晩ご飯泥棒は家庭の謎を解く。

kizu

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プロローグ

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プロローグ


「どうしてこんな簡単な尾行もまともにできねぇんだ!」
「ひっ!」

 事務所いっぱいに響く怒号と共に、大量の唾の飛沫を浴びせられ、牧原真幌(ルビ:まきはらまほろ)は思わず目を瞑って顔を背けた。

「おい真幌、怒られてるのにどこ向いてんだ」
「す、すいません……」

 上司の唾液を顔面で受けるのも、出来の悪い部下の仕事だ。仕方ないのだ。そう心に言い聞かせながら、真幌は恐る恐る前に向き直る。肩にかかる髪が若干湿ったように感じ、気持ち悪い。スーツの襟元に白い唾の泡がついている。

「はぁ。それでお前、どうしてマル対を見失ったんだ?」

 白髪まじりの角刈りのオヤジ――アケチ探偵事務所の所長、明地栄一(ルビ:あけちええいち)は、険しい表情のままため息をついて言った。タバコ臭い明地の息が顔の周りをもわっと覆い、真幌は絶望的な気分になりながら数秒間息を止める。
 マル対とは、尾行のターゲットを表す業界用語のようなものだ。真幌はここアケチ探偵事務所で、調査員として働いている。
 本日、運悪く任務の尾行に失敗した真幌は、明地にその報告にきていた。先に電話で話していたにもかかわらず、事務所のあるビルの三階まで駆け上がり、息も整わないまま馳せ参じたところ、初っ端から怒鳴られた。

「え、えっとですね、今回はマル対が人ごみの激しい道に入って。頑張ってついていったんですが、運悪く雑踏に呑まれ、見失ってしまって……」
「ほう。今日は午後から東京駅の方で張りこんでたんだったな。確か、営業マンの勤務態度調査の依頼だったはずだ。それで、今が一七時すぎ。俺に連絡してきたのは、見失ってすぐか?」
「はい、そうですね。少し捜したんですけど見つからなくて、すぐにでも連絡した方がいいと思って……」
「運悪く雑踏に呑まれてしまって、ねぇ」

 明地が真幌の言葉を繰り返して言った。真幌はこくこくと頷く。すると、明地が鋭く細めた目で真幌を見た。

「お前、わかってないと思ってるのか?」

 心臓がドクンと跳ねた。全身が一気に熱を持つのを感じながら、真幌は恐る恐る訊ねる。

「……どういうことですか?」
「俺が気づいてないとでも思ってるのか? お前が調査中、サボって買い食いをしたこと。サボるだけならまだしも、食べるのに夢中になっていたか、食い物を買いに行ってる間に犯人を見失ったんじゃないのか?」

 明地の言葉を受け、真幌の脳は急速に回転する。
 ――なぜだ。どうしてバレた。
 しかし考えがまとまらないまま、「買い食いなんて。証拠はあるんですか?」と、探偵に向けて追い詰められた犯人のようなセリフを吐いてしまう。

「昼飯を食べて出ていったお前が、調査中に間食を採ったことは、事務所に帰ってきたときからわかってた。重要なのは、日々の観察だ」
「だから、どうしてそんなこと言えるんですか。日々の観察?」
「ああ、そうだ。真幌お前、今日の買い食いに罪悪感があるんだろ?」

 明地に言われ、真幌ははっと息を呑む。明地は真幌の反応を窺うように言葉を溜めてから、ゆっくりと続けた。

「お前、調査から戻って俺の席にきたとき、息が荒れてたな。これは三階までエレベーターを使わず階段で上ってきた証拠だ。お前いつも、仕事中に無駄な間食をしたとき罪悪感からか階段を使うだろ。体重を気にしているのか。俺が知らないとでも思ってたのか? そんで、お前の口を見てみたら――」

 明地に視線を向けられて、真幌は口元を指で押さえる。

「リップを塗ってる普段より、唇がてかてか光ってる。油だろうな。コンビニでホットスナックのチキンでも買って食ったか? そしてそれが原因で、マル対を見失った可能性が高いと俺は考えた。どうだ?」

 真幌は自然と身震いしていた。ぞくぞくとした感覚が、下腹部を中心に手足の先まで駆け巡る。
 すごい、やっぱりすごい! 
 見事な観察眼、的確な推理、さすが明地所長だ。

「……食べたのは、ホットドックです。駅校内に新しいパン屋さんがオープンしてて」

 一応、事実だけははっきりしておこうと真幌は口にした。ホットドックの包み紙を食べやすいようめくり、再び顔を上げたその一瞬で、人ごみにマル対の姿を見失ったのだった。

「ふざけんな! そんなことはどうでもいいんだ。なんでリーマンのサボり調査に行ったお前が、堂々サボって帰ってきてんだ!」
「すっ、すいません!」
「謝ってすむか! 調査の失敗、これで何度目だ? 待て、無駄だから数えようとするな! 両手の指じゃ収まらねぇだろ!」

 真幌は九本上げた指をそっと丸めた。

「まったく、そんなだからお前は何年経っても見習いバイトのままなんだ。いい加減、自分でも焦れ!」

 その後、説教は陽が暮れるまで続いた。明地から解放されると、真幌は急いで内勤業務を片づける。日中外に出ていた分、作成すべき報告書が溜まっていた。しかし、いろいろと考え事をしてしまい、全て終わらせるのにかなり時間がかかってしまった。
 くそう、どうして自分ばかりこんなに働いているのだ。真幌は大きくため息をつく。事務所にはとっくに誰もいない。
 パンくらい買い食いしてもいいではないか。古来より探偵の調査のお供はあんぱんである。いや、別に間食が問題ではなかったのだ。そこで調査に失敗していなければ、何も言われることはなかった。
 不満は溜まるが、それと同時に仕事を器用にこなせない自分がもどかしく情けない。考えていると、どんどん落ちこんでしまう。

 夢を追い、上京してこの仕事を始めた真幌だが、時折そろそろ辞め時かもと感じることがあった。短大を卒業し、早五年、ずっとアルバイトのまま。正社員になれる気配もないし、フリーでやっていく自信もない。二五歳になってからは、母親からしょっちゅう、田舎に戻って結婚しろと言われるようになった。
 西新宿の雑居ビルに入っている事務所を出て、京王線の千歳烏山駅近くに借りているアパートの部屋に着いたときには、日付が変わる直前になっていた。

 最近、こんな毎日が続いている。
 きっと疲れていたのだろう。その日、真幌は気づかぬうちに眠りに落ちていた。
 そして、調査の失敗に落ちこみ、それなりに反省もしていたはずなのに、翌日真幌はたっぷり寝坊してしまう。
 最悪だった。
 だが、それだけで話は終わらない。
 大遅刻の焦りと絶望を吹き飛ばしてしまう衝撃の出来事が、真幌を待ち受けていた――。

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