リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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5話:少女の本音と占い師の言葉

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 家を出て、リネットは村の中央に聳える『天蓋樹』の根元へと足を運んだ。

   見上げれば、視界を埋め尽くすほどの枝葉が、空を覆うように広がっている。

   リネットはそっと手を伸ばし、ゴツゴツとした厚い樹皮に掌を押し当てた。

   ひやりとした硬さの中に、微かな温もりが脈打っているのを感じる。

  「どうか……この村を、守ってね」

   唇から零れたのは、祈りに近い言葉だった。

   願いというよりは、熱を持った吐息。

   すると。

   ――キィィィィィン……。

   触れている掌を通して、硬質で高い音が直接響いてきた。

   それは空気を震わせる音であると同時に、リネットの骨を伝って響く、共鳴音のようでもあった。地底の底から幹を駆け上がり、空へと抜けていく鋭い響き。

  「ふふ、返事をしてくれたのかな?」

   リネットは嬉しそうに目を細め、独り言ちた。

   この木は創世以来、麓にあるこのリーベンバウム村を守り続けてきた――そんな伝説が、冬の夜の囲炉裏端のように、村の暮らしには当たり前に灯っている。

   そしてこの巨木は時折、こうして不思議な声を聴かせてくれるのだ。

   その響きは、幼い頃から何度も聞いてきた子守唄にも似ている。

   だからリネットは、何の疑いもなく信じていた。

   これは村を愛し、私たちを慈しんでくれる、優しい守護者の声なのだと。

   彼女は樹皮の凹凸を愛おしげに撫で、無邪気な微笑みを大樹へと向ける。
    
 その時。

 ふと、背後の空気が微かに揺れた。

   肌を撫でる、薄い魔力の波紋。風でも虫の羽音でもない。意識の端が五感よりも先に気づく、あの独特の感触。

  「やぁ」

   穏やかな声とともに、曖昧だった気配が輪郭を得る。

  「……オーウェンさん」

   振り返ると、月明かりに縁取られた占い師が立っていた。

   夜の色に溶け込んだローブ。その中で、細められた瞳の奥だけが、静かに光を返している。

  「随分と浮かない顔をしているのだな」

   音もなく歩み寄りながら、彼は淡々と言った。

   責めるでも、慰めるでもない。事実をただ並べるようなその平静さが、逆にリネットの胸の奥をくすぐった。

  「……村が、心配かね?」

   核心を、針のように落としてくる問い。

  「……うん」

   リネットは逃げずに頷いた。喉の奥が、乾いたように少し痛む。

  「正直に言うとね。それもあるけど……」

   視線が、自然と足元へ落ちる。

   闇の中、草の葉先についた夜露が、頼りないほど微かな光を放っていた。――小さなものが、こんなにも心細く見える夜。

  「私が“世界を変える”なんて……そんな大層な占いをされちゃったことも、あると思う」

   精一杯、口角を持ち上げて笑ってみせる。

   それは自嘲の形を借りた、薄い盾だった。

   けれど声は揺れ、盾の縁は小刻みに震えていた。

   変えたいのか、変えられるのか。そもそも、背負っていいのか。考えれば考えるほど、心の底に沈む重りだけが増えていく。

  「ふむ」

   オーウェンは、顎に手を当てた。

  「確かに、君はこの村が誇る実力者だ。だがね」

   彼は視線を頭上の天蓋樹へ向け、そのまま言葉を継ぐ。

  「この村には、まだまだ君に劣らない、優秀な狩人が大勢いる」

  「皆で支え合いながら、君の留守を守ると誓った。そこに関しては……問題あるまい」

   断言。けれど、押し付けではない。

   揺るぎない事実としての声音に、リネットの胸の奥で張り詰めていた糸が、ほんの数ミリだけ緩む。

  (……そう)

   リネットは胸の内で、誰にも聞こえない声を落とす。

  (本当は……)

