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5話:少女の本音と占い師の言葉
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家を出て、リネットは村の中央に聳える『天蓋樹』の根元へと足を運んだ。
見上げれば、視界を埋め尽くすほどの枝葉が、空を覆うように広がっている。
リネットはそっと手を伸ばし、ゴツゴツとした厚い樹皮に掌を押し当てた。
ひやりとした硬さの中に、微かな温もりが脈打っているのを感じる。
「どうか……この村を、守ってね」
唇から零れたのは、祈りに近い言葉だった。
願いというよりは、熱を持った吐息。
すると。
――キィィィィィン……。
触れている掌を通して、硬質で高い音が直接響いてきた。
それは空気を震わせる音であると同時に、リネットの骨を伝って響く、共鳴音のようでもあった。地底の底から幹を駆け上がり、空へと抜けていく鋭い響き。
「ふふ、返事をしてくれたのかな?」
リネットは嬉しそうに目を細め、独り言ちた。
この木は創世以来、麓にあるこのリーベンバウム村を守り続けてきた――そんな伝説が、冬の夜の囲炉裏端のように、村の暮らしには当たり前に灯っている。
そしてこの巨木は時折、こうして不思議な声を聴かせてくれるのだ。
その響きは、幼い頃から何度も聞いてきた子守唄にも似ている。
だからリネットは、何の疑いもなく信じていた。
これは村を愛し、私たちを慈しんでくれる、優しい守護者の声なのだと。
彼女は樹皮の凹凸を愛おしげに撫で、無邪気な微笑みを大樹へと向ける。
その時。
ふと、背後の空気が微かに揺れた。
肌を撫でる、薄い魔力の波紋。風でも虫の羽音でもない。意識の端が五感よりも先に気づく、あの独特の感触。
「やぁ」
穏やかな声とともに、曖昧だった気配が輪郭を得る。
「……オーウェンさん」
振り返ると、月明かりに縁取られた占い師が立っていた。
夜の色に溶け込んだローブ。その中で、細められた瞳の奥だけが、静かに光を返している。
「随分と浮かない顔をしているのだな」
音もなく歩み寄りながら、彼は淡々と言った。
責めるでも、慰めるでもない。事実をただ並べるようなその平静さが、逆にリネットの胸の奥をくすぐった。
「……村が、心配かね?」
核心を、針のように落としてくる問い。
「……うん」
リネットは逃げずに頷いた。喉の奥が、乾いたように少し痛む。
「正直に言うとね。それもあるけど……」
視線が、自然と足元へ落ちる。
闇の中、草の葉先についた夜露が、頼りないほど微かな光を放っていた。――小さなものが、こんなにも心細く見える夜。
「私が“世界を変える”なんて……そんな大層な占いをされちゃったことも、あると思う」
精一杯、口角を持ち上げて笑ってみせる。
それは自嘲の形を借りた、薄い盾だった。
けれど声は揺れ、盾の縁は小刻みに震えていた。
変えたいのか、変えられるのか。そもそも、背負っていいのか。考えれば考えるほど、心の底に沈む重りだけが増えていく。
「ふむ」
オーウェンは、顎に手を当てた。
「確かに、君はこの村が誇る実力者だ。だがね」
彼は視線を頭上の天蓋樹へ向け、そのまま言葉を継ぐ。
「この村には、まだまだ君に劣らない、優秀な狩人が大勢いる」
「皆で支え合いながら、君の留守を守ると誓った。そこに関しては……問題あるまい」
断言。けれど、押し付けではない。
揺るぎない事実としての声音に、リネットの胸の奥で張り詰めていた糸が、ほんの数ミリだけ緩む。
(……そう)
リネットは胸の内で、誰にも聞こえない声を落とす。
(本当は……)
怖かったのだ。
自分が、世界を変える、ということそのものが。
オーウェンが告げたあの言葉は、未来への希望や励ましの飾りではない。
本物の占い師の口から出る「予言」とは、願望などではなく、ほとんど“確定した未来”として、現実に爪を立ててくる呪いにも似ている。
何者でもない自分が。
ただの村娘だった自分が。
いきなり――世界を変える。
その響きは、胸が高鳴るような冒険譚の冒頭などではなかった。期待でも、誇りでもない。
むしろ、息をするたびに肋骨が軋むような物理的な重さ。肩に載せられた見えない何かが、骨の形まで歪めてしまいそうな重圧。
