リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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6話:旅立ち

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  旅立ちの朝は、いつもより空気が薄く感じた。

   山から降りてくる冷気が、頬のうぶ毛を撫でていく。吐く息は白くほどけ、門へ続く土の道には、夜露がまだ細かな光を残していた。天蓋樹の葉擦れが、遠い波みたいにざわめいている。――村が、生きて呼吸している音。

   リネットが門の前に立った瞬間、その音にもうひとつ、温かいものが混じった。

   人の呼吸だ。

   いつもの朝なら散っていくはずの村人たちが、今日は誰ひとり引かない。老いも若きも、狩人も、畑を守る者も、子どもも。門の前に肩を寄せ合って、リネットの出立を見送るためだけに、そこに立っていた。

  (……ほんとに、みんな……)

   胸の奥がきゅっと縮む。涙がこぼれそうになるのを、リネットは一度だけ喉の奥で飲み込んだ。ここで泣いたら、きっと皆が余計に寂しくなる。

   その時、群れの先から、一人の老婆がゆっくりと前へ出た。


   この村――リーベンバウムの村長だ。


  「リネット。寂しくなるけれど、元気に過ごすのよぉ」

   間延びした声。いつも通りの、世界の角を丸くしてくれる響きだった。言葉のひとつひとつが「大丈夫」を形にして、背中にそっと貼りつくみたいに。

  「はい。村長、私の旅立ちを許してくれて……ありがとうございます」

   リネットは深く頭を下げる。額の先に、ひやりとした空気が触れた。

  「ふふふ。私にお礼を言うより、村のみんなへ言うべきねぇ。村の皆が、あなたの留守を守るって言ってくれたのだから」
   
  「はい……!」

   顔を上げる。

   視線の先に並ぶ顔は、ひとつとして同じ表情がない。今にも泣き出しそうに口を結んでいる人。ぎこちなく笑って、片手を上げる人。目尻を拭いながら「行ってこい」と顎で促す人。子どもは大人の影から覗き込み、まるで宝物を見るみたいに目を丸くしていた。

  (私、守ってもらってたんだな……)

   守り手だと思っていた。強い村で育って、当然のように前へ出て。けれど今、守られているのは自分もなのだと、遅れて気づく。

   その気づきを、言葉にする前に――抱きしめられた。

   ふわりと、薪と石鹸の匂い。懐かしい体温が胸いっぱいに広がる。


   母だ。


   ノーマン・リーベンバウムは、声を震わせながら娘を抱き締めた。

  「あぁ……リネット……無理だけはしないでね。たまに連絡を送るから、返してちょうだい」

   強い腕。狩りで鍛えた硬さの奥に、柔らかい震えがある。リネットはぎゅっと背中を抱き返して、わざと明るく笑った。

  「えへへ……わかってるよ、母さん」

   ノーマンの腕に、さらに力がこもる。離れてしまうのが怖い、と身体のほうが言っているみたいで、リネットの喉の奥がまた熱くなる。

   だから、リネットも離さない。

   いま刻みつけるように、この温度を、匂いを、胸の重みを。旅の途中でふと寒い夜が来た時、これがきっと――火になる。

   やがて、ノーマンが名残惜しそうに腕をほどく。

   その隙間へ、今度は小さな影が飛び込んできた。


   弟のアラン。


   前へ出てきた彼の瞳は揺れて、寂しさを隠しきれていない。それでも、歯を食いしばって言葉を作る。

  「お、お姉ちゃん……! 俺、お姉ちゃんの代わりに村を守れるようになるから!! だから!!」

   言い切れない「だから」の後ろに、いっぱい詰まっているのが分かる。行かないで。無事でいて。帰ってきて。……どれも言わないで、言えないで、ただ拳を握りしめている。

  「安心しててね……っ!」

   リネットの胸に、愛おしさが洪水みたいに押し寄せる。守りたい、と同じくらい、誇らしい。

   リネットは膝を折り、アランの目線までしゃがみ込んだ。冷たい空気の中で、アランの頬だけが熱を持っている。泣くのを我慢している熱だ。

   リネットは優しく、その頭を撫でた。癖のある髪が指の間をすり抜ける。

  「うん。もちろん信じてるよ。アランは私の自慢の弟だもん」

   アランの唇がふるりと揺れる。すぐに頷いてみせるけれど、目の端が赤い。

   リネットは、少しだけ声の調子を変える。

  「だけど、アランも無理はしちゃダメ。約束は覚えてるね?」

  「う、うん! もう魔物の巣を見つけても入らない!」

   即答が、可笑しいくらい必死で、リネットは笑いそうになるのを堪えた。笑ったら、たぶんアランは泣く。

  「……そう。ちゃんと約束、守るんだよ」

   言い聞かせるように、祈るように。

   リネットはそっとアランを抱き寄せた。小さな身体が胸に当たって、心臓の音が伝わる。アランの肩が一度、びくりと跳ねて――それから、ぎゅっと、服を掴んできた。

  (……大丈夫。私はちゃんと帰ってくるよ)