   怖かったのだ。

   自分が、世界を変える、ということそのものが。

   オーウェンが告げたあの言葉は、未来への希望や励ましの飾りではない。

   本物の占い師の口から出る「予言」とは、願望などではなく、ほとんど“確定した未来”として、現実に爪を立ててくる呪いにも似ている。

   何者でもない自分が。

   ただの村娘だった自分が。

   いきなり――世界を変える。

   その響きは、胸が高鳴るような冒険譚の冒頭などではなかった。期待でも、誇りでもない。

   むしろ、息をするたびに肋骨が軋むような物理的な重さ。肩に載せられた見えない何かが、骨の形まで歪めてしまいそうな重圧。

   もしかすると――。

   彼女は旅をやめるための理由を、無意識に拾い集めていたのかもしれない。

   村が心配だから。

   守るべき人がいるから。

   それは正しくて、誰も責めない綺麗な理由だ。けれど本当は、それ以上に。

   ――その予言を、恐れていた。

   天蓋樹の巨大な影の下で、リネットは知らず拳を強く握りしめた。

   爪が掌に食い込み、鋭い痛みが小さな証明になる。

   私はまだ、ここにいる、と。

  「……やはり、私の予言が重圧を与えてしまったようだ」

   影の中で、オーウェンは静かに言った。

   声は落ち着いているのに、そこに滲んでいるのは隠しきれない責任だった。逃げ道のない、人の運命を言葉で操る者の業のような重さ。

  「謝罪しよう。リネット……すまなかったな」

  「謝らないで、オーウェンさん」

   リネットは、ゆっくりと首を横に振った。

  「オーウェンさんは、旅立ちの前に揺らいでいた私の背中を押すために、ああ言ってくれたんでしょ?」

  「…………」

  「……村が心配なのは、事実だよ。だからね。あの場でオーウェンさんが現れなかったら……私はきっと、ずっと迷ってた」

   リネットは一度言葉を切り、夜空を見上げた。星々の瞬きが、涙で滲みそうになるのを堪える。

  「でも、そんな私の背中を……オーウェンさんは、そっと押してくれたんだ」

   言いながら、喉の奥がじわりと熱くなる。

   押されたのは背中だけじゃない。言い訳を並べてその場に座り込もうとしていた心の膝も、彼の言葉に少しだけ持ち上げられたのだ。

  「……いま私が感じてる、この恐怖は……私が弱い証拠なんだと思う」

   声が、少し嗄れる。吐息に混じって、情けなさが夜気へと溶けていく。

  「そんな私が、世界を変えるだなんて……」

   オーウェンは遮らない。

   安易な慰めも、冷徹な正論も、すぐの結論も置かない。

   ただ静かに、彼女の言葉を受け止めている。夜の底に重たい石を沈めるように。沈めた石が波紋を広げ、それがいつか答えになることを知っている者の沈黙だ。

   やがて。

  「……オーウェンさん」

   リネットは、唇の端だけを無理やり持ち上げた。

   それは笑顔の形を借りた、薄い鎧。胸の奥で暴れる不安を、いったん落ち着かせるための仮面。

  「ずっと私は、旅に出ることを夢見てた……ただの一人の少女だったんだ」

   天蓋樹の幹に触れていた手のひらが、そっと離れる。

   樹皮の硬質な冷たさが消えた分だけ、生々しい不安が肌に戻ってくる。だからこそ、彼女は冗談めかして言った。

  「いま、引き返しても……問題ないかな?」

   投げた言葉は軽い。けれど、その質量は祈りと同じくらい重い。

   この答え次第で、今夜の自分が、そしてこれからの人生が決まってしまう気がした。

   オーウェンはすぐには答えない。

   星明かりの下、しばし目を伏せ――まるで、夜そのものに耳を澄ますように思案し、やがて穏やかに口を開いた。

  「……ああ」

   短い肯定が、静けさにぽつりと落ちる。

  「私は“君が世界を変える”と言ったが、もし君が現れなければ――」

   彼は言葉を選ぶように、わずかに間を置く。占い師の言葉は、いつだって刃物に似ている。切り方を誤れば、未来ではなく心を傷つけることになるからだ。

  「いずれ世界は、君の“代理”を生み出すだろう。時空の歪みは……いずれ正されるものだ」

   淡々とした真理。

   優しさを多分に含んだ、残酷な宣告。

   世界は個人の感情になど頓着しない。空が白んで朝になるように、川が低い方へ流れるように、整合性は勝手に保たれていく。君がいなくとも、世界は回るのだと。

  「そっか」

   リネットは小さく笑った。息が漏れただけの、乾いた笑い。

  「なんか……それはそれで、悲しいかも」

   自分がいなくても世界は回る。そう言われて、「背負わなくていい」と安心したはずなのに、胸のどこかがきゅっと締め付けられる。

   代わりが生まれるということは――自分の抱いた夢も、感じた痛みも、切なる願いも、誰か別の形に置き換え可能だということだから。

   夜の静寂の中、その笑顔はどこか儚かった。

   天蓋樹の下で、少女はまだ迷っている。

