リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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18話:結論

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  街外れの森へ足を踏み入れ、調査を始めてから――ほんの数分。

   唐突に、空気が目に見えない形で歪んだ。

   さっきまで柔らかく揺れていた枝葉のざわめきが、ピタリと止む。鳥の声が途切れ、風の流れだけが不自然に滞った。

   リネットがその違和感に気づき、足を止めた瞬間だった。

   気配が、複数。

   前から、横から、背後から。

   木々の影が剥がれるようにして、泥と鉄の臭いをまとった人影がじわりとにじり出る。

  「……っ!」

   気づけば、リネットとコルンは完全に包囲されていた。

   数は三、いや四。苛立ちと欲をそのまま纏ったような粘り気のある視線が、じっと二人を舐め回す。

  「な、な、な、なんですか!??」

   コルンが悲鳴に近い声を上げ、両手を顔の前で激しく横に振った。足元がもつれ、たたらを踏んで後ずさる。

   リネットは音もなく一歩だけ前に出て、さりげなくコルンを背に庇う位置に立った。肩の力を抜き、呼吸を浅く保つ。――相手を刺激せず、かつ即座に動ける距離感。

   その中の一人が、ニヤリと口角を吊り上げた。

  「嬢ちゃん。なんか最近現れた魔物について調べてるみたいじゃねぇか」

   低く、粘ついた声。

   その単語が出た瞬間、リネットの内側で、散らばっていた点と点が一気に線で繋がった。

  「……やめときな。『ベルゼヴォルフ』は恐ろしい魔物だ。嬢ちゃんなんか、たちまち食われちまうぜ」

   別の男が、わざとらしく肩をすくめてみせる。

   それは忠告の形をした、明白な脅しだった。

   リネットは表情を変えないまま、静かに言葉を返す。

  「……私は魔物の生態に関しては詳しいので、大丈夫です。それに、戦闘の腕も自信がありますから」

   声は落ち着いていた。挑発でも強がりでもなく、ただの事実を並べただけ。

   それなのに、場の空気がわずかに軋んだ。

   チッ、と露骨な舌打ちが飛ぶ。

   男たちのまとっていた偽善的な皮が剥がれ、苛立ちが乾いた音になって漏れ出した。

  「いいか? 嬢ちゃん。これは親切心で言ってやってんだぜ?」

  「そうそう。俺たちは、こんなに可愛い嬢ちゃんに危ない目にあって欲しくないんだよ」

   言葉が甘くなるほど、足音は遠慮を失っていく。

   距離が詰まり、大柄な男の影がリネットの視界を塞いだ。木漏れ日が一瞬だけ遮られ、鼻先に安酒と古い汗の酸っぱい臭いが濃厚に漂う。

   次の瞬間、荒れた指がリネットの顎にかかり――乱暴に、しゃくり上げられた。

  「……!」

  「だから、この依頼から手を引きな。この獲物依頼は俺たちが引き受けるからよ」

   無遠慮な力。近すぎる息遣い。

   背後でコルンが息を呑む気配がして、草を踏む小さな音までが耳に刺さった。

  (…………)

   リネットの胸の奥で、最後の疑念が音もなく崩れ落ちる。

  (やっぱり、そういうことなんだね)

   ベルゼヴォルフという正体不明の“魔物”。

   被害者全員の不自然な軽傷。痕跡が薄すぎる森。そして、調査を始めた途端に都合よく現れる“忠告役”――。

   全部、一本の糸で繋がる。それは偶然の顔をした、あまりに粗雑な必然だった。

   リネットは露骨に顔をしかめた。だが、すぐに振り払うことはしない。

   顎にかかった男の指先を、一度だけ冷ややかに見下ろした。

   爪の間にこびりついた泥汚れ、節の黒ずみ、獲物を威圧するための力の入れ方――その癖を舌先で味わうように確かめてから、ゆっくりと周囲の男たちへ視線を巡らせる。

   それは怯える獲物の目ではない。すでに相手の正体を掴み、解剖を終えた者の目だった。

  (さて……どう問い詰めようか)

   森の静けさが、再び重く沈み込む。ここから先は調査じゃない。――対峙だ。

   そう決めた瞬間、リネットは顎にかけられていた手を迷いなく振り払った。

   パシッ!

