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狐輪車
狐輪車【後編】
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翌日はいつ眠りに就いたのかも覚えていなくて。夢を見ることも無く、気が付けば朝日の眩しさに、目が覚めていた。
「…………」
寝起きのまだ全く回転していない頭で想うのは、昨日見た夢と、亡くなったヨネさんの魂を連れて行く妖怪の姿。黒い着物に花の柄。
……私の夢に出てきた女の人も、火車だったのだろうか。
火車。死んだ人の魂を死後の世界へと連れて行く妖怪。その火車に、小さい頃の私がどこかへと連れて行かれる夢。
それだと、なんで私はここでピンピンしているの?
そもそも、あんな手押し車も無かったし。
「――あれ」
それは数日後の事。特に事務所でする仕事もなく、妖怪を送り返すこともなく。街で異変が起きていないかと、ぐるぐると散歩がてら回っていたときの事だった。
「――――」
どうしましたか、と声をかけようとして。その伸ばした手が止まる。
……様子がおかしい。
体調が悪いでもない。危険そうな雰囲気を臭わしているでもない。ただ――そう、見た目が浮いていた。着物を着ていたのだ。黒い地色に、花弁が六枚ある橙の花の柄。そう、夢でみたまんまの着物だった。
「火車……!?」
眼の前で妖怪が、例の“おまじない”によってか、交差点に入れずにいるのだ。
やっぱり効果があったんじゃないか。と思うのと同時に、消防車のサイレンが聞こえ、背筋がひやりと寒くなった。その直後、突然ポケットの中の会社用携帯からけたたましく着メロが流れ、心臓が飛び跳ねる。
「わっ!? ……どうしたんです!?」
「今どこにおる? また火事が起きたんじゃけど……」
先輩にしては焦りの色が滲み出ているような声だった。消防車のサイレン直ぐに聞こえなくなってしまったけど、どこか近くで止まった様子はない。どこであったのかを尋ねると、自分の今いる場所からはそれほど遠くはなかった。
「あの、先輩――眼の前に火車がいるんですけど」
「火車が!? どういうことね」
たまたま町中を歩いていたら、偶然“おまじない”によって足止めされていたところに遭遇したと伝える。もしかしたら――もしかしたら、このままここに縛り付けておけば、被害に遭う人もいないのでは?
「黒い着物に橙色の花の柄が付いていますし、間違いないです。このままで――」
「橙色の花……? ――っ!! 今すぐそれを現場まで誘導しぃ!」
電話の先から聞こえてきたのは、今まで聞いたことのない程の語気の荒い声。
「え――」
「早ぅ! 間に合わんようになる!」
……間に合わなくなるって?
詳しいことを今、この場で聞きたいけれど――そんなことをしている暇はないと、先輩の口調から溢れ出ていた。眼の前で立ち往生していた火車を現場まで誘導すればいいと、それにどういう意味があるのかは分からないが、必要なのは――
「は、はい!」
通話を切り、ポケットの中へと携帯電話をしまう。
この交差点を通り抜けることができない原因が、本当に“おまじない”だとするなら……。四隅にある小石をどけてしまえばきっと――!
規則正しく。ほんの少しの労力でなされたその“おまじない”を崩すのも、同様にほんの少しだけの時間と体力で済ませることができた。あまりにあっけなさ過ぎて、本当にこれのせいで侵入を防いでいたのかと半信半疑になるぐらい。
それでも、実際に効果はあったようで。さっきまでウロウロとあたりを右往左往していた火車が、なんの迷いもないかのように真っ直ぐにサイレンが消えていった方へと歩きだしたのだ。
遠くで黒煙を上げているのが見える。ここから歩いて10分ぐらいはかかるだろうか。不安になりながらも、『誘導しろ』という先輩の言いつけを思い出す。彼女(?)について、一ブロック、二ブロックと区画を進んでいき、右に曲がったところで遠くで裏手から火の手を上げているのが見えた。
「酷い……!」
救急車の他に消防車も駆けつけており、全焼とまではいかないだろうけど、屋根の一部は既に焼け落ちていた。中に住んでいる人は? 怪我をしている人は? ……先輩が言っていた『間に合わなくなる』というのは誰のこと?
