リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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17話:ギルドでの情報収集

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 リネットは冒険者ギルドの重厚な扉の前で足を止め、一度だけ深く呼吸を整えた。

   鉄製の取っ手に手をかけると、夕方の冷え込みを吸った金属の感触が、じわりと掌に張りつく。彼女は体重を乗せ、軋む音とともにその扉を押し開けた。

   店内に満ちていた熱気はすでに引いている。

   夕方の業務終了間際、静けさが戻りつつあるロビーを見渡し、リネットは内心で安堵した。

  (良かった。まだあの受付嬢がいた)

   カウンターの向こう、書類の山を整理していた女性が、来訪者の気配に顔を上げる。

   業務の片付けに入っているはずなのに、彼女の笑顔は少しも崩れていない。

  「あら、いらっしゃいませ!」

   受付嬢は胸に手を当て、まるで劇場の舞台挨拶のように優雅で洗練されたお辞儀をした。

   無駄のない、仕事が身体に染みついた所作。それが逆に、冒険者たちにとってこの場所が“帰ってくるべき日常”なのだという安心感を作っていた。

  「どうでした?」

  「もう少し情報が欲しくて……」

   リネットの声は穏やかだ。だが、その内側では狩人としての焦点が鋭く絞られている。森で感じた「作為的な無」という違和感が、まだ喉の奥に小骨のように残っているのだ。

  「私が教えられる事なら、なんでも!」

  「ありがとうございます。まずは、被害者の傷の度合いってどうでした?」

  「えっ?? 被害者の……怪我ですか?」

   受付嬢は鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くし、数回瞬きをした。

   予想していなかった問いだ。冒険者が血眼になって聞きに来るのは通常、目撃情報や魔物の特徴、出現場所の精度といった「狩るための情報」だ。過ぎ去った被害、それも怪我の内容そのものに食いつく者は、そう多くない。

  「ええ。私が現場を見たんですけど、どうにも腑に落ちなくて」

   リネットの真剣な眼差しを受け、受付嬢の表情が困惑から“理解しよう”とする色へ切り替わる。彼女はすぐに頷いた。

  「分かりました! いま書類を取ってきますね! 少々お待ち下さい!」

   パタパタ、と軽い足音が鳴る。

   受付嬢は制服の裾を翻し、カウンターの奥――資料室へと小走りで消えていった。

   その背中を見送りながら、リネットは小さく肩を落とす。

  (焦らなくていいのに……)

   直後、奥から――。

   ドサッ!

   何かが雪崩れるような乾いた重音が響き、続いて「あ痛っ」という情けない声が聞こえてきた。

   どうやら、積まれた紙束の山でも崩したらしい。リネットの口元が、ほんの少しだけ緩む。張り詰めた緊張の中で、こういう瞬間だけ、ギルドの空気はひどく人間臭い。

   数拍遅れて、受付嬢が戻ってきた。

   頬がほんのり赤く、髪が少し乱れている。けれど仕事は早い。

  「お待たせしました!」

   彼女はペラリとした一枚の羊皮紙を、インクで汚れていない指先で摘んで差し出した。

   ランプの灯りに薄い紙が透け、そこに記された筆記体の影が揺れる。

  「では、被害者の怪我の確認ですが……」

   受付嬢は目線を落として読み上げる。その淡々とした声に、事実だけが持つ事務的な重みが混じる。

  「皆さん、同じ場所を怪我していますね。爪による引っ掻き傷が右腕にしっかりと残されていた……とのことです」

   その瞬間、リネットの瞳がスッと細くなった。

  「ちょっと待ってください。噛みつきじゃなくて、引っ掻き傷ですか?」

  「え、ええ」

   受付嬢は即答するが、その声にはわずかな不安が滲んでいた。

   目の前の少女の反応が、単なる確認作業ではなく、獲物を追い詰める狩人のそれに変わったことを肌で察したのだ。

  (……どう考えてもおかしい)

   リネットは羊皮紙の文字を目で追いながら、頭の中で状況を立体的にシミュレーションし始めた。

   普通、森の中での咄嗟の襲撃なら、被害者は必死に抵抗する。

   腕を上げて顔を庇う者もいれば、身を捻って逃げようとする者、驚いて転ぶ者もいるはずだ。当然、怪我の場所はばらける。傷の深さも角度も、体格差によって個人差が出るのが自然だ。

   それなのに――四人全員が、右腕に“爪で引っ掻かれた傷”。

  (……ありえない。揃いすぎている)

   判で押したような傷跡。

   そして決定的に、もう一つ。致命的な矛盾がある。

  (それに狼型の魔物が、わざわざ引っ掻く?)

