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7話:空腹の少女と古都
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村を離れて数日。足の裏の痛みは、いつの間にか「当たり前の重さ」になっていた。
山道の冷たい風も、夜の獣の遠吠えも、いちいち胸を跳ねさせた最初の頃とは違う。驚きは薄れないのに、身体だけが旅人の形を覚えはじめている――そんな感覚。
そして今、目の前に広がる景色が、その疲れをふっと溶かした。
石畳の道が陽に温められて、淡く白く光っている。木組みの家々は可愛らしく、梁や柱の濃い色が、壁の淡い漆喰と絵みたいに映えていた。窓辺には赤い花。風に揺れるたび、花弁が小さな旗みたいに踊る。
どこからともなく、香ばしい匂いが流れてくる。
焼けたパンの甘い香りに、脂の乗ったソーセージの匂い。そこへ、ハーブの青い刺激と、煮込みの湯気のやわらかさまで混ざって――鼻の奥が勝手に「お腹を空かせる準備」を始めてしまう。
(……すごい。村と、ぜんぜん違う)
リネットは立ち止まったまま、視線だけを忙しく動かす。看板の文字。馬車の車輪が石畳を叩く音。噴水の水が弾ける高い音。人の話し声も、村のように少人数の響きではなく、いくつもの流れが同時に耳をくすぐってくる。
母から受け取った地図を取り出し、広げる。紙は何度も折りたたまれて角が少し丸い。そこに書かれた一文が、リネットの指先を止めた。
――かつては魔王軍との最前線だったが、現在は「世界一治安の良い街」として知られる。
この地の名は、古都アルムジカ。
リネットは顔を上げ、もう一度、街を見た。
「古都アルムジカ……かぁ」
穏やかな昼下がり。歩く人々の表情は柔らかく、子どもはパンを片手に走り回っている。道の端では、年配の女性が赤い花に水をやっていて、濡れた土の匂いがわずかに立った。
「魔王軍との最前線……。そんな歴史があるのに、こんなに穏やかな町並みだなんて……」
ぽつり、と独り言がこぼれる。
けれど、穏やかさの裏側にある“整い方”も、リネットの目は見逃さなかった。交差点の角、街灯の柱、建物の軒先――よく見れば、同じ模様が彫られた小さな金具が取り付けられている。飾りにしては、配置が規則正しすぎる。
(……あれ、もしかして……)
魔法の気配。村で教わった“守り”の香りに似ている。あからさまじゃないのに、街全体がゆっくり呼吸しているみたいな、薄い膜。
ふと、視線の先で、鎧姿の衛兵が二人、門の横で立っているのが見えた。肩の力は抜けているのに、目だけは周囲を滑らかに追っている。旅人らしい人が通ると、軽く会釈して、何かあれば声をかけられる距離を保っている。
それが、嫌な緊張じゃない。
“守られている安心”だけが、街の空気として漂っている。
(……世界一治安がいい、って、こういうことなのかな)
リネットは小さく息を吐いた。旅の最初の街がここでよかった、と胸の奥がじんわり温かくなる。
その温かさに、現実が追い打ちをかける。
『くぅ~』
腹の底から、はっきりと鳴った。
「っ……」
リネットは慌てて周りを見渡す。さっきまで気にならなかった視線が、急に怖くなる。頬が熱い。耳まで赤くなった気がして、思わず地図を盾みたいに持ち上げた。
――けれど、幸い誰も気にしていない。
近くの露店の男は、リンゴを磨く手を止めず。通りすがりの子どもは笑いながら走り去り、犬はくんくんと地面を嗅いでいる。世界は、リネットのお腹よりずっと忙しい。
(ず、ずっと歩いてたから……お腹減ってきちゃった……。よし、まずは何か食べよっと)
決めた途端、鼻が勝手に仕事を始めた。
甘い香りが強いほうへ。次に、肉の香ばしさが漂うほうへ。湯気の温度が濃いほうへ。
石畳を踏む靴音が、軽くなる。視線は看板を探し、耳は焼き窯のぱちぱちいう音を探す。曲がり角をひとつ越えると、風がふっと向きを変え、焼きたての小麦の匂いが真正面からぶつかってきた。
(……当たり!)