現場を目にしても依然として歩みの速度を変えることのない火車にしびれを切らし、家屋の正面まで走っていくと、腕組みをして苛立ちを隠さずに貧乏ゆすりをしているのが見えた。
「先輩!」
「遅いっ!!」
普段の気の抜けたような表情も、今では真剣そのもの。初めて先輩に怒られたかもしれない。それはそうだろう、先輩の言っていたことが本当ならば、命の危険が迫っている人がいるかもしれないのだ。
「す、すいませ――」
「けど――ようやった。なんとか間におうたらしい」
振り向けば、既に火車は自分の隣まで歩いて来ていて。そのまま横をすり抜けるように、救急隊員たちが運んだ担架の方へと向かっていく。その先には、応急処置として口元にマスクを当てられ救急車へと運び込まれていく負傷者の姿と――
「火車が……もう一人……?」
現実にある肉体は、確かに救急車へと載せられていた。魂の方はといえば、既に現場に来ていた火車が、自身が引いてきた手押し車へと乗せようとしているところだった。
二人の火車。どちらも黒い着物を着ているが、並んでいるとその違いがありありと分かる。着物の柄が明確に違うのだ。
橙の花があしらわれている方――私が連れてきた方の火車が、既に魂を乗せた手押し車を押そうとしたその手を、懐から取り出したキセルで叩き払う。
「止めた……!? どうして――」
「そりゃあ、ミスを咎められたけぇね」
叩かれた方はガタリと持ち手を取り落とし、そのままフッと煙のように掻き消えてしまった。残された手押し車の中で横たわる魂。それを、叩いた側の火車がそっと抱きかかえる。
「……見守っておけばええ。あのまま魂を病院にある身体まで連れていってくれるじゃろ」
「……え? えっ? どういうことです?」
事態が理解できず、頭の中は混乱していた。火車っていうのは死んだ人の魂を連れていくのが役割で――?
「つまりまだ助かる可能性がある魂を、先走って連れて行こうとしとったんよ」
「そんなのが許されるんですか!?」
そんなミスで人が死んでいいだなんて、認めるわけにはいかない。たとえあの妖怪が、人の直接の死因に関わっていないのだとしても。そう憤る私向けて先輩は、『怒っても詮無いことだ』と諭すように言う。
「……可能性があるといっても限りなく低かったんじゃろう。単純なシステムでも、間違うことがあるのは認めにゃならん。特に、『死後の世界』なんてものは、人の手でどうにかできるものじゃあない」
「でも――」
なるようにしかならない。いくら口に出したところで、何かが変わることはない。その事実に未だ納得できず、口を尖らせる。尖らせたくもなる。
「じゃけぇ、それを正す為に“あれ”が来たんよ。万に一つの奇跡が」
奇跡、と言った。その言葉を聞いても、あまりピンとは来ない。
正直、目の前で何が起こったのか、殆ど把握できていないのだから。
「――狐輪車。狐の輪の車。火車とは似て非なる、対を成す妖怪。人の生死を正しく見極め、まだ助かる魂を元の肉体へと導く妖怪」
「狐輪車……」
その名前を、頭の中で反芻する。
猫車ならぬ狐車。孤輪車と読んで狐輪車と書き。その実態は、火車と対を成す狐火車。
「奇跡というのは様々な細い糸が縒り合わあさって起こるもの。一つの小さな要因で、いとも容易く壊れてしまうもの。中途半端なおまじないが、かえって良いものに影響を及ぼすような形になるとは思ってもいなかったんじゃけど……当分はそれの撤去に忙しくなりそうじゃねぇ」
「――もしもし? こんな時間にどうしたんね」
「あ、母さん? 私じゃけど」
……しまった。先輩の広島弁ばかり聞いていたせいで、私まで方言が出てきかけてる。実家の方もそれほど田舎ではないけれど、母親も多少は口調に出ているから困る。
「はいはい、分かっとるよ。携帯に名前が出とるんじゃけぇ。で、なんかあったんかね。珍しいじゃないの」
「……うん。ちょっと昔のことを聞きたくて――」
――そう、わざわざ実家にいる母親にまで電話をかけて聞きたかったのは、自分の小さい頃の記憶。つい最近、夢で見た景色が――どうにも今回のことに関係がなかったとは思えないのだ。
「私って小さい頃、なにか変なこと言ってたりしてなかった?」
「ちょっと心当たりがありすぎて……」
割と辛辣なことを言われていた。同年代の親と比べて歳がまだ若いからか、茶目っ気が酷い。私が実家暮らしだった頃からそうだった。