   狼が獲物を仕留めるなら、基本戦術は飛びかかって喉元へ噛みつくことだ。

   彼らにとって、牙こそが最大の武器であり、爪は走るためのスパイク、あるいは獲物を地面に押さえつけるための補助に過ぎない。

   相手を裂くために爪を使うにしても、その動作は必ず“噛みつき”とセットになるはずだ。爪だけの攻撃など、よほど特殊な状況でなければ起こり得ない。

   引っ掻きだけで、しかも右腕だけを執拗に狙い続けるなど、腑に落ちないにも程がある。

   それは無秩序な“獣の衝動”ではなく、明確な“意図”の匂いがした。

   リネットはゆっくり顔を上げ、受付嬢を見た。ランプの灯りの下で、その瞳は静かに、しかし冷たく燃えている。

  「……傷の深さは?」

   その問いは、次の扉を開けるための鍵だった。

  「えっと……。はい、どの方も軽傷ですね」

   受付嬢の声は、申し訳なさそうに尻すぼみになった。

   彼女自身も、どこか“拍子抜け”しているのだろう。魔物の襲撃と聞けば、もっと血なまぐさい報告が並ぶはずだ。骨折、深い裂傷、大量出血――そういった現実の重さが、この報告書には欠落している。

  「………」

   リネットは返事をせず、羊皮紙を見つめたまま押し黙った。

   軽傷。しかも全員、右腕の引っ掻き傷。

  (これは……魔物の仕業じゃないかもしれない)

   その考えが脳裏をよぎった瞬間、昼間の森で感じた“綺麗すぎる静けさ”が、まったく別の形で意味を帯び始めた。

   痕跡がないのは、魔物が巧妙に隠したからではない。そもそも最初から――“魔物がいない”のだとしたら?

   だが、今ここで断じるのは危うい。

   推測が確信へ変わるには、まだ材料が足りない。リネットは自分の中で組み上がりかけた結論を、いったん握り潰すように胸の奥へ沈めた。

  (今日はもう暗い。明日の朝、また森へ行ってみよう)

   窓の外を見れば、すでに夕闇が濃くなっている。今から森へ戻るのは自殺行為だ。

   焦って判断を誤れば、もし相手が知恵の回る“人”だった場合、なおさら厄介なことになる。夜は目が利かず、土地勘のない人間にとっては相手の思う壺だ。

   リネットは羊皮紙を丁寧にカウンターへ返し、受付嬢へ向き直る。声の調子を、意識して柔らかく整えた。

  「受付嬢さん、私のわがままな質問に答えて下さり、ありがとうございました。明日、また調査してみますね」

  「え、ええ……役に立てたのなら良かったのだけど……」

   受付嬢の瞳が揺れた。

   そこには安堵ではなく、不安が滲んでいた。リネットが“何か良からぬ正体を掴みかけている”雰囲気が、逆に彼女を怖がらせてしまったのかもしれない。

  「冒険者さん! お願いします! 原因やきっかけが分かったら教えてください……! 実は怖くてしょうがなかったんですよ……」

   胸の前で手を握りしめる白い指が、かすかに震えている。

   ギルドのカウンターの中にいる間は仕事の仮面で隠せても、夜が来れば恐怖は足元からまとわりつく。町に近い森で起きる“正体のわからない被害”ほど、市民の心を削るものはない。

  「分かりました。なにかわかったら、必ず教えますね」

   リネットはきっぱり頷くと、ぺこりと頭を下げた。

   約束は軽く口にするものではない。だからこそ、短く、確かな言葉で告げる。

   そして彼女は重い扉を押し、ギルドを後にした。

            * * *

   夜の匂いが街に降りてくる。

   屋台の灯りが点り始め、石畳には橙色の光が揺れている。行き交う人の声はまだ多いのに、空の色が暗いというだけで、世界は少しだけ“別の顔”を見せていた。

   リネットは雑踏を歩きながらも、思考の糸を手放さなかった。

   軽傷。右腕。引っ掻き。痕跡なし。

  (右腕だけを狙う理由って何? 盾を構えた位置? それとも利き腕を封じるため? それとも――)

   そこまで考えたところで、背後から空気をぶち破るような声が飛んできた。

  「リネットォォォォォォ!!!!!」

  「あっ」

   反射的に振り向いた瞬間、遠くから小柄な影が弾丸のように一直線に突撃してくるのが見えた。

   避ける間もない。勢いのまま、視界いっぱいに涙目で膨れた頬が迫った。

  「もう! リネットさん!! 次の場所に行っちゃったのかとおもいましたよ!!」

   コルンが息を弾ませ、華奢な胸を上下させながら抗議する。

   トウモロコシのひげのようなふわふわの髪を揺らし、頬をぷくっと膨らませたまま見上げてくるその顔は、怒っているのに「会えてよかった」と心底ほっとしているのが丸わかりだった。

   その矛盾が、かえって彼特有の愛嬌になっていた。

  「ごめんごめん。私もギルドで調査してる事があって。それを調べてたら、コルンとまた合流するの忘れちゃってたんだ」

  「忘れたって!! もうっ! 気を付けてくださいね!!」

   ぷんすか、と言葉通りに怒っているのに、リネットの袖を掴んでいる細い指先は離れない。置いていかれる怖さが、そのまま怒りに化けているのだ。

   リネットは苦笑し、コルンの頭にそっと手を置きかけ――途中で思い直したように指先を引っ込めた。

   ただでさえ気弱な彼だ。ここで甘やかしすぎると増長する――というより、コルンの切実な不安を“ふざけて済ませる”みたいで不誠実な気がしたからだ。

   だから代わりに、視線をしっかりと合わせて、真面目なトーンで言った。

  「うん。次はちゃんと声かける。……心配させたね」

   夜の灯りが二人の影を長く伸ばし、街のざわめきが、先ほどよりも少しだけ優しく聞こえた。
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