もしかすると――。
彼女は旅をやめるための理由を、無意識に拾い集めていたのかもしれない。
村が心配だから。
守るべき人がいるから。
それは正しくて、誰も責めない綺麗な理由だ。けれど本当は、それ以上に。
――その予言を、恐れていた。
天蓋樹の巨大な影の下で、リネットは知らず拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、鋭い痛みが小さな証明になる。
私はまだ、ここにいる、と。
「……やはり、私の予言が重圧を与えてしまったようだ」
影の中で、オーウェンは静かに言った。
声は落ち着いているのに、そこに滲んでいるのは隠しきれない責任だった。逃げ道のない、人の運命を言葉で操る者の業のような重さ。
「謝罪しよう。リネット……すまなかったな」
「謝らないで、オーウェンさん」
リネットは、ゆっくりと首を横に振った。
「オーウェンさんは、旅立ちの前に揺らいでいた私の背中を押すために、ああ言ってくれたんでしょ?」
「…………」
「……村が心配なのは、事実だよ。だからね。あの場でオーウェンさんが現れなかったら……私はきっと、ずっと迷ってた」
リネットは一度言葉を切り、夜空を見上げた。星々の瞬きが、涙で滲みそうになるのを堪える。
「でも、そんな私の背中を……オーウェンさんは、そっと押してくれたんだ」
言いながら、喉の奥がじわりと熱くなる。
押されたのは背中だけじゃない。言い訳を並べてその場に座り込もうとしていた心の膝も、彼の言葉に少しだけ持ち上げられたのだ。
「……いま私が感じてる、この恐怖は……私が弱い証拠なんだと思う」
声が、少し嗄れる。吐息に混じって、情けなさが夜気へと溶けていく。
「そんな私が、世界を変えるだなんて……」
オーウェンは遮らない。
安易な慰めも、冷徹な正論も、すぐの結論も置かない。
ただ静かに、彼女の言葉を受け止めている。夜の底に重たい石を沈めるように。沈めた石が波紋を広げ、それがいつか答えになることを知っている者の沈黙だ。
やがて。
「……オーウェンさん」
リネットは、唇の端だけを無理やり持ち上げた。
それは笑顔の形を借りた、薄い鎧。胸の奥で暴れる不安を、いったん落ち着かせるための仮面。
「ずっと私は、旅に出ることを夢見てた……ただの一人の少女だったんだ」
天蓋樹の幹に触れていた手のひらが、そっと離れる。
樹皮の硬質な冷たさが消えた分だけ、生々しい不安が肌に戻ってくる。だからこそ、彼女は冗談めかして言った。
「いま、引き返しても……問題ないかな?」
投げた言葉は軽い。けれど、その質量は祈りと同じくらい重い。
この答え次第で、今夜の自分が、そしてこれからの人生が決まってしまう気がした。
オーウェンはすぐには答えない。
星明かりの下、しばし目を伏せ――まるで、夜そのものに耳を澄ますように思案し、やがて穏やかに口を開いた。
「……ああ」
短い肯定が、静けさにぽつりと落ちる。
「私は“君が世界を変える”と言ったが、もし君が現れなければ――」
彼は言葉を選ぶように、わずかに間を置く。占い師の言葉は、いつだって刃物に似ている。切り方を誤れば、未来ではなく心を傷つけることになるからだ。
「いずれ世界は、君の“代理”を生み出すだろう。時空の歪みは……いずれ正されるものだ」
淡々とした真理。
優しさを多分に含んだ、残酷な宣告。
世界は個人の感情になど頓着しない。空が白んで朝になるように、川が低い方へ流れるように、整合性は勝手に保たれていく。君がいなくとも、世界は回るのだと。
「そっか」
リネットは小さく笑った。息が漏れただけの、乾いた笑い。
「なんか……それはそれで、悲しいかも」
自分がいなくても世界は回る。そう言われて、「背負わなくていい」と安心したはずなのに、胸のどこかがきゅっと締め付けられる。
代わりが生まれるということは――自分の抱いた夢も、感じた痛みも、切なる願いも、誰か別の形に置き換え可能だということだから。
夜の静寂の中、その笑顔はどこか儚かった。
天蓋樹の下で、少女はまだ迷っている。
けれど――引き返す道があると知った今、その迷いの質は変わっていた。
「逃げられない」という絶望ではなく、「選べる」という自由へ。
彼女の視線は、足元の闇から、再び遠くの星空へと向けられていた。