……こちらで一人暮らしを始めてからしばらく経った今でも、時たまお米や野菜などの食良品を送ってくれているので、親には頭が上がっていない。
「もう! 真面目に聞いてるんだけど! ほら、『着物を着た女の人を見た――』とか、そんな感じのこと!」
「そんなこと言ったってねぇ……。あんた、幼稚園に上がってすぐの頃に大怪我したでしょう。交通事故に遭って頭を強く打って、大変だったの忘れたんかいね」
その時の衝撃で頭がおかしくなったと言っているのだろうか。下手をすると、その時になにかあったせいでこんな体質になったんじゃないか、とさえ勘繰ってしまう。
「……そんなことあったっけ」
「あのときは親族集まって凄かったんじゃけぇね。お爺ちゃんなんて、毎朝神社にお参りに行ったりして――」
私自身が生死の境を彷徨ったことがあるだなんて。
確かに病院に入院したことはあるような気がするけど……。
――あの夢は、実際にあった記憶だった。
私が交通事故に遭い、死の淵にあったところを――先日の火事の時のように、狐輪車が助けてくれた、ということなのだろう。
……万に一つの奇跡を、私も体験していた。
「――その花……」
――着物に描かれていた橙色の花。半ばラッパのように広がった六枚の花弁。細い雄しべが何本か飛び出しているその見た目は、ヒガンバナにどこか似ているような。
「こいつはじゃね、キツネノカミソリっていうんじゃけど」
「キツネの剃刀?」
「四国の方では、火車に亡骸を奪われないよう、お棺の上に剃刀をおく風習があったんじゃけど、狐輪車の代わりに追い払ってもらえるように願っていたのかもしれんね」
「刃が剃刀に似た形って言ってもそうは見えんじゃろ? 着物の柄に似ているから、という方がまだ信じられるじゃろうね」
「そんな大切な花なのに一輪だけでいいんですか? もっといっぱいあった方が……私採ってきますよ! どこに生えているです!?」
「ええのええの。“孤輪車”なんじゃけぇ、“一輪”で」
『お供えものってのは数じゃないんよ。気持ちよ、気持ち』とへらへらと笑う先輩。
「まぁ、ついでにこいつも――」
「それってカップ麺に入ってたやつじゃないですか!!」
きつねうどんのカップ容器から、アツアツだけどもペラペラの油揚げを摘み上げる先輩に、呆れた声しか出ない。花は流石に持ってはこなかったけれど、狐と聞いてピンとはきていた。
「……もう。御揚げは私が出しておくんでいいです」
行きに寄ったコンビニで買ってきたものを鞄から取り出す。……いまどきのコンビニはこんなものまで売っているのかと、少し驚いたけれど。
「駐車場の端っこに小さな鳥居があるじゃろ。そこに花と一緒に備えとき」
そう言いながら先輩は、皿を差し出すと共に袋から一枚取り出してカップ麺の中に投入した。どうせ二枚入りだったのだし、別に怒るようなことはしない。……それに、先輩の電話がなければ自分だって大きな過ちを犯すところだったのだから。
「キツネノカミソリ……」
先輩に渡された花を小さな花瓶に挿し、裏手から駐車場へと向かう。――この花だ。この花だけは、あの夢の中でも鮮明に記憶に焼付いていた。ヒガンバナの一種らしいけども、花びらは真っ赤ではなく存在感を主張しない静かな橙。どこかあの狐輪車の佇まいと似ている気がした。
当時は全くわけのわからないままに手を引かれていたのだろう。妖怪というのは“システム”、そこに感情などはなく、ただ役割を果たすだけの存在。
……そうは言うけども、そんなシステムに感謝をしたっていいかな。
「いままで忘れていてごめんね。助けてもらったんだよね……二度も」
危ないもの、恐ろしいもの、忌避すべきものと認識していた自分だったけど。こういう妖怪もいるのだと。もしかしたら、見えていないだけで。これまでもどこかで知らず知らずのうちに助けてもらっているのではないかと。
――妖怪がはっきり見えている先輩には、この世界がどう見えているのだろうと、そんなことをボンヤリと考えながら――
――紅く小さな鳥居の前で、『ありがとう』と、私は小さく呟いた。
「…………」
寝起きのまだ全く回転していない頭で想うのは、昨日見た夢と、亡くなったヨネさんの魂を連れて行く妖怪の姿。黒い着物に花の柄。
……私の夢に出てきた女の人も、火車だったのだろうか。
火車。死んだ人の魂を死後の世界へと連れて行く妖怪。その火車に、小さい頃の私がどこかへと連れて行かれる夢。
それだと、なんで私はここでピンピンしているの?
