかのように、リネットの肩から重力が抜け落ちた。隣のアランも、言い切った勢いのまま小さく息を吐き出している。

  「……まぁ、そうだね」

   オーウェンもまた、苦笑しながら頷いた。先ほどまで彼を覆っていた鋭利な確信が、ほんのわずかに丸みを帯びる。

  「私も、少々……いや、かなり浮き足立っていたようだ。珍しい占い結果でね。君の感情を、十分に考えていなかった」

   そう言って、オーウェンはリネットへ静かな視線を向けた。

   そこには責める色も、急かす色もない。ただ、逃げずにこちらを見ろと促されている気がして、リネットは無意識に背筋を正した。

  「……本当に」

   一度、深く息を吸い込む。肺に入ってくる朝の空気が鋭く冷たくて、熱を帯びていた頭が少しだけ冴えた。

  「目的とかは……いらないの?」

   それは最後の確認だった。

   もしここで「使命がある」と言われたなら――その瞬間から、覚悟を決めて自分を殺すしかない。旅が純粋な“夢”ではなく、重苦しい“義務”に変質してしまうのが、何より怖かったのだ。

  「うむ」

   オーウェンは迷いなく頷いた。

  「君は、自身の夢を叶えるつもりで、ただ楽しむといい。先ほども言ったが……それこそが、道を開く」

   静かで、しかし揺るぎのない肯定。

   まるで禅問答のような言い回しだが、その言葉の芯だけは真っ直ぐにリネットの胸へと刺さってくる。

  「……わかった」

   リネットはゆっくりと頷いた。

   胸の奥で複雑に絡まっていた糸が、一本また一本とほどけていく感覚がある。全てが解決したわけではない。それでも、次に踏み出す足場だけは、はっきりと見えた。

   だからこそ――彼女は自分で、いよいよその言葉を口にする。
  

  「明日の朝に――私は、旅に出るよ」


   胸の奥で、何年もあたため続けてきた一言。

   遠い憧れだった夢を、不可逆な現実へと引き寄せてしまう宣言。言った瞬間、部屋の空気がすっと静まり返った。年季の入った木の家そのものが、呼吸を止めたかのようだった。

  「……寂しくなるな」

   ヴェルナーが、ぽつりと呟いた。

   その声は低く、いつもの父親らしい強さが一瞬だけ影を潜める。けれど彼はすぐ顔を上げ、わざとらしいほど明るい調子で手を叩いた。

  「よし。なら、今日は盛大なパーティにでもするとしよう!」

   言い切ると、彼は矢継ぎ早に言葉を続ける。

   間を与えないのは、その隙間に寂しさが滲んでくるのを恐れているからだと、リネットには痛いほど分かってしまう。

  「アラン! 今日は母さんも帰ってくる。パーティだ! この通貨で、新鮮ないい肉を買ってきてくれ!」

   ヴェルナーが腰のポーチから革袋を取り出し、放る。

   ジャラリ、と硬貨がぶつかり合う鈍い音を立てて、それはアランの手に収まった。

  「帰りに、好きなお菓子でも買ってきていいぞ!」

  「わかった!!」

   弾けるような返事。

   仕事と報酬。分かりやすくて、今の湿っぽい空気を吹き飛ばすにはこれ以上ない動機付けだ。アランは革袋を強く握りしめると、振り返ることもなく勢いよく家を飛び出していった。

   ドタドタと廊下の床板が軽快に鳴り、パタン、と扉が閉まる音が朝の静けさに落ちる。

   残されたリビングには、これから訪れる別れの予感と、今夜の温かな喧騒の約束、その両方が静かに満ちていた。

   鼻先には深煎りのコーヒーの香りがまだ漂っているのに、胸の奥だけが火傷したように熱い。

   リネットは自身の胸に手を当てた。

   肋骨の奥で、心臓がかつてないほど強く脈打っている。不安と期待がない交ぜになった感情が、掌の下で暴れる生き物のように騒いでいた。


  ――明日、彼女はこの村を旅立つ。


   その事実がようやく質量を持って、ゆっくりとリネットの中へ落ちてくる。

   窓枠の向こうに見える鬱蒼とした森が、昨日見た時よりも、少しだけ遠い場所にあるように思えた。
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