「……ふぅ! ありがと、オーウェンさん!」
胸の奥に溜め込んでいた澱をすべて吐き出すように、リネットは大きく息をつき、ぱっと顔を上げた。
そこに浮かぶのは、いつもと変わらない屈託のない笑顔。夜の冷たさの中でも、その表情だけが周囲をほんのり照らすランプのようだった。
「ふふ……だから言っただろう。君は“世界を変えなければならない”などと、肩肘張らなくていい」
穏やかな声が夜気に溶け、頭上の枝葉のざわめきに吸われていく。
「君はただ、君の目で世界を見ればいい。それだけでいいのだ」
その言葉が、リネットの胸の定位置に静かに落ちる。
義務ではなく、旅。使命ではなく、視線。
その決定的な違いが、彼女の中の恐怖を――ほんの少しだけ、歩ける形に変えていった。
「……昼間にも、それは言ったがね」
オーウェンが肩をすくめる。からかうようでいて、どこか安堵の混じった仕草だった。
「あはは、そうだったね。でも不思議。昼間より、今の方がすとんって頭に入ってきたよ」
言って、リネットは小さく笑う。
鼻先には焚き火の残り香が、まだどこかに薄く漂っている。昼の喧騒を飲み込んだ村はすっかり静まり返り、聞こえるのは巨木を揺らす風の音と、遠くで眠りにつく家々の気配だけ。
星明かりが二人を包むこの時間だからこそ、言葉は余計な雑音に弾かれず、まっすぐ胸の底へ落ちたのだろう。
「それは良かった」
オーウェンは柔らかく頷く。
「やはり君は、笑顔が一番似合う。千年近く、この村の人間を見てきたが……」
そこで、一拍。
言葉を探すように沈黙が挟まる。夜の静けさが、その間をいやに鮮明に際立たせた。
「君ほど、笑顔が似合い、自然と応援したくなる人物はいなかった」
まるで占いの宣告とは逆だ。未来を縛る言葉ではなく、今を肯定する言葉。
胸の奥が、じんと熱を帯びる。
「……そっか。オーウェンさん、エルフだもんね。もう千年近く生きてるんだよね」
リネットは改めて彼を見る。月の光を受けた横顔は、彫像みたいに整っているのに、冷たさはない。むしろ、長い時間をくぐってきた者の、静かな温度がある。
それでも――実感が湧かない。
「あんまり、そうは見えないけど……」
「ふふ」
懐かしむような笑みが浮かぶ。そこには、笑い話を語る余裕と、言わないまま抱えてきた孤独の影が同居していた。
「この千年で、君ほど私に近づいてきた人間はいなかった。大抵は距離を取り、不気味がるものだ」
夜に溶けるような、少しだけ寂しげな声音。
その言葉が落ちた瞬間、リネットはふっと思い出す。子どもの頃、彼を見かけるたびに大人たちが声を潜めたこと。
噂が噂を呼び、近づけば祟られるだの、目を合わせると不幸になるだの――誰もが勝手な物語をまとわせて遠巻きにしていたことを。
「だが君は違った。私と村人をつなぎ、あろうことか……“不気味な隣人”だった私を、“頼れる占い師”にまで押し上げた」
くつくつと、喉の奥で笑う。自嘲に見せかけた照れ隠し。
けれど、その笑いの芯はどこまでも真面目だった。
「リネット。世界は広い。旅とは、人と人を繋げるものだ」
言葉は静かだが、確かな重みを持っている。
天蓋樹の枝が風に鳴り、まるで相槌のようにさわり、と音を立てた。
「出会いも、別れも、そのすべてに意味がある。そして君は――影響を受ける側ではなく、与える側の人間だ」
真っ直ぐな瞳。飾りのない言葉。
その二つを同時に受け取って、リネットの胸がきゅっと縮む。
「……オーウェンさんが、そんなふうに言ってくれるなんて」
「嬉しい。ありがと!」
「……旅に出ても、君の居場所はここだ。この村だ」
オーウェンは夜空を見上げた。星は冷たく、遠い。けれど彼の言葉は驚くほど近かった。
「寂しくなったら、いつでも帰ってくるといい」
「うんっ!」
即答だった。迷いが混じらない返事。
帰れる場所がある――その事実が、足元を地面に縫い留めてくれる。縫い留めてくれるからこそ、遠くへ歩けるのだ。
「……ふふ。珍しく、随分と喋ってしまった」
「私は嬉しかったけどね!」
はにかみながら笑うリネット。頬が少しだけ熱い。けれど、それが嫌じゃない。
「うん……これなら」
小さく息を吸い、前を向く。夜の空気が肺の奥まで澄んで入ってくる。胸の中の絡まりが、ひとつずつほどけていく感覚。
「心置きなく、旅に出られそうだよ」