そもそも、あんな手押し車も無かったし。
「――あれ」
それは数日後の事。特に事務所でする仕事もなく、妖怪を送り返すこともなく。街で異変が起きていないかと、ぐるぐると散歩がてら回っていたときの事だった。
「――――」
どうしましたか、と声をかけようとして。その伸ばした手が止まる。
……様子がおかしい。
体調が悪いでもない。危険そうな雰囲気を臭わしているでもない。ただ――そう、見た目が浮いていた。着物を着ていたのだ。黒い地色に、花弁が六枚ある橙の花の柄。そう、夢でみたまんまの着物だった。
「火車……!?」
眼の前で妖怪が、例の“おまじない”によってか、交差点に入れずにいるのだ。
やっぱり効果があったんじゃないか。と思うのと同時に、消防車のサイレンが聞こえ、背筋がひやりと寒くなった。その直後、突然ポケットの中の会社用携帯からけたたましく着メロが流れ、心臓が飛び跳ねる。
「わっ!? ……どうしたんです!?」
「今どこにおる? また火事が起きたんじゃけど……」
先輩にしては焦りの色が滲み出ているような声だった。消防車のサイレン直ぐに聞こえなくなってしまったけど、どこか近くで止まった様子はない。どこであったのかを尋ねると、自分の今いる場所からはそれほど遠くはなかった。
「あの、先輩――眼の前に火車がいるんですけど」
「火車が!? どういうことね」
たまたま町中を歩いていたら、偶然“おまじない”によって足止めされていたところに遭遇したと伝える。もしかしたら――もしかしたら、このままここに縛り付けておけば、被害に遭う人もいないのでは?
「黒い着物に橙色の花の柄が付いていますし、間違いないです。このままで――」
「橙色の花……? ――っ!! 今すぐそれを現場まで誘導しぃ!」
電話の先から聞こえてきたのは、今まで聞いたことのない程の語気の荒い声。
「え――」
「早ぅ! 間に合わんようになる!」
……間に合わなくなるって?
詳しいことを今、この場で聞きたいけれど――そんなことをしている暇はないと、先輩の口調から溢れ出ていた。眼の前で立ち往生していた火車を現場まで誘導すればいいと、それにどういう意味があるのかは分からないが、必要なのは――
「は、はい!」
通話を切り、ポケットの中へと携帯電話をしまう。
この交差点を通り抜けることができない原因が、本当に“おまじない”だとするなら……。四隅にある小石をどけてしまえばきっと――!
規則正しく。ほんの少しの労力でなされたその“おまじない”を崩すのも、同様にほんの少しだけの時間と体力で済ませることができた。あまりにあっけなさ過ぎて、本当にこれのせいで侵入を防いでいたのかと半信半疑になるぐらい。
それでも、実際に効果はあったようで。さっきまでウロウロとあたりを右往左往していた火車が、なんの迷いもないかのように真っ直ぐにサイレンが消えていった方へと歩きだしたのだ。
遠くで黒煙を上げているのが見える。ここから歩いて10分ぐらいはかかるだろうか。不安になりながらも、『誘導しろ』という先輩の言いつけを思い出す。彼女(?)について、一ブロック、二ブロックと区画を進んでいき、右に曲がったところで遠くで裏手から火の手を上げているのが見えた。
「酷い……!」
救急車の他に消防車も駆けつけており、全焼とまではいかないだろうけど、屋根の一部は既に焼け落ちていた。中に住んでいる人は? 怪我をしている人は? ……先輩が言っていた『間に合わなくなる』というのは誰のこと?