胸が、きゅっと弾む。
通りの先に、小さな店が見える。木の看板に、麦の絵。扉の隙間から、温かい空気と一緒に香りが漏れていた。窓の向こうには、こんがり色づいたパンが並んでいるのがちらりと見える。
リネットは喉を鳴らしそうになるのを堪え、服の裾を整えた。旅の埃を払うみたいに、両手で軽く叩く。髪も指でさっと直す。村では必要なかった動作が、街ではなぜか“ちゃんとしておきたくなる”から不思議だ。
扉の前に立つと、焼けた木の匂いが鼻先に触れた。取っ手は、少しだけ温かい。
リネットは一度だけ息を吸って――
ぎゅ、と取っ手を握り、店の中へ足を踏み入れた。
「あら、いらっしゃい! 見ない顔だね?」
扉の鈴がちりん、と軽く鳴った直後。カウンターの奥から、女主人がひょこっと顔を出した。焼き窯の熱で頬がほんのり赤く、腕まくりした前腕には粉が薄く舞っている。笑うと目尻がきゅっと寄って、あったかい店の匂いそのままの人だった。
「私、いま旅をしてまして」
口にしたのは、なんてことのない言葉。けれど、言い終わった瞬間――リネットの胸の中で、小さな花火がぱちんと弾けた。
(っ~! “旅をしてまして”だって! 言ってみたかったんだよなぁ……!)
自分で言って、自分で感動する。馬鹿みたい、と分かってるのに止まらない。旅人って響きは、村で地図を眺めていた頃から、ずっと憧れの札みたいにきらきらしていたから。
女主人はそんな内心なんてお構いなしに、豪快に笑う。
「そうかい! じゃあ、好きなところに座っておくれよ!」
促され、リネットは店内を見回した。木の床板は磨かれていて、足音が柔らかい。窓際の席には赤い花が一輪挿しに活けられ、外の光が花弁を透かしている。カウンター席には常連らしい男が肘をつき、パンをちぎりながら何かを話していた。
リネットは壁際の、一人用の小さな丸テーブルに腰を下ろす。椅子がきゅ、と控えめに鳴った。その音だけで「今、私ってお客さんなんだ」って実感が増して、背筋がつい伸びる。
ほどなくして、女主人が布巾で手を拭きながら近づいてきた。
「で、何が食べたい?」
近くに来ると、焼けた小麦と、肉の脂と、ハーブの匂いがより濃くなる。空腹が喉の奥をきゅっと掴んだ。
「こちらのお店は何を扱っているんですか?」
リネットはできるだけ落ち着いた声を作った。旅慣れてる人みたいに。――実際は、胸の中で小鹿が跳ね回ってるのに。
「ここはね、蒼眼の巨鹿《サファイア・エルク》の上質な肉を使ったソーセージを挟んだパンが売りだよっ!」
女主人は豊かな胸を反らし、誇らしげに胸を張った。まるで「うちの看板を聞いて驚け!」と言わんばかりだ。
「蒼眼の巨鹿っ!??」
声が裏返りかけた。
蒼眼の巨鹿。深く澄んだサファイアブルーの瞳で、大気中の魔力の流れを“見て”しまう鹿。魔法の発動――詠唱や手の動き、その前兆を読み取って、信じられない反応速度で回避する。魔法使い泣かせの魔物だ。
しかも数が少ない。村でも、狩れること自体が滅多にない。食卓に上がるなんて、祭りの年でもあるかどうか――
「そ、そ、そ、それにします!」
自分でも分かる。早口で、ちょっと必死。恥ずかしい。でも止められない。だって、蒼眼の巨鹿なのだから。
「はいよ! 毎度あり!」
女主人は軽く片目をつぶって、ぱん、と手を叩いた。その陽気さに救われて、リネットはようやく息を吐く。
(まさかこんな所で蒼眼の巨鹿のお肉にありつけるなんて……!)
胸の奥から湧き上がる高揚感を、両手で抱きしめるみたいに味わった。旅に出たんだ。村の外には、本当に知らないものがある。憧れは、ちゃんと現実になる。
~*~*~*~
「お待ちどうさま! 味わって食べてね!」
数分後。
女主人が木の皿を運んできた。皿の上には、ふっくらと焼けたパン。その切れ目から、肉汁を含んだソーセージがのぞいている。表面にはこんがりと焼き色がついて、ところどころ脂ePに香草が散っていた。
湯気がふわり、と立ちのぼる。
香ばしさが鼻を直撃して、唾液が一気に口の中に集まった。口元からよだれが垂れそうになるのを、リネットはぐっと堪える。
(だ、だめだめ……落ち着け……! ここは村じゃないんだから……!)