見上げれば、視界を埋め尽くすほどの枝葉が、空を覆うように広がっている。
リネットはそっと手を伸ばし、ゴツゴツとした厚い樹皮に掌を押し当てた。
ひやりとした硬さの中に、微かな温もりが脈打っているのを感じる。
「どうか……この村を、守ってね」
唇から零れたのは、祈りに近い言葉だった。
願いというよりは、熱を持った吐息。
すると。
――キィィィィィン……。
触れている掌を通して、硬質で高い音が直接響いてきた。
それは空気を震わせる音であると同時に、リネットの骨を伝って響く、共鳴音のようでもあった。地底の底から幹を駆け上がり、空へと抜けていく鋭い響き。
「ふふ、返事をしてくれたのかな?」
リネットは嬉しそうに目を細め、独り言ちた。
この木は創世以来、麓にあるこのリーベンバウム村を守り続けてきた――そんな伝説が、冬の夜の囲炉裏端のように、村の暮らしには当たり前に灯っている。
そしてこの巨木は時折、こうして不思議な声を聴かせてくれるのだ。
その響きは、幼い頃から何度も聞いてきた子守唄にも似ている。
だからリネットは、何の疑いもなく信じていた。
これは村を愛し、私たちを慈しんでくれる、優しい守護者の声なのだと。
彼女は樹皮の凹凸を愛おしげに撫で、無邪気な微笑みを大樹へと向ける。
その時。
ふと、背後の空気が微かに揺れた。
肌を撫でる、薄い魔力の波紋。風でも虫の羽音でもない。意識の端が五感よりも先に気づく、あの独特の感触。
「やぁ」
穏やかな声とともに、曖昧だった気配が輪郭を得る。
「……オーウェンさん」
振り返ると、月明かりに縁取られた占い師が立っていた。
夜の色に溶け込んだローブ。その中で、細められた瞳の奥だけが、静かに光を返している。
「随分と浮かない顔をしているのだな」
音もなく歩み寄りながら、彼は淡々と言った。
責めるでも、慰めるでもない。事実をただ並べるようなその平静さが、逆にリネットの胸の奥をくすぐった。
「……村が、心配かね?」
核心を、針のように落としてくる問い。
「……うん」
リネットは逃げずに頷いた。喉の奥が、乾いたように少し痛む。
「正直に言うとね。それもあるけど……」
視線が、自然と足元へ落ちる。
闇の中、草の葉先についた夜露が、頼りないほど微かな光を放っていた。――小さなものが、こんなにも心細く見える夜。
「私が“世界を変える”なんて……そんな大層な占いをされちゃったことも、あると思う」
精一杯、口角を持ち上げて笑ってみせる。
それは自嘲の形を借りた、薄い盾だった。
けれど声は揺れ、盾の縁は小刻みに震えていた。
変えたいのか、変えられるのか。そもそも、背負っていいのか。考えれば考えるほど、心の底に沈む重りだけが増えていく。
「ふむ」
オーウェンは、顎に手を当てた。
「確かに、君はこの村が誇る実力者だ。だがね」
彼は視線を頭上の天蓋樹へ向け、そのまま言葉を継ぐ。
「この村には、まだまだ君に劣らない、優秀な狩人が大勢いる」
「皆で支え合いながら、君の留守を守ると誓った。そこに関しては……問題あるまい」
断言。けれど、押し付けではない。
揺るぎない事実としての声音に、リネットの胸の奥で張り詰めていた糸が、ほんの数ミリだけ緩む。
(……そう)
リネットは胸の内で、誰にも聞こえない声を落とす。
(本当は……)
怖かったのだ。
自分が、世界を変える、ということそのものが。
オーウェンが告げたあの言葉は、未来への希望や励ましの飾りではない。
本物の占い師の口から出る「予言」とは、願望などではなく、ほとんど“確定した未来”として、現実に爪を立ててくる呪いにも似ている。
何者でもない自分が。
ただの村娘だった自分が。
いきなり――世界を変える。
その響きは、胸が高鳴るような冒険譚の冒頭などではなかった。期待でも、誇りでもない。
むしろ、息をするたびに肋骨が軋むような物理的な重さ。肩に載せられた見えない何かが、骨の形まで歪めてしまいそうな重圧。
もしかすると――。
彼女は旅をやめるための理由を、無意識に拾い集めていたのかもしれない。
村が心配だから。
守るべき人がいるから。
それは正しくて、誰も責めない綺麗な理由だ。けれど本当は、それ以上に。
――その予言を、恐れていた。
天蓋樹の巨大な影の下で、リネットは知らず拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込み、鋭い痛みが小さな証明になる。