現場を目にしても依然として歩みの速度を変えることのない火車にしびれを切らし、家屋の正面まで走っていくと、腕組みをして苛立ちを隠さずに貧乏ゆすりをしているのが見えた。
「先輩!」
「遅いっ!!」
普段の気の抜けたような表情も、今では真剣そのもの。初めて先輩に怒られたかもしれない。それはそうだろう、先輩の言っていたことが本当ならば、命の危険が迫っている人がいるかもしれないのだ。
「す、すいませ――」
「けど――ようやった。なんとか間におうたらしい」
振り向けば、既に火車は自分の隣まで歩いて来ていて。そのまま横をすり抜けるように、救急隊員たちが運んだ担架の方へと向かっていく。その先には、応急処置として口元にマスクを当てられ救急車へと運び込まれていく負傷者の姿と――
「火車が……もう一人……?」
現実にある肉体は、確かに救急車へと載せられていた。魂の方はといえば、既に現場に来ていた火車が、自身が引いてきた手押し車へと乗せようとしているところだった。
二人の火車。どちらも黒い着物を着ているが、並んでいるとその違いがありありと分かる。着物の柄が明確に違うのだ。
橙の花があしらわれている方――私が連れてきた方の火車が、既に魂を乗せた手押し車を押そうとしたその手を、懐から取り出したキセルで叩き払う。
「止めた……!? どうして――」
「そりゃあ、ミスを咎められたけぇね」
叩かれた方はガタリと持ち手を取り落とし、そのままフッと煙のように掻き消えてしまった。残された手押し車の中で横たわる魂。それを、叩いた側の火車がそっと抱きかかえる。
「……見守っておけばええ。あのまま魂を病院にある身体まで連れていってくれるじゃろ」
「……え? えっ? どういうことです?」
事態が理解できず、頭の中は混乱していた。火車っていうのは死んだ人の魂を連れていくのが役割で――?
「つまりまだ助かる可能性がある魂を、先走って連れて行こうとしとったんよ」
「そんなのが許されるんですか!?」
そんなミスで人が死んでいいだなんて、認めるわけにはいかない。たとえあの妖怪が、人の直接の死因に関わっていないのだとしても。そう憤る私向けて先輩は、『怒っても詮無いことだ』と諭すように言う。
「……可能性があるといっても限りなく低かったんじゃろう。単純なシステムでも、間違うことがあるのは認めにゃならん。特に、『死後の世界』なんてものは、人の手でどうにかできるものじゃあない」
「でも――」
なるようにしかならない。いくら口に出したところで、何かが変わることはない。その事実に未だ納得できず、口を尖らせる。尖らせたくもなる。
「じゃけぇ、それを正す為に“あれ”が来たんよ。万に一つの奇跡が」
奇跡、と言った。その言葉を聞いても、あまりピンとは来ない。
正直、目の前で何が起こったのか、殆ど把握できていないのだから。
「――狐輪車。狐の輪の車。火車とは似て非なる、対を成す妖怪。人の生死を正しく見極め、まだ助かる魂を元の肉体へと導く妖怪」
「狐輪車……」
その名前を、頭の中で反芻する。
猫車ならぬ狐車。孤輪車と読んで狐輪車と書き。その実態は、火車と対を成す狐火車。
「奇跡というのは様々な細い糸が縒り合わあさって起こるもの。一つの小さな要因で、いとも容易く壊れてしまうもの。中途半端なおまじないが、かえって良いものに影響を及ぼすような形になるとは思ってもいなかったんじゃけど……当分はそれの撤去に忙しくなりそうじゃねぇ」
「――もしもし? こんな時間にどうしたんね」
「あ、母さん? 私じゃけど」
……しまった。先輩の広島弁ばかり聞いていたせいで、私まで方言が出てきかけてる。実家の方もそれほど田舎ではないけれど、母親も多少は口調に出ているから困る。
「はいはい、分かっとるよ。携帯に名前が出とるんじゃけぇ。で、なんかあったんかね。珍しいじゃないの」
「……うん。ちょっと昔のことを聞きたくて――」
――そう、わざわざ実家にいる母親にまで電話をかけて聞きたかったのは、自分の小さい頃の記憶。つい最近、夢で見た景色が――どうにも今回のことに関係がなかったとは思えないのだ。
「私って小さい頃、なにか変なこと言ってたりしてなかった?」
「ちょっと心当たりがありすぎて……」