パンの焼けた香り。脂が弾けた匂い。鼻腔の奥をくすぐるハーブ。
リネットは、恐る恐る両手でパンを持ち上げる。
そして、小さな一口。
歯が触れた瞬間、パンの表面がカリッと小気味よく割れた。香ばしさがまず舌に広がり、次の瞬間――中から溢れ出したのは、ただの肉汁じゃない。
熱い。
濃い。
甘いのに、くどくない。
塩気が芯を通し、ハーブの香りが後ろから追いかけてきて、最後に脂の旨みがふわりと広がる。まるで舌の上で、何層もの香りが順番に花開いていくみたいだった。
(……なに、これ……)
上質、なんて言葉じゃ足りない。上等、と言っても追いつかない。噛めば噛むほど、肉の繊維がほろりとほどけて、旨みが逃げるどころか増えていく。焼けた皮のパリッとした歯触りと、中の肉の弾力がちょうどよくて、口の中が一瞬で「満たされる音」でいっぱいになる。
リネットは、小さな一口を頬張っただけで――目が、すん……と遠くなった。
魂が、この世から離れてしまったみたいな顔。
そのまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……ぁ……」
声にならない声が漏れる。恥ずかしいとか、行儀がどうとか、そういうものが今だけ完全に消えた。消えていい。消えないほうが不自然だ。だってこれは――
(……旅に出てよかった……)
もう一口。
今度は少しだけ大きくかじる。カリッ、という音がさっきより確かで、その瞬間また肉汁がとろりと溢れ、パンが吸って香りが立つ。
リネットは、思わず両手でパンを抱え直した。逃したくない、というみたいに。木の皿の上に落ちた一滴さえ惜しくて、視線で追いかけてしまう。
そう思ったのに、次の瞬間にはまた、ふにゃりとした顔で噛んでいる。無理だった。旅人だろうが何だろうが、これは無理だ。
ふと、近くの席からくすりと笑う気配がした。誰かの優しい笑い声。リネットはびくりとしたが、視線を上げる余裕がない。今、顔を上げたら絶対にばれる。幸福に溺れている顔を見られる。
だから、リネットは誤魔化すように、もう一口かじった。
――そして、誤魔化しきれないほど幸せになった。
店の外では、石畳を歩く靴音が続いている。誰かが笑い、遠くで馬が鼻を鳴らす。窓辺の赤い花が風に揺れ、その影がテーブルの端で小さく踊る。
この街は穏やかで、温かくて、そして――おいしい。
リネットは口いっぱいに広がる旨みを、ゆっくり噛みしめながら思った。
旅は、怖いだけじゃない。
夢は、空想で終わらない。
この一口が、それをはっきり教えてくれた。
山道の冷たい風も、夜の獣の遠吠えも、いちいち胸を跳ねさせた最初の頃とは違う。驚きは薄れないのに、身体だけが旅人の形を覚えはじめている――そんな感覚。
そして今、目の前に広がる景色が、その疲れをふっと溶かした。
石畳の道が陽に温められて、淡く白く光っている。木組みの家々は可愛らしく、梁や柱の濃い色が、壁の淡い漆喰と絵みたいに映えていた。窓辺には赤い花。風に揺れるたび、花弁が小さな旗みたいに踊る。
どこからともなく、香ばしい匂いが流れてくる。
焼けたパンの甘い香りに、脂の乗ったソーセージの匂い。そこへ、ハーブの青い刺激と、煮込みの湯気のやわらかさまで混ざって――鼻の奥が勝手に「お腹を空かせる準備」を始めてしまう。
(……すごい。村と、ぜんぜん違う)
リネットは立ち止まったまま、視線だけを忙しく動かす。看板の文字。馬車の車輪が石畳を叩く音。噴水の水が弾ける高い音。人の話し声も、村のように少人数の響きではなく、いくつもの流れが同時に耳をくすぐってくる。
母から受け取った地図を取り出し、広げる。紙は何度も折りたたまれて角が少し丸い。そこに書かれた一文が、リネットの指先を止めた。
――かつては魔王軍との最前線だったが、現在は「世界一治安の良い街」として知られる。
この地の名は、古都アルムジカ。
リネットは顔を上げ、もう一度、街を見た。
「古都アルムジカ……かぁ」
穏やかな昼下がり。歩く人々の表情は柔らかく、子どもはパンを片手に走り回っている。道の端では、年配の女性が赤い花に水をやっていて、濡れた土の匂いがわずかに立った。
「魔王軍との最前線……。そんな歴史があるのに、こんなに穏やかな町並みだなんて……」
ぽつり、と独り言がこぼれる。
けれど、穏やかさの裏側にある“整い方”も、リネットの目は見逃さなかった。交差点の角、街灯の柱、建物の軒先――よく見れば、同じ模様が彫られた小さな金具が取り付けられている。飾りにしては、配置が規則正しすぎる。
(……あれ、もしかして……)
魔法の気配。村で教わった“守り”の香りに似ている。あからさまじゃないのに、街全体がゆっくり呼吸しているみたいな、薄い膜。
