リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

文字の大きさ
7 / 23

7話:空腹の少女と古都

しおりを挟む
  村を離れて数日。足の裏の痛みは、いつの間にか「当たり前の重さ」になっていた。

   山道の冷たい風も、夜の獣の遠吠えも、いちいち胸を跳ねさせた最初の頃とは違う。驚きは薄れないのに、身体だけが旅人の形を覚えはじめている――そんな感覚。

   そして今、目の前に広がる景色が、その疲れをふっと溶かした。

   石畳の道が陽に温められて、淡く白く光っている。木組みの家々は可愛らしく、梁や柱の濃い色が、壁の淡い漆喰と絵みたいに映えていた。窓辺には赤い花。風に揺れるたび、花弁が小さな旗みたいに踊る。

   どこからともなく、香ばしい匂いが流れてくる。

   焼けたパンの甘い香りに、脂の乗ったソーセージの匂い。そこへ、ハーブの青い刺激と、煮込みの湯気のやわらかさまで混ざって――鼻の奥が勝手に「お腹を空かせる準備」を始めてしまう。

  (……すごい。村と、ぜんぜん違う)

   リネットは立ち止まったまま、視線だけを忙しく動かす。看板の文字。馬車の車輪が石畳を叩く音。噴水の水が弾ける高い音。人の話し声も、村のように少人数の響きではなく、いくつもの流れが同時に耳をくすぐってくる。

   母から受け取った地図を取り出し、広げる。紙は何度も折りたたまれて角が少し丸い。そこに書かれた一文が、リネットの指先を止めた。

   ――かつては魔王軍との最前線だったが、現在は「世界一治安の良い街」として知られる。

   この地の名は、古都アルムジカ。

   リネットは顔を上げ、もう一度、街を見た。

   「古都アルムジカ……かぁ」

   穏やかな昼下がり。歩く人々の表情は柔らかく、子どもはパンを片手に走り回っている。道の端では、年配の女性が赤い花に水をやっていて、濡れた土の匂いがわずかに立った。

  「魔王軍との最前線……。そんな歴史があるのに、こんなに穏やかな町並みだなんて……」

   ぽつり、と独り言がこぼれる。

   けれど、穏やかさの裏側にある“整い方”も、リネットの目は見逃さなかった。交差点の角、街灯の柱、建物の軒先――よく見れば、同じ模様が彫られた小さな金具が取り付けられている。飾りにしては、配置が規則正しすぎる。

  (……あれ、もしかして……)

   魔法の気配。村で教わった“守り”の香りに似ている。あからさまじゃないのに、街全体がゆっくり呼吸しているみたいな、薄い膜。

   ふと、視線の先で、鎧姿の衛兵が二人、門の横で立っているのが見えた。肩の力は抜けているのに、目だけは周囲を滑らかに追っている。旅人らしい人が通ると、軽く会釈して、何かあれば声をかけられる距離を保っている。

   それが、嫌な緊張じゃない。

   “守られている安心”だけが、街の空気として漂っている。

  (……世界一治安がいい、って、こういうことなのかな)

   リネットは小さく息を吐いた。旅の最初の街がここでよかった、と胸の奥がじんわり温かくなる。

   その温かさに、現実が追い打ちをかける。

  『くぅ~』

   腹の底から、はっきりと鳴った。

  「っ……」

   リネットは慌てて周りを見渡す。さっきまで気にならなかった視線が、急に怖くなる。頬が熱い。耳まで赤くなった気がして、思わず地図を盾みたいに持ち上げた。

   ――けれど、幸い誰も気にしていない。

   近くの露店の男は、リンゴを磨く手を止めず。通りすがりの子どもは笑いながら走り去り、犬はくんくんと地面を嗅いでいる。世界は、リネットのお腹よりずっと忙しい。

  (ず、ずっと歩いてたから……お腹減ってきちゃった……。よし、まずは何か食べよっと)

   決めた途端、鼻が勝手に仕事を始めた。

   甘い香りが強いほうへ。次に、肉の香ばしさが漂うほうへ。湯気の温度が濃いほうへ。

   石畳を踏む靴音が、軽くなる。視線は看板を探し、耳は焼き窯のぱちぱちいう音を探す。曲がり角をひとつ越えると、風がふっと向きを変え、焼きたての小麦の匂いが真正面からぶつかってきた。

  (……当たり!)