   乾いた音が短く空気を裂き、男の手首が弾かれて落ちる。反動で男の肩がわずかに揺れ、染みついた酒と汗の匂いが一拍遅れて鼻先に残った。

  「……お? んだよ」

   低く唸る声。そこには苛立ちと、予想外の反抗に対する驚きが滲んでいた。

   リネットは一歩も引かない。むしろ半歩だけ踏み込む。

  「ベルゼヴォルフだけど……あなたたちの仕業でしょ?」

   言葉が落ちた瞬間、森の空気がピシリと凍りついたように張り詰めた。

   枝先が震えたのか、どこかで乾いた葉が擦れる音がする。木漏れ日が微かに揺れて、男たちの輪郭だけが不自然に際立った。

  「……!!」

   一瞬。男たちの表情が揃って固まる。

   それは恐怖じゃない。図星を刺された人間にだけ生まれる、呼吸を忘れるような“間”だ。

  「何言ってんだい? 実際に被害者がいるわけだろ? それが俺たちの仕業だって?」

   男はとぼけた声色を作る。

   だが、言葉の端が尖り、視線が一瞬だけ宙を泳ぐ――その揺れを、リネットは見逃さなかった。

   彼女は静かに息を吸い、淡々と、まるで聞き分けのない子供に講義でもするように指を折ってみせる。

  「……全員が軽傷。しかも、右腕に爪の跡」

   一本、折る。

   次の言葉が来る前に、沈黙が一拍だけ落ちた。男たちは“続き”を止めたくて仕方ない顔をしているのに、口を挟むタイミングを掴めない。リネットの声は穏やかなまま、切っ先のように真っ直ぐだった。

  「狼型の魔物の武器は、爪じゃない。牙だよ」

   森に、断定が落ちる。

   木陰に溜まっていた湿り気さえ、その鋭さで裂けたように感じられた。

  「たまたまだろ。狼だって生きてるんだぜ? そんな動きに一貫性があることなんて、ありえるだろ?」

  「そうだね。だから私も迷った。でも一つだけ、どうしても理解できないところがあるんだ」

  「……?」

   リネットは首を傾けるでもなく、ただ相手の目の奥を射抜く。逃げ道を塞ぐ視線の圧だけで、輪の中心の空気がわずかに沈んだ。

  「傷跡の深さが、綺麗すぎるの。これに関してはどう説明するつもり? 凶暴なベルゼヴォルフが、人間を引っ掻くだけ引っ掻いて逃げるなんて」

   息を置いて、続ける。声の温度は変えないまま、言葉だけを積み上げていく。

  「ご丁寧に『ここは自分の領域だ』って、教えてくれてるのかな?」

      「……!!!」

  「そんなの、甘い。狼型の魔物は決まって肉食だよ。例外は飛びかかって、喉元を噛む。それが“獣”のやり方。引っ掻き傷だけ残して逃げるなんて、まずしない」

   リネットは淡々としていた。淡々としているからこそ、そこに嘘の入り込む隙がない。

   相手の反論を待つように、あえて一拍だけ間を置く。その短い沈黙が、男たちの喉を詰まらせた。

  「それが四人に、同じ場所に付けられる」

   言いながら、わずかに首を傾げる。問いかける仕草のはずなのに、瞳の奥には――答えがもう置かれている。

  「……これって、出来すぎじゃない?」

   沈黙。

   葉擦れの音が、やけに大きく聞こえた。

   男のひとりが無意識に拳を握りしめ、骨ばった関節が白く浮く。別のひとりは、木漏れ日の陽射しが眩しいとでも言うように視線を逸らした――逃げる場所が、もう目線にしか残っていないのだ。

   リネットはその揺れを拾い、言葉を急がず続ける。逃げ道を与えるふりをして、実際には一つずつ塞いでいく。

  「森に痕跡がないのも、説明がつく。それは魔物がいないから」

   男たちの肩が、わずかに強張った。

   安酒と汗の匂いの奥に、焦燥による嫌な湿り気が混じり始める。

  「“被害者”は襲われたんじゃない。……わざと傷を付けたってところじゃないかな?」

   リネットの視線が、男たちを一人ずつ貫いていく。

   それは挑発じゃない。観察だ。

   体重の掛け方、喉の動き、呼吸の乱れ――嘘をつく時にだけ出る“身体的な癖”が、木立の陰で浮き上がっていくのを冷静に見つめている。

  「そして、噂だけを膨らませる。“恐ろしい魔物・ベルゼヴォルフがいる”ってね」

   背後でコルンが息を呑んだ。緊張で喉が鳴ったのか、ヒュッという乾いた音が小さく落ちて、リネットの言葉に吸い込まれる。

  「……目的は何?」

   声が、ほんの少しだけ低くなる。柔らかさが消えるというより、鋼のような芯が露わになる感触だった。

  「森に人を近づけさせたくない? それとも――」

   一拍。

   男たちの間で、誰かがギリリと歯噛みする音を立てた。悔しさと焦りが混ざった、獣の唸りに似た短い音。

   取り繕う余地は、もうない。

   男たちの空気が変わった。

   さっきまで辛うじて張り付いていた“親切な忠告役”の仮面が音を立ててひび割れ、その下にあったものがドロリと滲み出る。

   怒りか、恐れか――あるいは最初から腹の底に沈めていた、混じりっけのない悪意か。

   リネットは一歩も動かないまま、ただ言い切る。

   声は低く、それでも揺らがずに、森の底へと沈んでいった。
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