   言葉にはしない。今はただ、この小さな背中に、安心を染み込ませるみたいに抱きしめる。

   人混みが、潮が引くみたいに左右へ割れた。

   誰かが合図をしたわけでもないのに、村人たちの肩が少しずつずれて、門へ続く一本の道ができあがる。その“道”の先から、杖の先で地面を確かめるような静かな足取りが近づいてきた。


   オーウェンだ。


   いつもの穏やかな顔――けれど今日は、目元の皺が少しだけ深い。リネットの胸の奥が、また小さくきゅっと鳴る。別れの顔だと、どうしても分かってしまう。

  「リネット。君は私にとって弟子だ。君には魔法を教えたが……いついかなる時も油断することはないように。魔法とは勝手に身を守ってくれるものではないからね」

   言葉は落ち着いているのに、ひとつひとつが重い。冷たい山風に乗って、耳から胸へ真っ直ぐ沈んでいく。

   リネットは、努めて明るく笑った。

  「あはは……。心に留めておくね! 色々教えてくれてありがとう、オーウェンさん」

   軽く言ってみせた瞬間――


   キィィィィィン……

   世界が、一度だけ澄んだ。


   天蓋樹が鳴らした音色は、金属でも鳥の声ではない。高いのに痛くなく、胸の中心だけを透かして通り抜けるような、透明な響き。雪解け水が岩肌を滑る音に似ているのに、どこか“祈り”みたいだった。

   オーウェンが瞼を閉じる。その表情が、いつもより少しだけ柔らかく見える。

   リネットも、村のみんなも、この音を昔から聞いてきた。嵐の前、魔物の気配が濃くなる夜、誰かの病が癒えた朝――天蓋樹は、言葉の代わりに鳴く。

   今日は、その鳴き方が、やけに優しい。

  「……あらあら、天蓋樹も、あなたの旅を見送ってくれているのかしらねぇ」

   村長の間延びした声が、緊張で硬くなりかけた空気を少しだけ丸める。

  「そうだと……嬉しいです」

   リネットは素直に返しながら、喉の奥が熱くなるのを感じた。ここにいる全員の“気持ち”が、天蓋樹の音といっしょに胸へ落ちてくる。


   沈黙。


   名残惜しさが、霧みたいに充満していく。誰もが言いたいことを持っているのに、言えば泣いてしまうと分かっている。そんな空気を――切り裂くように。

   リネットは、とびっきりの笑顔を作った。涙の代わりに、光を見せるみたいに。

  「それじゃあ皆! 行ってくるね!」

   そして、いよいよ門の外へと歩き出す。

   足元の土は夜露でしっとりしていて、踏むたびに小さく沈む。門の外側は、見慣れたはずなのに少しだけ色が違って見えた。村の“内”と“外”――たった一本の境界線が、こんなにも重たいなんて。

  「気を付けてねー!!!」

  「風邪引くなよー!」

  「元気でいてくれよ!」

  「帰りを待ってるわよー!」

   声が一斉に飛んでくる。矢みたいに。だけど痛くない。背中を押す手みたいに温かい。

  「みんなー!! 本当にありがとうー!!! みんなも身体に気を付けてねー!!!」

   リネットは精一杯叫びながら、振り返って手を振り続けた。腕がだるくなっても、指が冷たくなっても、やめたくなかった。

   門が小さくなり、顔が点になって、それでもまだ見えるうちは、ずっと。

   やがて、村の輪郭が木々の向こうに溶けていく。

  「……はは……寂しいなぁ……。でも……」

  「それ以上に、昨日までの不安が嘘みたい。今はこんなにも旅が楽しみになるなんて……!」

   胸が弾けるんじゃないかと思うほど、心臓が高鳴る。怖さが消えたわけじゃない。だけど――怖さよりも、先に見たいものが多すぎる。

   風の匂いが変わる。村の薪の香りが薄れて、湿った土と苔の匂いが濃くなる。遠くで鳥が鳴き、枝が擦れる。世界は、村の外でもちゃんと続いている。

  「そう。私の夢はここから始まるんだ……!」

   まだ見ぬ人、街、もしくは国。

   そこにはきっと、出会いと発見がある。

   そして――出会ってしまったら、もう戻れないものも……。

   リネットはそれを知らないまま、胸を躍らせて歩き出した。
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