   胸が、きゅっと弾む。

   通りの先に、小さな店が見える。木の看板に、麦の絵。扉の隙間から、温かい空気と一緒に香りが漏れていた。窓の向こうには、こんがり色づいたパンが並んでいるのがちらりと見える。

   リネットは喉を鳴らしそうになるのを堪え、服の裾を整えた。旅の埃を払うみたいに、両手で軽く叩く。髪も指でさっと直す。村では必要なかった動作が、街ではなぜか“ちゃんとしておきたくなる”から不思議だ。

   扉の前に立つと、焼けた木の匂いが鼻先に触れた。取っ手は、少しだけ温かい。

   リネットは一度だけ息を吸って――

   ぎゅ、と取っ手を握り、店の中へ足を踏み入れた。

  「あら、いらっしゃい! 見ない顔だね?」

   扉の鈴がちりん、と軽く鳴った直後。カウンターの奥から、女主人がひょこっと顔を出した。焼き窯の熱で頬がほんのり赤く、腕まくりした前腕には粉が薄く舞っている。笑うと目尻がきゅっと寄って、あったかい店の匂いそのままの人だった。

  「私、いま旅をしてまして」

   口にしたのは、なんてことのない言葉。けれど、言い終わった瞬間――リネットの胸の中で、小さな花火がぱちんと弾けた。

  (っ~! “旅をしてまして”だって! 言ってみたかったんだよなぁ……!)

   自分で言って、自分で感動する。馬鹿みたい、と分かってるのに止まらない。旅人って響きは、村で地図を眺めていた頃から、ずっと憧れの札みたいにきらきらしていたから。

   女主人はそんな内心なんてお構いなしに、豪快に笑う。

  「そうかい! じゃあ、好きなところに座っておくれよ!」

   促され、リネットは店内を見回した。木の床板は磨かれていて、足音が柔らかい。窓際の席には赤い花が一輪挿しに活けられ、外の光が花弁を透かしている。カウンター席には常連らしい男が肘をつき、パンをちぎりながら何かを話していた。

   リネットは壁際の、一人用の小さな丸テーブルに腰を下ろす。椅子がきゅ、と控えめに鳴った。その音だけで「今、私ってお客さんなんだ」って実感が増して、背筋がつい伸びる。

   ほどなくして、女主人が布巾で手を拭きながら近づいてきた。

  「で、何が食べたい?」

   近くに来ると、焼けた小麦と、肉の脂と、ハーブの匂いがより濃くなる。空腹が喉の奥をきゅっと掴んだ。

  「こちらのお店は何を扱っているんですか?」

   リネットはできるだけ落ち着いた声を作った。旅慣れてる人みたいに。――実際は、胸の中で小鹿が跳ね回ってるのに。

  「ここはね、蒼眼の巨鹿《サファイア・エルク》の上質な肉を使ったソーセージを挟んだパンが売りだよっ!」

   女主人は豊かな胸を反らし、誇らしげに胸を張った。まるで「うちの看板を聞いて驚け!」と言わんばかりだ。

  「蒼眼の巨鹿っ!??」

   声が裏返りかけた。

   蒼眼の巨鹿。深く澄んだサファイアブルーの瞳で、大気中の魔力の流れを“見て”しまう鹿。魔法の発動――詠唱や手の動き、その前兆を読み取って、信じられない反応速度で回避する。魔法使い泣かせの魔物だ。

   しかも数が少ない。村でも、狩れること自体が滅多にない。食卓に上がるなんて、祭りの年でもあるかどうか――

  「そ、そ、そ、それにします!」

   自分でも分かる。早口で、ちょっと必死。恥ずかしい。でも止められない。だって、蒼眼の巨鹿なのだから。

  「はいよ! 毎度あり!」

   女主人は軽く片目をつぶって、ぱん、と手を叩いた。その陽気さに救われて、リネットはようやく息を吐く。

  (まさかこんな所で蒼眼の巨鹿のお肉にありつけるなんて……!)