私はまだ、ここにいる、と。
「……やはり、私の予言が重圧を与えてしまったようだ」
影の中で、オーウェンは静かに言った。
声は落ち着いているのに、そこに滲んでいるのは隠しきれない責任だった。逃げ道のない、人の運命を言葉で操る者の業のような重さ。
「謝罪しよう。リネット……すまなかったな」
「謝らないで、オーウェンさん」
リネットは、ゆっくりと首を横に振った。
「オーウェンさんは、旅立ちの前に揺らいでいた私の背中を押すために、ああ言ってくれたんでしょ?」
「…………」
「……村が心配なのは、事実だよ。だからね。あの場でオーウェンさんが現れなかったら……私はきっと、ずっと迷ってた」
リネットは一度言葉を切り、夜空を見上げた。星々の瞬きが、涙で滲みそうになるのを堪える。
「でも、そんな私の背中を……オーウェンさんは、そっと押してくれたんだ」
言いながら、喉の奥がじわりと熱くなる。
押されたのは背中だけじゃない。言い訳を並べてその場に座り込もうとしていた心の膝も、彼の言葉に少しだけ持ち上げられたのだ。
「……いま私が感じてる、この恐怖は……私が弱い証拠なんだと思う」
声が、少し嗄れる。吐息に混じって、情けなさが夜気へと溶けていく。
「そんな私が、世界を変えるだなんて……」
オーウェンは遮らない。
安易な慰めも、冷徹な正論も、すぐの結論も置かない。
ただ静かに、彼女の言葉を受け止めている。夜の底に重たい石を沈めるように。沈めた石が波紋を広げ、それがいつか答えになることを知っている者の沈黙だ。
やがて。
「……オーウェンさん」
リネットは、唇の端だけを無理やり持ち上げた。
それは笑顔の形を借りた、薄い鎧。胸の奥で暴れる不安を、いったん落ち着かせるための仮面。
「ずっと私は、旅に出ることを夢見てた……ただの一人の少女だったんだ」
天蓋樹の幹に触れていた手のひらが、そっと離れる。
樹皮の硬質な冷たさが消えた分だけ、生々しい不安が肌に戻ってくる。だからこそ、彼女は冗談めかして言った。
「いま、引き返しても……問題ないかな?」
投げた言葉は軽い。けれど、その質量は祈りと同じくらい重い。
この答え次第で、今夜の自分が、そしてこれからの人生が決まってしまう気がした。
オーウェンはすぐには答えない。
星明かりの下、しばし目を伏せ――まるで、夜そのものに耳を澄ますように思案し、やがて穏やかに口を開いた。
「……ああ」
短い肯定が、静けさにぽつりと落ちる。
「私は“君が世界を変える”と言ったが、もし君が現れなければ――」
彼は言葉を選ぶように、わずかに間を置く。占い師の言葉は、いつだって刃物に似ている。切り方を誤れば、未来ではなく心を傷つけることになるからだ。
「いずれ世界は、君の“代理”を生み出すだろう。時空の歪みは……いずれ正されるものだ」
淡々とした真理。
優しさを多分に含んだ、残酷な宣告。
世界は個人の感情になど頓着しない。空が白んで朝になるように、川が低い方へ流れるように、整合性は勝手に保たれていく。君がいなくとも、世界は回るのだと。
「そっか」
リネットは小さく笑った。息が漏れただけの、乾いた笑い。
「なんか……それはそれで、悲しいかも」
自分がいなくても世界は回る。そう言われて、「背負わなくていい」と安心したはずなのに、胸のどこかがきゅっと締め付けられる。
代わりが生まれるということは――自分の抱いた夢も、感じた痛みも、切なる願いも、誰か別の形に置き換え可能だということだから。
夜の静寂の中、その笑顔はどこか儚かった。
天蓋樹の下で、少女はまだ迷っている。
けれど――引き返す道があると知った今、その迷いの質は変わっていた。
「逃げられない」という絶望ではなく、「選べる」という自由へ。
彼女の視線は、足元の闇から、再び遠くの星空へと向けられていた。
「……ふぅ! ありがと、オーウェンさん!」
胸の奥に溜め込んでいた澱をすべて吐き出すように、リネットは大きく息をつき、ぱっと顔を上げた。
そこに浮かぶのは、いつもと変わらない屈託のない笑顔。夜の冷たさの中でも、その表情だけが周囲をほんのり照らすランプのようだった。
「ふふ……だから言っただろう。君は“世界を変えなければならない”などと、肩肘張らなくていい」