   けれど――引き返す道があると知った今、その迷いの質は変わっていた。

   「逃げられない」という絶望ではなく、「選べる」という自由へ。

   彼女の視線は、足元の闇から、再び遠くの星空へと向けられていた。

  「……ふぅ! ありがと、オーウェンさん!」

   胸の奥に溜め込んでいた澱をすべて吐き出すように、リネットは大きく息をつき、ぱっと顔を上げた。

   そこに浮かぶのは、いつもと変わらない屈託のない笑顔。夜の冷たさの中でも、その表情だけが周囲をほんのり照らすランプのようだった。

  「ふふ……だから言っただろう。君は“世界を変えなければならない”などと、肩肘張らなくていい」

   穏やかな声が夜気に溶け、頭上の枝葉のざわめきに吸われていく。

  「君はただ、君の目で世界を見ればいい。それだけでいいのだ」

   その言葉が、リネットの胸の定位置に静かに落ちる。

   義務ではなく、旅。使命ではなく、視線。

   その決定的な違いが、彼女の中の恐怖を――ほんの少しだけ、歩ける形に変えていった。

  「……昼間にも、それは言ったがね」

   オーウェンが肩をすくめる。からかうようでいて、どこか安堵の混じった仕草だった。

  「あはは、そうだったね。でも不思議。昼間より、今の方がすとんって頭に入ってきたよ」

   言って、リネットは小さく笑う。

   鼻先には焚き火の残り香が、まだどこかに薄く漂っている。昼の喧騒を飲み込んだ村はすっかり静まり返り、聞こえるのは巨木を揺らす風の音と、遠くで眠りにつく家々の気配だけ。

   星明かりが二人を包むこの時間だからこそ、言葉は余計な雑音に弾かれず、まっすぐ胸の底へ落ちたのだろう。

  「それは良かった」

   オーウェンは柔らかく頷く。

  「やはり君は、笑顔が一番似合う。千年近く、この村の人間を見てきたが……」

   そこで、一拍。

   言葉を探すように沈黙が挟まる。夜の静けさが、その間をいやに鮮明に際立たせた。

  「君ほど、笑顔が似合い、自然と応援したくなる人物はいなかった」

   まるで占いの宣告とは逆だ。未来を縛る言葉ではなく、今を肯定する言葉。

   胸の奥が、じんと熱を帯びる。

  「……そっか。オーウェンさん、エルフだもんね。もう千年近く生きてるんだよね」

   リネットは改めて彼を見る。月の光を受けた横顔は、彫像みたいに整っているのに、冷たさはない。むしろ、長い時間をくぐってきた者の、静かな温度がある。

   それでも――実感が湧かない。

  「あんまり、そうは見えないけど……」

  「ふふ」

   懐かしむような笑みが浮かぶ。そこには、笑い話を語る余裕と、言わないまま抱えてきた孤独の影が同居していた。

  「この千年で、君ほど私に近づいてきた人間はいなかった。大抵は距離を取り、不気味がるものだ」

   夜に溶けるような、少しだけ寂しげな声音。

   その言葉が落ちた瞬間、リネットはふっと思い出す。子どもの頃、彼を見かけるたびに大人たちが声を潜めたこと。

   噂が噂を呼び、近づけば祟られるだの、目を合わせると不幸になるだの――誰もが勝手な物語をまとわせて遠巻きにしていたことを。

  「だが君は違った。私と村人をつなぎ、あろうことか……“不気味な隣人”だった私を、“頼れる占い師”にまで押し上げた」

   くつくつと、喉の奥で笑う。自嘲に見せかけた照れ隠し。

   けれど、その笑いの芯はどこまでも真面目だった。

  「リネット。世界は広い。旅とは、人と人を繋げるものだ」

   言葉は静かだが、確かな重みを持っている。

   天蓋樹の枝が風に鳴り、まるで相槌のようにさわり、と音を立てた。

  「出会いも、別れも、そのすべてに意味がある。そして君は――影響を受ける側ではなく、与える側の人間だ」

   真っ直ぐな瞳。飾りのない言葉。

   その二つを同時に受け取って、リネットの胸がきゅっと縮む。

  「……オーウェンさんが、そんなふうに言ってくれるなんて」

  「嬉しい。ありがと!」

  「……旅に出ても、君の居場所はここだ。この村だ」

   オーウェンは夜空を見上げた。星は冷たく、遠い。けれど彼の言葉は驚くほど近かった。

  「寂しくなったら、いつでも帰ってくるといい」

  「うんっ!」

   即答だった。迷いが混じらない返事。

   帰れる場所がある――その事実が、足元を地面に縫い留めてくれる。縫い留めてくれるからこそ、遠くへ歩けるのだ。

  「……ふふ。珍しく、随分と喋ってしまった」

  「私は嬉しかったけどね!」

   はにかみながら笑うリネット。頬が少しだけ熱い。けれど、それが嫌じゃない。

  「うん……これなら」

   小さく息を吸い、前を向く。夜の空気が肺の奥まで澄んで入ってくる。胸の中の絡まりが、ひとつずつほどけていく感覚。

  「心置きなく、旅に出られそうだよ」
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