割と辛辣なことを言われていた。同年代の親と比べて歳がまだ若いからか、茶目っ気が酷い。私が実家暮らしだった頃からそうだった。
……こちらで一人暮らしを始めてからしばらく経った今でも、時たまお米や野菜などの食良品を送ってくれているので、親には頭が上がっていない。
「もう! 真面目に聞いてるんだけど! ほら、『着物を着た女の人を見た――』とか、そんな感じのこと!」
「そんなこと言ったってねぇ……。あんた、幼稚園に上がってすぐの頃に大怪我したでしょう。交通事故に遭って頭を強く打って、大変だったの忘れたんかいね」
その時の衝撃で頭がおかしくなったと言っているのだろうか。下手をすると、その時になにかあったせいでこんな体質になったんじゃないか、とさえ勘繰ってしまう。
「……そんなことあったっけ」
「あのときは親族集まって凄かったんじゃけぇね。お爺ちゃんなんて、毎朝神社にお参りに行ったりして――」
私自身が生死の境を彷徨ったことがあるだなんて。
確かに病院に入院したことはあるような気がするけど……。
――あの夢は、実際にあった記憶だった。
私が交通事故に遭い、死の淵にあったところを――先日の火事の時のように、狐輪車が助けてくれた、ということなのだろう。
……万に一つの奇跡を、私も体験していた。
「――その花……」
――着物に描かれていた橙色の花。半ばラッパのように広がった六枚の花弁。細い雄しべが何本か飛び出しているその見た目は、ヒガンバナにどこか似ているような。
「こいつはじゃね、キツネノカミソリっていうんじゃけど」
「キツネの剃刀?」
「四国の方では、火車に亡骸を奪われないよう、お棺の上に剃刀をおく風習があったんじゃけど、狐輪車の代わりに追い払ってもらえるように願っていたのかもしれんね」
「刃が剃刀に似た形って言ってもそうは見えんじゃろ? 着物の柄に似ているから、という方がまだ信じられるじゃろうね」
「そんな大切な花なのに一輪だけでいいんですか? もっといっぱいあった方が……私採ってきますよ! どこに生えているです!?」
「ええのええの。“孤輪車”なんじゃけぇ、“一輪”で」
『お供えものってのは数じゃないんよ。気持ちよ、気持ち』とへらへらと笑う先輩。
「まぁ、ついでにこいつも――」
「それってカップ麺に入ってたやつじゃないですか!!」
きつねうどんのカップ容器から、アツアツだけどもペラペラの油揚げを摘み上げる先輩に、呆れた声しか出ない。花は流石に持ってはこなかったけれど、狐と聞いてピンとはきていた。
「……もう。御揚げは私が出しておくんでいいです」
行きに寄ったコンビニで買ってきたものを鞄から取り出す。……いまどきのコンビニはこんなものまで売っているのかと、少し驚いたけれど。
「駐車場の端っこに小さな鳥居があるじゃろ。そこに花と一緒に備えとき」
そう言いながら先輩は、皿を差し出すと共に袋から一枚取り出してカップ麺の中に投入した。どうせ二枚入りだったのだし、別に怒るようなことはしない。……それに、先輩の電話がなければ自分だって大きな過ちを犯すところだったのだから。
「キツネノカミソリ……」
先輩に渡された花を小さな花瓶に挿し、裏手から駐車場へと向かう。――この花だ。この花だけは、あの夢の中でも鮮明に記憶に焼付いていた。ヒガンバナの一種らしいけども、花びらは真っ赤ではなく存在感を主張しない静かな橙。どこかあの狐輪車の佇まいと似ている気がした。
当時は全くわけのわからないままに手を引かれていたのだろう。妖怪というのは“システム”、そこに感情などはなく、ただ役割を果たすだけの存在。
……そうは言うけども、そんなシステムに感謝をしたっていいかな。
「いままで忘れていてごめんね。助けてもらったんだよね……二度も」
危ないもの、恐ろしいもの、忌避すべきものと認識していた自分だったけど。こういう妖怪もいるのだと。もしかしたら、見えていないだけで。これまでもどこかで知らず知らずのうちに助けてもらっているのではないかと。
――妖怪がはっきり見えている先輩には、この世界がどう見えているのだろうと、そんなことをボンヤリと考えながら――
――紅く小さな鳥居の前で、『ありがとう』と、私は小さく呟いた。
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