リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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19話:ベルゼヴォルフ

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「……く、くくく」

   森の沈黙を破ったのは、押し殺したような笑い声だった。

   先ほど手首を払われた男――リーダー格であろう男が、肩を震わせている。

  「あーあ。参ったな。随分と魔物に詳しい様だ」

   男はゆっくりと顔を上げた。

   そこに焦りはもうない。あるのは、獲物を罠に嵌めた狩人のような、濁った愉悦だけだった。

  「ご名答だ、嬢ちゃん。お前の言う通り、野生の狼なら喉を噛む。衝動で動く。……“野生なら”な」

   リネットの眉が、ピクリと跳ねる。

   言葉の裏にある棘。推理の穴を突かれたような、嫌な予感が背筋を走る。

  「おい。出てこい」

   男が短く指を鳴らした。

   その乾いた音が合図だったかのように、男たちの背後の茂みがガサリと揺れる。

   現れたのは――一匹の獣だった。

   灰色の毛並み。鋭い眼光。

   紛れもなく、狼型の魔物。けれど、決定的に何かが違う。

   その首には、革と鉄で作られた無骨な首輪が食い込み、瞳からは生物らしい光が奪われている。ただ主人の命令を待つだけの、うつろな凶器。

  「……っ!そういうことだったの」

   リネットの瞳が揺らいだ。

   魔物がいないのではない。魔物を“飼って”いたのだ。

   彼女の常識――「魔物は野生で、衝動で動くもの」という前提が、ガラガラと崩れ落ちる。

  「こいつは俺たちの“商売道具”でな。命令すれば、右腕だけを軽く引っ掻く芸当も仕込んである」

   男は得意げに狼の頭を撫でた。愛情など欠片もない、道具の手入れをするような手つき。

  「手順は簡単だ。こいつを使って、俺たちは俺たちを傷付けるように指示をする」

  「んで、俺たちがギルドへ被害届を出すのよ」


  腕を捲りあげると そこには 狼の爪痕と思われる傷が残っていた。


  「当然、噂は広まる。“新種の魔物ベルゼヴォルフは危険だ”とな」

   男たちの包囲網が、じわりと狭まる。狼が低い唸り声を上げ、牙を剥く。

  「危険度が上がれば、ギルドは報酬金を吊り上げる。十分に金になったところで……こいつを殺して、死体を持っていけばいい」

   へらり、と男は笑った。

  「哀れな魔物だよなぁ? 人間に飼われて、悪役に仕立て上げられて、最後は金のために殺されるんだからよ」

   吐き気を催すような合理性。

   名声と金のために、魔物も、襲われる人間も、すべてを舞台装置として利用する悪意。

   それは、村で生きてきたリネットが一度も触れたことのない、“都市の闇”そのものだった。

  「……最低」

   リネットの口から、冷たい言葉が零れ落ちる。

   推理の甘さを恥じている暇はない。今、目の前にあるのは、許容できない外道だ。

  「最低で結構! だがな嬢ちゃん、知りすぎた代償は払ってもらうぜ」

   男が腕を振り下ろした。

  「やれ! 今度は“手加減なし”だ!」

   「GRRRRRR……!」

   命令を受けた狼たちが、弾かれたように地面を蹴る。

   右腕狙いの芸などではない。喉元を食いちぎるための、本気の殺意が迫る。

  「コルン、下がってて!」

   リネットは叫ぶと同時に、剣の柄に手をかけた。

   迷いは捨てろ。相手は魔物だけじゃない。

   ――人間こそが、本当の魔物になり得る存在なのだと、リネットは痛感した。

  「コルン、下がってて!」

   リネットは叫ぶと同時に、剣の柄に手をかけた。

   だが、抜刀するよりも速く、灰色の弾丸が肉薄していた。

   ――速い。

   野生の躊躇いがない。己の命を顧みない、特攻に近い速度。

   リネットの首目掛けて、ベルゼヴォルフは正確に牙を突き立てようとする。

  「くっ……!」

   リネットは剣を抜くのを諦め、両手で狼の喉元をガシリと抑え込んだ。

   ドサッ! と鈍い音が響き、彼女の背中が地面に叩きつけられる。体重差と勢いに押され、リネットは無防備に仰向けに倒れ込んだ。

   視界いっぱいに、涎を垂らす獣の口腔が迫る。

   狂ったように顎を開閉させ、ガチガチと硬質な音を鳴らしながら、リネットの喉笛を食いちぎろうと暴れる。

  「っ……!!! なんて力……!」

  「GAAAA!!!」

   首輪が食い込むのも構わず、狼は暴れ続ける。その瞳には、生物としての生存本能すらない。あるのは、主人への恐怖と、植え付けられた殺戮のプログラムだけ。

  「……! でも、甘い!!」

   リネットは呼吸を止め、瞬時に全身の筋肉を連動させた。

   押し付けてくる狼の力を、真正面から受け止めるのではなく――流す。

   彼女は片膝を狼の腹に当て、自ら後ろへ転がる勢いを利用して、大きく蹴り上げた。

   リネット流、対獣の体術――巴投げだ。

   世界が回転する。

   巨大な狼の体が、リネットの上を円を描いて宙を舞った。

   ダンッ!!

   背中から地面に叩きつけられる音が響く。

   だが、リネットがその隙に身を起こして体勢を整えた時には、ベルゼヴォルフはもう起き上がり、再び向かってきていた。

   痛みを感じていないのか。それとも、止まることを許されていないのか。

  (…………人に育てられて、命をこんなふうに扱われるなんて)

   構え直した剣の切っ先が、わずかに揺れた。

   リネットの中で、冷たく静かな怒りが芽生えていた。

   自身は魔物を狩る。

   だがそれは、生きる為だ。村を、大切な人たちを守る為だ。そこには命のやり取りとしての敬意がある。

   だが、目の前の魔物はどうだ?

   尊厳を奪われ、自由を奪われ、その上で尚、人の欲望の為だけに殺し、殺されることを強いられている。

   故にリネットは、最初の一撃に情けをかけてしまっていた。

   柄にもなく、どこかで助けられないかと思ってしまっていた。

   だが。

   GRRRR……!

   再び迫りくる牙の軌道を見て、リネットは悟る。

   どこを狙って来るのか、手に取るようにわかる。

   喉元、心臓、大腿動脈。

   すべてが一撃必殺の急所だ。この狼は、そう教え込まれてしまったのだ。人を殺す道具として完成してしまっている。

   もう、野生には戻れないだろう。

  「しょうがないよね……。ごめんね」

   リネットの声は、懺悔のように優しかった。

   彼女は踏み込んだ。

   牙が届くギリギリの間合い。死の領域へ、自ら飛び込む。

   狼が口を開けた瞬間、その顎の下を滑り込むように潜り抜け――。

   一閃。

   銀色の軌跡が、虚空を走った。

   すれ違いざまに放たれた刃が、ベルゼヴォルフの首を正確に捉え、その頭を跳ね飛ばした。

   鮮血が舞うよりも早く、リネットは血振るいをして剣を納める。

   ドサリ。

   物言わぬ肉塊が地面に落ち、森に静寂が戻った。

   首輪のついた首が、主人の足元まで転がっていく。

   うつろだった瞳から光が消え、ようやくその魔物は、道具としての役目から解放された。
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