ふと、視線の先で、鎧姿の衛兵が二人、門の横で立っているのが見えた。肩の力は抜けているのに、目だけは周囲を滑らかに追っている。旅人らしい人が通ると、軽く会釈して、何かあれば声をかけられる距離を保っている。
それが、嫌な緊張じゃない。
“守られている安心”だけが、街の空気として漂っている。
(……世界一治安がいい、って、こういうことなのかな)
リネットは小さく息を吐いた。旅の最初の街がここでよかった、と胸の奥がじんわり温かくなる。
その温かさに、現実が追い打ちをかける。
『くぅ~』
腹の底から、はっきりと鳴った。
「っ……」
リネットは慌てて周りを見渡す。さっきまで気にならなかった視線が、急に怖くなる。頬が熱い。耳まで赤くなった気がして、思わず地図を盾みたいに持ち上げた。
――けれど、幸い誰も気にしていない。
近くの露店の男は、リンゴを磨く手を止めず。通りすがりの子どもは笑いながら走り去り、犬はくんくんと地面を嗅いでいる。世界は、リネットのお腹よりずっと忙しい。
(ず、ずっと歩いてたから……お腹減ってきちゃった……。よし、まずは何か食べよっと)
決めた途端、鼻が勝手に仕事を始めた。
甘い香りが強いほうへ。次に、肉の香ばしさが漂うほうへ。湯気の温度が濃いほうへ。
石畳を踏む靴音が、軽くなる。視線は看板を探し、耳は焼き窯のぱちぱちいう音を探す。曲がり角をひとつ越えると、風がふっと向きを変え、焼きたての小麦の匂いが真正面からぶつかってきた。
(……当たり!)
胸が、きゅっと弾む。
通りの先に、小さな店が見える。木の看板に、麦の絵。扉の隙間から、温かい空気と一緒に香りが漏れていた。窓の向こうには、こんがり色づいたパンが並んでいるのがちらりと見える。
リネットは喉を鳴らしそうになるのを堪え、服の裾を整えた。旅の埃を払うみたいに、両手で軽く叩く。髪も指でさっと直す。村では必要なかった動作が、街ではなぜか“ちゃんとしておきたくなる”から不思議だ。
扉の前に立つと、焼けた木の匂いが鼻先に触れた。取っ手は、少しだけ温かい。
リネットは一度だけ息を吸って――
ぎゅ、と取っ手を握り、店の中へ足を踏み入れた。
「あら、いらっしゃい! 見ない顔だね?」
扉の鈴がちりん、と軽く鳴った直後。カウンターの奥から、女主人がひょこっと顔を出した。焼き窯の熱で頬がほんのり赤く、腕まくりした前腕には粉が薄く舞っている。笑うと目尻がきゅっと寄って、あったかい店の匂いそのままの人だった。
「私、いま旅をしてまして」
口にしたのは、なんてことのない言葉。けれど、言い終わった瞬間――リネットの胸の中で、小さな花火がぱちんと弾けた。
(っ~! “旅をしてまして”だって! 言ってみたかったんだよなぁ……!)
自分で言って、自分で感動する。馬鹿みたい、と分かってるのに止まらない。旅人って響きは、村で地図を眺めていた頃から、ずっと憧れの札みたいにきらきらしていたから。
女主人はそんな内心なんてお構いなしに、豪快に笑う。
「そうかい! じゃあ、好きなところに座っておくれよ!」
促され、リネットは店内を見回した。木の床板は磨かれていて、足音が柔らかい。窓際の席には赤い花が一輪挿しに活けられ、外の光が花弁を透かしている。カウンター席には常連らしい男が肘をつき、パンをちぎりながら何かを話していた。
リネットは壁際の、一人用の小さな丸テーブルに腰を下ろす。椅子がきゅ、と控えめに鳴った。その音だけで「今、私ってお客さんなんだ」って実感が増して、背筋がつい伸びる。
ほどなくして、女主人が布巾で手を拭きながら近づいてきた。
「で、何が食べたい?」
近くに来ると、焼けた小麦と、肉の脂と、ハーブの匂いがより濃くなる。空腹が喉の奥をきゅっと掴んだ。
「こちらのお店は何を扱っているんですか?」
リネットはできるだけ落ち着いた声を作った。旅慣れてる人みたいに。――実際は、胸の中で小鹿が跳ね回ってるのに。
「ここはね、蒼眼の巨鹿《サファイア・エルク》の上質な肉を使ったソーセージを挟んだパンが売りだよっ!」
女主人は豊かな胸を反らし、誇らしげに胸を張った。まるで「うちの看板を聞いて驚け!」と言わんばかりだ。
「蒼眼の巨鹿っ!??」
声が裏返りかけた。
蒼眼の巨鹿。深く澄んだサファイアブルーの瞳で、大気中の魔力の流れを“見て”しまう鹿。魔法の発動――詠唱や手の動き、その前兆を読み取って、信じられない反応速度で回避する。魔法使い泣かせの魔物だ。
しかも数が少ない。村でも、狩れること自体が滅多にない。食卓に上がるなんて、祭りの年でもあるかどうか――
「そ、そ、そ、それにします!」
自分でも分かる。早口で、ちょっと必死。恥ずかしい。でも止められない。だって、蒼眼の巨鹿なのだから。
「はいよ! 毎度あり!」
女主人は軽く片目をつぶって、ぱん、と手を叩いた。その陽気さに救われて、リネットはようやく息を吐く。
(まさかこんな所で蒼眼の巨鹿のお肉にありつけるなんて……!)