   胸の奥から湧き上がる高揚感を、両手で抱きしめるみたいに味わった。旅に出たんだ。村の外には、本当に知らないものがある。憧れは、ちゃんと現実になる。


   ~*~*~*~


  「お待ちどうさま! 味わって食べてね!」

   数分後。

   女主人が木の皿を運んできた。皿の上には、ふっくらと焼けたパン。その切れ目から、肉汁を含んだソーセージがのぞいている。表面にはこんがりと焼き色がついて、ところどころ脂ePに香草が散っていた。

   湯気がふわり、と立ちのぼる。

   香ばしさが鼻を直撃して、唾液が一気に口の中に集まった。口元からよだれが垂れそうになるのを、リネットはぐっと堪える。

  (だ、だめだめ……落ち着け……! ここは村じゃないんだから……!)

   パンの焼けた香り。脂が弾けた匂い。鼻腔の奥をくすぐるハーブ。

   リネットは、恐る恐る両手でパンを持ち上げる。

   そして、小さな一口。

   歯が触れた瞬間、パンの表面がカリッと小気味よく割れた。香ばしさがまず舌に広がり、次の瞬間――中から溢れ出したのは、ただの肉汁じゃない。

   熱い。

   濃い。

   甘いのに、くどくない。

   塩気が芯を通し、ハーブの香りが後ろから追いかけてきて、最後に脂の旨みがふわりと広がる。まるで舌の上で、何層もの香りが順番に花開いていくみたいだった。

  (……なに、これ……)

   上質、なんて言葉じゃ足りない。上等、と言っても追いつかない。噛めば噛むほど、肉の繊維がほろりとほどけて、旨みが逃げるどころか増えていく。焼けた皮のパリッとした歯触りと、中の肉の弾力がちょうどよくて、口の中が一瞬で「満たされる音」でいっぱいになる。

   リネットは、小さな一口を頬張っただけで――目が、すん……と遠くなった。

   魂が、この世から離れてしまったみたいな顔。

   そのまま、ゆっくりと息を吐いた。

  「……ぁ……」

   声にならない声が漏れる。恥ずかしいとか、行儀がどうとか、そういうものが今だけ完全に消えた。消えていい。消えないほうが不自然だ。だってこれは――

  (……旅に出てよかった……)

   もう一口。

   今度は少しだけ大きくかじる。カリッ、という音がさっきより確かで、その瞬間また肉汁がとろりと溢れ、パンが吸って香りが立つ。

   リネットは、思わず両手でパンを抱え直した。逃したくない、というみたいに。木の皿の上に落ちた一滴さえ惜しくて、視線で追いかけてしまう。

   そう思ったのに、次の瞬間にはまた、ふにゃりとした顔で噛んでいる。無理だった。旅人だろうが何だろうが、これは無理だ。

   ふと、近くの席からくすりと笑う気配がした。誰かの優しい笑い声。リネットはびくりとしたが、視線を上げる余裕がない。今、顔を上げたら絶対にばれる。幸福に溺れている顔を見られる。

   だから、リネットは誤魔化すように、もう一口かじった。

   ――そして、誤魔化しきれないほど幸せになった。

   店の外では、石畳を歩く靴音が続いている。誰かが笑い、遠くで馬が鼻を鳴らす。窓辺の赤い花が風に揺れ、その影がテーブルの端で小さく踊る。

   この街は穏やかで、温かくて、そして――おいしい。

   リネットは口いっぱいに広がる旨みを、ゆっくり噛みしめながら思った。

   旅は、怖いだけじゃない。

   夢は、空想で終わらない。

   この一口が、それをはっきり教えてくれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...