穏やかな声が夜気に溶け、頭上の枝葉のざわめきに吸われていく。
「君はただ、君の目で世界を見ればいい。それだけでいいのだ」
その言葉が、リネットの胸の定位置に静かに落ちる。
義務ではなく、旅。使命ではなく、視線。
その決定的な違いが、彼女の中の恐怖を――ほんの少しだけ、歩ける形に変えていった。
「……昼間にも、それは言ったがね」
オーウェンが肩をすくめる。からかうようでいて、どこか安堵の混じった仕草だった。
「あはは、そうだったね。でも不思議。昼間より、今の方がすとんって頭に入ってきたよ」
言って、リネットは小さく笑う。
鼻先には焚き火の残り香が、まだどこかに薄く漂っている。昼の喧騒を飲み込んだ村はすっかり静まり返り、聞こえるのは巨木を揺らす風の音と、遠くで眠りにつく家々の気配だけ。
星明かりが二人を包むこの時間だからこそ、言葉は余計な雑音に弾かれず、まっすぐ胸の底へ落ちたのだろう。
「それは良かった」
オーウェンは柔らかく頷く。
「やはり君は、笑顔が一番似合う。千年近く、この村の人間を見てきたが……」
そこで、一拍。
言葉を探すように沈黙が挟まる。夜の静けさが、その間をいやに鮮明に際立たせた。
「君ほど、笑顔が似合い、自然と応援したくなる人物はいなかった」
まるで占いの宣告とは逆だ。未来を縛る言葉ではなく、今を肯定する言葉。
胸の奥が、じんと熱を帯びる。
「……そっか。オーウェンさん、エルフだもんね。もう千年近く生きてるんだよね」
リネットは改めて彼を見る。月の光を受けた横顔は、彫像みたいに整っているのに、冷たさはない。むしろ、長い時間をくぐってきた者の、静かな温度がある。
それでも――実感が湧かない。
「あんまり、そうは見えないけど……」
「ふふ」
懐かしむような笑みが浮かぶ。そこには、笑い話を語る余裕と、言わないまま抱えてきた孤独の影が同居していた。
「この千年で、君ほど私に近づいてきた人間はいなかった。大抵は距離を取り、不気味がるものだ」
夜に溶けるような、少しだけ寂しげな声音。
その言葉が落ちた瞬間、リネットはふっと思い出す。子どもの頃、彼を見かけるたびに大人たちが声を潜めたこと。
噂が噂を呼び、近づけば祟られるだの、目を合わせると不幸になるだの――誰もが勝手な物語をまとわせて遠巻きにしていたことを。
「だが君は違った。私と村人をつなぎ、あろうことか……“不気味な隣人”だった私を、“頼れる占い師”にまで押し上げた」
くつくつと、喉の奥で笑う。自嘲に見せかけた照れ隠し。
けれど、その笑いの芯はどこまでも真面目だった。
「リネット。世界は広い。旅とは、人と人を繋げるものだ」
言葉は静かだが、確かな重みを持っている。
天蓋樹の枝が風に鳴り、まるで相槌のようにさわり、と音を立てた。
「出会いも、別れも、そのすべてに意味がある。そして君は――影響を受ける側ではなく、与える側の人間だ」
真っ直ぐな瞳。飾りのない言葉。
その二つを同時に受け取って、リネットの胸がきゅっと縮む。
「……オーウェンさんが、そんなふうに言ってくれるなんて」
「嬉しい。ありがと!」
「……旅に出ても、君の居場所はここだ。この村だ」
オーウェンは夜空を見上げた。星は冷たく、遠い。けれど彼の言葉は驚くほど近かった。
「寂しくなったら、いつでも帰ってくるといい」
「うんっ!」
即答だった。迷いが混じらない返事。
帰れる場所がある――その事実が、足元を地面に縫い留めてくれる。縫い留めてくれるからこそ、遠くへ歩けるのだ。
「……ふふ。珍しく、随分と喋ってしまった」
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はにかみながら笑うリネット。頬が少しだけ熱い。けれど、それが嫌じゃない。
「うん……これなら」
小さく息を吸い、前を向く。夜の空気が肺の奥まで澄んで入ってくる。胸の中の絡まりが、ひとつずつほどけていく感覚。
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「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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