胸の奥から湧き上がる高揚感を、両手で抱きしめるみたいに味わった。旅に出たんだ。村の外には、本当に知らないものがある。憧れは、ちゃんと現実になる。
~*~*~*~
「お待ちどうさま! 味わって食べてね!」
数分後。
女主人が木の皿を運んできた。皿の上には、ふっくらと焼けたパン。その切れ目から、肉汁を含んだソーセージがのぞいている。表面にはこんがりと焼き色がついて、ところどころ脂ePに香草が散っていた。
湯気がふわり、と立ちのぼる。
香ばしさが鼻を直撃して、唾液が一気に口の中に集まった。口元からよだれが垂れそうになるのを、リネットはぐっと堪える。
(だ、だめだめ……落ち着け……! ここは村じゃないんだから……!)
パンの焼けた香り。脂が弾けた匂い。鼻腔の奥をくすぐるハーブ。
リネットは、恐る恐る両手でパンを持ち上げる。
そして、小さな一口。
歯が触れた瞬間、パンの表面がカリッと小気味よく割れた。香ばしさがまず舌に広がり、次の瞬間――中から溢れ出したのは、ただの肉汁じゃない。
熱い。
濃い。
甘いのに、くどくない。
塩気が芯を通し、ハーブの香りが後ろから追いかけてきて、最後に脂の旨みがふわりと広がる。まるで舌の上で、何層もの香りが順番に花開いていくみたいだった。
(……なに、これ……)
上質、なんて言葉じゃ足りない。上等、と言っても追いつかない。噛めば噛むほど、肉の繊維がほろりとほどけて、旨みが逃げるどころか増えていく。焼けた皮のパリッとした歯触りと、中の肉の弾力がちょうどよくて、口の中が一瞬で「満たされる音」でいっぱいになる。
リネットは、小さな一口を頬張っただけで――目が、すん……と遠くなった。
魂が、この世から離れてしまったみたいな顔。
そのまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……ぁ……」
声にならない声が漏れる。恥ずかしいとか、行儀がどうとか、そういうものが今だけ完全に消えた。消えていい。消えないほうが不自然だ。だってこれは――
(……旅に出てよかった……)
もう一口。
今度は少しだけ大きくかじる。カリッ、という音がさっきより確かで、その瞬間また肉汁がとろりと溢れ、パンが吸って香りが立つ。
リネットは、思わず両手でパンを抱え直した。逃したくない、というみたいに。木の皿の上に落ちた一滴さえ惜しくて、視線で追いかけてしまう。
そう思ったのに、次の瞬間にはまた、ふにゃりとした顔で噛んでいる。無理だった。旅人だろうが何だろうが、これは無理だ。
ふと、近くの席からくすりと笑う気配がした。誰かの優しい笑い声。リネットはびくりとしたが、視線を上げる余裕がない。今、顔を上げたら絶対にばれる。幸福に溺れている顔を見られる。
だから、リネットは誤魔化すように、もう一口かじった。
――そして、誤魔化しきれないほど幸せになった。
店の外では、石畳を歩く靴音が続いている。誰かが笑い、遠くで馬が鼻を鳴らす。窓辺の赤い花が風に揺れ、その影がテーブルの端で小さく踊る。
この街は穏やかで、温かくて、そして――おいしい。
リネットは口いっぱいに広がる旨みを、ゆっくり噛みしめながら思った。
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夢は、空想で終わらない。
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